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どれくらいそうしていただろうか。
東の空が白み始める頃、ユーリがごそごそと身じろぎをした。
片手をラズフィスの胸に当て、僅かに身を離してから、彼女は俯いたまま恥ずかしげに呟く。
「すみません、お恥ずかしい姿をお見せしました」
耳まで赤く染めた彼女の珍しい姿に、ラズフィスはまじまじとユーリを見下ろした。
なかなか自分を離そうとしない腕を訝しみ、顔を上げたユーリが眉間に皺を寄せる。
そんな彼女の両目に、涙の跡は見受けられなかった。
そう言えば、それなりに長い期間共に過ごしてきたが、ユーリが涙を流す姿は一度も見たことがない。
泣いてくれれば、慰め、甘やかし、守ってやることもできるのだが、恐らく、彼女はそれを良しとしないだろう。
容易に想像できる事に苦笑しながら、ラズフィスは腕の力を緩めて彼女を解放する。
一歩後ずさってから、ユーリは一つ息を吐き、小首を傾げて苦笑を浮かべた。
「あなたは昔、私を暖かな光りのようだと言いましたけど、とんでもない。愚かな女だと、幻滅してくれて構いませんよ」
王城で下働きとして過ごした穏やかな日々は、ついこの間のことのように、鮮やかに彩どられている。
実際、長い時の中で生きるユーリにとって、二十年などほんの瞬きの間に等しい。
目を閉じれば、大樹の枝の上、ユーリの話を身を乗り出すようにして聞いていたラズフィスを思い出す。
『ユーリの話は面白いな! それに、傍にいると胸が暖かくて、とても心地が良い。まるで木漏れ日の下にいるようだ』
一通り話を聞き終えた彼が、興奮で頬を紅潮させたまま、ほうと溜め息をついて自分を見上げる。
キラキラとした瞳で見られるたびに、思わず視線を逸らしたのは一度や二度ではない。
本当の自分を知ったら、この美しい新緑も、恐怖に歪むのだろうか。
そんなことを考えながら、誤魔化す様に笑みを貼り付けた。
「お前が愚かな女だというなら、私も大概酷い男だ」
かつての記憶に思いを馳せていたユーリは、不意に聞こえた声に顔を上げた。
ラズフィスは苦い顔で笑いながら話し出す。
「私は、お前がそれ程苦悩していると知りながら、この世界に迷い込んでくれたことに感謝すらしている。そして、世界に関わることを恐れていると知ってなお、私の傍におきたいと思っている」
世界と関わりたくないような人間が、最高権力者の傍にいるなどもっての外だ。
彼女の心情を慮るならば、去ってゆく彼女を追わず、二度と会わないほうが良いだろう。
それを分かっていてながら、どうしても諦めることができなかった。
魔女であるとか、異世界の人間であるとか、そんなことは関係ない。
自分にとって、彼女は、光りであり、安息であった。
それが、たまたま古の魔女であっただけ。
彼女が村娘であろうと、魔族であろうと、傍におきたいと思う気持ちは変わらない。
己の心が求めるのは、自分を暗闇から引き上げてくれた、ただ一人の女だけだった。
「随分勝手な言い分だと、幻滅したか?」
肩を竦めて尋ねるラズフィスに、ユーリは暫し考え込むように口を噤んだ。
「……私は、たくさんの命を奪って生きてきた、どうしようもない罪人なんです」
「そうかもしれない」
小さく呟かれた言葉に、ラズフィスは肯定の言葉を返す。
一瞬、ユーリは傷ついたように顔を歪めたが、すぐにその表情を隠した。
視線を避けるように俯いてしまったユーリを見下ろしたまま、ラズフィスはただ静かに言葉を続ける。
「だが、お前が罪人だと言うのなら、きっと、私もそうだろう」
戦場で、政で、今までラズフィスの選んだ選択によって、死んだ者も、不幸になった者もたくさんいる。
少ない選択肢の中で、最良の道を選んでいるつもりではあるが、犠牲にしてきたものも多い。
面と向かって罵られたことはないが、そうされてもおかしくないはずだ。
「そして、これからも多くの犠牲を払い、迷い、間違いながら、先へと進む」
何が正しくて、何が間違っていたのか、それすら分からなくなることさえあった。
それでも立ち止まることなく歩んでいけたのは、周りの人間の助けと、己の半身である精霊の励ましと、あの日の誓いがあったからだ。
手を差し伸べてくれた彼女に恥じることのないように、自分の選んだ道を、ただ真っ直ぐに歩んで見せると。
あの時、そう決めた。
「だから、今度は、お前の番だ」
このまま逃げ続けるのか、世界と関わることを受け入れるのか。
選べる道は、いつだって一つしかなかった。
だからこそ、自分自身で決めなければ意味が無い。
「ユーリ、お前が、決めるんだ」
揺るがない視線で、ラズフィスは目の前の娘を見据えた。
「私……、私、は……」
怯えるように後ずさり、ユーリは小さく首を振る。
それではいけないと分かっていながら、ずっと選択を避けて生きてきた。
だって、人と、世界と、関わらなければ、変わることもないが、傷つくこともない。
何も考えず、流れに身を任せるだけの生き方は、心地よくて、楽だった。
恐る恐る視線を上げたユーリは、ラズフィスと目が合うと、一瞬体を震わせて固まった。
視線の先で、新緑の眼が、ただじっと己を見つめていたからだ。
それは、大樹の上、ラズフィスが自分の道を歩む事を決めた時の眼差しとよく似ていた。
(あぁ、そうだ。私は、この瞳が恐ろしく、同時に、とても眩しかった)
幼くして険しい道を選んでしまった彼が切なかった。
でも、それ以上に、真っ直ぐ進んでゆける強さを持つ彼が、羨ましかった。
(今思い返すならば――もう、あの時すでに、自分は囚われていたのだ)
ユーリは一度目を伏せて、深く呼吸を繰り返す。
震える足に力を入れ、ぐいと顔を上げた時、突如眩い光りが二人を照らしだした。
眩い光りが差し込み、暗闇に沈んでいた室内が徐々にその姿を顕にする。
お互いに目を眇め、片腕で陰を作りながら、窓の外へと視線を移した。
地平線から顔を覗かせた太陽で、濃紺の空が鮮やかに染まっている。
長かった夜が明けていく。
無言で見入っていたラズフィスだったが、人の動く気配を感じ、そちらに目をやった。
ラズフィスの前、陽の光りで全身を金色に染め上げたユーリが跪いていた。
彼女は深々と垂れていた頭を上げ、彼が求めた夜色の瞳でラズフィスを捉える。
「その身に金を頂く、フェヴィリウスの王よ。魔女である私は、あなたと同じ時はすごせない。ですが、あなたの魂に、私の永遠を捧げましょう」
いつか、この日の選択を悔いる時がくるのかもしれない。
独りおいていかれる苦しみに、胸を掻き毟る日は必ずやってくる。
だが、それでも、ユーリは選んだ。
運命に流されるのではなく、諦めるのでもなく、自ら踏み出すことを決めたのだ。
ユーリは胸の前で拳を握り、己を奮い立たせる。
これでやっと、恥じることなく彼の後を歩むことができるだろう。
「最初にして、唯一の我が主。願わくは、どうぞ、お傍において下さい」
かつて常闇の魔女と呼ばれた女は、目の前に佇む王を眩しげに見上げた。
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今は無き魔術大国、フェヴィリウスの歴史書は語る。
第28代国王、ラズフィス・ユディア・フェヴィリウスの治世。
目覚しく勢力を伸ばすことはなかったものの、大きな混乱も戦乱もなく安定した時代だった。
王の傍には優秀な補佐達が付き添い、良く彼を助けた。
その中に、昨今では殆ど見ることのなくなった、黒の魔導師がいたという。
黒としては類い稀なる魔力を持っていたと語られる魔導師の名は、歴史書に記されてはいない。
ただ、彼女はラズフィス王が崩御するその時まで、変わらず傍にあったという。
――全ては歴史書のみが知る、遥か昔の物語である。




