慟哭と私
夢を見ている。御陵臣が出てきた。私が知っている彼とは違い、少しだけ若い。周りを見回すと、自分がかつて暮らしていた家だということが分かった。
彼は私を嬲った。その時の私が理解できたのは、痛いということだけだった。辛いということだけだった。
場面が切り替わった。通帳を見ている場面だ。額面を見ると、桁が七つしかなかった。
また場面が切り替わった。ひたすらの闇の中、昼の私と夜の私を、『私』がいじめていた。昼の私はか細く泣いて。夜の私は『私』をにらみつけながら必死に痛みに耐えていた。
その二人の様子が、最高に楽しかった。
目を開けると、マリサが隣で眠っていた。木の窓から漏れる月明かりが、今の時間を私に知らせてくれる。なぜマリサの家にいるのか、なぜ同衾しているのかとか細かい疑問は多々あるが、それよりもこのか細く麗しいマリサが隣で眠っているということが重要なのだ。マリサの体は魔の魅力があるかのように、私の視線を釘付けにする。ハートマークの模様が散りばめられているパジャマがなぜか妖艶に思える。
「マリサ、起きて」
「ん……? んだよ、もう朝か……?」
「違う。なんで私マリサと寝てるの?」
「寝てるって……イヤラシイ言い方だな。ってか、夜の方か」
マリサはそう言うと、眠そうに体を起こした。
「……お前、昼のこと覚えてる?」
首を振って答えた。私は昼の記憶がない。とっとと消えてほしい忌まわしい記憶は脳裏にこびりついているというのに楽しいはずの記憶はカケラさえ残っていない。なんだか、そう――
「そっか。……虚しいな」
虚しい。昼間どれだけ楽しかろうと、今の私はそれを感じることができない。苦しいことばかり覚えていて、頭を掻き毟りたくなるくらいほど辛くなる。
マリサが虚しいと言ったのだって、昼と夜で全然違う私が嫌になったからに違いない。自分が自分で嫌なのに、他人が私のことを嫌わないはずがない。
私はマリサを見る。私を見て、なんとも言えない表情をしていた。何を思ったのか、マリサは私の頭に手を伸ばしてきた。
すっと体を引いて、その手を避ける。
「あたしのこと、嫌いになったのか?」
「違う。怖くて」
はあ、とマリサはため息をついた。ベッドからおりると、私の方へと気だるそうな目を向けた。
「弾幕勝負のやり方教えてやる。来てくれ」
「え、でも」
「昼間やったこと、もう一度やってやる」
「面倒じゃない?」
「面倒」
素直に、マリサは答えた。彼女は人差し指を空高く掲げて呪文を唱える。その指を勢いよく下ろすと、魔理沙の頭の上に魔法の文字が数多く書かれた円が出現した。その円はマリサを通って地面に落ちた。マリサはいつもの白と黒のエプロンドレスのような服に大きな魔女帽子という格好に変わっていた。
「うっし! じゃあ遊ぶか!」
切り替わったみたいに、マリサが笑顔で言った。
「……面倒じゃないの?」
ニコニコと楽しそうな雰囲気になっているマリサは私の肩を軽く叩いた。
「面倒だぜ? けど、お前のためなら面倒だってウェルカム、ってことだ!」
見てるこちらが微笑みたくなるような朗らかな笑いをマリサは見せてくれた。
荒んだ心が洗われるようだった。
「ま、昼のお前と夜のお前とじゃ気を付けなきゃいけないことが全っ然違うからな。そこんとこミスりたくないんで、なんかされたら困ること、あったら言ってみ?」
そう言いながら、マリサは私を押すようにして外へ連れ出した。外はもうすっかり夜で、上を見上げると光の粒を散りばめたような星空が広がっていた。雲一つない空には天の川やいくつもの星座があった。
「ううん、星明かりじゃ暗すぎるしなぁ。光灯すのも情緒ねぇし……。暗視」
そうマリサが言うと、ひゅん、と小さく音が鳴ったような気がした。
「おお、見える見える。……夜のお前って、昼と全然違うな」
「そう?」
「ああ。雰囲気とか、細かいところとかな。ほら、牙」
そう言って、マリサは私の口に手をやった。
「!」
頭に電流が流れたような感覚がした。その感覚が嫌で、私はマリサの手を払った。
「触られたくない、か?」
「ご、ごめんなさい。わ、わ、わた、し……」
ただ、牙を指でなぞられただけ。それだけで記憶が襲ってくる。舐められた唇。心の底から楽しそうな、ニセモノのマリサやアリスお姉ちゃん。耐え難い激しい痛み。地面に膝をついて、私はそれらを必死にやり過ごそうとする。自分で自分の頭を砕いて、何も考えなくて済むようになりたい。
でも、そんなことをしたらマリサに気味悪がられるかもしれない。明け透けに『気持ち悪いから近寄んな』なんて言われたら、私はもう立ち直れない。
「大丈夫か?」
ゾクリと、全身が泡立つような感覚がした。飛び跳ねるようにして、マリサから距離をとる。私とマリサの距離はだいたい十メートル前後。私は二秒程度で詰められる距離だ。マリサは? マリサは、どんな風に距離を詰めてくる? 私は勝手に戦闘状態に入った体と頭に何の疑問も持てなかった。
「ミオ、あたしは敵じゃない」
「わ、わかるもんか。そう言って笑いながら私に酷い事をするんだ! あの時みたいに!」
そう叫んだ瞬間、私の後ろに、もう一人マリサがいた。え? そのマリサは、どこか存在が希薄だった。
「ど、どうしてこんな一瞬で……」
そのマリサは私の手を掴んだ。え?
そして、次に私のひじ関節に手をやった。私はその次に来る痛みを簡単に想像できた。
「やめて! ごめんなさい、マリサ!」
私が叫ぶよう謝っても、マリサはやめてくれなかった。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
私が獰猛な笑顔を浮かべているマリサに謝り続けていると、そのマリサの顔面を箒が通り抜けていった。
「え?」
ぱっと、私の腕を折ろうとしていたマリサは消えていた。
「ミオ」
私は声のした方を見た。血の力を集め、巨大なハンマー作って構える。
「……エイリンとこ行って、薬作ってもらえ」
「薬? なんで?」
私は警戒を緩めずに言った。指で箒を弄んでいるマリサは、その柄で私のハンマーに触れた。
「!?」
私はハンマーを思い切り振りかぶり、横薙ぎにハンマーを振るった。
マリサは飛び上がって私の攻撃を回避した。箒に女の子座りでまたがって、憐れむように私を見下ろしている。
「ちょっとしたことでフラッシュバック。感覚まで感じる幻覚。
言いにくいが、言わなきゃお前は自覚しねえ。お前は、病気だ」
「何をっ!」
私は背中に悪魔のような翼を生やし、飛行する。ハンマーを上段に振り上げ、マリサに叩きつける。金属のような硬い感触がした。ハンマーをどけると、手に八角形の小箱をもったマリサが傷一つない姿で佇んでいた。その小箱からは、きらきらとした光がマリサを守るように広がっていた。
「お前の病気は、気合や心の持ちようで治るようなもんじゃねぇ。お前ひとりじゃ絶対に無理だ。インフルエンザが気合でどうにもなれねえようにな」
「私は病気じゃない!」
マリサは指を指揮者のように振るった。そうするとマリサの周りに星のような光が現れ、それは私にじゃなくて、私のハンマーに殺到する。
「あっ」
避けようとしたところで、間に合わなかった。星型の魔法弾は私のハンマーを貫き、バラバラにした。
「病気だよ。心のな」
「そんな、ことっ!」
私は重力に従って落ちようとしている血の欠片を操って、針のよつに尖らせる。それをマリサに向かわせた。
「気にすんなよ。私もそうだったけど、皆勘違いしてる。全部忘れた昼のお前よか、夜の方が重症だ。別に、心の病気にかかったっていいじゃねぇか」
「よくない! 私は! 私は弱くなんてないっ!」
マリサは血の針を恐れず、こちらに向かってきた。物凄く速くて、私はどう反応してもやられてしまうことを悟った。問題は、どんな攻撃が来るかどうか、ということだ。痛くなければいいが。
「落ち着け。病気ってのは原因があってのことだ。心の病気だからって、誰もお前が弱いやつだなんて思わねぇよ。な?」
痛みを覚悟していると、抱き締められた。心臓が、どくんと高鳴った。これは、恐怖だろうか。それとも。
「震えてるじゃねえか。お前、助かってから泣いたか? 弱いと思われたくないか? 泣けよ。喚けよ。いいんだよ、強くなくても」
それとも、喜びだろうか。強く強く、抱きしめられる。震える体も、恐れる心もすべて、包み込まれているような感覚がした。
「で、でも」
「あたしが怖い、か? お前の中にいるあたしは、こうして抱き締めたか? 違うよな。お前の中にいるあたしと、ここに今こうしてミオを、親友を抱き締めてるあたしは、別人だ。お願いだから、あたしを見てくれよ」
マリサの声が震えて、触れている肌が熱せられたように熱くなった。泣いているの? マリサが?
「マリ……サ」
「あたしは、気の利いたこといえねぇし、専門家でもねぇからわかんねぇけどよ、それでもお前が苦しんでるのはわかる。辛いのもわかる。元気になってほしい。そう思うのが、変なことか?」
「私はおかしくなんてない!」
私は抱きしめられたまま、かぶりを振って否定する。ぽん、と私の後頭部に手が当てられた。何か魔法が来る。私は痛みを覚悟して、目を閉じて体を強張らせた。
「怖いんだな。私に攻撃されるかも、って思ってるんだな。ここまで触れて、ようやくわかった。大丈夫、大丈夫だ。あたしは何もしない。優しく抱き締めてやれる。だから、あたしを頼ってくれ」
「わたし、は……!」
じわりと、目頭が熱くなる。少しだけ、心の奥に沈めていた気持ちが浮いてくる。
本当にこのマリサは何もしないの? 本当に、頼ってもいいの?
本当に? 本当に?
怯えはなくならない。脳裏と身体に焼付いた痛みが、マリサのすべてに対して疑念を抱かせていた。
「大丈夫。弱くてもいいんだ。強くなる必要なんてない。もう平和なんだから。もうお前を傷つける奴はいないんだから。だから大丈夫だ」
「……弱くても、いいの?」
自分でも驚くほど、声は弱々しく震えていた。まるで、脆弱な幼子が傷を無理に耐えているような、そんな声だった。
「ああ。いいんだよ。お前はアリスを悪く思うか?」
「え?」
「あいつは今、お前を失うことが怖いんだ。子供一人守れなかった自分が許せなくて、もう二度と失敗したくないんだ。だから、あんなにも固執しているんだ。それは、あいつの弱さでもある。弱いあいつは、大嫌いか?」
私は首を振った。アリスお姉ちゃんは私の家族だ。大好きな大好きな家族なのだ。どんなお姉ちゃんでも、嫌いにはならない。
「ほら、弱くてもいいんだよ。あたしは、強いお前も弱いお前も大好きだ。だから、安心しろよ。ちょっと弱みを見せても……お前には、家族も友達も親友もいる。みんな、お前を助けてくれるさ」
ぎゅっと、今度は私がマリサを抱き締めた。
「うう……うわああぁぁぁ……!」
これが、マリサなんだ。こんなに優しい人を、私は恐れていた。でも、いいんだ。怖くてもいいんだ。怖くても、大丈夫。だってマリサは何もしないから。こうして頼っても、大丈夫なんだ。怖くても、弱くても、マリサは責めない。こうして、抱きしめてくれる。
「うう、マリサぁ……。……怖いよ。皆みんな、私を壊そうとするんじゃないかって思うの……。こんなこと思う私、おかしいよ……狂ってるよう……嫌だよぉ……!」
何も考えず、私はマリサに全てを打ち明ける。生還してからずっと、心を誰にも話さなかった。。こんな心の奥までを他人に明かしたのは、お父さんのことでアリスとケンカして以来だった。
「よし、よし」
マリサは何も言わず、頭を撫でてくれた。
「ありがとう、撫でてくれてありがとう……。でも、でも怖いの! 私変だよ、おかしいよ……。壊れちゃった……もう、私嫌だよ……。怖いのはやだよ。痛いのも嫌だよぉ」
グズグズと、みっともなく泣きながら、私は心を明け開くように喚く。
「よしよし。全部吐いちまえ」
「ねぇ、マリサ……私、私ね……誰にも言えなかったことがあるの……」
誰にも、言いたくなかった。だって、ふざけないでって言われたら心が折れるかもしれなかったから。そもそも、この気持ちを理解してもらえるかどうかもわからなかった。無理だと言われ、理解もされず、弱いと断じられ、捨てられるのが怖かった。でも。でも、マリサになら。弱い私も、強い私も好きだと言ってくれたこのマリサなら、きっと。
「なんだ?」
「マリサ……実はね、私ね、助けて欲しかったの……」
あの時、私に狂気が降り注ぐ時、助けて欲しかった。神様は早々に諦めたけど、アリスお姉ちゃんには最後まで期待していた。あのとき、助けに来てくれるのはアリスお姉ちゃんだって信じて疑わなかった。助けてほしかった。アリスお姉ちゃんに。
「……そうか」
「マリサ……虫がいいのはわかってる、無理なのかもしれないけど……」
「前置きなんて、いらねぇんだよ。言えよ、気持ちを。どんなのでも、あたしは受け入れてやる」
男らしいマリサの言葉が、するりと胸に入ってくる。その優しさが、トクンと心臓を高鳴らせた。
「マリサ、助けて……」
「いいぜ」
ふわりと、マリサは空高く飛び上がった。
私はマリサの後ろに座らされた。見上げると、マリサは思わずうっとりするくらい綺麗な笑顔を浮かべていた。
「やっと頼ってくれたな。嬉しいぜ。ほら、しっかり捕まってろよ」
「う、うん」
私はおずおずと、マリサの腰に手を回した。男らしい言動や態度とは裏腹に、その腰は私の力でも手折れそうなほどか細かった。
とす、とマリサの背に頭を乗せる。トクン、トクンと私の心臓がゆっくりと、けれど大きく跳ねる。安心する。
「……どこへいくの?」
本当はそんなことどうでもよかったけど、会話がしたくて私は聞いた。
「ん? 永遠亭」
「どうして?」
「いいか、ミオ。病気ってのは、要因がそろえばなるもんだ。お前が弱いからじゃねぇ。病気になったら病院に行く。それが普通のことだ。な?」
お前は病気だ、と遠回しに言われたけれど、気にならなかった。だって、病気だったとしても私が私であることには変わらないし、私の根幹が変わらない限りみんなは……マリサはこうしてそばにいてくれるのだから。
「マリサが言うなら、信じる」
「そう言ってくれて嬉しいぜ。じゃ、飛ばすぜ!」
そう言って、箒は信じられないスピードで進んだ。バタバタと服がはためく音がする。怖いわけではないけれど、速度によるスリルが、心臓の鼓動を早める。
マリサも同じように感じてるのかな。そうだったらいいな。
「マリサ」
私はその名前を小さく呼んだ。恐怖とも感動とも違う何かが、胸の中で生まれた。




