純文学は面白くない
文系に行きたかった~
表題は批判的に捉えられそうに書いているが、まずはそうでない事から書いていきたい。
次に、ここ『小説家になろう』で八百万の方が、非常に面白い小説を書いている事に対しての羨望も備えてあることも加えておく。
僕は理系出身であり、日本文学史に関して学術的に明るいわけではないが、純文学に対しての思いを持つ人間として、吐き出そうと思い、書く。
おさらいから書いていこうと思う。
純文学の定義。様々な意見があるだろうが、定義は曖昧だ。しかしながら背景は歴としたものがある。それは、私小説と分類されるものと、哲学と云われるもの、この二つが純文学の骨格を担う。純文学は日本特有の枠組みだが、これは日本語の複雑性と、長い歴史の中で徐々に様変わりをした日本言語の変遷を『美』として捉えた、ある意味顕著になった言語の流動性がもたらしたカテゴライズだ。これに世の真理追求や、普遍性ある人間の精神論を組み合わせたものが、純文学の由縁になる。
つまり解りやすく言えば、精神・思想の描写と、それを表現する日本語に『芸術性』が見られる、というもの。
そして、ここでは九分九厘の方が書いているだろうジャンルは、大別して『大衆小説』の枠組みにあたる。あくまで大別だ。
つまり、小説と物語は近似式であって等式ではない。
さらに噛み砕くなら、純文学は内心の吐露と日本語の美、大衆小説はストーリー性と非日常性、だという事だ。
だったら『蜘蛛の糸』はどうなんだ、と言われるかも知れないが、あれは芥川龍之介の内心にある仏教についての哲学を非日常性の作品として吐露したものなので、微視的に見れば矛盾性を孕んでいる。『藪の中』は議論性が作品の随になっているので、これも矛盾性はあると思うが、こればかりは作品へのオマージュで言うと死人に口無しだ。ちなみに、『藪の中』は今日使われる「藪の中」の由来である。
これらが定義の曖昧さを呼ぶ根幹なのかもしれない。『藪の中』に関して言えば、サスペンスと呼んでもおかしくないのだから。
そして首題に及ぶが、今は小説と言うとストーリーの起伏に富んだ物語だと思われがちだ。現に売れている小説は得てして大衆小説である。湊かなえや東野圭吾が売れているとよく聞く。伊坂幸太郎や乙一が好きだ、と言う人も多いだろう。小説家になろうにおいては、ランキングトップに君臨する作品や、俗に『テンプレ』と呼ばれる作品への傾倒が如実に表れた良い例だ。
しかし、前段の有名作家達は果たして近代文学の持ち味をどう見ているのか。非常に気になるが、恐らくは尊敬の念を抱いていると思うし、名作と呼ばれた近代文学作品を読んできただろう。
文豪と呼ばれた作家はすべからく過去の名作を読み、その上で自分の作品を書いている。これは現在でも同じである。
一例を挙げると、百田尚樹は浅田次郎の影響を非常に受けているし、浅田次郎は三島由紀夫の影響を人生においても受け、三島由紀夫は川端康成を師匠のように尊敬し、そして川端康成も芥川龍之介の後輩として行動を共にしていた時期もあった。そして有名な太宰治の芥川龍之介熱烈事件も川端康成が噛んでいる。ここで村上春樹を出すとすれば、谷崎潤一郎に繋がってくる。
そして過去の文豪達は皆そのほとんどが海外文学や芸術に明るかった。なぜなら、上記した純文学における私小説の普遍性は、ヨーロッパ(フランス)に源を発するからである。海外の作品はあまり知らないが、ドストエフスキーの有名な『罪と罰』は良心の呵責性が根幹で、作者名は失念したが、『ドンキホーテ』は羨望が狂気にまで変わり、思い込みの突発性を訴えている。つまり、観念性・哲学性・人間の普遍性が根幹にある。
そんな時代の流れの末端が今現在の売れっ子作家だ。有り体にいうならば、「流れを汲む」作家だ。その売れっ子作家達や直木賞に代表される大衆小説家が圧倒的に今は支持されている。昭和で言うなれば、司馬遼太郎や吉川英治の歴史作家、柴田錬三郎や藤沢周平のような時代作家がそうなのかも知れない。
時代とともに純文学の純度は薄くなっているかも知れない。「流れを汲む」若人が傾倒する作品が大衆小説が専らになればなるほど、源流は小さく干からびていくだろう。出版社の責任といったらそれまでだが、時勢には逆らえないのが芸術なのだろうか。
回顧して芸術性を見出だそうとするのは日本人のよいところだが、小説に関しては近代を飛び越えて『源氏物語』に焦点を当ててしまうような極端さも否めない。これは極論だが、間違いではないと思う。
何故このようなエッセイを書くかというと、僕の趨勢を左右しうる分水嶺が先にあるからだ。底辺作家ではあるし、分不相応なのは承知だが、少しだけ冒険をしたいからである。
今、書いているのは純然たる大衆小説だ。僕の好む純文学性を脱したものだ。ここには投稿しないが、書いていると痼が大きくなる。書いてて楽しいか。自問自答が続いてしまう。今の売れっ子作家達が同じ思いを抱いているのであれば励みにはなるし、割り切って執筆しているのだとしたら、その気概たるや潔しと敬愛するべきなのか。痼というか、もやもやが大きくなる。
純文学はつまらない。
本当にそうか。
「風潮」なのではないかと思う。前述した時勢。
そして、純文学の定義付けが正しいのだとしたら、このエッセイは純文学であり、また私小説であり、随筆なのだろうか。
頭は混乱するばかりである。
この悩みを解決したい。
できるならば「転生」をしたい。
了
東野圭吾は理系~