人格と私
目が覚めると、マリサの腕の中で眠っていた。狭いソファに二人で抱き合う格好で眠っていた。
な、何があったの?
私は心臓をバクバクさせながらマリサの腕から逃れようとする。体を離したところで、きゅっと抱きしめられ、マリサの胸に顔が埋まる。
「え、え……?」
心臓がドキドキしすぎて、ぐにゃぐにゃになりそうだった。
「ま、マリサ」
この気持ちはまるで、まるで……。
ドキドキと高鳴る胸を抑えて、私は目を閉じる。マリサを見ていると動悸みたいな激しい鼓動が収まらないような気がしたのだ。
それにしても、なんで私こんな気持ちになってるの? 私女の子で、マリサだって女の子なのに。
「……んあ?」
パチリ、とスイッチが入ったみたいにマリサが目を開けた。顔を私の方に向けて、にっこりと笑った。
「おはよミオ。今日は永遠亭行こうぜ」
「え? うん」
断るつもりはなかった。おかしい。今の私はおかしい。なぜか物凄くマリサと一緒にいたい。
昨日までこんなこと思っていなかったのに、どうして? 何があったの?
「おっし。じゃ、行くか」
マリサは魔法で服を着替えると、外に出て箒にまたがった。女の子座りというのがまた愛らしくて、男っぽいマリサの数少ない女の子らしさのように思えた。こんなこと思ったら失礼なんだろうけど。
マリサは私の手を掴むと、一息で箒の後ろへと私を引っ張りあげた。私もマリサと同じように、女の子座り。マリサとおそろいというが、妙にうれしかった。
「ねえ、マリサ、私もマリサみたいな服が着たい」
私の中にある妙な気持ちには全く気付かず、マリサは頷いた。
「いいぜー。ほら」
しゅんと魔法陣が私の頭のてっぺんから足先まで通り抜けた。そうすると、私の服はマリサが着ているような白黒エプロンドレスに大きな魔女帽子という格好に変化していた。
「おそろいだね」
「ああ。じゃ、捕まってろよ」
マリサの言うとおりに彼女の細い腰に抱きつく。次の瞬間、私は強い風を感じて目を閉じた。目を開けると、幻想郷が一望できるほどの高い空にいた。
「……すごい」
「だろ? あたし、ここからの景色結構お気になんだ。ま、ここでゆっくりもできないし、急ぐぜ」
びゅん、と物凄い早さでマリサは箒を操作し、あっという間に永遠亭についた。庭に降りると、すでにエイリンが待ち構えるようにして立っていた。彼女の両手は、後ろに回されていて見えない。
「おはよう、エイリン」
「ええ」
私が箒を降りながら挨拶すると、エイリンが後ろに隠していた手をこちらに見せてきた。その手には、アリスお姉ちゃんのお人形。
「あ」
「忘れ物よ。大切なものなんでしょ? 神社から届いたわ」
それは、家族からもらった大切なお人形。どうして、置いてきちゃったんだろう。その人形は悲しそうに見えた。持ち主である私に見捨てられたのだから、当たり前か。
「ごめんね」
エイリンから人形を受け取ると、人形の頭を撫でてあげる。
名前、つけてあげようかな。そんなことを自然に思った。名前をつけるということは、大切にするということだろうから。
「……エイリン、この子、リュカっていうの」
「リュカ?」
私は頷いた。パッと頭に思い浮かんだ名前。特に意味なんてないけれど、私はこの名前を忘れない。
「そう。大事にしてあげてね」
「うん」
私は青空を見る。きっと、私が見ているものをリュカも見ている。
だから、リュカには綺麗なものを見せてあげよう。人形だってことはわかってる。けど、それでも。
「……その、それで、ミオ。話があるのだけど」
エイリンがひどく言いにくそうにそう切り出してきた。
「永琳、ここでするのか?」
マリサが訝しげに聞いた。エイリンは頷く。
「なら、あたしは席を外させてもらうぜ」
「……お願いしてもいいかしら」
「ダメっ!」
私は何も考えずにそう叫んでいた。二人とも、キョトンとした表情のまま黙っている。
「……マリサは、いいの」
私の言葉を聞いて、二人は目配せをした。それから、エイリンが肩をすくませた。
「わかったわ。後悔しないでね」
「うん」
エイリンは芝生の庭に座り込んだ。服が汚れることなんて少しも気にしていないようだった。
私もエイリンに倣って腰を下ろす。正座で座ると、エプロンドレスがふわりと広がって、とても綺麗。
「さて、何から話しましょうか。あなた、夜の記憶はある?」
首を傾げる。
「ある……けど、曖昧。勘違いだって言われたら信じちゃいそうなくらいあやふや」
そう、とエイリンは頷いた。
「じゃあ、言うわね。あなたは、多重人格よ」
すぐには、理解できなかった。
というより、いきなりすぎて驚いた。多重人格? 私が?
「多重人格って、本当にあるの?だって、ほら、人格が変わるなんて……」
ありえない。だって、人は一つの人格しかなくて。というかそもそも私、夜の記憶もあるし、寝不足ってわけでもないし。もし多重人格だというのなら、私の他の人格は一体いつ行動しているというのだろう。
「……あるわ」
そこまで言って、エイリンはしまった、という顔をした。マリサと顔を見合わせる。
「……この子に多重人格の事を理解させるには、あの事を話さないと」
「そりゃマズったな。どうする?」
何? あの事? 何の事かまったくわからない。そういえば、アリスお姉ちゃんも様子が変だった。まるで、私が脆くて儚いような扱い方をした。それだけじゃない。神様だっていきなり私を眠らせたりした。もしかして、みんな私に何か隠してる? なんで隠してるの?
「エイリン、何か隠してる?」
「え、いえ?」
虚を突かれたような、不自然な反応。間違いない。何かがある。それも、私のことで。
「……カグヤも、隠してるでしょ。アリスお姉ちゃんも。かなこ様やすわこ様やサナエや美沙お姉ちゃんまでも! みんなみんな、私に隠し事してる!」
「そ、それはあなたが大切だから」
戸惑うようにエイリンは言って、私の頭に手を伸ばした。私はその手を振り払う。
「ごまかさないで! 私のことなんでしょ? なんで私が知ったらダメなの!?」
私は詰め寄るようにしてエイリンに訊いた。エイリンはまるで咎められた子供のように視線を右往左往させるだけだった。
「そりゃ、お前にゃ早いからだ」
答えをくれたのは、マリサだった。私は振り向いてマリサの方を見る。マリサは腕組みをして、悲しそうに私のことを見ていた。
「私のことなんだよ?」
「それでも早い。だからお前は忘れてるんじゃねぇか」
「……忘れ……?」
全てを忘れた。その言葉は、レイムにも言われたこと。私は、何を忘れたのだろう。今更ながらに、疑問が湧いた。
「そうだよ。お前は悪い奴に記憶が飛ぶほど酷い事をされたんだ」
「酷い事って、何?」
私の言葉に、マリサとエイリンは顔を背けた。なんでそんな反応をするの?
「……もう言っちまおうぜ、永琳」
しばらくして、マリサがそんなことを言った。エイリンが訝しげな顔をする。
「本気なの? みんなで決めた取り決めなのに……」
マリサは肩を竦めて鼻で笑った。
「はっ! その取り決めが今の澪を苦しめてんじゃねえか。別に委細詳しく言うわけじゃねぇよ。必要なことを、必要な分だけ教えるだけだよ」
エイリンはマリサの意見に賛成できないらしく、立ち上がって彼女に詰め寄った。
「あなた、この子にはまだ早いって言ったばかりよね?」
「悪ィな、前言撤回だ。これ以上隠したら本気で澪はあたしらを信用しなくなる。そうなったら意味がないのは、永琳ならわかんだろ?」
エイリンはぐっと言葉を詰まらせた。マリサの言うとおり。でも、私はみんなを信じていたい。こんな暗いモヤモヤをいつまでも感じていたくない。
「……でも」
「澪、レイムに事の顛末を聞かされたときのこと、覚えてるか?」
言い淀むエイリンにはかまわず、マリサは私に話しかけてきた。
私は頷いた。
「魔理沙!」
「いつか言わなきゃいけねぇんだよ」
「でも、今言わなくてもいいじゃない!」
マリサはエイリンを突き飛ばした。抵抗らしい抵抗もせず、エイリンは尻餅をついた。芝生にお尻をつけたまま、彼女はマリサを見上げる。
「らしくねぇな。アリスも、お前も。澪に引け目があんのはわかるが、だからって澪をダメにするわけにゃいかねえだろ」
「……もうあんなミオを見たくないの」
「見たくない、ねぇ。あたしだって見たくないぜ」
「だったら!」
マリサは少し怒ったような表情を作った。
「見たくないから教えない、っては筋が通らねえだろ。そりゃ、この年の子供にゃつぶれちまうほど重いことだけどよ。だからってこのまま黙ってるわけにもいかねぇだろ。いつか言わなきゃいけないし、今言わなきゃ多分、澪はもう二度と知ろうとしねえぜ?」
な? とマリサは同意を求めるように私を見た。
「わ、私、は……」
「お互い余計な御託はなしにしようぜ」
マリサは私の前に座ると、帽子をとって芝生の上に置いた。
「自分に何があったのか知りたいか?」
マリサは、何も前置きをしなかった。ただ、同意を求めただけ。きっと、物凄く辛いことなんだと思う。物凄く苦しいことなんだと思う。でも、私は。
「……知りたい」
違和感を違和感のままにしておきたくない。私が答えると、マリサは小さく呟いた。
「そうか」
マリサはゆっくりと息を吐いた。エイリンは事のなりゆきを見守るつもりらしく、私たちの様子を観察している。
「解放団は、覚えてるか?」
「ぼんやりとだけ」
そうか、とマリサは悲しそうに言った。
「ゆっくりと、だがかくじつにお前は全部を忘れようとしている。奴らのことをぼんやりとしか覚えてない外来人なんていねぇよ」
「私は、あんまり覚えてないよ」
「そうだな。でも、本当は覚えてる。本当は、奥底まで刻まれている」
おもむろに、マリサが人差し指を私の心臓の位置に置いた。
「お前は、何度も攫われて、その度に傷つけられた。それこそ、狂うほどにな」
その事実は、わずかな衝撃を持って私にもたらされた。けれど、マリサを止めるようなことはしない。私が知りたいと思ったことなのだ。
「あたしだって、お前が虐められた現場を見て何度も泣いた。お前は、人間が経験するべきでないことを、経験したんだよ。だから、忘れることでお前自身を守ってるんだ」
忘れることで、私を守ってる。その言葉が嘘だとは思えなかった。
「皆がお前を過保護にするのはな、お前が解放団と戦って帰ってきたとき、一週間ほど……」
「魔理沙!」
エイリンが慌てた様子でマリサを止めようと声を上げた。
「お前は、一週間ほど現実と記憶の境界線が曖昧な状態に陥ってたんだよ。その間、錯乱することもあったから、みんな心配するんだよ」
エイリンが、脱力したように項垂れた。
「錯乱?」
言葉の意味はわかるけれど、自分がそんな状態になっただなんて、すぐには信じることができない。
「そ。もう終わったことを頭ん中で繰り返して、それで長いこと苦しんでたんだよ」
「そうなんだ」
そんな言葉で終わらせれるほど、マリサの語った真実は実感がなかった。まるで、物語の結末や展開を聞かされているような、そんな気分になった。
「エイリン、全部本当のこと?」
確認するようにエイリンに聞く。
「……ええ。本当のことよ」
確信は得たけれど、まだ実感が湧かない。私が解放団という組織に攫われて、痛めつけられて、それでおかしくなった? まるで覚えがない。いや、覚えていたら、私は壊れてしまうのか。
それにしても……。マリサやアリスお姉ちゃん、エイリンやみんなが必死に隠すからどんな事があったのだろうと思っていたら、そんなことだったのか。
なんだか、拍子抜けしたような気分だった。攫われて危機に陥るなんて外の世界でも何度も遭った。
皆が戸惑ったり必死になったのはきっと、私みたいに危険に慣れていないからだ。
「みんな、過剰反応しすぎだよ」
私は務めて声色を明るくして言った。マリサとエイリンがぎょっとした風に私を見た。
「……な、何言ってんだよ。お前、攫われたんだぞ? 三度もだ。あたしらが心配するのが過剰反応? 本気で言ってんのか?」
その語気の強さに、私はマリサが怒ってると思った。だから、慌てて言い繕う。
「え、あの、えっとね、心配してくれるのは嬉しいけど、そんな、ただ攫われて痛めつけられたくらいでそんなに気を使わなくていいよ。外の世界でも何度かあったし」
「いいわけねぇだろ……」
呆れたようにマリサが言った。
エイリンが何か思うところがあるのか、私の両肩に手を置いた。エイリンの知的な瞳を見つめる。
「少し、聞きたいことができたの。聞いてもいいかしら? その、ちょっと、というかどう考えてもおかしいところがいくつかあったから」
頷く。するとエイリンは私を抱き寄せ、膝枕をした。
「何すんだ?」
「私も、ミオも、誰も知らないミオの事が知りたくて」
エイリンは手を私の手に重ねた。すべすべの手が心地いい。
「は? んなことできんの?」
「できるわ。しばらく黙っててくれるかしら。あとで教えてあげるから」
エイリンの言葉に従って、マリサは口を閉ざした。
「……目を閉じて、澪。身体から力を抜いて」
エイリンの言うとおりにする。
「口に出して答えなくていいわ。あなたは、今から昔に戻っていくわ。昨日何があった? ……一週間前は? 幻想郷に来る前は? 一年前は? 二年前は? もっともっと前は?」
言われたとおり思い浮かべる。マリサが小さく催眠術か、とつぶやくのが聞こえた。催眠術? 催眠術ってなんだったっけ。自分が曖昧になっていくのを感じる。それが妙に心地よくて。
それからいくつか質問された。どんなことだったかな。どうでもいいや。でも、言われたとおりに思うたびに体があやふやになってきて、自分が溶けていくような感じがする。
ふわふわと、体が不安定な気がする。でも、嫌じゃない。
「最初に攫われたのはいつ? ……答えて」
「……七歳の時……」
正確に言うなら、攫われたと思っている時間。私は普段、七歳の時に攫われたと『思い込んで』いる。
「どうして攫われたか、覚えてる?」
「……私の本当のお父さんが……私をお母さんから取り上げようとした……」
何もかんがえず、こたえる。そう、お父さん、パパ。パパが、私の中で一番重要な人物。二人のパパ。お父さんとパパ。
「お父さんの、名前は?」
「……御陵……臣……」
だれかがいきをのむのがきこえた。私が『星空』になる前は、『御陵』だった。
「……君を愛してるって言ってた……」
「愛してる?」
「愛してるから……こうするんだって……愛が……こうさせるんだって……」
「お父さんは、最終的にあなたをどうしたの?」
声があたまに響いてくる。
「お母さんのところに……かえした。いつか……お母さんと一緒に、楽しむんだって……笑ってた……」
「最初に人格が分離したのは、いつ?」
いつ? それはいつだったか。
「……八歳のとき……」
「……ど、どうして?」
「……本当のお父さんが……やってきて……毎日毎日、私を裸にして、それから……」
最初、自分を外から見ていた。嬲るパパと嬲られる私をどこか遠い視点で観察したのが始まり。幻想郷に来たのは、二つ目の私だった。
「もういいわ。今、あなたの中に人格はいくつあるの?」
「……四つ……。大元の私……昼の私……夜の私……人の心を保っていない私……」
もっとある気がしないでもない。どうでもいい。私なんて、どうでもいい。
「役割とかあったら、教えて」
「大元の私は……何も感じないところで私たちを見て……閉じこもってる……。昼の私は……普通に生活する私……。夜の私は……他の人格が壊れないように記憶を調整する私……。人の心を保っていない私は……私が覚えていてはいけない事を覚える私……」
「御陵臣は、どんな人?」
「……酷い人……。お父さんなのにお父さんじゃないみたいな振りをして……私で楽しんで……私で気持ち良くなって……」
「……もういいわ、ありがとう。合図をしたら、あなたは質問されたことを何一つ覚えていない。いいわね?
起きて、澪」
パチンと、私の耳元で音が鳴った。
私は目を開けて、エイリンを見上げる。彼女は慈しむような表情をして、私の髪を撫でている。
「ごめん、エイリン。寝ちゃってた」
いつからかはわからないけど、エイリンの膝に頭を預けてからの記憶が曖昧。うとうとしていたのだと思う。
「いいのよ。私のお膝で安心できたっていうのなら、嬉しいわ」
私は体を起こす。マリサが帽子を目深に被って顔を伏せていた。
「どうしたの、マリサ?」
「……な、なんでもねぇよ。なんでもねえんだ……」
それからしばらく震えていたマリサだったが、次に顔をあげたとき、彼女の顔は怒りで真っ赤になっていた。
「あいつはどこだ、永琳」
「教えないわ」
「なぜ」
エイリンはため息をついた。
「教えたら、殺すでしょ?」
「当たり前だ! こんな子供に消えない傷刻みやがって……! あいつ、ここだけじゃなくて外の世界でも澪を……!」
マリサはなぜか、怒り心頭だった。
「くそっ! とりあえず、アリスにも伝えて来る。あいつはやっぱり始末しとかなきゃいけない奴だったってな!」
言うやいなや、マリサは空を飛んであっという間に視界から消えた。
「……ねえ、澪」
ため息をついてから、エイリンが私に声をかけた。頭だけ振り返ってエイリンを見る。
「あなた、ここに来る前どんな生活していたの?」
それから私は、かつて美沙お姉ちゃんとしたような会話を、エイリンとした。
「……会議がいるわね。でも……まあ、遊びましょうか」
にっこりと微笑んで、エイリンは言った。
「え? でも、私……」
多重人格とか、私の知らない私とか、いろいろあるのに。というか、マリサが行ってしまったのに、気にしなくてもいいのだろうか。
「知りたいことは、知れたでしょ? マリサも、教えられること全部教えたわ。辛い時間はもうおしまい。これからは、楽しくて幸せなのがずっと待ってるわ」
「ほんとに?」
エイリンはすぐに頷かなかった。
「ええ。みんな一緒に幸せに、でしょ?」
「うん!」
私は元気良く頷いた。
それから昼間までエイリンやカグヤ、美沙お姉ちゃんやレイセンと、心ゆくまで遊び通した。