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今回の話には、流血等の描写があります。
気分を害される可能性のある方は、注意してください。
突然、ユーリは身を屈めると、そのままラズフィスの懐に飛び込んだ。
「……っつ!」
次の瞬間、腹部に焼け石を押し当てたような痛みが走り、彼は思わず彼女を突き飛ばす。
ユーリの身体がベッド脇のテーブルに当たり、その上に準備されていた水差しが床に転がる。
態勢を立て直したユーリの右手には、いつの間にか一本のナイフが握り締められていた。
銀色に鈍く光る刃の先から、紅い液体が零れ落ちるのが見て取れる。
ラズフィスは彼女から目を逸らさず、己の腹部を確かめるように手をやる。
ピリッとした痛みと、生暖かい液体に触れたから、それなりに傷はついているようだ。
傷自体は深くないようだが、次第に身体が熱を持ち、息切れと眩暈に襲われる。
もしかすると、ナイフに毒でも塗られていたのかもしれない。
小さく舌打ちし、ラズフィスは顔を顰めた。
一方のユーリは、まるで面白い玩具を見つけたとでも言うように、ただただ楽しげな笑い声をたてている。
それが、まるで、晩年の母を思い起こさせ、ラズフィスは息を飲んだ。
「陛下! 如何なされましたか!」
軽やかな笑い声のみが響いていた室内に、激しく扉を叩く音が上がった。
どうやら、室内の異様な雰囲気に、護衛が気付いたらしい。
ラズフィスの返答を待たずして、扉の前に控えていた兵が勢いよく飛び込んできた。
彼らは一瞬目を見開くと、王の前に佇む女に鋭い視線を向ける。
一人は王の側に駆け寄り、もう一人はユーリの進路を阻むように立って剣を構えた。
「っち、賊か!」
「おのれ、よくも陛下を! 切り伏せてくれる!」
兵の身体が淡く光り、彼はそのまま彼女に向かって駆け出した。
「! やめ……!」
ぐるぐると回る視界に、思わず膝をついていたラズフィスだったが、顔を上げ静止の声をかける。
だが、兵の動きを止めるには一歩遅く、彼は刃を閃かせユーリに斬りかかっていた。
一瞬の後、ごとりと重いものが落ちる音と、鉄錆びた臭いが鼻をつく。
流れ落ちる血が絨毯を紅く染め、広がる血溜まりの上に、ナイフを握ったままの細い腕が伸びている。
ラズフィスは立ち上がろうと足に力を入れふら付き、隣にいた兵に支えられた。
ユーリを斬りつけた兵は構えをとかず、苦々しい表情でそこに佇む女を睨みつける。
「腕が切り落とされたと言うのに、悲鳴一つ上げないとは……、化物め」
血溜まりの上に立った彼女は、不思議そうに自分の腕と、床に落ちた腕の先を交互に眺めた。
「陛下!」
「何事でございますか!」
護衛から知らせを受けたカーデュレンとフォルトが、血相を変えて室内に飛び込んできた。
二人は部屋の惨状と、血を流して佇む女性を目にし、驚愕の表情を浮かべる。
「ユーリ……殿?」
「何故、あなたが……」
彼らの問いに答えることなく、ユーリは淡く身体を光らせると、己の腕に止血を施した。
そして、転がる腕を踏みつけ、左手でその指からナイフを抜き取る。
底のない闇色の瞳で室内を見渡し、兵に肩を借りるラズフィスを捉えると、にやりと笑みを浮かべた。
「っく! お前達は陛下をお守りせよ」
「はっ!」
フォルトは我に返ると、ユーリと対峙していた兵に並び指示を出す。
彼が王の側につくのを視界の端で確認し、改めて彼女に向き直った。
「ユーリ殿、いかにあなたと言えど、陛下に仇なすものを放っておく訳には参りません」
フォルトの言葉に、ユーリは幼い子供のようにくつくつと笑いながら小首を傾げる。
だが、彼女の瞳はフォルトを見ることはなく、兵達に支えられるラズフィスを映したままだ。
その狂気的なユーリの様子に、彼は肌を粟立たせた。
口を引き結び、フォルトは右手を刃の柄に乗せ、鞘から剣を抜く。
「カー……デュレン……、フォルトを、止めよ」
「陛下、それはなりません」
早鐘を打つ胸に手を当て、荒い息を吐きながら、ラズフィスは前に立つカーデュレンを見やる。
いつでも対応できるよう魔術を発動させながら、カーデュレンは静かに首を振った。
その間にも、フォルトは構えを崩さず、ユーリとの間合いをはかる。
ユーリはふらりと身体を傾けたかと思うと、勢いよく地を蹴って黒髪を翻した。
彼女を迎え撃つため、フォルトもその場を駆け出す。
「ユーリ殿、ご容赦を!」
「フォル……ト。やめよ……!」
「陛下! 御身危のうございます!」
思わず身を乗り出すラズフィスの身体を、両脇の兵士達が押さえつける。
何の力もないユーリと、騎士団を率いる将であるフォルトがぶつかり合えば、どうなるかなど目に見えていた。
苦痛に顔を歪めながら必死に手を伸ばし、ラズフィスは叫ぶように静止の声を上げる。
「――っやめろ!!」
二人の刃が重なり合う刹那、室内に閃光が走った。
目を焼くような強烈な光りに、全員が動きを止め、腕を翳して目を細める。
「なんだ!」
「この光りでは、目が!」
「くそ!」
辛うじて人の居場所は掴めるものの、これでは敵なのか味方なのか区別がつかない。
周りの気配を探りながら、フォルトは剣の柄を握り直す。
ようやく光りが治まり、気を張り詰めたまま、全員が辺りを見渡した。
「なん……だと……?」
「消えた……のか?」
しんと静まり返った室内に、ユーリの姿は何処にも見当たらない。
血溜まりの中にあった、彼女の腕すら跡形もなく消えていた。
鉄錆びた臭いと、絨毯を染める紅だけが、先ほどまでの惨状の名残を留めている。
ユーリの右腕に嵌められていた守り石の腕輪が、彼女の血に染められ転がっていた。
それ以外、彼女がここに居た痕跡は、殆ど残ってはいない。
(ユー……リ……)
気力のみで立っていたに近いラズフィスの身体が、崩れ落ちるように力を失う。
遠のく意識の中で、彼はただ、彼女の名を呼んだ。
「陛下!」
慌ててラズフィスを支えたカーデュレンが、彼の額に手をやって顔を顰める。
荒い息を繰り返す王の様子は、どう見ても尋常ではない。
ラズフィスの腹部に、真横に走る傷を認め、カーデュレンは目を見開いた。
「もしや……毒か!」
カーデュレンは立ち上がり、すぐさま周りの兵に指示を出す。
「医者と薬師を呼べ! 侍従を集めよ!」
彼の言葉に、兵は頭を下げて外へと駆け出していく。
深夜の王宮が俄かに騒がしくなる中、月だけが静かに夜を照らしていた。
*************
やはり王は毒を受けていたようで、速やかに処置が施された。
身体が治癒を優先させているためか、ラズフィスは未だ目を開けてはいない。
ただ、毒物に慣らされている王族だから、体内から毒が抜ければその内目を覚ますだろう。
先程まで治療を見守っていたクリスティーナも、侍女に伴われ今は自室に下がっていた。
王の自室の脇にある侍従たちの詰め所には、カーデュレンや、フォルト、室長の姿があった。
彼らは黙り込んだまま、各々何かを考えるように眉間に皺を寄せている。
ふと王の部屋へと続く扉を眺めたカーデュレンは、突然響いた硬い音に振り返った。
どうやら、フォルトが拳を机に叩き付けた音だったようだ。
彼は拳を震わせ、力なく頭を垂れた。
「何故……、何故ユーリ殿が!」
フォルトの言葉は、ユーリを知る、誰もが思っていることだった。
彼女の人間性に触れたことがあるからこそ、この状況が飲み込めず、憤りだけが増していく。
同じ思いを抱えながら、カーデュレンは静かに首を振り、小さく溜め息をついた。
「私にも分かりません。しかし、陛下は最近、ユーリ殿の身辺を気にしておいででした。もしかすると、何か思うところがあったのやもしれません」
思い返せば、最近のラズフィスは、やけにユーリの身辺を気にしていた。
自分は気付かなかったが、彼とすれば不審に思うことがあったのかもしれない。
もっと早く何かしらの対処していれば、事態は変わったかもしれないのだ。
己の不甲斐なさに唇を噛み締めて、カーデュレンは先ほどの惨状を思い起こす。
これ以上、何かを見落とすことは許されない。
眉間に皺を寄せつつ、カーデュレンは口元に手を置いた。
「思うところと言えば、ユーリ殿が即座に止血をしてみせた、あの魔術。それなりの魔力が必要なのです」
元々、治癒の魔術というのはそれだけで高等な技術と、相当の魔力がいるのだ。
軽い擦り傷を治す程度ならば問題ないが、切断された腕の止血など簡単にできるものではない。
ましてや、彼女は魔女の末裔であり、僅かな魔力しか持っていないのだ。
「ユーリ殿の魔力では、あのような術を施すことなどできないはず」
彼女の魔力量が増えたりしない限り、あのようなことをやってのけるのは不可能だ。
だが、現実に、彼女は自分達の目の前でそれをやって見せている。
魔力の増量という言葉に、フォルトがぴくりと眉を跳ね上げた。
「もしや……、魔女の呪いか?」
「分かりません。今はまだ、なんとも」
目を伏せ、カーデュレンは重々しい溜め息をつく。
状況を判断するには、あまりにも情報が少なすぎるのだ。
今のままでは、完全に手詰まりの状態だった。
唯一の希望と言えるなら、ユーリが身に着けていた腕輪が手元に残ったことだろう。
「幸いこの腕輪は、ずっとユーリ殿と供にありました。守り石の記憶を探れば、何かしらの情報が手に入るでしょう」
「っく! このような時に、精霊が眠りに入っているとは……」
ただの守り石と交信する術を持つのは、兄弟石であるリリアージュだけだ。
しかし、彼女は丁度深い眠りについたばかりだった。
それに、リリアージュの寝床である魔法具を開けられるのは、主であるラズフィスのみである。
「こればかりは、時が過ぎるのを待つより他にありません」
ゆるゆると首を振りながら、カーデュレンは腕輪を懐にしまった。
再び室内が静寂に包まれた時、今まで黙って窓の外を眺めていた室長がぽつりと呟いた。
「しかし、皮肉なものだな」
姉の言葉に、カーデュレンは顔を上げて彼女の後ろ姿を見つめる。
室長は闇に沈む王都を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。
「使用された毒に、最も薬効があるのが、ユーリが残していった毒消しとは」
彼女の作った薬に世話になった者は多い。
周りの者がちょっとした不調を訴えたり、怪我を作ったとき、ユーリは取り置きの薬を惜しみなく分けていた。
研究室にある彼女専用の棚には、たくさんの種類の薬が常に鎮座していた。
それほどまでに薬が充実している理由は一つ。
ユーリは薬の作成をする時、いつも少し多めに作っているのだ。
何かあった時に使えるようにという、彼女の配慮からだ。
そんな風に他者の事を考えられる人間が、戸惑いなく人に刃を向けるなど信じたくなかった。
「とにかく、薬も効いているようですし、陛下もじきに目を覚まされるでしょう」
「それまで、我らは我らにできることをする、か」
フォルトの言葉に、それぞれが深く頷き、思考の海に沈む。
腕を組み、窓辺に身を凭せ掛けながら、室長は窓の外に視線を投げる。
東の空が、緩やかに白み始めていく。
もうすぐ、夜明けがやってくる。
目覚めゆく王都の姿を、彼女は目を細めて見つめていた。




