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常闇の魔女  作者: 空色
第3章 忍び寄る影
30/80

8





いつまでもそこでぼんやりしている訳にもいかず、ユーリはラズフィスに声をかけようと口を開く。

だが、暫し迷って難しい顔をすると、そのまま口を閉じた。

声をかけるのは良いが、まさかこんな街中で、陛下と呼びかける訳にはいかない。


ラズフィスは色を変えているのだし、彼の顔を見て国王だと分かる一般人はそう居ないとは思う。

だが、あらゆる可能性を避けるなら、本名も呼ばない方が良いだろう。

呼べないのなら近づいて声をかけるだけでも良いのだが、まるで一幅の絵のような光景に自分が踏み込むのは何となく気が引けた。

どうするべきかと考え込んでいたユーリだったが、一つだけこの場で呼べる名を思いつく。

かつて、ラズフィスが幼い頃、彼に乞われて一度だけ呼んだことのある愛称だ。


困って恐れ多いと断ったが、寂しげに顔を曇らせりる様子にとうとう折れたのだ。

その名を呼んだ瞬間、ラズフィスはバラ色に頬を染めて、嬉しそうに笑ったことを覚えている。

当時の事を思い出し、苦笑していたユーリだったが、他に良い名も思いつかず諦めて肩を落とす。


愛称を呼ぶなど、自分から歩み寄るようで、できれば遠慮したい。

それに、今の彼は数多いる王の子の一人ではなく、国の頂点に座す王そのものだ。

平民である自分が、気軽に名を呼んで良い相手ではない。

ぐるぐると悩んだ末、ユーリは深々と溜め息をつく。



(あー、もう。考えるの止めよう、面倒くさい)



どうにでもなれば良いと、半ばやけくそな気分になる。

開き直って顔を上げ、彼を呼ばうために息を吸い込んだ。

もしこれが不敬罪になるのなら、なればいい。

城を追い出されたら、なお良しだ。



「ラズ」



荒れた気持ちとは逆に、ユーリの口から零れた声は、思いの外小さいものだった。

実際、呼び声に気付いたのは、側を歩いていた数人だけだ。

その彼らも、すぐに興味を失うと雑踏の中に消えていく。

少し離れている噴水付近までその声が届くはずもなく、相変わらず婦人達はお喋りを続け、子供達は跳ね上がる水に歓声を上げている。

そんな中で、彼だけが弾かれた様に顔を上げ、ユーリの方を振り返った。

彼女の姿を見つけると、形の良い唇が弧を描き、眩しいものを見るかのように目を細める。


今は自分達と同じ地味な色合いであるはずなのに、まるで輝いているように見えるのは気のせいだろうか。

しかも、あんな表情で見つめられると、気恥ずかしくて仕方がない。

自分の顔に熱が集まるのを感じて、ユーリは思わず俯いた。

綺麗な人間の笑顔と言うのは、恥ずかしさで人を殺せるかもしれない。

つい意味不明な唸り声を上げていたユーリだったが、近付いてきた気配に口元を引き攣らせる。

恐る恐る顔を上げると、こちらを見下ろしている細められた黒と目が合った。



「えーっと、お待たせしました」



目を逸らしながら呟いた言葉は、少し上擦っていてそれがさらに羞恥を誘う。

多分、今の自分の顔は茹で蛸のように真っ赤だろう。



「いや、買い物は済んだのか?」

「えぇ、お陰様で」

「そうか」



ラズフィスの一言を最後に、沈黙が落ちる。

その場に流れる微妙な空気に、居たたまれない気持ちになって、ユーリは頭を掻き毟りたくなった。



(あー、何なんですかね、この空気。痒すぎる!)



苦虫を噛み潰したような表情をしていたユーリだったが、頭上で噴出すように息が漏れる音を拾う。

睨みつけるようにラズフィスを見上げると、彼はわざとらしいほど涼しい顔をして自分を見つめていた。



「……何ですか」

「いや、このまま黙っていれば、もう一度呼んでもらえないものかと思ってな」

「嫌ですよ、恥ずかしい」



赤い顔を隠すようにそっぽを向くと、今度こそラズフィスはくつくつと笑った。

彼より、自分の方がよほど年上であるはずなのに、この敗北感は一体何だろう。

ますます自分が渋面になるのを自覚しながら、ユーリは踵を返した。


無言で歩き出した自分の後ろを、もう一つ足音がついて来る。

ユーリが足を止めると、同じように音も止まった。

こんな街中にいつまでもいて良い人間ではないだろうに、どうやら彼はもう暫らく自分に付き合うつもりらしい。

まぁ、領主の屋敷で自慢話を聞くよりは、散歩でもした方が気も楽だろう。

ならば、とことんつき合わせてしまおうかと考え、ユーリは背後を振り返った。



「私はこれから昼を食べて帰りますけど、あなたはどうしますか?」



平民の食事など口にしたこともないだろうに、二つ返事で返したラズフィスに苦笑する。

自国の王に変なものを食べさせるわけにもいかず、ユーリは午前中の内に仕入れた情報から幾つかの食堂や屋台を選択した。

衛生面で信用でき、静かに食事を取れる場所で、味もそれなりとなると、自然に数は絞られてくるものだ。

意外と楽しんでいる自分に気付き、ユーリは小さく笑みを漏らした。








*************








結局色々と悩んだ末に、元々自分が目を付けていた店で昼食を取ることに決めた。

あそこのヴァルカは生地がもちもちで美味しいですよ、と店を紹介してくれたのは花屋の若い女性店員だった。

そこは食堂の店先で、持ち帰れるような軽食を提供しているのだそうだ。

店の前には椅子と、テーブル、日よけの傘が設置されていて、その場で食事をすることもできるらしい。

今日は天気もよく、日差しも穏やかで、暫らくそこで本でも読みながら過ごそうかと考えていたのだ。


ラズフィスと他愛無い話をしながら歩いていると、目的の食堂を見つけた。

友人同士なのか、年若い少女達が屋台に並んでヴァルカを購入している。

この店では、ヴァルカが人気商品であるというのは本当らしい。

パンよりは薄い生地で、野菜や肉などの副食を包んで食べるヴァルカは、街を散策しながらの食べ歩きには打って付けだ。

彼女達がヴァルカを受け取って去っていくのを横目で眺めながら、ユーリは露店の前に立った。

気のよさそうなふくよかな女性店員が、生地を混ぜながら顔を上げる。



「いらっしゃい、何をお求めだい」

「うーん、悩みますね。お勧めはなんですか?」

「そうさね、若い子にはこの辺りが人気だよ」



店員が指したメニュー表を見つめ、ユーリは隣を振り返る。



「あなた、苦手なものとか、食べたらいけないものとかあります?」

「いや、特にない」

「では、私が勝手に決めてしまっても?」

「あぁ、そうしてくれ」



再びメニューに視線を戻したユーリは、人気商品と印の付いたものの中から適当に選ぶことにした。

どれもおいしそうだし、定番のものも多いから、はずれはないだろう。



「じゃあ、ソーセージとチーズ、チキンとハーブのヴァルカを一つずつ下さい」

「はいよ、ちょっと待ってな」



鉄板が立てる音に負けないよう、ユーリは半ば怒鳴るような声で注文する。

注文を受けると、女性はかき混ぜていた生地を、鉄板の上に流し込んだ。

丁寧にかき混ぜられ、空気を含んだ生地は、鉄板に流されるとふわりと膨らむ。

丸く伸ばされた生地の端が、鉄板の熱で瞬く間に固まっていく。

その横で焼かれるソーセージとチキンの芳ばしい匂いと、ハーブの爽やかな香りが食欲を刺激する。

朝はサラダとバゲットという軽いものだったため、随分前からユーリの腹は空腹を訴えていたのだ。

自然と溢れる唾を飲み込み、ヴァルカが焼きあがるのを待った。


ラズフィスは目の前で調理される様が珍しいのか、興味深そうに店員の手元を眺めている。

そうこうしている内に、生地はきれいなきつね色に焼きあがった。

葉物野菜を敷きつめ、チキンやソーセージがのせられる。

それぞれにソースがかけられ、ソーセージのほうには最後にチーズが散らされた。

チーズがとろりと溶け出す頃に、手早く生地が巻かれ包み紙に入れられる。



「はいよ、お待ちどうさま」

「ありがとう。いただきます」



代金を渡して商品を受け取ると、ユーリはラズフィスを伴って露店を離れる。

店先に用意されたテーブルの中で、ちょうど端のほうが空いていたのでそこに席を取った。

包み紙を広げると、焼きたてのヴァルカからほかほかと湯気が立つ。



「お好きな方をどうぞ」



物珍しそうにヴァルカを見ていたラズフィスだったが、少し考えるそぶりを見せた後に片方に手を伸ばす。



「あ、そうそう、あなたが食べる前に一口もらっても良いですか?」

「何だ、両方食べたかったのか?」

「ええ、どちらもおいしそうだったので」



半分にわろうとするラズフィスに、一口で良いと断って、ユーリは端のほうを千切る。

渡されたヴァルカの匂いを嗅ぎ、切り口を暫らく眺めた後に口に放り込む。

どことなく真剣な顔で咀嚼し、小さく頷くとそれを飲み込んだ。



「うん、ありがとうございました」



顔を上げると、何故か不機嫌そうな表情でラズフィスがこちらを見ていた。

先ほどまでそれなりに楽しそうだったが、一体どうしたことだろう。

ユーリが小首を傾げると、ますます苦い顔になる。



「どうかしました?」

「……お前、今のは味見のつもりじゃなかっただろう」



どこか責めるような声色に、ユーリはラズフィスから視線を逸らした。

そこまで態度に出したつもりはなかったのに、どうやら彼は気付いてしまったらしい。



「……ユーリ」

「まぁ、こんな街中でまず無いとは思いますけど、あなたの身に何かあったらまずいでしょう」



王城や宴でもないのだし、ましてや今回の遠征は非公式だ。

国王がこの街に来ていることなど、誰も知らない。

しかも、この店を選んだのはユーリであって、王が立ち寄ると決まっていたわけではない。

毒や薬を仕込む人間など、居るはずもないのだが、彼の身に何かあっては遅いのだ。

それらの恐ろしさを知っている分、どうしても慎重になってしまうのは仕方がない。

大きな溜め息に思わずラズフィスを伺うと、真剣な表情で見つめられた。



「怪我の話の時にも思ったことだが、お前は少し、自分の身も大事にしてくれ」

「でも、私、けっこう頑丈ですし、毒にも耐性あるんですよ」

「それでも、だ」

「……努力します」



ユーリの答えに、まだ納得はしていないようだったが、ラズフィスは小さく息を付くとヴァルカに口をつけた。

彼は噛み千切った瞬間に目を丸めたが、そのまま食事を再開する。

焼きたてのヴァルカは熱かったのか、開いた片手で仰ぐような仕草をしている。

そういうときは息を吹きかけると良いと教えると、少し戸惑うようにしながら実践していた。

暫らくそうして黙々と食べていラズフィスだったが、食事をせずに自分を見つめているユーリに気付き訝しげに眉根を寄せた。



「食べないのか?」

「いえ、食べますけど。どうです、美味しいですか?」

「あぁ、味は悪くない」



王城で出されるヴァルカは、もう少し薄い生地で、四角く広げられた上に副食がのせられている。

それを食器を使って食べるのだが、直接手で食べるというのも新鮮だった。

噛んだ瞬間にソーセージから肉汁が溢れ、濃い目のソースやチーズとほど良く合わさって旨かった。

ただ、思ったよりも熱くて、驚いたくらいか。



「そうですか、良かった。あなたに一度、こういうの食べさせてあげたかったんですよね」

「ヴァルカをか?」

「うーん、別にヴァルカでなくても良かったんです。できたてをすぐに提供してくれるところならどこでも」



相変わらず不思議そうにしているラズフィスに、ユーリは小さく微笑む。



「だって、あなた、できたてのものを熱いうちになんて、食べたことないでしょう?」



料理を冷ます方法も知らなかったくらいですものね、と彼女は笑みを深めた。

確かに、身分ある彼らの前に出される食事というのは、すぐに食べ始めても問題ない温かさまで冷まされている。

しっかりと管理された料理は、温かいと感じても、熱いと思うことはない。

冷ます必要がないから、その方法を知らなくても当然だろう。



「……レカシュに殻があることも知らなかったからな」

「あの時の一生懸命なあなた、可愛いかったですよ」

「悪かったな、可愛げのない人間に育って」



ラズフィスが拗ねたように返すと、ユーリは声を上げて笑った。

笑いながら自分のヴァルカを取った彼女の手を掴み、ラズフィスはそのまま一口噛み千切る。

口の中にハーブの香りと、芳ばしいチキンの匂いが広がった。



「ちょっと、何するんですか!」

「毒見だ」



焦るユーリに嫌味な笑みを返すと、眉根を寄せて睨み返してきた。

王としての立場を考えるなら、慎むべき行為だろう。

だが、自分だって、幼い頃からそれなりに毒には慣らされてきている。

多少のものでは、そうそう倒れることもない。

それに、このヴァルカに毒など入っていないことは分かっている。

だから、これは意趣返しだ。



「……本当に可愛くない」



唸るように呟いて、ユーリはそっぽを向くと黙々とヴァルカを食べ始めた。

思わず笑うと、眉間の皺がますます深くなった。

ここで、お前は逆に可愛くなったな、と言えば更に怒るだろうことは目に見えている。

賢明にもそれは口にせず、ラズフィスは大人しく食事を再開した。








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