逢魔が時に……
九藤 朋様の『耽美コン』に参加しています。
長く続いた徳川幕府の終焉を暗示するような壮絶な夕焼けが闇に染まる頃、京都の花見小路に次々と灯りがついていく。
動乱の世の憂を忘れる為に、今宵も客足が途切れない。
そんな雑踏の中にさらりと女柄を着流した人間離れした美貌の青年が、煙管をふかしながらゆるりと歩いている。
その美貌と女柄の着物にすれ違う酔客は陰間茶屋の若衆かと声を掛けそうになるが、その腰には細身の刀がさしてある。
『雪之丞様、今宵はどちらへ?』
そう声を掛けてきたのは人間ではない。笠を眼深く被って異形の姿を隠しているが、雪之丞にはお見通しだ。
「お前、ここは赤城殿の縄張りと違うだろう。うろうろしていると、狸汁にされてしまうぞ」
狸汁の言葉に首をキュッとしたお使いの狸は、見破られたのなら仕方がないと本性を剥き出しにする。
『お館様が今宵は一献差し上げたいと、雪之丞様のお越しをお待ちしておられます』
愛嬌のある赤城のぷっくらとした紅色の唇が雪之丞の脳裏に浮かんだが、生憎と今宵は別の用事がある。
「赤城殿にはまた今度お会いしよう」
するりと狸の使いから離れ、雑踏の中に紛れてしまう。
『雪之丞様ぁ〜』
このまま雪之丞を連れて帰らないとお館様に腹鼓の罰を受けてしまう。狸は必死で探すが、また別の異界へと脚を進めたみたいで見つからない。
逢魔が時には人間世界と妖世界の境界が曖昧になる。雪之丞は目的の庵へゆっくりと歩み続ける。
紅殻格子から白い手がさし招いている。異界に迷い込んだ男が、魅了されてふらふらと格子に近づく。
『お侍様、良い子がそろっていますよ』
妖怪の女郎と一夜を交わしたら精気を吸い取られてしまう。骸骨が透けて見える客引きを苦笑して躱し、異界の奥へと進むと、妖の愚連隊がおどろおどろしい姿で練り歩いていた。
『何か良い匂いがするぞ〜』
『これは人間の匂いではないか?』
こんな風に数を頼って迷い込んだ人間を襲う妖など雪之丞は相手にしない。
普段は、相手も格の違いを悟って素通りさせてくれるのだが、今宵は少し勝手が違った。
『いや、これは人間の匂いだけでは無い。もっと良い匂いだ』
『お前、何を持っている!』
雪之丞は行く手を阻まれた。三下供を相手にしたく無いが、懐の物を嗅ぎつかれてしまったのは厄介だ。
「そこを退けろ! 怪我などしたく無いだろう」
『これは威勢の良い若造だ。食ったらさぞかし美味いだろう』
妖供はケタケタと高笑いして雪之丞へ襲いかかった。
すっと雪之丞が細身の剣を抜く。青光りする刀身には魂の叫びのような波紋が渦巻いている。
『それは……妖刀村正!』
徳川家に仇なすと忌み嫌われた村正がどういう縁からか雪之丞へ巡りついた。武家社会とは馴染まず、既に独立してはいるが、兄は徳川幕府の禄を食んでいる。幕府のご威光が地に落ちているからこそ、この様な妖刀が出回っているのだ。
「お前たちは徳川家とは関係あるまいが、我の行く手を遮るなら刀の露と消えよ」
まるで舞を踊るが如く細身の刀が振り下ろされるたびに、妖供は斬り捨てられていく。
地べたに倒れた妖供に目もくれず、雪之丞は用事を早く済ませようと足を進める。
「この様な物の始末を我に押し付けるとは兄上も酷い。いや、兄上は何もご存知ないのであろう」
懐に隠し持っている品は人間の世にあるべき物ではない。
人間の子として生を受けた雪之丞だが、何故か妖の世界にどっぷりと浸かってしまっている。
京都守護職を補佐する雪之丞の兄・監物は、雪之丞の唯一の頭の上がらぬ相手なのだ。
『あの子は気味が悪い』
赤子の頃から雪之丞の周りには妖が集まり、両親にさえ疎まれた。未だ幼い身で寺に預けられたが、妖を呼び寄せると返された雪之丞を、兄の監物だけが変わった弟として接してくれた。
無関心な両親に代わり監物は幼い雪之丞を真っ当な武士に育てようと、文武を鍛えたが、成長するにつれどんどんと妖の世界へと足を踏み入れていった。
そんな弟を心より心配する兄の存在が、雪之丞をどうにか人間の世界に踏みとどまらせているのだ。
徳川幕府倒壊の渦に兄が巻き込まれない様にと、何事にも執着しない雪之丞だがそっと見守っている。
しかしながら、懐に隠し持った品の始末を押し付けられた件には、雪之丞も辟易としていた。
「兄上はこれがどの様な物かもご存知無いのだろうが、それを押し付けた各務殿は我の事を利用するおつもりなのだ」
こんな面倒な役目はさっさと終わらせたいと、異界の奥へと足を進める。
異界の中でも特に混沌とした場所で、雪之丞は一度だけ訪れた庵を探していた。
『ほら、これはどうだ。良い声で鳴くぞ』
ぬっと現れた一つ目の鬼が差し出した金の籠の中身は鳥ではない。よく見ると羽根の生えた妖だ。朝露と供に生まれ儚い命しか持たぬ妖を捕まえて、金に換えようとする一つ目の鬼には反吐がでる。
「憐れな……」
哀しげな鳴き声には同情するが、今は懐の中を始末する方が先だ。
一つ目の鬼退治は、用事を済ませてからだと雪之丞は、何処に現れるか気まぐれな庵を探して彷徨い歩く。
「やっと見つけたぞ」
夜中探し歩かねばならぬかと覚悟していたが、『よろず引き受けます』と小さな板がぶら下がっている戸を開けた。
『雪之丞様……』
異界には相応しくない清らかな比丘尼が、写経の手を止めて雪之丞に挨拶した。
「蓮心様、ご無沙汰致しております。今宵もご助力を願いに参りました」
雪之丞は懐から金襴の包みを差し出した。蓮心は青白い細い手で金襴を開き、小さな桐の箱をそっと開けた。
『まぁ……この様な物がまだ……』
蓮心が見るに堪えないと目を伏せると、長い睫毛が頬に影を落とし、比丘尼に相応しく無いほどの色気が醸し出される。
「ご無理は承知ながら、人魚の肉など人間の世にあってはならぬ物ですから」
若き日に人魚の肉を食べた蓮心は、死ぬに死ねない身体となり、何百年もの時を孤独に生きていた。自暴自棄になり荒れた日々もあったが、仏に縋りやっと日々を穏やかに過ごせるようになった。
心穏やかになった蓮心は、荒れ狂った時期に自分が犯した罪を償わなければならないと気持ちが湧いてきて『よろず引き受けます』などという板を下げているのだ。
『まことに……この物で妾のように人外に堕ちることなどあってはいけないのです』
今でも堪え難い苦しみを受けている蓮心に、自分が持ち込んだ品で、より一層の苦しみを与えてしまうのだと雪之丞は、グッと拳を握りしめた。
『雪之丞様、そのように握り締められては……』
青白い冷たい手に拳を開かされた雪之丞は、蓮心のほの暗い瞳に囚われてしまう。
「手をお放し下さい……」
『この人魚の肉を喰らえば、妾はまた荒ぶる日々を送ることになります。ならば、雪之丞様と一夜ぐらい……』
やっと心の平安を得た蓮心を仏の道から遠ざけた雪之丞には、冷たい細い手を振り解くことはできなかった。
干からびた人魚の肉を口にした比丘尼は、するりと身体から僧服を滑り落とし、雪之丞の帯を解いた。
『雪之丞様、今宵限りは妾のものです……』
嫉妬深い清姫の美しく整った眉がきりりと上がるのが雪之丞の脳裏に浮かんだが、人魚の肉を喰らった蓮心の発情に飲み込まれていった。
果て無き欲情の夜も尽き、雪之丞が目覚めた時には蓮心は既に庵に居なかった。あの身体に荒れ狂う人魚の肉がおさまるまで、蓮心は何処を彷徨うのだろうと考えるだけで、雪之丞は身の置き場が無いような気持ちになる。
「あのまま二人で快楽地獄へ堕ちたら良かったのか……しかし、清姫が黙ってはおるまい」
雪之丞の愛人と称している大蛇の化身である清姫が牙で蓮心を引き裂く姿を想像して、雪之丞は微かに身震いする。
「引き裂かれても蓮心様は生き続けねばならぬのだ……それにしても寒い。まさか、昨夜の事が清姫にバレたのでは……」
ゾクゾクッとした雪之丞は寝間から出たが、着ていた女柄の着物は蓮心が着たのか消えていた。庵の隅に置いてあった墨染の衣を着て、雪之丞は未だ明けきらぬ異界へと出て行った。
道端の草の上に朝露が降り、そこに金の籠に囚われていた妖の骸が打ち捨てられていた。
「新たな妖を捕らえたのか!」
せめて埋めてやろうと手に取ろうとしたが、脆くなった妖の骸は灰となって消えてしまった。
「許せぬ!」
自分が比丘尼にした事の疚しさを八つ当たりで晴らしたいのだと雪之丞はわかっていたが、金の籠を手にした一つ目の鬼を探し出し、滅多斬りにした。
「さぁ、もう捕まるでないぞ」
金の籠から一匹の妖を解放したとて、また別の鬼が捕まえるだけなのは承知していたが、スッと金色の飛線を残して消えた空を雪之丞は暫し眺めていた。
その儚い金色の飛線が兄の運命の様な気がして、雪之丞は異界から人の世へと戻っていく。律儀な兄が徳川幕府の滅亡で追腹でも斬りかねないのを止めなくてはならないのだ。
「蓮心様にあのような苦痛を与えてまで、各務殿に恩を売ったのだ。兄上を上手く引き回して貰わなくては……」
監物の上役である各務は、世の流れを読むのが上手い。あの厄介な品の始末も何処ぞかの偉いお方から頼まれて恩を売ろうと引き受けたのだろう。
墨染の衣を着た人間離れした美貌の若い男が一人、煙管を燻らせながら動乱を迎える京の町に消えていった。
完