優しい人と私
魑魅魍魎の拠り所。忘れ去られたモノの最後の居場所。幽霊妖怪鬼悪魔。人に近しい人ならぬモノが跳梁跋扈する現世とは異なる違う世界。
どうやら私は、そんな場所に迷い込んだようだった。
「つまり私は忘れ去られた、と」
私は結論をアリスに言った。
母に置いていかれ、父とも長い間会っていない上、ついに友人や先生にも忘れられてしまったのだろう。一か月休んだ後、さらに二ヶ月も学校にいかなければ、そうなるのは当たり前か。
「さぁ。外の世界から来た人間は、必ずしも忘れられたから来るわけじゃないから」
「そう」
だからと言って、可能性が消えたわけじゃない。私が知ってる人全てに忘れられてしまった可能性は、未だにあるのだ。
「……忘れられてしまったのかもしれないのに、怖くないの?」
「怖い」
素直に答える。見知らぬ土地で一人迷い込んだせいか、得体の知れない恐怖が私の心の大半を占めていた。いや、それ以前の問題だ。お父さんも友人も、先生も。皆が皆、私というものを忘れてしまう。そんなのは嫌だった。真実は、どうなのだろう。
「とか言う割に、冷静みたいだけど?」
「怖いのは事実だけど、それを態度に出すかどうかは別だと思う」
「的確な表現ね」
褒めてもらえたはずなのに。心の奥が痛んだ。それは、振り向いたアリスの顔が、私に対する哀れみに満ちていたからだろうか。なぜ、この美しい女性は私を哀れむのだろう。外から来る、ということが珍しく、そして可哀想なことなのか? それとも、ここに来る理由は複数あるようなことを言っていたが、それが優しい嘘なのだろうか。
もしそうなら、真実なんて知らない方がいいのだろう。
「あなた、なんでそんな話し方なの?」
「なんで、とは?」
そんな、とはどんな話し方なのだろう。よほど癇に障る言葉遣いなのだろうか。それとも、ここではタブーになっているような言葉を知らず知らずのうちに使っているのだろうか。
「その、言葉から感情を抜き取ったみたいな変なやつ。理由あるの?」
「理由……?」
言われて、少し悩む。
なぜ、このような話し方にしたのだったか。その記憶はかなり曖昧だった。元の話し方が、大人達を怒らせるからだったのか、他人に頼るに不利な口調だったからか。よく覚えていない。
「なぜかは、覚えてない」
「じゃあ、特に理由はないってことね。その話し方もやめたら? もっと子供らしい話し方した方がかわいいよ」
「……」
親切心から、そんなことを言ってくれているのだろうか。嬉しくもある反面、悲しくもある。
「子供らしさなんて、要らない」
「……そう」
私に必要なのは物事を考えることのできる頭と、知識。体なんて鍛えてもたかがしれているが、頭なら、心なら。それならば、何かあった時死なずにすむかもしれない。読む本はつまらなかったし、楽しくなかった。それでも死にたくない一心で頑張った。
頭の中が今のようになる頃には、私の中の子供らしさ……可愛いものが好きだとか、フリフリとした服を好むとか、人形がお気に入りだとか、そういったことは私の中から排除されていた。……いつか消えるものなのだ、惜しくはない。そう思っているはずなのだ。
「……何かあったの?」
私は思わず首を傾げた。今まで私を哀れんでいた瞳は、今度は心配そうに私を見つめていた。今までなら、大人達は皆、私のことなど知らない振りをしたのに。
「な、何かって、何?」
「……怖い目に遭った?」
私は呆気に取られた。なぜだろう。なぜこの人は私にこうも気をかけるのだろう。
「……あ、遭ったことなんて、ないよ」
「そう。辛いこと聞いちゃったわね」
それきり、アリスは黙った。怒らせただろうか。嘘をついたのが、わかってしまったのだろうか。
「私の家、空き部屋結構あるから、しばらく泊まっていっていいわよ」
「ありがとうございます」
そうお礼をいいながらも、私は戸惑っていた。なぜ、この人は私を泊めてもいいなんて言うのだろう。家族は何も言わないのだろうか。そもそも、なぜ警戒しないのだろう。私が悪人だとは思わないのだろうか。
「……それから、元いたとこに帰るまでくらいなら、食事くらいは用意してあげる」
「……同情?」
本で読んだことがある。あまりに可哀想な人を見てしまうと人はつい優しくしてしまうのだと。私は、可哀想な人なのだろうか。
「……。嫌だったかしら」
「ううん。すごく嬉しい」
嬉しいのは嬉しいのだが、反応に困る。こういう時、どんな反応をすれば喜んでもらえるだろう。……しばらく考えて、お礼を言う以外に思いつかなかった。
「ありがとう、アリス」
「気にしないで。帰るまでだから、きっとすぐでしょ」
そう言ってアリスが笑うのと同時、開けた場所に出た。相変わらず木と土とが視界のほとんど占めているが、広間のようなこの場所には木製の家があった。小さい家だが、ただ広い私の家とは違って人の温もりがありそうな、優しそうな家だった。
「あれ、私の家だから」
「お邪魔します」
アリスは私のお礼に苦笑すると、家まで行って玄関の扉を開けた。内装はさながらログハウスのようで、台所からテーブル、食器棚から食器にいたるまで全て木製で、テーブルの上にはおしゃれなクロスがかけてあった。壁の上のほうに備え付けられた棚には、アリスの周りに漂っているような人形たちが所狭しと並べられている。
私はアリスの人形に運ばれ、テーブルの近くにあったソファの上に座らされた。
「ここで待っててね」
アリスはそう言うと、玄関とは違う方の扉を開けて、どこかへ行った。人形達が私の前でふわふわと浮き、何やら踊りを踊っている。その様子はなぜか楽しそうで、微笑ましかった。
「楽しんでくれてるみたいね」
「うん。アリスが動かしてるの?」
頷いたアリスの手には、木製の籠があった。救急箱だと思う。彼女は私のそばまで来ると、怪我をした足を取った。怪我をある程度見終わると、驚いた様子で言った。
「かなりざっくり切ったわね。痛くなかった?」
「痛い」
私がそう言うと、アリスは苦笑した。
「なら痛がるなり泣くなりしたらいいのに」
私は首を振った。
「これが私の精一杯」
私は別に無理に痛いのを我慢して冷静を装っているのではなく、自然体でこうなのだ。そもそも私は痛いとちゃんと言ったし歩けないとも言った。ちゃんと伝わったと思うのだが、足りなかったのだろうか。もっと言葉を尽くさなくてはならないのだろうか。
「そうなの。……どんな感じ?」
「傷口同士が触れ合って今でも裂かれるような痛みがする。血が止まらないのが少し不安。跡が残ってしまわないかどうかわからないのが怖い」
私は傷に関して思っていること全てを伝えた。過不足はないと思う。
「わかりやすくて助かるわ。その点に関しては大丈夫よ。ちゃんと血は止まるし、痛いのもなくなる。ここまで大きいと跡になるでしょうけど、小さいものよ」
そう言いながら、アリスは籠の中からガーゼと包帯を取り出して、手当を始めた。見ず知らずの私に医療道具まで使ってくれるなんて。嬉しい。
「消毒するから、ちょっとしみるわよ」
「わかった」
消毒液がついたガーゼが、足の裏に当たり、染み入るような痛みが走った。つんとするような臭いに、少しだけ嫌悪感を抱く。
「えっと、踵に包帯を巻く時は……と」
テキパキとしていたアリスの手際が、急にたどたどしくなる。おそらく手当をすること自体は多いのだろう。包帯を巻くほどの怪我は少ないのだろうが。
もしかしたら、こんなやさしい女性にかいがいしく手当をしてもらえれるのならば怪我をするのも悪くない、と思う人がいるかもしれない。
アリスの顔に視線を移す。人形なんかとは比べ物にならないくらい美しく凛々しい顔立ちの美しい人。でもそれは綺麗すぎて、見る人によっては彼女に冷たい印象を抱くかもしれない。こんなにも暖かくて優しい人なのに、もったいないとは思う。
「はい、これでよし……と痛かったわね、賢いわ」
アリスは私の頭を撫でながらそう言った。足に目を見やった。踵から足首に巻かれた包帯は、手つきが拙かった割には綺麗だった。手先が人より器用なのだろう。そうでなければ人形を宙に浮かべるなんてできるわけがない。
「ありがとう、アリス」
「気にしないで、星空さん」
「澪、と」
私はアリスの目を見つめて言う。
「澪、もしくは星空澪と呼んで」
「名前、嫌いなの?」
頷く。星空。美しくも儚い夜空に輝く星々と同じ名前。本来なら誇るべきところなのだろう。だが私は、この名前を同級生にからかわれ、先生にまで変な名前と言われたせいで、誇らしいどころか嫌悪感を抱いていた。お父さんと私を繋ぐの大切なものだけど、嫌いなものは、嫌いなのだ。
もしどうしても呼びたいというのなら構わないけど、名字だけで呼ぶというのはやめてほしい。
「そう。じゃあ、澪。これからのことなんだけど……」
そうアリスが楽しそうに切り出したところで、変化があった。家の外から空気を切る音が聞こえてきたのだ。それはだんだん大きくなってきて、思わず私は外の方を見た。
「……はぁ」
アリスは心底面倒くさそうにため息をついた。その次の瞬間、アリスの家の玄関が開き、外から人が入ってきた。
「ういーっす! アリス、元気にしてるかー?」
誰だろう。悪い人かな。私は立ち上がり、アリスの前に出る。いざとなったら、盾にならなきゃ。
「うん? なぁアリス、その子誰? アリスの子供?」
侵入者の問いに、アリスは肩をすくませて首を振って答えた。
なんだろう、アリスに警戒心がない。もしかしてアリスの家族なのだろうか。そう思って、侵入者をよく見る。
大きな三角帽子をかぶり、さながらエプロンドレスのようなデザインの服に身を包んだ、金髪の綺麗な人。アリスとはまた違う綺麗さだった。アリスを人形の美しさに例えるなら、この人は自然の美しさ。雄大で、凛々しくて、それでいてしなやかで。だが、アリスに似ているかどうかで言えば、そうではない。……でも、やっぱり家族かもしれない。私も、お父さんにも母にも似ていないと言われてばかりだったから。
「澪、こいつは魔理沙。霧雨 魔理沙よ。」
まりさ。キリサメマリサ。独特な名前だな。私はそう思った。
アリスの知人だということがわかると、私は警戒を解き、ソファに座る。足の裏を見ると、血がにじんでいた。急だったので忘れていたが、私は怪我をしていたんだった。気をつけないと、傷口が開いてしまうかもしれない。
「私は星空澪と言います。アリスのご友人ですか?」
私がそう聞くと、マリサは不思議そうな顔をしたあと、大口を開けて笑った。
「あはははは! ご友人だってよ、アリス! あたしでもそんな言葉使わねぇのによくできた子供だな!」
マリサはひとしきり笑うと、私の頭に手を乗せた。
「別に敬語なんて使わなくていいんだぜ? 子供は、子供らしいだけで可愛いもんなんだからな」
「私は、可愛く見せたくて敬語を使ってるわけじゃないよ」
相変わらず、私の表情筋は機能を果たさなかった。でも、私は喜んでいるのだ。無理することはない。そう言ってくれたような気がして、嬉しくて。
「私、普通に話していると無感情だと言われるから。敬語の方が、そう言われることが少なくて」
私は感じていないわけではないのだ。ちゃんと痛いも苦しいも、嬉しいも楽しいも感じる。だが、このことについて言葉を尽くして説明して、誤解が解けた試しがない。だから私は、このことに関して他人に理解してもらうことを諦めた。
「そうなのか? ま、やっぱり敬語よか親近感湧くよ。さっきよりも百倍いい。今度新しい人に会ったら、そうやって自己紹介したらどうだ?」
「う、うん」
ちょっと馴れ馴れしく感じて、返事が遅くなってしまった。これが、この人の普通なのだろうか。少し疑問に思う。
「……で? 何の用? 魔導書なら貸さないわよ」
アリスはつっけんどんにそう言った。魔法使い、なのかな。
「あぁ、貸さなくていいぜ。パチュリーんとこから貸してもらうから」
「あんたの場合は盗み出すでしょうが。早く用件を言いなさい」
アリスがイライラとしながらそう言うと、マリサは肩をすくめた。
「せっかちだな、アリスは」
「いいから」
「わかったよ。霊夢が呼んでるぜ」
その用件に、アリスは訝しげな表情をした。レイムという人に会うのが嫌なのだろうか。
「なんであの子が?」
「行けばわかるぜ。来るか?」
頷いて、口を開こうとして、アリスは私を見た。
「この子がいるわ。だから」
「私、ここで待ってる」
「一緒に連れてけばいいじゃん」
私とマリサは全く別の意見を言った。一緒になんて行っても、足でまといになるだけなのに、この人は何を言ってるのだろうか。
「わかったわ。さ、澪。魔理沙の後ろに乗っけてもらいなさい」
「……。うん」
アリスは私を担ぎ上げて、外まで私を連れ出した。外には少し大きめの箒が立てかけられており、マリサはそれをひっつかむと跨った。この人は何をしようとしているのだろう。そしてどうしてアリスはマリサの後ろに私を乗せたのだろう。
気恥ずかしさで消え入りたくなるような気持ちになっているというのに、マリサは朗らかに言うのだ。
「じゃ、飛ぶから口閉じとけよ。舌噛んじまうぜ」
言われたとおり口を閉じる。体が宙に浮くような嫌な間隔に見舞われ、上から豪風が吹いてきて、思わず目を閉じる。再び目を開けるとそこには目を疑いたくなるような光景が広がっていた。
「ここは……」
ここは、知らない世界。そう思い知らされた。本で見た世界地図と、共通点が見当たらない。そしてかつて学校の屋上から見た景色とは、まるで違っていた。ビルもなければコンクリートで舗装された道すらもない。あるのは緑とちょっとの家屋。
「きれいだろ? あたしもこの景色好きなんだ」
「そう」
幻想郷。ここから元の世界に戻れるのだろうか。不安に思う。もし戻れなかったら今度こそ一人きりになってしまう、と思うと、耐えがたい寂しさに見舞われた。マリサの腰に抱き着きついて、寂しさを紛らわす。
「魔理沙、もうちょっとゆっくり飛んであげたら? 怖いのかも」
アリスの声がしたので、その方向を見る。すると、アリスが何も持たずにマリサと並行して飛んでいた。
「うん、速いか?」
「……うん。でも、このままでいい」
このまま、もう少しだけ人のぬくもりを感じていたい。久しぶりに触れた人の体は、すごく柔らかくて、いい匂いがしていた。人って、こんなにもよいものだっただろうか。
少し記憶を探って、自分が最後に人に抱きしめられた、もしくは抱きしめた記憶を思い出す。……吊り下がった母を下ろす時に、抱えたのが最後だった。嫌なことを思い出した。気分が悪くなって、吐き気さえしてくる。
「……」
あの時の母は、思い出したくない。綺麗な人ではあったが、死に顔は凄惨なものだった。口をだらしなく開き、目を見開き、ありとあらゆる穴から汚物を垂れ流していた母。私が死を忌避するのは、死んだら私もああなるのだ、と思っているからなのかもしれない。あんな物体になるなら、どれほど苦しかろうと生き抜いて見せる。おそらく私はそう心のどこかで思っているのだろう。
「澪、あれが目的地だぜ」
マリサは赤い鳥居のある神社を指さして言った。境内はそんなに広くなくて神社そのものも小さめ。あれは、どんな神様を祀っているのだろう。
「どんな神社? どんな神様を祀っているの?」
「知らね」
マリサはそっけなく言った。興味がないであろうことは後ろからでもわかった。
彼女は高度を下げ、その神社に接近する。アリスが先に境内に降り立った。マリサも彼女に続いて地面に降りると、私のことを抱き上げてくれた。
「遅いわよ、魔理沙! ……て、そのちっこいの何? 魔理沙の子供?」
神社の中から、肩口が露出した特殊な巫女服に身を包んだ女性が出てきた。黒い髪を後ろでまとめ上げて、大きなリボンで止めている。マリサもアリスも、そしてこの人も。この世界にいる人は皆、彼女たちのような珍妙な格好なのだろうか。
「私、星空澪。今は、アリスにお世話になってるの」
マリサに言われた通り、丁寧語を使わずに挨拶してみる。
「私は霊夢。よく挨拶できたわね、偉いわよ。……魔理沙が抱きかかえてるのはなんで?」
「この子足をけがしちゃって。一人にしとくのもかわいそうだから連れてきた」
アリスが神社のほうへと足を進めながら言った。
「あんまり知らないところを連れまわしても疲れちゃうだろうし、早く要件を済ませましょう、霊夢」
「わかったわ。神社の中で話しましょ」
レイムは頷くと、神社の中へと歩き出した。マリサも、彼女たちに続く。
「ちょっと話するけど、大丈夫か?」
「大丈夫。ゆっくりお話ししてて。私は考え事しとく」
マリサが呆れたように息をついた。私は彼女を見上げる。
「考え事って。もっと遊んだりとかしねえのか?」
「遊ぼうにも、足がこれじゃあろくに動けない。そもそも私に遊びは必要ない」
「そうかよ。じゃあ、今度あたしが教えてやるよ」
そういってマリサはニカリと笑った。そんな反応をしてくれたのは、この人が初めてだった。