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まだ獣達も寝静まっているような暗闇の中、不意にヴェルダカトルは目を覚ました。
見慣れぬ天井に身を固くするが、すぐにここが賢者の住処であることを思い出す。
ふっと息を吐き出し、体の力を抜くと、彼は上体を起こして寝乱れた頭を掻いた。
昨晩、娘が出て行って間もなく、賢者と炎狼も部屋を後にした。
客間は好きに使って良いと言われたものの、これといってすることもない。
その上、思いの外疲労が溜まっていたようで、ヴェルダカトルは間もなく睡魔に襲われたのだった。
あれからどれくらい眠っていたのかは分からないが、約束である夜明け前には充分間に合ったようだ。
暗い部屋の中で、ヴェルダカトルは寝床から足を下ろし、大きく伸びをした。
久しぶりにベッドで気持ち良く眠ったせいか、随分と体が軽い。
ふと部屋の中央にある机に目を向けると、白い布がかけられた籠が置いてある。
一瞬ぎょっとするが、彼は気を取り直して机へと近づく。
布を外してみれば、瑞々しい果物とパンが籠に乗せられていた。
昨夜にはなかったのだから、ヴェルダカトルが眠っている間に、何者かが置いていったのだろう。
騎士としての矜持が多少傷つかないわけではないが、ここは賢者アルディロスの住処である。
予想だにしない事態があってもおかしくはないと思うことにして、彼はありがたく食事をいただくことにした。
手早く食事を済ませたヴェルダカトルは、ベッドのシーツを整え、出かけるための準備を始める。
そうは言っても、元々旅装の身であるため、そうそう荷物があるわけでもない。
革袋を背負い、剣帯を締めて、枕元に立てかけていた剣を差せばそれでほぼ準備は整う。
まだ約束の時間までは少し間がありそうだが、早めに部屋を出て外で軽く体を動かすのも良いだろう。
そう思いながら部屋の扉を開けたヴェルダカトルは、ギクリと体を強張らせた。
何故なら、彼の部屋のすぐ前に、アルディロスの眷属である炎狼がちょこんと座っていたからだ。
炎狼とは、本来は獰猛な生き物で、その鋭い牙で己の倍以上の大きさである獲物を簡単に噛み殺すこともできる。
また、 敵と認識したものは、自身が纏う業火で焼き尽くすのだそうだ。
思わず警戒したヴェルダカトルであったが、当の炎狼はゆったりと立ち上がると、彼に背を向けて歩き出した。
そうして、少し進んだ後、部屋の前で立ち尽くすヴェルダカトルを振り返り、ふわりと尾を振った。
どうやら、自分について来いと言うことらしい。
昨晩の様子からすれば、この炎狼は温厚な部類であるのだろう。
賢者や娘の側で大人しく座っていたし、今もヴェルダカトルを襲う気はさらさら無いようだ。
しかし、万が一を考え、彼は警戒を解かぬまま、用心深く狼の後に従った。
「な……、何だ……!?」
廊下を歩き出した途端、急に壁の灯りががともり、ヴェルダカトルは思わず声を上げた。
まじまじとランプを見つめながら歩き出すと、今までついていた灯りが消え、次のランプに火がともる。
まるで、ヴェルダカトルの動きに合わせて灯りも移動しているようだ。
白髪であったため忘れていたが、賢者アルディロスの第一属性は火であったと記憶している。
炎狼を眷属としていることからも、それは間違いないだろう。
もしかしたら、契約した火の精霊をランプの中に住まわせているのかもしれない。
しかし、迷いの森と言い、この灯りと言い、さすがに賢者の住処は変わっている。
物珍しげに辺りを見渡しながら、ヴェルダカトルは炎狼の後に続いて廊下を進んだ。
石壁の狭い通路の両端には、重厚な木の扉が連なっている。
それを幾つか通り過ぎた頃、前を歩いていた炎狼が足を止めた。
目の前にあるのはただの石壁で、どこにも扉らしいものはなく、どうやら行き止まりであるらしい。
部屋を出てからここまでは、ほぼ一本道であったから、間違えようはないはずだ。
ヴェルダカトルが内心で小首を傾げた時、炎狼が突然吠え声を上げた。
体毛が燃え上がる炎のように揺らめき、鳴き声が石造りの塔の中で反響する。
わんわんと音が跳ね返り、まるで塔自体が炎狼の声に共鳴しているようだ。
やがて音は段々と弱まり、しんとした静寂が辺りを包む。
次の瞬間、目の前の石壁の中央が魔力を帯びたように淡く光はじめた。
驚いて目を見開くヴェルダカトルの前で、光は壁の溝にそって外側へと走り抜けていく。
その直後、重い音を立てて石壁が動きだした。
やがて、ぽっかりと入口が開くと、炎狼は塔の外へと歩みをすすめる。
ヴェルダカトルが後に続いて外へ出ると、再び石壁は轟音を響かせながら閉じていく。
完全に閉じてしまえば、もうそこはただの石壁である。
実際にこの目で見ていなければ、もうそこが入口であったなど、俄かには信じられないだろう。
ためしに石壁に触れ、叩いてみるが、何の変哲もない石であるようだ。
思わず塔を見上げたヴェルダカトルは、さらに信じられないものを目にすることになった。
上を見上げたまま、驚きのあまり、言葉さえでてこない。
なんと、彼が今まで一晩を過ごしていた塔は、思いもよらないほど巨大な建造物だったのだ。
塔の先端は遥か高く、雲に隠れ、肉眼で捉えるのは難しい。
いったいどうやってこんな建物を造ったのか、果たして頂上にのぼることが可能なのか。
塔を見上げたまま、そんなことを考えていたヴェルダカトルの耳に、草を踏む音が聞こえてきた。
さっと背後を振り返り、彼は剣の柄に手を乗せて木立の先に目を凝らした。
薄暗い森の中から現れたのは、賢者の弟子である娘だった。
彼女は顔を上げ、ヴェルダカトルを一瞥すると、すぐに視線を逸らして炎狼を呼んだ。
「フェル」
炎狼は返事をするようにふわりと尾を振り、のそのそと娘に近づいていく。
狼が足元まで近づくと、彼女は炎狼の前にしゃがみ込み、その首に小さめの革袋をかけた。
「すみませんが、これを私の部屋の机に置いておいてください。帰ってきたら新しい薬を作るのに使いたいので。それと、くれぐれも師範をよろしく頼みますよ。私がいないからと言って、睡眠や食事を疎かにしないように見張っていて下さいね」
娘の言葉に返事をするように、炎狼は再びふわふわと尾を振ってみせる。
そうして、炎狼が塔の中へ戻っていくのを見届けてから、彼女はヴェルダカトルの方へと向き直った。
その表情は固く、炎狼に見せていた柔らかな態度は消えている。
やはり自分は彼女に嫌われているらしいと確信し、ヴェルダカトルは遠い目をして頬を掻いた。
「では、行きましょうか」
彼に一声かけ、娘はくるりと踵を返した。
ヴェルダカトルは慌てて彼女を追いながらも周囲を見渡す。
どう目を凝らしてみても、まだ薄暗い森の中に自分達以外の人影は見当たらない。
「行くと言っても、賢者アルディロスの姿を見ないが?」
「師は老人のくせに、朝も夜も遅いので、こんな時間には起こしても起きません」
ヴェルダカトルの問いに、娘は歩みを止めずに答える。
師に対する尊敬の念を微塵も感じられない言葉であったが、彼が今気にしているのはそこではない。
昨晩、彼が賢者から得た情報によれば、ツァファトルは大陸の果て、ずっと東の地にあるのだという。
彼の地に辿り着くためには、幾つもの山や河を渡らねばならないのだそうだ。
今この時にも、魔族侵攻の危機に晒されているフェヴィリウスの人々を思えば、悠長にはしていられない。
「だが、目的の場所はとても遠く、時間もかかると伺ったのだが」
はやる気持ちのヴェルダカトルとは対照的に、娘の声色は努めて平静だ。
「それはそうでしょうね。ツァファトルまでは、馬を使っても三月はかかりますから」
「なら、やはり賢者殿にお願いして、転移の魔術を使ってもらってはどうだろうか」
魔導師の部下に聞いたところによれば、転移の術は一瞬で目的の場所に付くことも可能らしい。
利用した後に、酷い吐き気と眩暈に襲われる人も居ると言うが、背に腹は変えられないだろう。
塔を気にしつつ歩いていたヴェルダカトルであったが、唐突に娘が歩みを止めて振り返ったため、つられるようにして足を止めた。
「先程から師の不在を気にしておいでのようですが、魔術を行使するのに、師でなければならない理由がありますか?」
「いや、それは、別にないが……。賢者殿がおられないなら、どうやって魔術を使うんだ?」
自分は色持ちではあるが、高度な魔術を使える程の魔力量は持ち合わせていない。
だとすれば、やはり別の、魔力が高い人間に、転移の術を使ってもらわなければならないだろう。
賢者の知り合いの魔導師でも呼んでいるのかとも思い、辺りを見渡してみるが、静まり返った森にやはり自分達以外の気配は感じなかった。
戸惑いを隠せないまま娘に問いかけようとしたヴェルダカトルは、その直後驚愕して目を見張ることになった。
何故なら、自分達の足元が、突如として淡く輝きはじめたからだ。
光は地面に文字や紋様を描いており、どうやら複雑な構成図のようだった。
そして、何より驚いたのは、目の前の娘が詠唱を行い、構成図に呼応するように淡く輝いていたことだ。
職業柄、こうして誰かが魔術を行使する場面は多々目にしている。
問題は、黒である娘が、魔術を扱っているという事実だった。
ヴェルダカトルが口を開きかけた瞬間、景色が激しくぶれ、体がふわりと浮き上がる。
その直後、彼ら二人の姿は煙のようにかき消えたのだった。




