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頬を撫でる生暖かい風に、ラズフィスは閉じていた瞼を振るわせる。
ゆっくりと目を開けると、いつの間にか鬱蒼と生い茂る森の中に佇んでいた。
ラズフィスは辺りを見渡し、数度瞬きを繰り返す。
突然、けたたましい鳥の鳴き声が響き、彼は頭上を見上げた。
姿を捉えことはできなかったが、羽ばたく音が徐々に遠ざかっていく。
そうして、森は再び沈黙した。
風に揺れる葉の隙間から、ほのかに明かりが零れ落ちるから、今は恐らく昼間なのだろう。
だが、密集して木が生えているせいで、森は薄暗く陰鬱な雰囲気を見せていた。
(ここは……)
この深い森を、ラズフィスは知っていた。
幼い頃、良く母に連れられて赴いた彼女の生まれ故郷。
その北の大地に生きる人々によって、語り継がれる伝承があった。
(魔女の森……か?)
フェヴィリウスの端に広がる広大な森の中に、簡単にはたどり着けない場所がある。
人を惑わす森の最奥に、天に向けて聳え立つ、古びた石造りの塔。
かつて、常闇の魔女が住まい、眠りについたと言われる地だった。
古より、好奇心や野心から魔女の力を求め、多くの人間が塔を目指して森へと踏み入った。
だが、そういった者達は皆、気付けば森の入り口へと戻されている。
本当に魔女に助けを乞う一握りの人間だけが、その塔を見ることが叶ったと言う。
しかし、魔女が死して後、塔へ辿り着いた者は一人としていなかった。
魔女が己の遺産を荒らされないため、森に魔術をかけたのだと、人々は実しやかに語った。
そんな風に、永きに渡り魔女の魔力を受け続けた森は、日中でも薄暗くどこか肌寒い。
だが、不思議なことに、日の光りが少ないわりに、森の木々は多くの実をつけた。
周囲に住む人間は、常闇の魔女を恐れながらも、森に入っては果実を集め、狩りを行った。
森は人々の恐れの対象でもあり、恵みを齎す宝でもあったのだ。
魔女の森、と。
畏怖を込めてそう呼ばれる森はしんと静まり返り、獣の息遣いさえ聞こえてきそうだ。
懐かしさに目を細めながら、ラズフィスは森の中を進んでいく。
母や叔母に連れられ、魔女の森の近くにある湖や草原に散歩に来ていたことを思い出す。
足を進めながら、不意にラズフィスは片隅に忘れていた記憶を呼び起こした。
まだ5つに満たなかった頃、自分は一度だけこの森で迷子になったことがあった。
談笑する母達の目を盗み、従兄弟姉妹と供にこっそりと森に踏み入ったのだ。
悪戯を成功させたような思いで、くすくすと笑いあいながら奥へ奥へと分け入っていった。
高揚する気分のまま鬼ごとをしている内に、一人道に迷ってしまったのだ。
あの時は、もう二度と母に会えないのではないかと本当に心細かった。
ようやく母達に見つけてもらえた時は、みっともなく声を上げて泣いたような気がする。
子供心に相当傷を付けただろう出来事だったが、どういう訳か今の今まですっかり忘れていた。
暖かな母の腕に抱かれながら、早く忘れるようにと慰められたからだろうか。
苦笑しながら歩みを進めていたラズフィスは、ふと足を止め顔を顰める。
己の記憶に、少々違和感を感じたからだ。
自分は確かに森で迷子になったし、早く忘れてしまうように言われた記憶がある。
だが、そう言った母の顔と、声が一致しない。
僅かに痛む頭を抑え、ラズフィスは目を細めた。
『ここであったこと、皆には秘密です』
『ひみつ? おかあさまにも?』
幼い頃の自分の声に重なり、鈴の音のように涼やかな声が響く。
心臓が掴まれた様に痛み、次いで激しい鼓動を打ち始める。
霞がかった記憶の中で、女性と思わしき人影が口元に指を立て小さく頷いた。
『そうすれば、怖かったことも、寂しかったことも、何もかも忘れられますから』
『あなたのことも、わすれなくちゃいけないの? せっかくあえたのに』
首を傾げる自分に、彼女は僅かに言葉をなくす。
そして、どこか寂しげな笑みを浮かべると、己の頭を優しく撫でた。
『覚えていても、良いことなど何一つないですよ』
長い黒髪が風に靡き、巻き上げられた葉が彼女の姿を隠す。
思わず手を伸ばし、ラズフィスは彼女を呼ぶために口を開く。
急速に暗闇に飲み込まれる感覚に、彼は抗う術もなく飲み込まれた。
*************
唇に柔らかなものが触れ、ラズフィスは意識を覚醒させる。
身体は鉛のように重く、指の先を動かすのも困難だ。
何故だろうと考えているうちに、口の中にとろりとした液体が流し込まれる。
その途端に広がる青臭さに、ラズフィスは我知らず顔を顰めた。
喉元を過ぎる強烈な刺激で咽ながら、彼は薄らと瞼を開ける。
霞む視界の間近で、夜に紛れるような黒曜の瞳がこちらを見下ろしていた。
瞳の色と同じ、黒く長い睫が二、三度瞬き、離れていく。
信じられぬものを見るかのように、ラズフィスは目を瞠り、呟くように彼女の名を呼んだ。
「ユー……リ」
「はい」
久しく使われていなかった声帯からは、擦れて吐息のような声が漏れるだけだ。
それにも関わらず、ユーリは微笑みながら、静かに返事を返した。
暗闇に呑まれた部屋は、耳鳴りでも聞こえてきそうな程静まり返っている。
常に控えている筈の侍従達の姿も見えず、物音すら聞こえない。
どこか現実離れしている状況に、夢か現かわらかなくなりそうだった。
「これは、夢か?」
深く息を吐きながら、ラズフィスは独り言のように呟く。
「ええ、そうです。これは、夢」
それに頷いて返してから、ユーリは硝子の吸い飲みを彼の口元に近づける。
その中では緑色をした液体が揺られ、草を潰したような臭いが鼻をつく。
先程、口の中に広がったえぐみの正体は、恐らくこの液体だったのだろう。
口元を引き攣らせたラズフィスだったが、ユーリは吸い飲みを更に近づけてきた。
「薬湯です、飲んで下さい。変なものは入っていませんから」
信用できないかもしれませんがと呟き、ユーリは苦笑をもらして目を伏せる。
彼女にそんな顔をさせたくなくて、ラズフィスは身体を起こして自ら薬を口に含んだ。
再び広がる強烈な味に、顔を顰めて思わず咽こむ。
「っ!」
激しく咽た拍子に腹部の傷が痛み、ラズフィスは身体を折ってやり過ごす。
肩で息をしながら、彼はベッドに仰向けに倒れこんだ。
それ程深い傷ではなかった筈なのだが、毒に触れたせいか酷く熱を持っている。
包帯を取ってみれば、恐らく真っ赤に腫れ、爛れているのだろう。
跡が残るかもしれないと、他人事のように考えながら、ラズフィスは小さく笑った。
綺麗に巻かれた包帯の上から、ひんやりとした手がそっと傷口に触れる。
ユーリは己がつけた傷をなぞる様に指を這わせて眉を下げた。
「ごめんなさい。痛かったでしょう」
そう言って謝る彼女の右腕を、ラズフィスは黙って見つめた。
彼女から切り離されたはずの腕は、今は傷一つなくあるべき場所におさまっている。
その腕に、己が嵌めた金の腕輪は見当たらない。
ユーリの腕が切り落とされると同時に、腕輪は彼女の身から離れた。
彼女の血で染まった金の腕輪と、ピクリとも動かなくなった細い指を思い出す。
血溜まりの上、白い腕が転がるのを目にして血の気が引く思いがした。
「お前の方が……」
ラズフィスは力の入らない己の手を伸ばし、傷を撫でるユーリの右腕を掴む。
労わる様に彼女の腕をなぞり、痛みを堪えるように眉を下げる。
「痛かったはずだ」
自分は、彼女が傷つくのを止めることができなかった。
あの時のユーリが、本人だったのか否か、それは分からない。
だが、決して傷つけたい訳ではなかった。
ラズフィスの独白のような呟きに、ユーリはほんの少し息を止め、泣きそうな表情で顔を歪めた。
目を閉じ、小さく頭を振って息を吐くと、徐に顔を上げる。
僅かに見えた感情の揺らぎは消え、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。
「疲れたでしょう? 少し、休んだ方が良い」
優しく促すような声色で、ユーリはラズフィスの額に手を伸ばす。
前髪をかき上げ、そっと唇を落とすと、彼女は片手でラズフィスの視界を隠した。
ユーリの常ならぬ様子に、彼は覆われた瞼の下で眉を寄せる。
「ユーリ?」
「何もかも忘れて、眠って下さい。そうすれば、何一つ煩うことなく、全てが終わっていますから」
ユーリの言葉と供に流れ始めた膨大な魔力に、ラズフィスは目を見開く。
魔女の末裔が扱うにしては、あまりに大きすぎる魔力。
しかし、そんなことよりも、ラズフィスが焦るには他の理由があった。
構成された魔力の流れで、彼女が何をするつもりなのか気付いたからだ。
舌打ちをして、彼は抗うように魔術を構成させる。
だが、弱った身体と魔力では、身の内に流れてくる黒の魔力に太刀打ちできない。
己の魔力が勢いを殺いではいるが、圧倒的な彼女の魔力が確実に流れ込んでくるのが分かる。
「やめろ、ユーリ!」
身体の自由さえいつの間にか奪われていたらしく、術を施す腕を振り払うことすらできない。
段々と閉じてゆく瞼に抵抗し、必死に彼女の名を呼ぶ。
こちらの意思を無視して術を続ける彼女に、心中で文句をぶつけながら、彼はむずがる子供のように首を振った。
必死の抵抗もむなしく、襲い来る眠気に嫌な汗が流れていく。
パチパチと火花を散らすように抗う金をいなし、黒の魔力は優しくラズフィスを眠りに誘う。
「お休みなさい、ラズ。――どうか、息災で」
彼女の言葉を最後に、ラズフィスの意識は闇へと沈んでいった。




