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ようやく祝賀会に招いた全ての貴族達が帰り、王城は元の落ち着きを取り戻していた。
同じくして、ラズフィスの仕事も、普段の業務に戻りつつある。
一時は執務机を埋め尽くすかと思われた書類も、今は片側に寄せられる程度には減っていた。
「うー」
唐突に聞こえてきたリリアージュの声に、ラズフィスは目を通していた書類から顔を上げた。
精霊はソファーに腰掛けたまま、眠気眼で船を漕いでいる。
その様が幼い子供そのもので、ラズフィスは思わず笑みを零した。
「リリアージュ、眠いのか」
「だい……じょうぶ、れす」
あまりの眠さからか、呂律が回っておらず、とても大丈夫とは思えない。
リリアージュは眠気を覚ますためか、ごしごしと目を擦るが、すぐにまた瞼が閉じてしまっている。
本格的に眠り始めるのも、時間の問題だろう。
「ここ暫らく、色々とあったからな。疲れが溜まっているのだろう。少し休め」
ユーリが見つかったことや、西への遠征、祝賀会と、彼女にとっても目まぐるしい日々の連続だっただろう。
精霊としては、まだまだ生まれたばかりのリリアージュは、幼子と同じく疲労しやすいのだ。
休息を促すと、精霊は少し悩む様子を見せたが、僅かに頷いて本体である守り石に戻る。
『お休みなさい、主様』
その言葉を最後に、精霊からの反応は途絶える。
恐らく、完全に眠りに入ったのだろう。
ラズフィスは耳飾りを外し、専用の箱にしまった。
そして、別の箱から似た様な耳飾りを取り出し、それを身につける。
フェヴィリウスの王が、己の精霊を使役しているのは周知の事であり、他国への牽制の一つになっている。
そのため、リリアージュが休息している間は、類似した飾りを付ける様にしていた。
ラズフィスが箱を懐に入れた時、扉の前に控える護衛から人が訪れたことを告げられる。
特に面会の知らせは入っていないから、身内の誰かなのだろう。
「陛下、失礼いたします」
入ってきたのはカーデュレンで、入り口で一礼すると執務机に近付いてくる。
新しい書類を持ってきた彼は、それを差し出しつつ目を瞠った。
「おや、そちらは……」
目ざといカーデュレンはラズフィスの耳飾りが、スペアであることに気付いたらしい。
それに苦笑を返して、ラズフィスは彼から書類を受け取る。
「随分と眠そうだったからな。暫らく休ませることにした」
「左様でございますか」
筆と国璽を手元に引き寄せたところで、ラズフィスはふと手を止め顔を上げた。
己の執務机に腰を下ろしたカーデュレンは、ラズフィスの様子に気付き首を傾げる。
「陛下、何かございましたか?」
「カーデュレン、少し聞きたいことがあるのだが」
「どのような事でございましょう」
ラズフィスは口を開き、僅かに言いよどむ気配を見せる。
しかし、一度口を引き結ぶと、どこか真剣な表情でカーデュレンに問いかけた。
「最近、ユーリの身辺で、何か変わったことはあっただろうか」
「ユーリ殿の周りで、でございますか?」
カーデュレンは考えるように首を傾げ、暫し宙を睨む。
だが、思い至る所がないのか、肩を竦めて訝しげな表情で答えを返す。
「特に、耳にはしておりませんが、如何なさいましたか?」
「いや、ならば良いのだ」
ゆるく首を振り、ラズフィスは書類に向き直った。
ここ暫らく、気を張っていることが多かったから、少し神経質になっているのかもしれない。
それに、何もないならそれに越したことはないだろう。
今は目の前の仕事に集中することにして、彼は筆を手に取った。
*************
草木も眠る頃だと言うのに、ラズフィスの自室にはまだ煌々と明かりが灯っていた。
少しでも滞った仕事を片付けようと、溜まっていた書類を持ち帰り処理していたのだ。
明日も早いのだし、いい加減床に入らなければならないことは分かっている。
だが、切りの良いところまでと進めるうちに、こんな時間になってしまっていた。
侍従や侍女も別室へ下がらせており、部屋の中はしんと静まり返っている。
ラズフィスは筆を置き、固まった首を回して軽く肩を叩く。
これ以上は明日の執務に支障をきたす恐れもあるし、そろそろ頃合だろう。
就寝の準備をするため、別室に控える侍従を呼ぼうとした時、コツコツと何かを叩くような物音が響いた。
(何の音だ?)
その不審な物音に眉を寄せ、ラズフィスは耳を済ませる。
暫らくすると、再び先ほどと同じ音が聞こえてきた。
よくよく確認すると、物音はバルコニーへと続く窓から聞こえてくるようだ。
念のため、側に置いていた剣を手に取り、ラズフィスはその窓へと近付いた。
慎重にカーテンを開けた彼は、窓の外に佇む人物を認めて目を見開く。
その人物はノックをしようと上げた腕を止め、笑みを浮かべると小さく手を振ってみせる。
ラズフィスは窓を開け、まじまじと彼女を見つめた。
「……ユーリ」
「こんばんは、良い月夜ですね」
まるで中庭で出会ったかのような気軽さで挨拶を返したユーリは、小首を傾げてラズフィスを見上げた。
「取り合えず、中に入っても?」
ラズフィスは了承の意を返し、身をずらしてユーリを招き入れる。
彼女は夜の空気と供に室内へ滑り込み、ほっと息を吐いた。
軽く礼を言ったユーリは、そのまま物珍しそうに辺りを見渡す。
窓を閉めたラズフィスは、ユーリに近付くと気になっていた問いを口にした。
「こんな時間に、どうしたんだ。何かあったのか?」
ユーリが夜更けに人を訪れること事態珍しいが、それ以上に自らラズフィスに会いに来たことも意外だった。
普段、彼女が己に用がある時は、カーデュレンやクリスティーナを通すか、客室で会った時に話をする。
ただ、戯れ交じりに、用があるなら自室へ来たら良いと、話をしたことは何度かあった。
彼女は決して頷くことはなく、それどころか、呆れたような顔をして首を振っていた。
驚きを隠さぬままユーリを見下ろしていると、彼女は戸惑いがちにラズフィス近付き、彼の腕にそっと額を寄せる。
「ここ暫らくあなたの顔を見ていなかったでしょう。恥ずかしながら、寂しかったのかもしれません。何だか、急に会いたくなってしまって」
彼女は上目遣いにこちらを見上げ、どこか困ったように眉を寄せた。
そして、そのまま目を伏せ、俯いてしまう。
滅多にない彼女の甘えたような仕草に目を瞠りながらも、ラズフィスは内心で首を傾げる。
「しかし、どうやってここまで来たんだ?」
王の自室は、当然ながら城の最奥にある。
以前、戯れの延長で客室からの道のりを教えようとした際、ユーリには断られている。
それ故に、彼女はこの部屋の場所すら知らないはずなのだ。
その上、彼女が今回訪れた先は部屋の外にあるバルコニーだ。
城外にはそれなりの巡回兵が配置されているため、彼らに見つからずにここまで来るのは難しい。
庭木や他の部屋の窓を伝ってくるにしても限度があり、普通なら容易には辿り着けないだろう。
不審者が発見されれば、それは最終的にラズフィスの元に報告が上がる。
だが、今のところ、そのような情報はもたらされていない。
ラズフィスの問いに、何かを思い出しているのか、ユーリは楽しそうにくつくつと笑った。
「ちょっと魔術を利用したのと、後はあなたの精霊に教えてもらった道を通ってきたら、わりと楽でしたね」
ユーリの言葉に、ラズフィスの眉がピクリと動く。
そして、楽しそうに笑う彼女を見下ろす彼の視線が、僅かに細められた。
「……そうか」
ラズフィスはユーリの肩に手を置くと、身を寄せていた彼女を離し一歩分の距離を開ける。
ユーリは彼を見上げたまま、不思議そうに目を丸めて小首を傾げた。
「陛下?」
「一つ教えておこう」
ラズフィスは彼女から視線を逸らさず、慎重に距離をおく。
別室の侍従たちを呼ぶ為の鈴は机の上にあり、ここから手に取るには無理がある。
だが、声を上げれば扉の前の護衛兵が飛び込んでくるだろう。
それに、不審を持たせるような行動をして、下手に刺激をするのも避けたい。
ラズフィスは、目の前の彼女がどんな行動を取るか掴みかねていた。
何かあれば、すぐに剣が抜けるよう意識しながら、彼は話を続ける。
「リリアージュは、私の精霊であると同時に、最も身近な護衛だ。だからあれは、どんなに親しいものであれ、情報を教える前に私に必ず許可をとる」
ラズフィスだけの精霊である彼女は、基本的に主に忠実だ。
そのため、主であるラズフィスの情報は、腹心や王族であっても勝手に漏らしはしない。
リリアージュはユーリに特別な好意を持っていはいるが、その点を違える事はないだろう。
「だが、私はリリアージュから、ユーリに自室の場所を教えると、聞いた覚えはない」
精霊は嘘を付く事はないから、彼女がユーリにラズフィスの自室を教えた事実はないと確信している。
その上、己の精霊は今、休息に入っている。
よって、リリアージュが新たに道を教えたり、ユーリを自室へ導くことはできない。
つまり、彼女が己の精霊に道を教えてもらったという言葉には矛盾が生じるのだ。
「それに、ずっと気になっていた」
このところ、ラズフィスは彼女の言動の端々に違和感を感じていた。
特にこの数日、顔を合わせるたびにそれは増している。
しかし、他の誰もが気にしていなかったから、気の迷いと片付けていたのだ。
最初に不審を感じたのは、数日前のあの日。
霍乱で倒れていた彼女を見つけた、あの時の一件だった。
「ユーリは薬に関しては、相当貪欲だ。間引いたものとは言え、薬の原料を僅かでも無駄にするとは思えない」
所謂変態的な研究者の一人であるユーリは、素材の一片すら無駄にしない。
材料であるなら、それこそ毛の一本すら大事に取って置く人間なのだ。
そのユーリが、薬草を放置するという、その異質さ。
まして、精魂込めて作った薬草を、己で踏み躙る事など有り得ない。
視線を逸らさぬまま、ラズフィスは静かに問いかけた。
「お前は、一体なんだ?」
異様な空気に中てられたのか、小さく響いていた虫の音すら今は聞こえない。
いつの間にか、彼女からは表情が抜け落ち、目は虚ろなままぼんやりと宙を見つめている。
その様子に、どこか不吉なものを感じ、ラズフィスの背を冷たい汗が流れた。
やがて、全てを飲み込むような闇色の瞳が、ゆっくりと彼を捉える。
室内に差し込む月明かりを背に、彼女はにやりと歪な微笑を浮かべた。




