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転移の魔術で移動したユーリシアは、例の場所にふわりと降り立った。
少し辺りを見渡せば、すぐに目的のモノが目に入り、彼女は僅かに顔をしかめる。
音もなく近付いてみれば、ボロ布のように見えるそれが、まごうことなく人間の男であることが知れた。
ユーリシアは靴底で軽く男の肩を蹴ると、うつ伏せていた彼の向きを変える。
男は小さく呻き声を上げ、僅かに眉を寄せた。
どうやら、生きてはいるようだ。
男の身なりは、市井の物と変わらないように見えて、その実上等な布を使っていることが分かる。
恐らく、それなりの身分を持った人間なのだろう。
男を見分していたユーリシアの眉間に、ますます皺が寄った。
金持ちとか、権力者という人種が、彼女は殊の外大嫌いだった。
彼らは、他人を利用することしか考えていない。
中にはそうでない人間もいるのだろうが、少なくとも、彼女が今まで出会った人間達は皆そうだった。
できればお近づきになりたくないが、このまま捨て置くわけにもいかない。
彼女の師はとてもはっきりしていて、自分の興味が向かないものには本当に手を出さない。
師に会うためにこの森に入り、野垂れ死にそうになる人間は過去何人もいた。
その中で、師の興味を引いた人間だけが、彼の住処である塔へと通される。
それ以外の人間は、森の外へと放り出され、決して塔に辿り着くことはない。
だが、今回はこの男を『拾ってこい』と言うのだから、師は男に会うつもりなのだろう。
何が師の興味を引いたのかは分からないが、ユーリシアの与り知るところではない。
自分は師の命に従って、この男を連れ帰るだけだ。
深々と溜め息を吐いてから、彼女は小さく詠唱し、転移の魔力を構成させる。
このまま転移した場合、男は床に後頭部を打ち付けるだろうが、獣に喰われるよりはましだろう。
そうしている間にも、術の構成は最終段階に入る。
ユーリシアの体が淡い光を放った直後、彼女と男の姿は霞のように消えたのだった。
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「……っう……」
ゆっくりと覚醒してくる意識に、男は小さく呻き声を漏らした。
体中が鉛のように重く、思うように動かない。
霞がかった頭で、一体自分はどうしたのだったかと考えた所で、男はハッと目を見開いた。
そういえば、自分は賢者に会うために深い森へと足を踏み入れ、途中で力尽き倒れたのではなかったか。
かばりと起き上がった瞬間、ズキンと後頭部が痛み、男は思わず両手で頭を抱える。
彼は一番痛む箇所にそっと手を触れ、傷になっていないかを確認する。
どうやら幸いなことに、切ったり、瘤になったりはしていないようだ。
倒れる直前は意識が朦朧としていたため、あまり良く覚えていないのだが、知らず知らずの内にどこかにぶつけでもしたのだろうか。
「ほう、どうやら目が覚めたようじゃのう」
痛みを紛らわすためにうなり声を上げていた男だったが、突然響いた第三者の声に肩を震わせた。
森をさ迷い、心身共に疲弊していたとは言え、男は剣を握るものの端くれとして、それなりに気配には敏感だった。
それが、今声を上げた者の気配には全く気づくことができなかったのだ。
加えて、ここは人の常識を越えた迷いの森であり、何が起きても不思議ではない。
男は咄嗟に腰に手をやるが、そこに馴染んだ剣の重みはない。
一つ舌打ちをしてから、彼は急な攻撃にも反応できるよう気を張り詰めながら、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先にいたのは、立派な髭を蓄えた一人の老人だった。
老人は楽しげな笑みを浮かべながら男を見つめていた。
その瞳の色は、どこか子供のように好奇心で煌めいている。
そんな老人の様子にいくらか毒気を抜かれながらも、警戒を怠らない男に、老人は笑い声をあげた。
「なぁに、お主のような屈強な男をどうこうすることなどできんよ。わしは随分と昔に隠居した、ちょいと古代魔術に熱をあげとるだけのただの爺じゃ」
「……隠居? ……まさか!」
隠居、古代魔術という言葉に、男はハッと息をのんだ。
落ち着き、改めて目の前の老人の魔力を探ってみれば、彼からはとてつもない力を感じる。
こうして老いているのだから、魔力はそれだけ衰えてきているということだ。
にも拘らず、老人からは、男の国にいる魔導師達に匹敵するくらいに強い魔力が溢れていた。
男が捜している賢者、アルディロスとは、古代魔術の権威である。
様々な知識を得ている賢者は、生き字引として、どの国でも手厚く保護される。
しかし、アルディロスは一風変わった人物で、彼は国の保護を断り、俗世を離れて隠者のような生活をしているという。
そうして、住処である深い森に魔術を施し、己の研究に勤しんでいるのだそうだ。
それ故、彼の住処に辿り着ける者は少なく、巷では幻の賢者扱いをされている。
また、アルディロスは魔術の研究者であると同時に、自身も稀代の魔導師であった。
彼は老いて森に隠居してもなお、数多の魔術を操るといわれている。
「もしや、あなたは、黎明の賢者アルディロスではありませんか?」
居住まいを正した男は、緊張の色濃い声色で目の前の老人に問いかけた。
老人はきょとんと目を丸めた後、楽しげに笑い声を上げる。
「ふむ、そう呼ばれていたことも、あったかもしれんのう」
あっけらかんと己の正体を認めた老人に、男は思わず口を開けて間抜け面をさらした。
その露出の少なさから、世間ではアルディロスは人嫌いなのでは、とか、気難しい人物なのでは、などと様々な憶測が飛び交っていた。
だから、これほどあっさりと賢者であることを認めるとは、思いもしていなかったのだ。
暫し我を忘れて唖然としていた男だったが、気を取り直して表情を引き締める。
目の前の老人は、自分をアルディロスと認めはしたが、まだ男に力を貸すと承諾したわけではない。
だから、本番はここからなのだ。
男には、どうしても賢者の助力を取り付けなければならない理由があった。
ベッドから降りた男は、深く深く頭を下げ、振り絞るような声で賢者に懇願した。
「賢者アルディロスよ。どうか俺……私に力をおかしください。私は、あなたの知識に縋るため、この森にやって来たのです」
静まり返った室内で、暖炉の薪が音を立てて爆ぜる。
数秒間の沈黙が、男にはまるで永遠の時にすら感じられた。
だが、その静寂を破ったのもまた黎明の賢者であった。
「ふむ……」
たっぷりとした顎鬚を撫で、男をじっと見つめていた賢者だったが、唐突にぽんと手を叩く。
びくりと肩を震わせ、男は恐る恐る顔を上げる。
そんな彼に、満面の笑みを浮かべ、賢者は首を傾げて問いかけた。
「時にお主、煮込み料理は好きかの?」
「は? ……煮込み料理……ですか?」
「なに、ちぃと小腹がすいてのう。わしの弟子が作ったシチューがあるんじゃが、お主もどうじゃ」
突然の話題の展開についていけず、唖然とする男を尻目に、賢者はどこかほくほくと嬉しそうな笑みを浮かべている。
「牛の乳で煮込んである、一風変わったものなんじゃが、わしはこれが大好物でのう」
「は……はぁ……」
「そうと決まれば、フェルよ。そこにおるか?」
言葉を失っている男の前で、賢者は背後を振り返って声をかけた。
いつからそこに居たのか、賢者の足元には、赤々と燃える炎のような毛を持つ狼が一匹床に伏せている。
巷の噂が正しいならば、彼の狼はアルディロスが使役するという、炎狼エフェルトラドなのだろう。
賢者の声にぴくりと耳を動かし、炎狼は音もなく立ち上がる。
彼は僅かに開いたドアの隙間をすり抜けると、暗闇の中へと消えていった。




