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どうしよう。リーフェイは頭を抱えて唸っていた。
ここは彼女が通っている大学のカフェテラス。ランチの時間も過ぎた今は、人影はちらほら見える程度だった。大きな窓からは明るい日差しが差し込み、眠気を誘う温かさだ。
けれど今のリーフェイには、とてもじゃないがうたたねする気になれなかった。頭を抱えている間に、目の前のカフェオレはぬるくなっている。それを一口飲んで、はあ~と大きなため息をついた。
リーフェイの頭の中には、ゆうべ従兄から連絡されたことがぐるぐると回っていた。
あれはまさしく一方的な通達だと思う。リーフェイの意見も意思も関係なかった。もう決定事項だと言わんばかりに一方的にまくしたて、リーフェイが反論する間もなく通信は切られた。反論などあるわけがないと思っているのだろう。
そういう人だと……人たちだと、知ってはいたけどねえと零れそうになったため息を飲みこむ。
ここで頭を抱えて唸っていても何も解決しないのだ。不本意な自体は何としてでも回避したいと思うものの。
「ああもう、どうしようっ~」
結局の所堂々巡りで上手い手立てが見つからない。
するとそこへ、呆れたような、からかうような声が降って来た。
「何唸ってるんだ?」
「へ?いや、別に何でもないよ。まあほら色々とっ」
同じ博士課程に在籍している友人だった。誤魔化すように笑うと、彼はトレイをテーブルに置き、向かいに腰を下ろす。トレイの上には軽食ではなく、しっかりと“食事”が載っていた。
「ふうん?でもお前ってもう博士論文は終わったって言ってたよな?」
「それは終わったけど、まだ就職先決まってないしね」
友人は食事の手を止めてリーフェイを見る。怪訝そうな表情を浮かべた。
「あれ、教授の助手で大学に残るんじゃないのか?てっきりそうだと思ってたけど……」
「うんまあちょっと家の事情で、ガッコに残るわけにいかなくなってさ」
それはすべてではないが事実ではある。さらりと言うと、友人も何らかの事情を察して……あるいは深読みをしてくれたんだろう、それ以上は聞いてこなかった。
「そっか、それなら仕方ないけど、残念だな。俺はここに残るんだよ。お前も面白い研究してたから、その先が楽しみだったんだけど」
本当に残念そうに言われては、リーフェイとしても少し心苦しい。密かにここから去る準備だけは、いつでもしていたから。
「研究はね、後輩に引き継いでもらうようにしてるし。教授にはお世話になったから心苦しいんだけど、こればっかりは仕方ないし」
友人も、まあなあ、と難しい顔をした。
「助手の給料なんて知れてるからなあ。これが理系ならどこか企業の研究室に就職って道もあるだろうけど、俺ら文系だしな。そういう意味じゃあつぶしが効かないなあ」
「そうなんだよねえ」
リーフェイは苦笑いをする。何事もなければ、給料の安さなんて気にもしないで、研究室に残るつもりだった。
そう出来たらいいなあと思って、いた。やはりそこまで、あの一族は甘くはなかったという事で。
さてどうやって逃げるか。彼らの思い通りになるつもりは、さらさらなかった。
「……なに?」
まじまじと自分を見ている友人に気付いて、リーフェイは眉をひそめる。友人はどこか笑いをこらえるような表情をしていた。
「いやさ、お前って“新入生です”って言っても通る見た目なのにさ、それが“就職就職”って言ってるから、すごい違和感が……って、俺が悪かったです、だからそのプリン食べるのやめてお願いします」
リーフェイが無言で取り上げたプリン……この友人は甘いものが好きで、食事には必ずといっていいほどデザートをつける。今日はそれがカフェテリア名物のカスタードプリンだった……を見て、彼は途端に情けない顔をした。
「さあどうしようかな~」
リーフェイは頬杖をついて視線をそらす。ヒトが気にしていることを!と苛立ちもあってリーフェイの機嫌はあっという間に急降下した。真っ黒い髪も目も、そして顔立ちもこの辺りでは珍しいらしく、リーフェイは未だに人から好奇の目で見られる事がある。それについては、ある程度は仕方ないと割り切っていた。けれどリーフェイを悩ませる事。それは。
なんで、もう博士課程も終わろうとしてるのに、いまだに新入生に間違われるんだか。
小柄な体格も相まってか、リーフェイが未成年と間違われるのは、もう日常的なことだ。童顔だから仕方ないと諦めてはいるものの、面白くないのは事実で。
ぐさり、とプリンにスプーンを突きたててやる。腹いせにこのプリン食べてやろうかなあと半ば本気で思った時に、ああそうだっ、と友人が声を上げたのだった。
「もしバイトでもよければ、割りのよさげなのあるぞっ!ただ、ちょっと場所がなあ、かなり辺鄙なトコみたいなんだけど……」
リーフェイの手が止まる。
辺鄙。
何よりその言葉にリーフェイが反応したとは気付かずに、友人は“バイト”の内容を話し始めたのだった。
「住み込みのハウスキーパー?」
「そ。理学部の教授の知人らしいんだけど、どえらい辺鄙なとこに住んでるんだってさ。家の事と子どもの身の回りの世話に手が回りきらないから、手伝いが欲しいんだって。俺の友達がその教授のゼミ取っててさ、誰かいないか探してくれって相談されたらしい」
「でも、それってプロに来てもらえばいいんじゃない?」
「それが、住んでるのが陸の孤島みたいな辺鄙な場所らしいんだ。本職のハウスキーパーでさえ嫌がるらしい。試しに二、三人頼んだそうだけど、そう持たなかったって。周りに人家はないし、万一何かあった時大変だしって事で」
「ふうん、面白そうだね~陸の孤島かあ~」
「へ、お前本当にそのバイトするつもりか?紹介しといてこういっちゃなんだけど」
「だって割、いいんでしょ?家事も得意だし、まあ子どもの世話はイマイチ自信ないけど。取りあえずその理学部の教授に話聞いてみるよ。教授の名前教えて?」
「……物好きな奴だなあ、ホント」
友人から話を聞いた後、善は急げとばかりにリーフェイはすぐさま理学部へと向かった。先方には友人が連絡を入れておくよと請け負ってくれた。
同じ大学の敷地内とはいえ、そこへ足を踏み入れたのは初めてだった。通っている大学は総合大学で色んな学部があるため、敷地はとても広い。大抵の学生の例に漏れず、リーフェイも自分と関わり合いのない場所へは足も向けていなかった。だから何年も通っているのに、知らない場所の方が多い。
ちなみにリーフェイの行動範囲といえば、在籍している文学部と図書館と、教職関係で教育学部に行った他はカフェテリアや購買くらいなものである。
教授たちの研究室が並ぶ建物の上階フロアに着くと、教えてもらった教授の名前を探す。
「ええと、アンリ・ラザフォード教授だったよね~、あ、あった」
どこの研究室でも、ドア横のパネルには、教授が在室か不在かが表示される。パネルには“在室”と示されていた。リーフェイはパネルのボタンを押した。
「お忙しい所すみません、文学部博士課程のリン・リーフェイです。ハウスキーパーのバイトの件でお話聞きたいんですが」
『リンくん?話は聞いてるよ、どうぞ』
「失礼します」
中に入ると、白衣を着た背の高い人物が、ソファの上を片づけている所だった。
「……ラザフォード先生?」
声をかけると教授は明るい金の髪をかきながら、あはははと笑う。垂れ目がちの目は透き通った緑だった。
教授、の肩書を持つ人にしては、驚くほど若い。まだ30代じゃなかろうかと見当をつける。
「ちょっと待っててくれるかい?今座る場所を作っているから」
「いや、おかまいなく……ってか、手伝いますよ」
いや悪いねえと、少しも悪びれた様子もなく、ラザフォード教授は笑った。二人掛けのソファの上にも、そしてローテーブルの短い辺の傍らにある一人掛けのソファの上にも、そしてテーブルの上にも本が積み上がっている。取りあえず脇に避けておいてくれるかいと教授が言うので、テーブルは半分が覗く程度、ソファは自分と教授が座れるくらいの場所を空けた。避けきれる量ではなかったので、少し困ったが、教授はああそれなら床にでも置いててねとあっさり言った。
うず高く積み上がった本の柱を横目に、ラザフォード教授はコーヒーを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます、いただきます」
礼を言ってカップを受け取りながら、リーフェイはちらりと教授を見上げた。ぱりっと糊のきいた白衣や、清潔そうな短い金髪にも関わらず、どうやら整理整頓とは無縁のお人のようだ。視界に入る限り、書類や本、モノが積み上がりあるいは雪崩を起こしている。今にも雪崩をおこしそうな場所もあって、ちょっとひやひやする。
何も自分は見てないですよ~と内心思っていると、ふふ、と教授が笑った。
「きみ、うちの学生の、友人の友人って聞いてたんだけど、ひょっとしてスキップとかしたの?」
ひくり、とリーフェイのこめかみがひきつった。ここでもまた聞かれるかと思ったのだ。ええ、いい加減うんざりですとも!
「いいえ、まったく、皆目してませんが何か」
「いや、かなり若く見えたんで他意はないよ。いいじゃない老けてみられるよりはさ」
「程度問題だと思います。ところで、バイトの話なんですが」
強引に話題を変えると、教授はそうそう、と手を叩いた。
「きみ、どこまで話を聞いてるかな?」
「どえらく辺鄙な場所での、ハウスキーパー兼子どもの身の回りの世話って聞きましたけど」
「端的にいえば全くその通り。もう少し詳しく話すとね、場所は保護区になってるティンシャ山。保護区だから交通手段なんてロクにないし、一番近くの集落まで出るのでさえ一日仕事。物資は月に一度ヘリで投下。徒歩二時間くらいの所に観測所はあるけど、ほかに建物はなし。夏は涼しいけど冬は寒さが厳しい。ま、雪に閉じ込められるってことはないらしいけど。ええと他にあったかな」
指を折りつつ話す教授に、リーフェイはぽかんと目を丸くして。
「ちょ、ちょっと待って下さいっ。そんなトコ、人が本当に住めるんですか?てか、そもそも保護地区でしょう?一般人はまず住めませんよね?」
滔々と話すラザフォード教授の言葉をなんとか遮ったリーフェイ。
ティンシャ山。それはこの大陸最高峰“天の峰”の一角をなす山だ。“天の峰”の一帯は保護区に指定されているため、研究目的でさえ立ち入りが制限されているはずだ。常駐しているのは気象及び地質の観測所の職員ぐらいのはずだろう。ほかにもいくつかある、保護区、と名のつく地域はどこも同じ扱いのはず。
貴重な生物や環境を守るために、強い規制が敷かれている。普通なら人が住めるはずがない。
すると教授は何ともあっさりと答えた。
「ああ、あいつの研究にはそこの地域が適しているらしくてさ、何でも磁場がいいとかでさ。まあそれなりにごり押ししたらしいけど、申請が通っちゃったんだな~。聞いたことない?コンラッド・シュタイン博士って名前」
コンラッド・シュタイン。はて、とリーフェイは首を傾げた。その様子を見てか、ラザフォード教授は、ああ物理学関係に興味なかったら知らないかなあと笑った。
「物理学者としては飛びぬけて優秀な奴だよ。色んな最新理論も発表しててね。大きな賞を貰った事もあるから、知ってるかもと思ったんだけどね」
「そうですか、ちっとも知りませんでした」
あまり科学系には興味がないリーフェイが答えると、教授は気にしたふうもなく笑う。
「ま、知らない方が返っていいかもね。ヘタな期待持ってると、実物との落差に驚くだろうし……まあともかくも、奴は許可をもぎとって保護区に住んでいるって事だけ理解してくれればいいよ。街での生活に慣れていると、恐ろしく不便な場所での生活になると思うけど、どうかな」
リーフェイは考えた。確かにちょっと街に出るとか、出かけるとかはまず出来ない場所だ。けれどリーフェイはどちらかというと出かけるより家にこもる方が好きなため、たとえば本がたくさんあったりネットに繋がる環境があれば特段問題はない。人づきあいだって、そりゃ親しい友人はいるけれど、連絡さえ取れれば十分だ。
それ以上にリーフェイにとって重要なことは。
「……あの、ひとつお尋ねするんですが。保護区、ということなら、簡単に立ち入りは出来ませんよね?たとえば、誰かがふらりと尋ねてきたりなんて、は難しいですよね?」
「そうなんだよね。立ち入るには事前の申請が必要で、場合によっては却下されることだってある。近くまで来たからちょっと、なんて出来ない場所だから、もしきみが誰かと会いたいなら、保護区の境にある村まで下りてもらうことになるかな。そんな環境だから、今までのハウスキーパーさんは皆やめちゃったんだよ」
教授の答えを聞いて、リーフェイはなるほどと頷いた。
許可されていない人間の、立ち入りが難しい場所。それこそリーフェイが求めていた環境ではないか。
ひとつ問題が解決された。
単に先送りしただけかもしれないけれど、また“その時”になって考えればいいことだ。
リーフェイはにこりと笑って言った。
「ラザフォード教授。わたしでよければ、ぜひそこでお仕事させてください」
課程修了まではすこし間があったけれど、単位はすべて取っているし、博士論文も問題ないという事で、リーフェイは修了を待たずにコンラッド・シュタイン博士のもとで働くことにした。
修了証明書はラザフォード教授がかわりに保管しておいてくれるとのこと。
これまで暮らしていた部屋の始末をしたり、不用品の処分をしたり、友人に別れを言ったりなどして、なかなかに忙しかった。
とくに、自分にこのバイトの話を持ちかけてきた友人は驚いていた。
お前本当にモノ好きというか何と言うか……と失礼な事を言ったので、問答無用で頭を叩いてやったが。
リーフェイがこのバイトを引き受けると言った時、ラザフォード教授はいささか複雑な顔をしていた。
このバイトを斡旋した当の本人なのにと変だなとリーフェイは思う。
「まあ、色々変わった奴だけど、見捨てないでやってよ」
はあ、としかリーフェイは答えられなかった。あれよあれよという間に準備は進み。
リーフェイはわずかな身の回りのものだけを持って、“天の峰”に向けて出発したのだった。
「僕も一度顔をだすから、体には気をつけてね」
出発する前、ラザフォード教授はそう言って、リーフェイを送りだした。
コンラッド・シュタイン博士。物理学者でこのたびの自分の雇い主。
ユーリ・コンラッド。博士の娘。
リーフェイが事前にラザフォード教授から得ていた情報はたったそれだけ。
実際の彼らに会った時は、とても驚いたものだった。