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自分が知らない場所に居るという事実に、クリスティーナは大いに混乱していた。
確か自分は、街に出たいという希望を周りの人間に却下され、それに不満を覚えてこっそり抜け出してきたのだ。
衣装を借りた侍女は半泣きで止めていたが、自分の言い分を聞いてくれない周りが悪いのだ。
(ああ、違う。そうじゃないわ、そんなことではなくて……)
混乱する頭を必死に働かせ、クリスティーナは街に出た後のことを思い出す。
どうにか見つからずに抜け出し、暫らく通りの店を冷やかして歩いた。
初めて聞く話や、初めて見るもの、書物の中だけでしか知らなかったことに目を輝かせていた彼女は、突然話しかけられて驚いた。
自分に見せたいものがあるという男について、路地裏に入った途端、急に口と鼻が何かに覆われた。
振り払う間もなく意識が遠のき、気付けば薄暗い室内で横になっていたのだ。
(ここはどこなの? わたくしは一体……)
室内に視線を巡らせていたクリスティーナだったが、ふと部屋の暗がりに視線を向けた瞬間、咄嗟に口を押さえて何とか悲鳴を飲みこむ。
自分一人だとばかり思っていた室内に、人影を見つけたからだ。
恐る恐るそちらを見ると、それはローブを纏った人間だった。
その人物は、部屋の隅に座り込み、壁に背を預けている。
片足を投げ出し、立てた膝の方に頬杖を付いて微動だにしない。
徐々に視線を上げていったクリスティーナは、今度こそ口から小さな悲鳴を漏らした。
ローブから僅かに覗くその人物の顔は、上半分が不気味な銀色の面で覆われている。
それが月明かりに照らされ、鈍く光っていた。
人間味を感じない硬質な雰囲気に、クリスティーナは羽織っていた布団をかき抱く。
逃げ出そうにもここがどこだか分からず、震える足は言うことを聞いてくれない。
彼女がじりじりと後ずさっていると、仮面の人物の肩が動き、次いでゆっくりと顔が上げられる。
仮面の奥に潜む黒曜が、クリスティーナを捕らえた。
何をされるかと戦々恐々としていたクリスティーナだったが、仮面の人物は瞬きを繰り返すだけで動きも喋りもしなかった。
次第に落ち着きを取り戻した彼女は、その人に話しかけようとして口を噤む。
声を発した瞬間に襲われたらと思うと怖かったし、そもそも何と話しかけてよいのか分からなかったのだ。
深呼吸をして気持ちを落ち着けると、クリスティーナは目の前の人物を半ば睨みつける勢いで見つめる。
仮面の人物は寸分たがわぬ姿勢でそこにおり、彼女を見つめていた。
「あなた、だれ?」
部屋に響いた声は、自分のものとは思えぬほど弱々しいものだった。
*************
仮面の人物は、己の名をルースと名乗った。
クリスティーナは自分の名前を口に乗せようとして、少し迷いクリスとだけ伝える。
何の感慨もなく頷き、ルースは話は終わったとばかりに口を噤む。
そして、腕を組んで俯き、瞼を閉じてしまった。
何か情報が得られるのではないかと期待していたクリスティーナは、拍子抜けして肩を落とした。
部屋の中には静寂が訪れ、自分とルースの息遣いが聞こえるだけだ。
時折、遠くから狂ったような女の悲鳴が聞こえ、クリスティーナは体を震わせた。
黙っていると、闇に飲み込まれてしまいそうで、彼女はルースに話しかける。
不気味な面を着けた正体不明の人物ではあるが、一人きりでいるよりはましだ。
「ねえ、ここは一体どこなのかしら」
「……さあね、知らない」
「あなたはここの人間ではないの?」
「気色悪いこと言わないでくれない。僕はあんたに薬を作るために連れてこられただけだよ」
「薬って……、何のこと?」
ルースは面倒くさそうに息をつき、己の懐を探る。
皮の袋を取り出すと、戸惑うクリスティーナにそれを投げてよこした。
受け取った中を確認すると、薬包紙に包まれた白い粉が幾つか確認できる。
「これは?」
「熱冷ましと、炎症を抑える薬」
クリスティーナはその中の一つを取り出し、まじまじと見つめた。
ルースは自分の薬を作るために、ここに居るという。
ならば、ルースが投げてよこしたこれは、件の薬なのだろう。
別段、体調の悪い気がしないクリスティーナは、あまり実感が持てず首を傾げる。
「あんた、熱で死にそうなほど弱ってたんだよ」
「わたくしが……」
「こんなに早く効くなんて、お嬢様のわりに案外図太いね」
馬鹿にした様に鼻を鳴らすルースに、クリスティーナは憤慨して睨みつける。
弱った女の子に優しくできないとは、なんて失礼な人だろうか。
そもそも彼女の周りに、そんな口を利く人間はいなかった。
ルースは頬を膨らませるクリスティーナを一瞥して目を閉じる。
「とにかく、もう寝たら。薬のせいで熱下がってるんだろうし、無理して倒れても知らないよ」
「あなたに言われなくたって分かってるわ」
頭に血が上ったまま、クリスティーナはルースに背を向け、横になると毛布を被った。
だが、徐々に熱が冷めてくると、途端に恐怖がムクムクと頭をもたげた。
一人で横になっていることが、酷く心細く思えてくる。
ちらりと後ろを振り返ると、ルースはその場から微動だにせず蹲っていた。
眠っているのかとも思ったが、クリスティーナは小さく声をかける。
「ねぇ、あなた、毛布も被らないで寒くないの?」
何かしらの返答を期待していたのだが、ルースは何も話さなかった。
本当に、眠ってしまったのだろうか。
実はまだ起きているのではないかと思っていた分、落胆も大きい。
肩を落として、クリスティーナは再び横になった。
取り合えず目を瞑ってみたものの、寒さと心細さですっかり目が冴えてしまい眠れる自信がなかった。
「……確かに、少し肌寒いかもね」
ポツリと囁かれた言葉に、クリスティーナは勢いよく身を起こす。
ルースは顔を上げていなかったが、確かに言葉を発したはずだ。
それに勇気を得て、クリスティーナは毛布を掴んでルースに近づいた。
「半分、貸してあげましょうか。隣に座っても?」
緊張のために、声が少し震えている。
こんな風に、自分から他人に近づくような言葉をかけるなんて、教育係りが聞いたら眉を顰めるだろう。
しかも、こんな失礼な、正体も分からないような人間の側で寝ようとしてると知ったら、あの教育係は卒倒するかもしれない。
でも、クリスティーナだって背に腹は変えられないのだ。
ルースの言うように、本当に熱を出していたのだとしたら、休息が一番の薬となる。
彼女の言葉に、ルースは僅かに顔を上げクリスティーナを一瞥する。
だが、直ぐに目を閉じ、大きな溜め息をついた。
「……好きにすれば」
パッと顔を輝かせ、クリスティーナはルースの隣に腰掛ける。
毛布で二人の体を包み、ルースがしているように壁に背を預けた。
しかし、ふかふかのベッドでしか眠ったことのない彼女は、なかなか体制が整わない。
何度か座りなおしてみたがしっくりとせず、不満げに顔を歪める。
隣を仰ぐと、ルースはすでに眠ってしまったようだ。
規則正しく肩が上下し、寝息が聞こえる。
自分がこんなにも苦労しているというのに、なんて酷い人だろう。
暫らく恨めしげにルースを見ていたクリスティーナだったが、ふとあることを思い付いた。
そっとルースの顔を覗き込み、目を覚まさないことを確認する。
そして、慎重にその肩に頭を預けた。
思っていたよりも心地よく、クリスティーナは満足げな息を吐く。
触れた部分から伝わってくる熱は、硬質なルースの雰囲気とは逆にとても暖かい。
ゆっくりと近づいてきた眠気に、彼女は静かに目を閉じた。
*************
やがて響いてきた寝息に、ルースは目を開いた。
己の肩を見下ろし、少女の顔を一瞥する。
彼女は小さく息を呑み、時折うなされている様だった。
やがて、閉じられた瞼の端から、一筋の涙がこぼれる。
「……お兄様」
目を覚ましてからの彼女は、気丈に振舞っていた。
だが、訳も分からず知らない場所につれてこられ、不安でないはずがない。
眠ってしまったことで、箍が緩んだのだろう。
寒さのためか、クリスティーナの体が小さく震える。
ルースは毛布をかけなおしてやり、天井の小窓へ視線を向けた。
暫らくそうして月の光りを眺め、やがて俯き目を閉じた。




