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狼が消えてから程なくした頃、ドアが開き、一人の娘が部屋へと入ってきた。
その足元には、先程出て行った炎狼も共について来ている。
娘の手には薄い木の盆があり、湯気の立つ椀が2つのせられていた。
賢者は身の回りの世話を唯一の弟子に任せていると聞くから、その弟子が彼女なのだろう。
しかし、娘の纏う色に、男は少なからず驚いた。
古代魔術の権威であるアルディロスの弟子と言うくらいだから、てっきり魔導師だとばかり思っていたのだが、彼女はどこからどう見ても黒だった。
この世界では、僅かでも魔力を持つ人間は何かしらの色をその身に纏うものである。
男自身、身内の中では最も魔力が少ないものの、風の属性である緑の髪と瞳だ。
だが、目の前の娘はどこからどう見ても黒、魔力を持たぬ者の色だった。
別に、魔力がなくとも、魔術の研究はできる。
事実、巷にはそのような研究者は5万といた。
しかし、まさか稀代の魔導師アルディロスの弟子が魔力なしだとは思いもしなかったのだ。
彼の短くはない人生の中で、弟子をとるのはこれが初めてだと言われている。
アルディロスは己の魔術を次代に継承するつもりは無いのだろうか。
男が取り止めなく考えている間にも、娘はつかつかと歩みを進める。
彼女は不機嫌さを隠しもしない表情で賢者に近付くと、睨み付ける勢いで賢者を見下ろした。
「いい加減にして下さいよ」
小柄な体躯に似合わない低い声でぼそりと呟きながら、娘は乱暴に椀を突き出した。
「大事な薬を煎じている途中だっていうのに……。大体、シチューを温めるくらい、ご自分でできるでしょう」
弟子が師匠にするにしては、不遜な態度に、逆に男がぎょっと目をむく。
しかし、賢者は全く気にしていない様子で、唇を突き出して、子供っぽく拗ねてみせた。
「だってわし、台所に入るの禁止されとるんじゃもん」
「……ああ言えばこう言う。本当に、この爺は……」
娘は呆れたように一つ溜め息をつくと、男のいる方へ向き直った。
つい肩をすくめた男だったが、あれほどあからさまだった娘の表情が、一瞬にして消える。
怒気をおさめたと言うよりは、感情を隠したと言った方がしっくりくるのかもしれない。
彼女の顔に浮かぶのは、全くの無表情だった。
「……どうぞ」
娘は愛想笑いすらせず、残っていた椀を男に渡した。
彼が思わず椀を受け取ると、娘はさっと踵を返して部屋を出て行こうとする。
それを賢者が引き止め、こっちへ来いと手招きをした。
途端に嫌そうな顔をしながらも、娘は大人しく賢者に近づく。
屈み込んだ彼女の耳に口を寄せ、賢者が何事かを囁くと、娘は一層表情を険しくさせた。
しまいには大きな息を吐き出し、賢者の側を離れると、入り口近くに置かれた机の端の席に腰掛けた。
「では、シチューをいただくとするかの」
娘の動きを何となく目で追っていた男だったが、賢者にシチューをすすめられ、椀の中に視線を移す。
椀の中には、大きめの野菜と、鳥の肉がごろごろとたくさん入っていた。
しかし、異様なのはその色である。
男は今まで、白色のシチューなど、見たことも聞いたこともなかった。
先程の話からするなら、牛の乳なのだろうが、初めての料理に警戒心が湧き上がる。
だが、目の前の賢者は、実に旨そうにシチューを食べている。
いかに賢者と言えども、人に害あるものは口にしないはずだ。
彼が食べられるのだから、己が食べても大丈夫なのだろう。
賢者の味覚がおかしいと言う可能性はひとまず捨てて、男は恐る恐る椀に鼻を近づけた。
途端に漂うのは、乳特有のほんのりと甘い香りだ。
好意で出されたものに何時までも手をつけない訳にもいかず、男は意を決して椀に口を付けた。
初めて食べる味に、男は目を丸める。
じっくりと煮込まれた野菜が口の中でほろりとほぐれ、脂身の少ない鳥の肉を噛み締めれば、旨味がじわりと広がる。
懸念していた牛の乳も、それほど癖もなく、野菜の甘味と良く合っていた。
今まで忘れていた空腹感が、一気に押し寄せてくる。
冷え切っていた身体と腹が暖まるような心地で、男は無心になってシチューを平らげた。
男が人心地ついたころ、賢者が場の雰囲気を切り替えるように一つ咳払いをした。
「さて、腹も満ちたところで、そろそろ話を聞かせてもらうとするか」
そう言って詠唱すると、賢者と男の手にあった椀が一瞬で消えた。
見たことのない魔術に目を丸める男に、賢者は楽しそうに笑い声を上げる。
「どんどん物臭になっていくんですから」
「あー、まずは、おぬしがわしを探していた理由から聞こうかのう」
ぼそりと呟かれた弟子の発言は、聞かなかったことにするらしい。
賢者が男に向き直ったことで、男も気持ちを引き締める。
一つ息を飲んでから、賢者に助けを求めるに至った状況を話し出したのだった。
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男の名は、ヴェルダカトルといった。
彼の祖国はフェヴィリウスという小国で、国土は他国の一都市とそれ程変わらない広さである。
特色のある工芸品や作物もなく、唯一の特徴と言えば、他の国より魔力を持って産まれる者が多いくらいだろうか。
そんな小さな国ではあるが、民の気質は大らかで、皆助け合いながら生きていた。
しかし、そんな慎ましやかな生活に、突如暗雲が立ち込めたのだ。
魔と人の明確な棲み分けがなされていなかったこの時代、双方間でのいざこざは時たま話題となっていた。
ただ、上級魔族などは、早々に地上を見限り、より魔力の濃い地下に都市を作り始めていた。
そのため、人に害を及ぼすのは、専ら低級魔族か、知能の低い魔獣くらいのものだった。
彼らは身体能力や魔力は人に勝るものの、個体で活動するものが多く、何とか撃退することができていた。
それがどういう訳か、ここ数年、群をなして人里を襲うようになったのだ。
大群で押し寄せられては、人間など一溜まりもない。
幾つもの村や町が魔物達によって、壊滅状態にされていた。
その魔物の軍団の牙が、今度は男の国に狙いを定めたのである。
いくら魔力を持つ人間が多いとは言え、人の魔力など魔族から比べれば微々たるものだ。
しかも、もともと兵としての訓練を受けている人間は更に少ない。
初めは抵抗していた民達も、徐々に疲弊し、首都へと逃げ延びてくる者達が増えた。
このままでは、王城を狙われるのも時間の問題だろう。
間の悪いことに、フェヴィリウスは先代の王を失ったばかりだった。
王太子であった第一王子は、5年前の戦で負傷し、王位を継ぐのは難しい体となっていた。
そのため、第二王子が国王となったが、継承後間もなく国政を整えている最中だったのだ。
魔族との戦、国政の混乱、責任ある立場となった重圧で、王の心身は日に日に疲弊していった。
そして、数ヶ月前、度重なる心労により王が病に倒れたのである。
このままでは、フェヴィリウスの滅亡は免れない。
危機感を抱いた重鎮達は会議を重ね、ある結論に辿り着いた。
即ち、古代魔術や国家に精通している黎明の賢者アルディロスを頼るということだ。
古の時代では、今よりもさらに魔と人との境が曖昧であった。
それ故に、人々は魔に抵抗する魔術や魔道具をつくり出していた。
時が経ち、魔族の侵攻が少なくなるにつれ、魔術は衰退し、魔道具の行方は知れなくなった。
だが、黎明の賢者ならば、それらの情報を知っているのではないかと踏んだのだ。
ただ、黎明の賢者は滅多に人前には現れず、彼が住まうといわれる森は獰猛な獣が数多生息していた。
下手に森へと足を踏み入れれば、怪我では済まないだろうことは目に見えている。
それに、アルディロスは俗世から退いた、言わば世捨て人である。
こういった人間は、自らが歴史の表舞台に関わる事を嫌う傾向がある。
だから、一国の未来に影響を及ぼす事になるこの依頼を、受け入れて貰えるかどうか怪しい面もあった。
つまり、危険を冒して出向いても、全てが無駄になる可能性もあるのだ。
そんな場所に、誰を使者として送り込むべきか。
なかなか結論が出ない中、名乗りを上げたのがヴェルダカトルだった。
彼は現騎士団団長を務めており、さらには王の末弟でもある。
国の名を背負うに相応しく、剣の腕も立つ。
こうして、彼は賢者に見えるために、フェヴィリウスを後にしたのだった。




