SPIS
突然の提案に戸惑いながらも裕太は医院長の手を振りほどき、何も考えられない頭で隣の病室へと向かった。
304号室。梨花が入ったと言っていた病室の扉を開ける。
すると、そこには先ほど自分達を助けた白衣の少女、麻井久美が梨花に肩を貸してベッドから起こしていた。
裕太は今にも叫びそうになるのを必死に耐えながら、二人の前に立つと、拳を力いっぱい握り締めた。
「……梨花、さっき変な夢を見たんだ……」
「奇遇ね……。私もよ……。あんたがムダにヒーローになろうとして、化け物につっこんでいったり、この麻井さんが私達を現実の世界に戻すと言ってくれたり……」
「……認めるしかないみたいだぜ? あれは夢じゃない。現実に起こったことだ」
「……みたいね」
もはや裕太達には先ほどの出来事を夢だと片付けられる証拠がなかった。
出てくる情報は全てあの不思議な出来事を現実だと押しつけてくる。
「外崎裕太君、内田梨花さん、話を聞いて貰えるかな? 君達が体験した共感性異界化伝染症候群について」
院長の男性が病室に入り、全てを見透かしたような物言いで尋ねてきた。
裕太と梨花はその問いかけにただ無言で頷くしかなかった。
それを同意と受け取ってくれたのだろう。院長は一度咳払いをしてから話を始めた。
「日本語だと長いので、我々は省略してSPISと呼んでいる。SPISの発生原因は人の精神が心蝕体と呼ばれる病原体に罹患することだ」
「病原体?」
「見ただろう? 人を飲み込むスライムのような化け物を。あれさ」
確かに裕太の目の前でスライムが人から何かを吸い取っているのを見た。
だが、あれが病原体と医者から言われるのが、裕太にとっては驚きだった。
医者を目指す人間として、医学の基礎はかじってきた。
病原体と呼ばれるものはウイルス、カビ、細菌、それにセンチュウといった微生物だ。
人間よりも大きい物が病気の原因になることなんて聞いた事がなかった。
「そう。我々も最初はその存在を疑っていた。だが、現にそういう新種の病原体が現れてしまったのだ。身体ではなく精神を蝕む病原体。そこに我々の常識は通じない。それに、君は実際見たのだろう? スライムが人から何かを吸うところを」
「そう……ですね」
実物を見てしまったからには否定することは出来ない。裕太は自分の知識が根底から覆される衝撃に、ただ頷くしかなかった。
「この病原体の興味深いところは、他人に伝染することだ」
「精神の病が伝染するんですか? いや、でも、確かに俺と梨花もそれで倒れたんだ」
「そうだ。その伝染経路は人間の持つ他人に共感する心だ。その緩やかな心の繋がりを伝って、メンタルイーターは人から人へと伝染していく」
「共感? でも、俺、今朝、友達に会わずに登校したんですけど」
「そうだな。本当の原因は分からないが、例えをあげよう。学校に行きたくないと強く願う生徒がいたとして、メンタルイーターがその生徒に感染したとしよう。メンタルイーターはその願いを食らい、増殖する。そして、似たような気持ちを抱く生徒に伝染していくんだ。恐ろしいところは、言葉に出さなくても似たような気持ちが抱いていれば、感染が成立するところだな」
「あぁ、そういえば、倒れた人を見た時にクラッと来たんだっけ。って、そうなると防ぎようがないじゃ無いですか!?」
「その通りだ。だから、困っている」
院長の態度を見る限り、冗談を言っているつもりはない。本当に困っているようで深いため息をついていた。
どんな病気でも感染経路というのは必ず存在する。
空気だったり、水だったり、排泄物だったり、遺体だったり、何かしら病原菌となるものが存在する場所がある。
その原因となる物を消毒すれば、病気の感染拡大は一気に防ぐことが出来る。人類と病気の闘いの基本の一つだ。
だが、この共感性異界化伝染症候群、通称SPISの感染経路は人の心という目に見えない場所にある。
封じ込めようがない。出来ることと言えば、感染した人を隔離して広げないようにするだけしか出来ない。
となると、単純で大きな疑問がある。精神の病気だというのなら、体験した激痛とあわないのだ。
「何で精神を犯されるのに、身体の調子が崩れるんですか?」
「原因はハッキリとしていないが、最も近い症状は幻肢痛だ」
「手足をなくした人が、無くなった手足に痛みを感じるヤツですか?」
「そうだ。あれをより強くしたものだと思ってくれて構わない。SPISに感染することで脳が錯覚を起こし、人体の全てに幻痛を起こす。だから、身体は正常なのに耐えがたい痛みに襲われる。異界化した精神で受けた苦痛を脳が誤認して、身体に痛みを発生させるのだろう」
「それじゃあ、俺が思わず痛みで倒れたのって」
「あぁ、恐らくメンタルイーターに感染した際、君の精神体がスライムに取り込まれ、精神力を絞り取られたからだろう」
痛みの原因を知って、裕太は身震いした。
焼かれた鉄板の上のような熱さと、身体が引きちぎられそうな痛み、目が開けられないくらいの頭痛の原因は、あの気持ち悪いスライムの中に取り込まれていたからだと言われ、たまらず吐きそうになった。
同じ状況になっていた梨花も何が起きたか分かったようで、口を手で押さえてうずくまっていた。
「おぇっ……気持ちわる……。うっ! ダメかも……。おぇぇ……」
「だ、大丈夫ですか!? きゃああああ!? これに吐いて下さい!」
梨花が耐えきれずに胃の中の物を吐き出し、久美の足にかかってしまった。
だが、久美は嫌な顔一つせず、心配そうに梨花の背中をさすりながら、ポリ容器を梨花の口元に置いた。
裕太も思わず貰いゲロしそうになったが、何とか持ちこたえた。
そして、数分間、院長は梨花が落ち着くまで待ってくれると、SPISについての説明を再開した。