古い記憶と私
目が覚めると、アリスの顔があった。心配そうな表情になっていた顔は、私が目を開けたことで嬉しそうな表情に変わった。
「おはよ、澪。気分はどう?」
「おはよう、アリスお姉ちゃん。身体的には問題ないと思う」
お腹をさすってみたが、痛みは感じなかった。真新しくなっている入院服を捲り上げてお腹を見ると、傷一つなかった。
「エイリンは?」
「ここは私の家よ。傷が完治したんで、帰ってきたの」
そういえば、ここは永遠亭とはかなり作りが違う。全体的に木製だし、壁の上の棚やベッドの小物入れのところには大小様々な人形が大量に置かれていた。
「そう」
私は体を起こした。アリスが優しく手で体を支えてくれようとするけど、私は首を振った。ありがたいけど、自分でできることはする。
「……ごめんね、澪」
「何が?」
私は首を傾げた。何か私は、アリスに謝られるようなことをされただろうか。
「その、お腹、刺しちゃって」
「そのこと。気にしないで。悪いのは、アリスお姉ちゃんじゃないよ」
東野は……死んだのだろう。私は一つの命を見殺しにした。そして、彼が死んでよかったと思う自分が、許せない。
「……ありがとう、澪。その、それからね、あなたが東野にされたことなんだけど……」
あわあわと言いにくそうに、アリスは切り出した。そういえば、私は東野に汚されたことになっていたのだったか。なぜ彼はあんなことを言ったのだろうか。
……死にたかったのだろうか。よくわからない。
「その、あれは……」
「知ってるよ、大丈夫」
「大丈夫って……」
「何もされなかったから」
私は真実をアリスに告げた。アリスはぽかんとして、聞き返してきた。
「な、何も? でも、あいつは……」
「最後の彼は様子がおかしかった。……でも、間一髪だったのは事実。本当にありがとう、アリス。あなたのおかげで、痛みを知らずに済んだ」
もし、あのままアリスの助けが来なかったら、私はどうなっていたのだろうか。体は壊れ、心も狂い、私は私でなくなってしまっていたのだろうか。そんな恐れが体を包む。
「そ、そんな。気にしないで。そうか、よかった。まだだったんだ。間に合ったんだ、私は……」
そう呟くように言うと、アリスは私の方に近寄って、両手を広げて抱きしめようとする。
「……」
一瞬だけ後ろにさがろうとして、なんとか自分を押さえる。
アリスは敵じゃない。
そう自分に言い聞かせる。やはり、私の中で東野に襲われたことは大きい事のようだ。警戒心が変に強まっている。
「本当に、よかった、無事で……」
ゆっくりと、私は抱き締められた。東野にされたみたいに乱暴にではなく、まるでコワレモノにでも触るかのようだった。
おずおすと、私も抱き締め返す。
「……ありがとう、アリスお姉ちゃん」
しばらく、私たちはそうして抱き合っていた。温かくて、やらわらかくて。ずっとこうしていたいような感覚がしてくる。
「澪、私はもう失敗しないから。今度はちゃんと守るから、安心して」
アリスは私から離れて、私の目をしっかりと見てそう言った。
「うん」
私は素直に頷いた。
「ふふ、素直ね。……ふあぁ」
安心したのか、アリスは手で口をおおい、大きなあくびをした。
「眠いの、アリスお姉ちゃん?」
「ん、まぁね。普段なら寝てる時間だから」
私は周りを見回して、時計を探す。いくら探しても、時計らしきものはこの部屋に一切なかった。
「ああ、正確な時間は知らないわ。日が落ちてからどれくらい経ったか感覚で判断してるだけだからね」
「時計なくて、不便じゃない?」
アリスは小さく笑った。
「ぜーんぜん。そもそも私時計がいるほど正確な時間必要としてないし」
そんな人がいるのか。私は驚いた。
でも、確かに学校や仕事など、正確な時間が必要である場所に所属していなければ、正確な時間はなくても生活に困らない……のだろうか。
「じゃ、私寝るから、もうちょいスペース空けて」
「え、うん」
私はそう言われて、アリスがいる方とは反対側に少し移動する。
アリスは部屋の明かりを指を鳴らすだけで消すと、私の隣で横になった。ベッドは確かに広めだけど、まさか一緒に寝るなんて思いもしなかった。
「アリス、私床で寝る」
「気にしないの、ほら布団」
「あ、ありがとう」
アリスに掛け布団を被せてもらう。
アリスに迷惑ではないだろうか。やはり、どいた方がいいのだろうか。
違う。私は自身で自分の考えを否定した。
私は怖いのだ。誰かと同衾することが。何をされるのか、何があるのか、どうなるのか、わからなくて、怖いのだ。
アリスは女性だ。そんなことはわかっている。それでも、私は記憶の中の誰かとアリスを重ねてしまう。そんなのは、絶対に嫌だった。
「あ、アリスお姉ちゃん、怖い」
「どうしたの?」
「ごめん、アリスお姉ちゃん。ごめんなさい。私、誰かと一緒に眠るのが怖い」
抱きしめようとしてくれたアリスの手が止まった。
「……詳しく、話を聞かせてもらってもいい?」
頷いて、私は口を開く。誤解されてはいけない。アリスが嫌いだから一緒に眠れない、だなんて思われてはいけない。
「私、あまりよく憶えてないのだけれど、何かがあったみたいで、何故か、誰かと一緒に眠ると怖くて怖くて仕方がなくなるの。アリスお姉ちゃんのことが嫌いなんじゃないの。大好きだから、嫌いたくないの。それだけはわかって。お願い」
私は精一杯、言葉を尽くした。嘘は何一つ言っていない。
信じてくれるだろうか。
「そうなの。……それは、ごめんね。わかったわ、あなたがここで眠りなさい」
「でも、ここはアリスお姉ちゃんの家だし」
「いいのよ。何かあったら、呼びなさい」
私が止めるのも構わず、アリスは立ち上がって部屋を出ていってしまった。
……嫌われたかな。一人で布団をひっかぶり、目を閉じる。
アリス、ごめん。大好き。
私は眠りに就いた。それから、夢を見た。
元いた世界の夢だった。
今と同じように、私が眠っている。その隣に、美しい女性……母が一緒に眠っていた。
「ねぇ、澪」
「なぁに、ママ」
そうだ、この時の私はまだ無知で、滅多に帰ってこないお父さんと優しくて美人の母の言うことを聞いていれば全てうまくいくと、心の底から信じていた。母も、お父さんも、滅多なことでは話しかけてすらくれなかったけど、そう思っていた。
「あなたは、私と一緒にいたい?」
「うん! ずっと、ずうっと一緒にいたい!」
「そう……」
ああ、思い出した。この夢は、あの時の記憶だ。忘れていた、私の過去の夢だ。なぜ今更思い出してしまうのだろう。
「じゃあ、一緒に行きましょう?」
「どこへ? おでかけ?」
母が頷くのが見えた。電気が消されて、母が何をしようとしているのかがよく見えない。
「とっても、いいところよ」
「!」
この時の私は、息が詰まるのを感じていた。今なら、紐で首を締められているということがわかっただろうに。
「な、なに、を……かはっ。何をするの、ママ? やめてよぉ……」
「大丈夫よ、澪。すぐ楽になるから」
あの時は、何を言われているのか理解できなかった。どんどん紐に込める力が強くなる。意識がぶつりと切れかけたあたりで、ようやく私は殺されようとしていることを理解したのだったか。
「……い、いゃ……助けて、やめて、ママ……」
「大丈夫、大丈夫よ。何も心配はいらないわ。すぐにママもいくからね。ずっと、ずうっと一緒よ」
確か、必死で助かろうともがいた記憶がある。首に手を当てて、紐を外そうとするのだけど、できなかったことを思い出した。
ああ、そうだった。この時の母は、私を殺そうとする時に細いワイヤーを使ったのだった。我が母ながら、残酷なことを。
「……い、嫌、死にたくないよぉ……!」
「!」
この時初めて、私の必死の懇願が届いた。ワイヤーから力が抜け、私はようやく新鮮な空気を吸うことができた。
「ごほっ、がほっ! ま、ママ……。うわぁぁぁん!」
私が号泣している隣で、母は自分がしようとしていたことに気付いたらしく、自分の手を見つめてわなわなわと震えていた。
「……澪」
泣いてる私に構わず、母はどこかへ行ってしまった。しばらくすると私は泣き疲れて眠ってしまった。どこかへ行った母を追おうとはしなかった。
そして、次の日の朝、目が覚めて、全てを忘れていた私は、いつものようにリビングへ行き……。
吊り下がって揺れる母を見つけた。
「!」
私は飛び起きた。そうか。
私がアリスと眠ることを恐怖したのは、母と重ねてしまったからか。
にしても、今日の夢で様々なことを思い出せた。疑問も、同時に湧いてきた。
なぜ母は私と心中しようとしたのだろう。
……考えても詮無いことだ。考えても、気が滅入るだけ。もう一度眠ろう。そうすれば、幸せな夢が見れるだろう。
それから朝まで、私の意識が途切れることはなかった。