19
ユーリがバルコニーへ出て行って暫らくしたころ、一つの影が人の合間を縫うようにして室長に近付く。
一人酒を嗜んでいた室長は、己の隣に立った人物に片眉を跳ね上げた。
「おや、これはこれは。抜け出してきて良いのか?」
彼は苦笑のみを返しながら、誰かを探すように辺りを見渡した。
「あなたがお探しの精霊なら、ちょうど安息を求めで出て行いったところだ」
ユーリが消えたバルコニーを指し示すと、彼は礼の代わりに片手を上げて踵を返す。
器用に人波を避けながら去ってゆく彼を、呼び止めるものはいない。
色を変えるだけで、随分と人の目を欺けるものなのだと感心する。
まぁ、彼の場合は普段纏う色が特殊なせいもあるのだろう。
昔、そうして色を変えて城下へ抜け出した時も、堂々と城門から出たにも関わらず、見咎められることはなかった。
しかし、いつも彼に媚を売る人間の側を通り過ぎても、誰も気付く者がいないというのが妙に愉快だ。
室長が思わず腹を抱えている間に、彼はバルコニーの先へと消える。
あの扉の向こうで彼らがどんな話をするのか興味深く、一瞬出歯亀してやろうかという考えが過った。
だが、こんなに星が美しい夜に、そんなことをするのも野暮というものだ。
愚かにもダンスの誘いをかけてきた馬鹿を軽くあしらいながら、室長は楽しげな笑みを浮かべた。
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ガラス戸を開けると同時に、風が彼の髪を遊ばせて駆けて行く。
そして、彼の耳に届くのは、甘やかな歌声。
低く、高く、軽やかに跳ねるような旋律は、やはり彼の聞きなれない歌だ。
昔から、彼女の紡ぐ調べは、耳にしたことが無いものが多い。
幼かった頃、市井で流行っている歌なのかと尋ねたが、彼女は笑うばかりで答えてはくれなかった。
ただ、彼女が愛おしそうに口ずさむものだから、必死になってそれを真似て歌ったものだ。
彼は彼女が腰掛ける横に並ぶと、外を眺めるように手摺に両腕をつく。
そうして、幼い頃にしたように、目を瞑って彼女の紡ぐ調べを聞いた。
暫らくして歌声が途切れ、今度は虫達が競うように声を響かせる。
澄んだ音色を聞きながら、彼はぽつりと呟くように囁いた。
「随分と楽しそうだな」
「こんなふうに、降るような星空を見ると、無性に歌いたくなりません?」
彼の言葉に答える彼女の声はどこか弾んでおり、上機嫌なことが伺える。
ころころと笑い、彼女は空に向かって手を伸ばす。
小さく紡ぎだした歌は、今度は彼も良く知るものだ。
お星様が欲しいとぐずる子の元に、ある日小さな星の欠片が落ちてくる。
欠片は暖かな光りを放ちながら子供の手に収まり、だが次の瞬間ふわりと子供の手を離れて飛び立った。
星の欠片はたくさん増えて、子供のために地上に星空を作り出した。
それがやがて、淡光虫に姿を変え、今も地上に留まり続けているという、昔話から作られた童謡だったはずだ。
子供達は皆、自分の為だけに贈られた星空を羨み、昔話の子供のように手を伸ばす。
そして、自分の元にも星の欠片が落ちてくるのではないかと、胸をときめかせるのだ。
彼は穏やかな笑みを浮かべる彼女の横顔を眺め、次いでその手の先に視線を向ける。
白く輝く星々が、目前に迫るように瞬いていた。
「そのような気持ち、長らく忘れていたな」
「それは、勿体ない」
空を見上げることも、歌を口ずさむことも、もう随分としていない。
していないということすら、今まで忘れていた。
目を細めて天を仰いでいた彼は、やがて彼女へと視線を戻す。
今度は、しっかりと目が合った。
彼女の瞳は、深まった夜の色なのだと、唐突に理解する。
「ところで、主役であり、主催者でもあるあなたが、こんな所で油を売っていても良いんですか?」
彼女はちらりと室内に目を走らせ、再び彼と視線を重ねる。
いつかのように、纏う色を変えてはいるが、この夜会が彼を祝う祝賀会であることに変わりはないはずだ。
段上の椅子に座り、会場を見下ろしている筈の人物が隣に居るという事実に、彼女は呆れたように笑う。
「陛下」
笑い混じりの声で呼ばれたラズフィスは、苦笑を返すと手摺から身を離す。
身体の向きを変え、手摺に凭れると、見るともなしに室内の様子を眺めた。
今は緩やかな曲が演奏されているのか、中央で踊る人の流れはゆったりとしている。
知り合い同士で歓談している者達も多く、王族や国賓が座る段上の席にも空席が目立つ。
「今は皆それぞれ自由にしているしな。それ程問題はない」
一通り宴が盛り上がるこの時間に、王である自分に挨拶に来るものは多い。
だが、こういう時に真っ先にやって来る人間というのは、どうでもよい類の者達が大多数だ。
媚び諂う姿に、表情を保つのも一苦労で、精神的な疲労も溜まる。
少々休息の時間を入れても、罰は当たるまい。
先ほどまでの苦痛を思い出し、ラズフィスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「あの王座に座っている方は?」
「私の護衛だ」
ユーリの質問を受け、彼は自分の席に視線をやる。
少しの間だけ変わってくれと頼み込み、自ら幻術の魔術を施した部下が微動だにせず座っていた。
見るからに緊張している様子に、つい苦笑が漏れる。
まだ年若い彼には、荷が重すぎたかもしれない。
自分が席に戻ったら、暫らく自由な時間をやることにしよう。
「王の我侭に付き合わされるなんて、可哀想に」
大体の事情は察したのか、ユーリが呆れたような溜め息を付く。
後頭部に突き刺さる視線に、ラズフィスは顔を歪めた。
「今日まで散々働いたんだ、少しくらい許されるだろう」
ここ数週間の忙しさは、思い出すだけで気力を削られる。
一応、祝われる身である筈の自分が、最も忙しいというのも皮肉な話だ。
声にまで滲み出た苦々しさに、ユーリは声を立てて笑う。
一頻り笑うと、彼女は器用にも手摺の上で方向を変えて座り直す。
華やかに舞う人々を、楽しげに眺めながら、小首を傾げた。
「そう言えば、如何でしたか? 特製の滋養強壮薬は」
「あれは色々と助かった。随分と世話になったぞ」
「それは良かった」
小さく笑うユーリの耳元で、赤い石の飾りが室内の明かりを反射して煌く。
それを、ラズフィスは眩しそうに目を細めて見つめた。
「……無事に、届いたようだな」
「驚きましたよ。まさか、あなたの手に戻っているとは思っていませんでしたから」
20年前の嵐の日、幼子を助けるために放り出した荷物は、結局手元には戻らなかった。
当然、ラズフィスから預かった守り石の耳飾りも、土砂に紛れたか軍に回収されたとばかり思っていたのだ。
目を伏せて、あの日に想いを馳せていたユーリは、勢いをつけて手摺を飛び降りる。
軽くドレスの裾を叩き、姿勢を正してラズフィスを見上げた。
「ですが、形は違えど、これでようやく約束を果たすことができます」
己の耳に手を伸ばし、ユーリは耳飾りを外す。
もう片方も同じように外してから、右手に纏めると目の前の王へと差し出した。
そして、深く深く頭を下げる。
「お預かりしておりましたものを、お返しいたします。あの日から20年、立派な王となられました事、心よりお喜び申し上げます」
どれくらいそうしていたのか、ラズフィスが動く気配にユーリは僅かに顔を上げた。
彼は耳飾りを手に取ると、じっとそれを見下ろした。
「これが……」
独白するように呟いて、ラズフィスは握った拳を額につける。
俯いた彼の顔は影となっていて、その表情を読むことはできない。
ただ、額に当てられた拳が、小さく震えているのを目にして、ユーリは息を飲んだ。
「これが私の手に戻った時、どれ程絶望したことか。お前には分からないだろうな」
「……陛下」
まるで自嘲する様なラズフィスの声色に、ユーリは目を見開く。
あの日の出来事が、そこまで彼に影を落としているとは、想像すらしていなかった。
ユーリは慌てて声をかけようと口を開きかけ、しかし、そうすることなく黙って唇を噛む。
だって、自分は彼の心に影を落とした張本人なのだ。
その己に、傷ついた彼を慰める資格はないし、謝るつもりもない。
なぜなら、ユーリはあの日の自分の選択を後悔などしていないからだ。
あの時、幼子を助けることができるのは自分だけだった。
だから、きっと、もう一度あの場面に戻ったとしても、己は同じ行動を取る。
太陽の少年の心に傷をつけると知っていて、それでも幼子の手を取るのだ。
そんな自分が、ラズフィスに声をかけても白々しいだけだろう。
お互い、暫らく黙り込んでいたが、不意にラズフィスが息を吐いた。
足元に落としていた視線を上げると、真っ直ぐにこちらを見下ろす翠と目が合う。
顔を上げた彼は、もうすっかり元の表情を繕い、先程の影はどこにも見当たらない。
「私には既にリリアージュがある。もう、不要なものだ。これは、お前が持っていてくれ」
ラズフィスはユーリの手に耳飾りを戻すと、踵を返してバルコニーを去っていった。
引き止める機会を失い、ユーリはその背を見送る。
ガラス戸が開いた瞬間喧騒が大きくなり、閉まると同時に再び静寂が戻った。
暫らくその場に固まっていたユーリだが、溜め息を吐き出して脱力する。
戸に背を向け、手摺に頬杖をついて、目の前に耳飾りを翳す。
鎖の部分をつまんで、軽く揺すると金属の擦れる音が小さく響いた。
本当は、耳飾りを返して、その流れでそろそろ森に帰らせて欲しいと訴える予定だったのだ。
しかし、あんな雰囲気の場でそれを言い出せるほど、ユーリの神経は図太くない。
挙句、手放すはずの耳飾りまで、手元に戻ってきてしまった。
「……どうしろって言うんですかねぇ、もう」
こんな高価な宝石をもらったところで、森では何の役にも立ちはしない。
だが、どうしても、あの場でいらないと言って突返すことはできなかった。
耳飾りを握り締め、ユーリは再び空を見上げる。
空は相変わらず満点の星で埋め尽くされており、知らず知らずのうちに吐息が漏れた。
そうやって、物思いに耽っていたから、彼女は終ぞ気付くことができなかった。
自分達のやり取りを、随分前から見つめる視線があった事に。
様々な思いを孕んだまま、祝賀会の夜は静かに更けていった。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
これで、日常編+プチ事件編の第3章は終了となります。
第4章で終わらす予定なので、これから書きっぱなしで放ってあった部分を回収していかなければ(汗)
飽きっぽい自分が、よくここまでたどり着けたと思います(苦笑)
それでは、引き続き常闇の魔女をよろしくお願いいたします。




