言葉を取り戻した彼と私
彼は永遠亭の部屋の片隅に濁りかけた目を畳に落としてうずくまっていた。
私が近づくと、ゆっくりとこちらを見た。その瞳は焦点が合っておらず、どこか、ここではない遠くを見ているように感じられた。ノーマ君は壊れかけているのだろうか。それに、自分を見失っているようにみえる。 私は不安になった。
「大丈夫?」
声をかけても、無反応。私の方を見続けたまま。体育座りをした状態でピクリとも動かない。
「返事はしなくていいよ。頷くか首を振るかだけでもして。全部、思い出しちゃったの?」
その質問は、わかる人にしかわからないものだった。実際に経験してみればわかる。醜悪な記憶っていうのは思い出してしまえば毒のように心を蝕む。何度も何度も繰り返し、リピート再生して、まるで自殺するよう誘導するかのように自我を削ってくる。
「……」
ノーマ君は頷いた。私は彼の隣に腰を下ろした。目を閉じて、彼の表には出ない反応を探ろうしてみる。
「みんな、慰めてくれた?」
頷くのを感じた。でも、なんだか納得していないみたいだった。かすかな敵意を感じる。
「最初だけ?」
これにも、彼は頷いた。つまり、最初にノーマ君を慰めたあと、それっきりだということだ。つまり、きっと、私に嫉妬してるんだ。皆に守ってもらってる私に。
「ごめんね、ノーマ君。辛いよね。苦しいよね。大丈夫、もう大丈夫だよ、ノーマ君」
「……」
彼が首を振るのがわかった。どういうことだろう。わからなくて、目を開けて見る。すると、彼の瞳から透明な雫がこぼれていた。私の記憶する限り初めて見る、彼の涙だった。でも、なぜ涙を流したのかまるでわからなかった。
「私ね、君と仲良くなりたい。だって、前の私はすっかり忘れてたけど、私と君は、同じ痛みを分かち合うことができるんだよ。ね?」
肩を抱き寄せた。彼の体は緊張で固くなっていた。きっと、記憶と戦うので精一杯なのだろう。
私がノーマ君のことを気に掛けたのは、ついさっき。ノーマ君と話したり触れ合ったりした記憶がないから気になっただけ。けど、今は後悔している。どうして気付いてあげられなかったんだろう。言葉が使えなくても、表情が変わらなくても、ノーマ君は私と同じことを感じたはずなのに。辛くないはずがないのに。
なぜ、私が彼のことを気に掛けなかったか。それは、平和になってはじめてここに来たとき、彼が笑っていたからだろう。でも、今彼は暗い顔をしている。それは、きっと。
「忘れてたんだよね?」
驚いたように彼の動きが止まって、それから、何度も頷いた。そうか。彼も私と同じで忘れることで壊れることを拒否したんだ。でも、ふとしたきっかけで記憶の蓋がずれて、全部思い出してしまった。それで、こんなにも苦しんでる。私と違って苦痛を分け合う人格があるわけでもないから、ずっとずっと苦しんでいたんだ。
「大丈夫。いつか、いつかきっと大丈夫になるから。復讐すれば、きっと」
それは自分に言い聞かせるような言い方だった。
「ね? 大丈夫だよ?」
「……ぁ」
小さく、声が聞こえた。私は、ノーマ君の口元に耳を近づける。
「……ぼく、は」
聞こえる。ちゃんと、彼の言葉が聞こえる。
「僕は、望、だよ」
彼が動いた。私の肩をしっかりと抱きしめ返した。震えているのは、彼か私か。それはわからなかったけど、そんなことはどうでもよかった。
「……僕は望。戸神望」
その声は、トーンが変だった。初めて聞いた彼の声。声帯の震わせ方を忘れていて、今思い出したかのような、そんな不安定で頼りない声だった。
「伝えなきゃ、って……思った」
たどたどしいけど、確かな意思を感じた。
「君だって、震えてる。伝えなきゃ、って思ったんだ」
指摘されて、目頭が熱くなった。
「朝と、夜と、今の君。一番周りが怖くて、一番震えてて、一番苦しそうなのは、今の君……だと、思ったから」
私は思わず涙を流しそうになるのを、ぐっと堪えた。私は涙脆くなんてないんだ。ちょっとこんな言葉をかけてもらえたくらいで……。
「うっ、うっ……」
泣く声が、聞こえた。涙を堪えた私に構わず、ノーマ、じゃない、望君が泣いていた。私に縋り付くようにしてもたれかかって、私に感情の全てをさらけ出している。
「……望、君?」
「僕は、僕はね! 痛かった! やめて欲しかった! でも、でも叫んだらもっと酷い事をされたんだ! もう叫ぶのも声を出すのも息をするのも嫌だったんだ! でも、僕はいつまで経っても死ななくて! わかってたけど、こんなにも死ねないっていうのが苦しいなんて思わなかった! だから僕は、僕は!」
涙と、嗚咽と、心からの叫び。それらに私は戸惑っていた。ここまでの気持ちを吐露されたのは、初めての経験だったから。憎しみ、怒り、悲しみ、恐れ、戸惑い、不安。それら全ての感情をひっくるめたような彼に、私はただ呆然と話を聞いてあげる事しかできない。
「どうして、どうして僕があんな目に遭わなきゃいけなかったの? 僕が何か悪い事をしたの? うっ、うっ……」
それから、さめざめとまるで女の子のように望君は泣きじゃくった。
私の胸のうちに、彼に対する羨望が生まれた。だって、だって私は。
「ミオ」
ゆっくりと、輝夜と永琳がやって来た。アリスと魔理沙、それにエイキの姿は無かった。下にまだいるのかな。……パパを拷問にでもかけているのだろうか。そんなことあるわけがない、とわかっているけど、そんな想像をついしてしまう。
「ノーマは、言葉を取り戻したのね」
「うん。ねぇ、永琳、輝夜。なんで望君に構ってあげなかったの?」
私は微かな怒りを二人に向けた。
「……対処のしようがなかったの。急に落ち込んだりしたから、どう扱っていけばいいのかわからなくて……」
それは本当のことなんだろうか。望君が私以上に感情や反応をコロコロ変えていたということはないはずだ。だからこそ、みんな気付かなかった。
「私の方が重症だからって、望君をないがしろにしたの?」
少しずるくて、卑怯な言い方だとわかっている。もし、そうだとしたら、悪いのは私だということになる。私が人格を分離なんてさせるから。だから、望君に救いの手が差し伸べられなかったんだ。
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
輝夜は、ゆっくりと頭を下げた。
「いいよ」
謝らないで。悪いのは私なんだから。そう言おうとしたところで、望君は目を拭った。次に彼が見せたのは、少しだけ決意の色を見せた男の子の目だった。
「今までありがとう、輝夜。永琳。僕はもう大丈夫。みんなが守ってくれたおかげで、みんながそっとしておいてくれたおかげで、僕はやっと自分を取り戻したんだ」
少しだけ、違和感を感じた。この子は、六歳前後のはずだ。こうも多彩に言葉を扱えるものなのだろうか?
「ずっと言えなかったことがあるんだ。僕は戸神望。僕は、不老不死で、もう十年生きてるんだ」
私は、驚きすぎて声も上げれなかった。四つも年下だと思っていた彼が、同い年?
「今まで言えなくて、ごめんなさい」
彼は深く頭を下げた。
それから、私の方を向いて、床に手をついた。
「え? 何してるの、望君?」
戸惑う私をよそに、彼は深く深く、額を床に擦り付けた。
「ごめん。あの時、君の手を振り払ってしまった。僕が、弱虫だったから本当にごめん、ミオちゃん」
彼があの時のことを振り返って謝っているということを、私はようやく理解した。
「今更謝んないでよ、過ぎたことだしね」
二ヒヒ、と私はひらひらと手を振って笑った。今でもあの時のこと思い出したら気が重くなるし、全部ぶり返りそうになるけど、それでもこんな風に返したのは、強がり。だって私は、大元なんだから。みんなに『澪はもう大丈夫』って思ってもらわなきゃいけないの。あの時の事なんて笑って許せるぐらい強くなったって思ってもらわないとダメなの。
「ミオちゃん……。ありがとう」
そう言って彼は柔らかく微笑んだ。鉄面皮だったころの印象が強かったせいであまり意識していなかったけど、望君、笑ったら結構可愛らしい。
「もう大丈夫だね、望君。大丈夫じゃなくても、周りの人を頼るんだよ?」
お姉さんめかして私は彼の額を指で押した。驚いたように彼は仰け反ると、額を抑えてはずかしそうに顔を赤らめた。
「こ、子供扱いしないでよ。僕とミオちゃんは同い年なんだよ?」
「ふふ、ごめんね。じゃ、ちょっとパパのところ行ってくるね」
心配事はもう解消した。だから、あとはゆっくりと復讐を楽しむ時間だ。どうやっていたぶってやろうかな。あ、そうだ。復讐する相手はパパだけじゃないや。キアもそうだし、まだ生きてる解放団もいっぱいいる。そいつら全員に、復讐するんだ。
奴らの汚れた血が早く見たい。
私は薄く微笑むと、輝夜と永琳の間を縫ってパパのいる地下室へと向かう。
「輝夜。望君をお願い。私の友達なの。優しくしてあげて」
「それは、そのつもりだけど。あなたは、一体誰? 昼のミオとも、夜のミオとも違う」
少しだけ、悲しくなった。私だって、というか私こそが澪なのに、輝夜がそれを信じてくれないなんて。
「私は私だよ、輝夜。幻想郷の皆が大好きな、ミオ・マーガトロイドだよ」
にっこりと微笑むと、それ以上の会話を避けるため足を早めた。部屋を出て廊下を歩く。永琳と輝夜が駆け出す音が聞こえた。きっと、望君に駆け寄ったんだろう。
やっぱり、二人は優しいな。だから、好き。