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ユーリは朝のまどろみという幸せを噛み締めながら、寝返りをうった。
これが森の家ならば、暗い内から起き出して食事の支度をしたり、畑の手入れをしなければならないが、ここは王城である。
もう少しベッドの中で温もりを感じていても構わないだろう。
「ユーリ様、お目覚めでございますか?」
うとうととし始めたユーリだったが、唐突に他人の声が耳をうち、反射的に飛び起きる。
ユーリが起き上がったのを見て、扉近くに控えていた侍女が近付いてきて、恭しく頭を下げた。
「おはようございます。紅茶の準備が整いますまで、本日のお衣装をお選び下さいませ」
「……いえ、あの、ちょっと待って下さい。どうして急に?」
三着ほどの衣装がクローゼットに掛けられ、ユーリが見やすいようにと広げられている。
その光景を唖然と眺めていたユーリは慌ててそばに控える侍女に声をかけた。
今まで数日間を一応の客として城で過ごしているが、この様な待遇をされたことはない。
食事や、着替えの準備をされることはあっても、こんな風に大々的な感じではなかったはずだ。
「第1魔導師団団長様より、ユーリ様は陛下とクリスティーナ様の恩人であるため、ご不便のないようにと申し付かっております」
あの頃から更に出世し、魔導師の長と王の副官を勤める男の、柔和な笑顔が脳裏を過る。
(カーデュレン殿、なんて余計な気遣いを!)
ユーリは思わず唸り声をあげて、頭を抱えた。
だが、そうして現実から逃避していても何も始まらない。
とにかく、カーデュレンに会ったら、まずこの待遇について改善してもらわなければ。
溜め息をついて顔を上げ、クローゼットに下がる衣装を半目で睨みつける。
「取り合えず、あの一番目立たなそうな、灰色っぽいのでお願いします」
「畏まりました」
起きたばかりだというのに、どっと疲れが押し寄せて、ユーリはがっくりと肩を落とした。
*************
その後は手伝いが必要か否かでひと悶着あったものの、どうにか一人で着替えることができた。
遠くで見た時は灰色に見えた衣装は薄紫の布地で、過度な飾り布やレースもついておらず、その点では好感を持てた。
それに、ハイウェストのドレスは胸の下でベルトを締めるだけなので、コルセットを着ける衣装より楽だ。
しかし、薄く軽い生地の衣装に、なんとも心もとない心地となる。
肌触りの良い生地は、それだけで高価なものであることが知りえた。
恐らく、この一着の値段とユーリの数ヶ月分の生活費が吊り合うかどうかという所だろう。
せめてローブを着ようかと思ったのだが、洗濯に出すからと侍女に持って行かれてしまった。
どこかそわそわと落ち着かない気持ちで茶を飲んでいたユーリだが、来客の知らせを受けて顔を上げる。
そして、来訪した人物の名を聞いて、顔を青くした。
(しまった、色々ありすぎて、すっかり忘れてた)
思わず逃げ出してしまいたくなったが、できるはずもなく、来訪者はいつまでも廊下で待たせてよい人間ではない。
部屋に入れるように声をかけると、入ってきたのは頬を膨らませ、不機嫌な顔をしたクリスティーナだった。
城にいる間はルースとして通すつもりでいたので、彼女には自分の正体について話をしていなかった。
誰かから話を聞いたのだろうクリスティーナとすれば、騙されていた様に感じても不思議ではない。
何と声をかけたら良いのか迷い、ユーリは取りあえず彼女に席を勧めた。
クリスティーナの前にも茶器が準備され、紅茶が注がれる。
それをじっと見下ろしていたクリスティーナは、やがて小さな声で呟いた。
「どうして話してくれなかったの?」
彼女は顔を上げず、こちらを見てはいなかったが、恐らく自分に尋ねているはずだ。
入室してから一度も目が合わない所から見ると、相当に気分を損ねただろうか。
ユーリはクリスティーナの様子に苦笑し、素直に頭を下げた。
「もともと、クリスティーナ様とはルースとして出会いましたので、今更訂正するのも不自然かと思いまして……。混乱させましたこと、申し訳なく思っております」
クリスティーナの視線が自分に向くのを感じ、ユーリはほんの少し緊張する。
罵倒もそれなりに覚悟していたが、彼女はすぐに視線を逸らしたようだった。
「わたくし、ルースの事をけっこう気に入っていたのよ」
暫らくの静寂の後、クリスティーナはぽつりと言葉を漏らす。
顔を上げると、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべるクリスティーナがいた。
「良い友人になれるんじゃないかと思っていたわ」
「……クリスティーナ様」
思わず彼女の名前を呼ぶと、クリスティーナは初めてユーリを見た。
真剣なその表情に、ユーリも姿勢を正す。
「ねぇ、ユーリはルースでもあるんでしょう」
「はい、当然でございます」
「なら、わたくしの友達になってくれる?」
僅かに顔を赤くし、クリスティーナは真っ直ぐユーリに視線を向ける。
組んだ両手は、緊張のためか小さく震えていた。
その様子にユーリは目を丸め、次いで微笑する。
「私で良ければ、喜んで。クリス」
ユーリの言葉に、クリスティーナはほっと息を付き、満面の笑みを浮かべた。
彼女とルースが同一人物であることは、兄やカーデュレンに聞いていたが、雰囲気すら異なるユーリを前に不安だったのも事実だ。
一気に和やかな空気となり、そのまま場はお茶会へとなだれ込んだ。
*************
茶会の席は様々な話で盛り上がったが、ルースの話から始まったためか、自然と監禁時の話題が多かった。
その中で、クリスティーナはルースが少年であるとばかり思っていたと言っていた。
女だと分かっていれば、しなくて良い苦労もたくさんあったのにと悔しげに見つめてくる彼女に、ユーリは苦笑を返した。
自分としては、ルースの時は少年をイメージしているので、その点では上手くいっていたと言える。
だが、確かにクリスティーナにしてみれば、色々と不便だったこともあっただろう。
そもそも、深窓の姫君である彼女が、男と二人きりでいること自体が異例なのだ。
戸惑いや、不安、羞恥など様々な苦痛を感じていたはずだ。
当時のクリスティーナの心情を思うと、頭を下げざるを得なかった。
一時ほどそうして話をしていた二人だったが、クリスティーナが実は歴史の勉強の時間を抜け出してきたことが発覚した。
どうりで、今回の訪問時に供を連れていなかったわけだ。
また後日会う約束を取り付け、クリスティーナを部屋まで送るよう侍女に伝える。
侍女は快く仕事を請けると、クリスティーナを連れて客室を出て行った。
その後姿を見送り、彼女達が見えなくなると、ユーリは大きく息を吐いてソファーに身を沈めた。
仕事をきっちりとこなしてくれる侍女には悪いが、常に他人と言って差し支えのない人が室内に居るというのは慣れない。
さらには、その人間が必要以上に自分に気を使ってくるのだ。
個人的には、今までの監視という視線の方が、よほど気楽だった。
ほんの少しの時間で良いので、一人で居る時間が欲しかったのだ。
随分と久しぶりな気のする、一人きりの時間を満喫していたユーリだったが、いくらもしない内に来訪が告げられた。
侍女が帰ってくるにしては随分と早すぎる時間に、彼女は訝しげに眉を顰めた。
扉から再度聞こえてきた兵士の声に、ユーリは仕方なく中へ通すよう答えを返す。
中に入ってきた人物を認め、彼女は思わず半目になった。
そんなユーリの様子を見て、ラズフィスは苦笑を漏らす。
取りあえず席を立ち、ユーリは深々と頭を下げた。
「まさか、本当にいらっしゃるとは思いもしませんでした」
いつまでも王を立たせておくわけにもいかず、ユーリは先ほどまでクリスティーナが座っていた席を勧める。
ラズフィスが席に着く前に、カップを片付け新しい物を準備する。
「侍女の方にはクリスティーナ様を送っていただいてますから、お茶は素人の私が淹れたものしか出せませんよ」
「ああ、それで構わない」
丁度、紅茶を淹れなおそうと思っていたため、蒸らしまでは済んでいた。
時間を確認し、ラズフィスの前に準備したカップに茶を注ぐ。
次いで己のカップにも注ぎ終えると、ポットを脇に置いて自分の席に座る。
濃い琥珀色をした紅茶は、以前、クリスティーナが分けてくれたものだ。
一口含むと、ススリの香りが広がる。
カップから口を離すと、自然と吐息が漏れた。
そこで、ふと目の前の人物が妙に静かなことに気付き、顔を上げる。
「何ですか、人の顔をじっと見つめて」
「いや、何と言うか、前と随分雰囲気が変わったな」
まじまじと自分を見つめるラズフィスに、ユーリは胡乱げな視線を向けた。
彼女の態度に小さく笑うと、ラズフィスはカップを持ち上げ、一旦紅茶の香りを楽しんでからカップを傾けた。
柔らかな金糸が、日の光りを浴びてキラキラと輝く。
王族としての洗練された仕草もあるが、造作の整った人間がすると、紅茶を飲む姿一つとっても絵になるようだ。
理不尽さを感じながら、ユーリはカップの中身を飲み干した。
「そりゃあ、王族を前にしたら、普通、誰もが猫の1匹や2匹被りますよ」
「なら、何故急に猫を被るのを止めたんだ?」
ラズフィスの問いに、ユーリは眉根を寄せる。
「許可も得ずに、勝手に自分の行動を監視するような人間に、敬意を払う必要がありますか?」
「まぁ、ないだろうな」
一瞬目を丸くし、次いでラズフィスは笑い出した。
かつてのように声を上げる笑い方ではないが、心底可笑しいという風に喉を鳴らしている。
ユーリはそんな彼を睨め付け、不機嫌そうな声を出した。
「何を笑ってるんです。分かってるとは思いますけど、あなたのことですからね」
「いや、以前のお前も嫌いじゃないが、今のお前は面白いと思ってな」
「何ですか、それ。意味が分からないんですけど」
呆れたように言い放つと、彼は再び笑みを深めた。
暫らくそうして茶を飲み、他愛のない話をしていたラズフィスだったが、時刻を告げる鐘の音を耳にし立ち上がる。
そろそろ執務室に戻らなければ、カーデュレンに小言を言われるのだとか。
どうやら、彼もこっそりと抜け出してきたようで、ユーリはさすが兄妹だと溜め息をついて肩を落とした。
「では、そろそろ帰ることにする。邪魔をしたな」
「ちょっと、待ってください」
踵を返し、出て行こうとするラズフィスを呼び止める。
彼は立ち止まって振り返ると、不思議そうに片眉を上げた。
「何だ?」
「何だじゃありませんよ、これ、外してください」
「……あぁ」
自分の右腕に付いた金の腕輪を見せると、ラズフィスはそっと視線を外す。
そんな彼の様子に、ユーリの口元が引き攣った。
「まさか、忘れたわけじゃありませんよね。昨日、自分で言ってたじゃないですか」
「いいや、来るとは言ったが、外すとは言っていない」
「な、……屁理屈!」
子供ような言い訳に、ユーリはラズフィスを睨んだ。
ラズフィスは若干気まずげな表情をして、口元を片手で覆う。
じっとりと見つめ続けていると、やがて彼は観念したのか小さく溜め息を付いた。
「あー、その腕輪なんだが、暫らく外せそうになくてな。すまない」
「……どういう事ですか?」
「いや、まぁ、色々と事情があってな」
「色々って何です」
追求の手を止めずに質問を返すと、ラズフィスは完全にあらぬ方向を向いてしまった。
何か後ろめたいことでもあるのだろうかと勘繰るが、彼の耳が僅かに赤いことに気付いて首を傾げる。
恥ずかしがるようなやり取りは、別段なかったと思うのだが。
まさか外し方が分からないとか、そんな落ちではないと信じている。
疑り深い眼差しを送っていたユーリだったが、やがて息を吐いて立ち上がった。
「……まぁ、深くは追求しないであげますけど、ちゃんと外してもらえるんでしょうね」
「あぁ、いずれは必ず外す」
「本当ですね、約束ですよ」
今度こそ、見送るために扉の近くまで歩み寄ったユーリだったが、出て行く気配のないラズフィスを不思議そうに見上げた。
ラズフィスは、一転して真剣な表情をすると、静かにユーリの名を呼んだ。
「ユーリ」
「何ですか」
「これは、夢ではないのだろう?」
不安に揺れる新緑には、呆けたような自分の姿が映っている。
暫しそれを見つめていたユーリは、やがて心の中で苦笑いする。
本当に、自分はこの眼差しに弱い。
諦めたように息を吐き、ユーリは満面の笑みを貼り付ける。
「えぇ、残念ながら、現実でございますよ。陛下」
ユーリの皮肉交じりの言葉に、ラズフィスは何故か安堵したような笑みを浮かべた。
 




