悪女の役がお似合いだと言われたので主役をいただきます
「セレーネには悪女の役が似合うよ。地でやれるだろう」
婚約者のアルベール様がそう言ったとき、私は黒い扇を閉じた。
乾いた音に、稽古場の全員がこちらを見る。
人の目を集めるのは好きだ。
けれど、そのとき欲しかったのは笑い声ではなかった。
「褒めてくださったのかしら」
「もちろん。君は迫力があるから」
彼は笑い、隣のクラリス様へ台本を渡した。
彼女が演じるのは、領主の横暴に耐えながら騎士を待つ娘。アルベール様はその騎士だ。
私の役は二人を邪魔する領主の妻だった。
台詞は五つ。最後に陰謀が露見し、泣いて退場する。
差し替えられる前の台本では、もっとあった。
「こちらの言い争いは?」
「長いから切った。クラリスの歌を入れるんだ」
「では、娘を問い詰める場面は」
「そちらも。君が怒鳴る場面ばかりでは、客が疲れる」
私は紙をめくった。
消された私の台詞の隣に、彼の字で「歌」と書いてある。
歌が悪いとは言わない。クラリス様の声は澄んでいて、よく響く。
ただ、それを聞くために私が舞台へ出る必要はない。
「五つの台詞を申し上げるために、毎日稽古へ?」
「大げさだな。余興だよ。君も楽しめばいい」
楽しいから稽古へ来ていたのだ。
侍女に相手役を頼み、笑うタイミングまで考えてきた。
余興だと言われても、納得はできなかった。
「セレーネ様。まだ変更できるところもあるのでは」
クラリス様が口を挟んだ。
アルベール様は彼女にだけ柔らかく笑った。
「気にしなくていい。君の歌をみんな楽しみにしている」
私は扇を開いた。
「悪女が泣いて退場するところは、残してくださったのですね」
「そこが見せ場だからね」
「でしたら、さぞ短く楽しめる劇になりますわ」
クラリス様の目が少し細くなった。
彼女の歌まで皮肉ったように聞こえたのだろう。そこは私が悪い。
けれどアルベール様は気づかず、次の稽古を始めようと言った。
夜会まで三週間。
デルフォイ侯爵夫人が毎年開く慈善の催しで、今年は若い貴族たちが短い芝居を二本披露する。
一本目の取りまとめを任されたのがアルベール様だった。
二本目は、まだ決まっていない。
「少し、お待ちください」
私は台本を卓へ置いた。
「この役は、お返しいたします」
今度は笑う人がいなかった。
アルベール様の顔からも笑みが消える。
「五つになったくらいで?」
「ええ。私はもっとお喋りしたいのです」
「君が断れば困るだろう」
「地でできる程度のお役でしたら、どなたか見つかりますわ」
言ってから椅子を引いた。
部屋を出るとき、扉のそばにいた青年と目が合った。
リュシアン・デュヴァル様。伯爵家の次男で、侯爵夫人から上演する台本について相談を受けている方だ。
今日も読み合わせを聞きながら、紙に何か書いていた。
彼は引き留めなかった。
慰めもしなかった。
私の手元を見て、一度だけ頷いた。
「その扇は、お持ち帰りになるんですね」
「私の物ですので」
「それはよかった」
何がよかったのか聞く気になれず、私は廊下へ出た。
◇
馬車が来るまでの間、図書室で待つことになった。
窓辺へ立っても、怒りは収まらない。
扇を開いて閉じる。もう一度開く。
今頃は、目立たないと我慢できない女だと言われているだろう。
そのとおりだ。
だったら初めから、好きなだけ演じていいと言わなければよかった。
扉を叩く音がした。
入ってきたリュシアン様は、数枚の紙を差し出した。
「十五分ほど、読んでいただけませんか」
「慰めの詩でしたら、お断りします」
「芝居です」
私は紙を受け取った。
題は『黒衣の女主人』。
登場人物の欄には、女侯爵イレーネと、その昔の恋人ナタン。二人だけが記されている。
「あなたが?」
「書きました。まだ直しているところです」
最初の台詞を読んだ。
『お入りなさい。殺しに来たのでしたら、扉を閉めてから』
私は椅子へ座った。
女侯爵は悪女だった。
政敵を罠にはめ、恋人の働きを自分の手柄にし、彼が用済みになると国外へ追いやった。
いま領地を失いかけている彼女のもとへ、その男が帰ってくる。
彼は安全に国外へ出るための通行証を持っている。
彼女は感謝も謝罪もせず、なぜ戻ってきたのかと尋ねる。
数枚めくって、私は顔を上げた。
「主役ですのね、この女」
「ええ」
「悪いことをしたのは誤解でした、という話では?」
「ありません。彼女は自分でやっています」
「よろしいですわね」
残りを読んだ。
イレーネは最後まで気位が高い。男の差し出す通行証を受け取り、机へ置いても、すぐには出ていかない。
欲しいのは安全な行き先だけではないと分かる。
けれど男の方も、一言好きだと言われれば帰ってくるほど素直ではなかった。
最後の頁まで読み、私は最初へ戻った。
「なぜ、応募なさらないの?」
「役者を探していました」
「二人で済みますでしょう」
「二人で済むので、一人が弱いと隠せません」
私が顔を上げると、リュシアン様は静かに続けた。
「あなたなら、あの最初の一言で客席を黙らせられると思ったんです」
嬉しかった。
すぐに頷きたくなるほど嬉しかったので、私は扇を閉じて膝へ置いた。
「相手役はどなた?」
「私が」
「お上手なの?」
「台詞を忘れたことはありません」
「それはお上手という意味ではありませんわ」
「試していただければ」
彼は窓の方へ歩き、そこで向き直った。
私は台本を持ったまま、椅子へ深く腰を下ろす。
首をわずかに傾け、彼を見た。
「お入りなさい。殺しに来たのでしたら、扉を閉めてから」
リュシアン様の目が変わった。
さっきまで紙を渡していた男の顔ではない。
「開けておいた方が、助けを呼びやすいだろう」
「私が呼ぶとでも?」
「昔は呼んだ。私を追い出すためにな」
予想より低い声だった。
面白い。
私は扇を開いて笑った。
「では、そのとき扉の開け方は覚えたでしょう。今夜は呼ばずに済みますわね」
彼が黙った。
台本にない台詞を入れたせいだ。
「今のは、残したいです」
「お気に召して?」
「ただし、その後は私にも喋らせてください」
私は笑った。
彼は台本へ書き込み、もう一度と言った。
図書室の扉の向こうへ顔を出した使用人に、馬車はもう少し待たせてほしいと頼んだ。
◇
侯爵夫人の返事は翌日に届いた。
稽古を一度見てから正式に決めたい。そのための小広間を三日に一度貸す。時間は他の演目の後。
ただし芝居の長さは二十分以内という条件がついた。
父にはその日のうちに話した。
アルベール様の演目から抜けたことも、黙っていては後で面倒になる。
父は私の話を聞き終えると、食後の酒を置いた。
「アルベールは承知しているのか」
「役を返すところまでは。その後のお芝居は私が決めました」
「婚約の話へ持ち込まれるかもしれないぞ」
私は少し黙った。
婚約して一年。アルベール様は舞踏会で私を褒め、歌うときには拍手をしてくれた。
気の強いところも好きだと言われ、何となく上手くいくのだと思っていた。
「そうなったら、お話をし直したいです」
「芝居をやめる方ではないのだな」
「はい」
父は溜息をついた。
けれど止めなかった。
「勝手に破談を触れ回るな。話がそこまで行くなら、先に私へ知らせなさい」
私は礼を言った。
まだ何も失っていないのに、食堂を出るとき少し足が重かった。
それでも部屋へ戻れば、台本を開いた。
最初の稽古で、リュシアン様は私を四度止めた。
「早いです」
「聞こえない方がいらした?」
「よく聞こえています。ただ、私が言い終わる前に返事をなさっています」
小広間の扉の前へ戻る。
舞台の端を示すために置いた紐を、私は爪先で避けた。
「あなたの台詞が終わるのは分かっております」
「ナタンが言い終えるより、イレーネが先に知っている顔になっています」
「彼女なら知った顔をするでしょう」
「するでしょうね。けれど、本当には知らない」
リュシアン様は台本を開いた。
彼が指したのは、男が通行証を机へ置く場面だった。
『これを渡せば、私の用は済む』
私はその後の台詞を知っている。
だから通行証が机へ届く前に、扇で押し戻そうとしてしまう。
「何を言われるか、知らないつもりで聞いてください」
「そんなことができますの?」
「やってみましょう」
同じところを繰り返した。
今度は待った。彼が紙を机へ置くまで、手を動かさない。
その代わり、置かれる場所をじっと見た。
「……怖いです」
「悪女ですもの」
「その紙に毒でも塗ってあるように見えます」
私は扇を閉じた。
リュシアン様の口元が揺れた。
「笑いたければ笑ってくださいませ」
「次を試してからにします」
五度目には、今度こそ黙れた。
けれど間が空きすぎたらしく、彼が小さく次の台詞を囁いた。
「覚えております」
「では、どうぞ」
「黙れとおっしゃったのは、あなたではありませんか」
窓辺で時計を見ていた侯爵夫人が、とうとう笑った。
私は夫人がいらしたことを思い出し、姿勢を正した。
「申し訳ございません。もう一度」
「ええ。私は楽しんでおりますよ」
少なくとも、退屈はしていらっしゃらない。
最後まで通すと二十三分かかった。
夫人は上演を認めてくださったが、三分縮めるようにともおっしゃった。
私はリュシアン様を見た。
彼は台本を見ていた。
ここから三分消すのが、惜しくてたまらない顔だった。
「私の台詞を削るおつもり?」
「あなたが足した分だけでも、一分近くあります」
「よい台詞は残したいと、おっしゃったでしょう」
「ええ。だから困っています」
すぐに削ると言われなかったので、私は少し機嫌を直した。
帰り際、彼が小広間の出口で手を差し出した。
扉のところには舞台用の台が置かれ、小さな段差ができている。
「本番の舞台袖にも、このくらいの段差があります。暗くなるので、今のうちに慣れてください」
彼の手を借りて降りた。
台から降りた途端、支えは離れた。
稽古の続きだったのだと分かり、私は何も言わずに手袋を直した。
◇
次の稽古には、私も鉛筆を持っていった。
「ここからここまで、要りません」
私が線を引くと、リュシアン様が紙を押さえた。
「そこは、ナタンが追放された間の話です」
「読めば分かります」
「彼が何を失ったか説明しないと、戻ってきた意味が」
「彼女を恨んでいらっしゃるのは、最初の三行で十分伝わりますわ。その後の七行で、旅先の寒さまでお聞きする必要がございます?」
彼は私を見た。
さっきまでの穏やかな顔ではなかった。
「あなたは御自分の台詞を増やして、私の台詞を減らすんですね」
図星だった。
半分は。
「あなたは御自分で書いたので、全部聞かせたいのでは?」
彼は返事をせず、椅子へ腰を下ろした。
その沈黙は演技ではなかった。
少し言いすぎた。けれど、七行の旅の話を黙って聞くだけの私にも不満はある。
「両方、試しましょう」
先に口を開いたのは彼だった。
「残した場合と、削った場合。聞いているあなたが何をするかも見たい」
「結構です」
一度目は全部読んだ。
私は顔を背けたり、指を組み直したりして聞いた。
二度目は短くした。
彼の恨みを聞き、女侯爵は昔渡した指輪がもう指にないことへ気づく。
その動作を入れると、思ったより長く黙れた。
言い返す台詞が、すぐには出てこなかったからだ。
「その指輪を見るところ、もう一度」
リュシアン様が言った。
私は同じように彼の手を見た。
彼も私を見ていた。目が合って、少しだけ息が詰まった。
「……今の方が、いいですね」
彼は鉛筆を取った。
七行を消しかけて止まる。
「ただ、この一行だけは残したい」
『君の名を呼ばずに眠れるまで、三度、冬が来た』
私はその一行を読んだ。
頭の中で返事をしてみる。
扇を動かそうとして、動かせなかった。
「……そこは、残しましょう」
リュシアン様は頷いた。
私が勝ったのに、彼の顔ばかり見てしまった。
結局、彼の台詞と私の追加を少しずつ削った。
扉の開け方の冗談は残った。
舞台の端を歩く回数も一度減らす。私があちこちへ動くと、彼が追って向きを変えるために時間がかかるのだ。
「ずっと中央に立っていろと?」
「違います。動くなら、私をどこへ置きたいか決めてください」
「では、こちらへ」
私は二歩進んで彼を窓側へ追いやった。
そこで振り返れば、客席からは私の横顔と彼の正面が見える。
彼が歩み寄る。私は逃げずに顎を上げる。
「近いですわ」
「あなたが呼んだんでしょう」
台本の台詞だった。
けれど、さっきの私への返事にも聞こえた。
次に何を言うのか忘れかけ、彼に台詞を囁かれる前に口を開いた。
「呼んだ覚えはございません。帰ってきたのは、あなたです」
彼が笑った。
その笑いを見て、役の女が何を取り戻したかったのか、少し分かった気がした。
◇
一週間ほど経つと、台本の余白が狭くなった。
私の字は大きく、リュシアン様の字は細かい。
彼が小さく書いた注意の上から私が丸をつけ、その横へ彼が矢印を足す。
最初は綺麗だった紙が、もうよそへ見せられない有様になっていた。
「新しく写しましょうか」
そう尋ねると、彼は首を振った。
「ここに書いてあることを忘れそうなので」
私も同じだった。
この頁を開けば、どこで腹を立てたか分かる。
どこで彼が笑ったかも。
ある日の稽古は早めに切り上げた。
侯爵夫人に来客があり、小広間が必要になったのだ。
私は物足りなくて最後の場面を口の中で繰り返していたが、リュシアン様は窓際で喉を押さえていた。
「痛みますの?」
「少し。昨日、家で大きな声を出していたので」
「どの台詞を?」
「全部です」
私は呆れた。
一人で全部読む必要はないでしょうと言いかけ、やめる。私も昨夜、同じことをしたからだ。
茶を頼み、二人で卓へついた。
「あなた、ほかにもお書きになっていますの?」
「いくつか」
「演じたことは?」
「家族の前では。妹が相手をしてくれます」
「女侯爵も?」
「最初の三頁で笑いだしました。こんな女と話す男が気の毒だと」
私は胸を張った。
「そんなところで笑うなんて、惜しい方ですわ」
「続きを演じてもらえなかったので、台本はしばらく引き出しに入っていました」
「私の扇を見たのは、そのせい?」
彼は頷いた。
「最初の芝居の稽古で、あなたが相手を追い詰めるところを見ました。台詞は短いのに、扇が閉じた瞬間、逃げ道までなくなったように見えた」
私は扇を手に取った。
褒められて嬉しいのを、開く動作で隠す。
「でしたら、もっと早く台本をくださればよかったのに」
「あちらの役を楽しんでいるようだったので」
楽しんでいた。
それがまだ少し悔しかった。
「今は、こちらの方が楽しいです」
言うと彼がこちらを見た。
私は茶を飲み、ついでのように付け加える。
「私の台詞が多いので」
「それは、よかった」
微笑み方が少し変わった。
リュシアン様は窓の外へ目を向けた。
「私も、書いたときより今の方が好きです」
「ずいぶん削りましたけれど」
「黙っているあなたが、何を言おうとしたのか見えるので。紙には書けなかったことです」
黙っている箇所を褒められても嬉しくないはずだった。けれど彼が何を見ていたか分かると、もっとよいものを見せたくなった。
「もっと、よくできます」
私の返事に、彼は頷いた。
「私もそう思います」
その午後、アルベール様から使いが来た。
翌日、二人で話をしたいという。
◇
アルベール様は私の家の応接間で、茶にも手をつけずに待っていた。
私は黒い扇を持って入った。
それを見た彼の眉が動く。
「今も稽古帰りか」
「今日はございません」
「例の芝居は、二人だけなのだね」
「ええ」
「恋人の役だと聞いた」
「昔の、ですけれど」
彼は私の冗談を受け取らなかった。
「君はデュヴァル家の男と、何度も二人で稽古をしている」
「侯爵夫人のお屋敷で、付き添いもおります」
「そういう問題ではない。僕の婚約者が、人前で男を口説く芝居をする。君の評判を考えて言っているんだ」
「あなたも恋人役をなさいますでしょう」
「あれとは違う。クラリスは清純な娘の役だ」
「私も清純な娘を演じれば、よろしかった?」
アルベール様が黙った。
そういうことではない、とまた言われると思ったが、今度は別の返事が来た。
「君があの役をできると思うか」
耐えて待つ娘より、扉を開いて相手を迎える女の方が好きだ。けれど、できないと先に決められるのは腹が立った。
「今の演目は、侯爵夫人が認めてくださいました」
「分かっている。だから先方へ言う前に、君と話している」
彼はようやく杯へ手を伸ばした。
「今回だけなら、まだ考えられる。結婚したら、こういう出演は控えてほしい。僕の客を迎えるときに、何でも自分が一番前へ出られては困る」
私は扇の先を膝へ当てた。
今回だけなら。
その言葉に、少しだけ頷きそうになった。
今回だけ済ませてから考えれば、揉めずに稽古へ戻れる。
けれど次の芝居を思った。
まだ題もない、リュシアン様の引き出しに眠っているもの。
私が今の役をやり終えた後に、もっと似合うかもしれない女。
それを最初から断る約束なのだ。
「少し、考えさせてください」
私が答えると、アルベール様は初めて肩の力を抜いた。
「そうしてくれ。君も冷静になれば分かると思う」
帰り際、彼は私の手を取った。
いつもの仕草だった。
私はいつものように微笑んだ。
翌日の稽古は、ひどかった。
最初の台詞が自分でも分かるほど弱い。
大きな声を出せば目立ちすぎる気がした。彼の台詞を待ちながら、扇を動かすことさえためらった。
リュシアン様は三頁ほど進めたところで止まった。
「今日はどうしました?」
「何でもございません」
「では、あなたは今、この男に何をしてほしい?」
私は台本へ目を落とした。
ここは女侯爵が男を引き留めようとする場面だ。
「出ていかないでほしいのです」
「そのために何をしますか」
「……おとなしく、話を」
言ってから腹が立った。
誰に対して腹を立てたかは分かっていた。
昨日、考えると言った自分だ。
「イレーネは、そんな女ではありませんわね」
リュシアン様は黙っていた。
私は台本を閉じた。
「少し、私の話を聞いていただけます?」
彼は扇を持った私の手から、一歩離れた。
役を演じるときの近さではなくなった。
椅子を寄せてくれたので、私はそこへ座った。
「アルベール様に、結婚したら芝居を控えるようにと言われました」
リュシアン様の指が台本の端を押さえる。
私は続けた。
「今回限りなら、考えてくださるそうです。私が人前へ出たがるのが、お気に召さないらしくて」
「あなたは、どう答えたんですか」
「考えますと」
彼は一度窓の方を見た。
「あなたが降りるなら、侯爵夫人には私からも説明します」
声が硬かった。
止めてほしかったような、引き留めてほしくなかったような気がして、扇を握る手へ力が入った。
「この役を、ほかの方へ?」
「今からでは無理です。今回は見送ります」
「それでよろしいの?」
「よくありません」
はっきり返され、私は顔を上げた。
「やっと舞台に載せられると思ったんです。私がいちばん見たかったイレーネを、あなたが演じてくれた。諦めるのは悔しい」
彼はそこで一度口を閉じた。
「ですが、あなたの結婚まで私が決めるわけにはいかない」
その言い方が少し冷たくて、むしろ自分の返事がはっきりした。
「降りるとは、申し上げておりません」
私は立ち上がった。
「さっきのところから。あなたは扉へ向かってくださいませ」
彼が台本を持ち直す。
私はその手から紙を取って机へ置いた。
「覚えていらっしゃるでしょう」
「ええ」
「私もです」
扉へ向かった背中に、言葉を投げた。
女侯爵は品行のよい妻になりたいわけではない。
彼を引き留めたいのだ。
そのためなら、もう一度嫌われるようなことだって言う。
「お待ちなさい。あなたはまだ、私に別れを告げておりません」
リュシアン様が振り返った。
私はその目を見て、声を落とした。
「今度こそおできになるのなら、お聞きいたします」
彼が返事をするまで待てた。
待っている間、男が何を言うか本当に怖かった。
◇
その夜、父へ婚約を続けたくないと告げた。
アルベール様に求められたことと、私がやめたくないことを話した。
父は、話が芝居だけでは済まなくなると念を押した。
「分かっております」
「催しに失敗すれば、戻してほしいというのは通らないぞ」
「失敗したら、次の芝居で取り返します」
父が額へ手を当てた。
子どもの頃に、客の前でもう一曲歌いたいと粘ったときと同じ仕草だった。
「そこは昔から変わらないな」
翌々日、両家で話す場が設けられた。
父は前日に先方と話していたらしい。卓には婚約時に取り交わした書面が置かれ、贈り物をどう返すかという話まで進んでいた。
アルベール様はそれを見て、ようやく私の顔を確かめた。
「本気だったのか」
「ええ」
父親たちの前だったので、彼は声を抑えた。
「結婚したら少し控えてほしいと言っただけだ。君の趣味を全部取り上げるつもりではない」
「あなたのお許しを待つ趣味には、したくありませんの」
「君には、妻として僕を立ててほしい」
今みたいに口を閉じて座る暮らしを思い浮かべた。いま返そうとしている指輪より、台本の方を握りたくなった。
「私は拍手をいただきたいのです」
アルベール様が眉を寄せた。
「人前に立って、私の一言を待っていただきたい。よく演じたら、私に拍手をしていただきたいの。あなたのお隣で微笑んでいるだけでは足りません」
「随分なことを言うね」
「ええ。だから、結婚する前に申し上げています」
彼はしばらく私を見た。
「デュヴァル家の男に、そう言われたのか」
「いいえ。昔からですわ。あなたもご存じでしょう」
返事はなかった。
父が杯を置く音がして、話は再び家同士のものになった。
婚約は、その日で終わった。
アルベール様は帰り際、私だけに小さく言った。
「一度、喝采をもらえば満足すると思っていた」
私は首を振った。
「一度いただいたら、もう一度欲しくなります」
彼は笑わなかった。
私も笑わずに見送った。
◇
その日の午後は稽古がなかった。
それでも私は台本を持って侯爵夫人の屋敷へ行った。
婚約解消によって上演に差し支えが出ないか、先に確かめる必要があったからだ。
夫人は話を聞くと、私を小広間へ通してくださった。
「出演者が変わらないのでしたら、準備はそのままで結構です。あなたの父上からもお便りが来ています」
私は初めて大きく息を吐いた。舞台に立てる。
小広間にはリュシアン様がいた。
一人で机と椅子を動かしている。
私に気づくと、手にした椅子を床へ下ろした。
「今日はお休みでは」
「婚約を解消いたしました」
先に言ってしまった。
彼は私を見たまま、すぐには言葉を返さなかった。
「……そうですか」
嬉しそうな顔はしなかった。
そのことに安心しながら、ほんの少し物足りなくも思った。
私はなんて面倒な女だろう。
「慰めていただくために来たのではありませんわ。お芝居は予定どおりだと、お知らせに」
「分かりました」
彼は頷き、椅子を引いた。
「今日は、座って読んでみませんか」
「立てます」
「ええ。でも、私が先ほどから机を運んでいたので」
見れば袖を肘までまくっている。
額に少し汗が浮かんでいた。
私は笑い、椅子へ腰を下ろした。
いつもより静かに読み合わせた。
大きな声を出さなくても、彼の台詞はよく聞こえた。
私が早く返せないときも、待ってくれた。
途中で彼が水を取る。杯を一つ渡された。
「失敗したら、笑われるでしょうね」
「それは悔しい。あなたの最後の台詞を、ちゃんと聞いてもらいたいです」
私は頷いて台本を開いた。
指輪を外した指に、何度か無意識に触れてしまう。
そこから視線を外した彼は、私の名前を呼んだ。
「セレーネ様。初めの一行、もう一度お願いします」
私は顔を上げた。
私が何をすれば立ち直るか知っているのなら、ずるい人だ。
「お入りなさい。殺しに来たのでしたら、扉を閉めてから」
今度は彼が笑った。
私の欲しかった笑い方だった。
◇
本番の三日前、私たちは初めて大広間の舞台へ上がった。
普段は楽師の座る場所へ板を継ぎ足し、奥には暗い色の幕が張ってある。
客席に椅子が並ぶと、小広間よりずっと遠くまで声を届けなければならないと分かった。
私は最初の台詞を言い、最後列に立つ侯爵夫人を見た。
扇が一度、上がる。
聞こえたという合図だった。
ところが、リュシアン様の声は届かなかった。
近くで聞けばいつもどおりだ。けれど夫人が首を傾げ、もう一度、とおっしゃる。
二度目も同じだった。
彼は謝り、台詞を言い直そうとした。
私はその腕を押さえた。
「いま、誰に向かってお話しなさったの?」
「あなたです」
「私にだけ聞こえても、後ろの方が困ります」
言うと彼が苦笑した。
「紙の上なら、声の大きさを気にしなくてよかった」
「聞き手を放っておけるのでしょうね。紙は」
少しだけ意地悪を言った。
彼が頷いたので、私はその腕から手を離した。
「教えてください」
その言葉で、私の機嫌は簡単によくなった。
彼を舞台の前へ連れ、客席の奥を指す。
「あちらの方へ手紙を渡すつもりで。喉だけで押さないで、一度息を入れてから」
最初は上手くいかなかった。
大きくしようとすると怒鳴り声になる。静かに話そうとすると、語尾が消える。
私はわざと舞台の端へ移り、聞こえないと首を振った。
「あなたの台詞を待っているのに、聞こえないのは困りますわ」
「いつも、あなたが私に言われていることですね」
「覚えておりますので」
彼が笑った。
その笑い声は客席の奥まで届いた。
「いまの息のままで。次の一行」
彼は私を見た。
今度は、女侯爵を呼ぶ低い声が広間へ通った。
侯爵夫人の扇が上がる。
私は彼の袖を軽く叩いた。
「ほら、おできになります」
彼は少し嬉しそうな顔をした。
その顔をもう一度見たくて、私は稽古を続けた。
最後の通しは十九分で終わった。二人で時計を見て、ようやく笑った。
終わった後、舞台袖で彼が手を擦っているのに気づいた。
「冷たいの?」
「少し。あの椅子が全部埋まると思うと」
「緊張なさるのね」
「あなたは?」
私は暗い袖から客席を覗いた。
「しますわ。あの方々が私を見なくなったらどうしよう、と」
「私は見られるのが怖い」
「でしたら、私をご覧になって」
彼がこちらを向いた。
私は扇を胸へ当てる。
「相手をしているのは私です。台詞を間違えたら、客席が気づく前に睨んで差し上げます」
「それは怖い」
そう言いながら、彼はもう手を擦っていなかった。
帰りの支度をしていると、クラリス様が近づいてきた。
向こうの演目も、同じ日に舞台の位置を確かめていたのだ。
「新しいお衣装、素敵ですわ」
私は黒い袖をつまんだ。
胸元には深い赤の布を重ね、裾は後ろへ少し引く。華やかだが、歩く邪魔にならないよう何度も直した衣装だ。
「ありがとうございます。そちらの歌も、よく聞こえました」
「姉が代わりに悪女役をすることになりましたの。泣きながら退出するのが、随分上手くなりまして」
私は笑いかけ、思い出して頭を下げた。
「先日はお歌まで悪く申し上げたようになって、失礼いたしました」
「ええ。少し、腹が立ちました」
はっきり言われ、私は顔を上げた。
クラリス様は台本を抱え直す。
「ですから本番では、ちゃんと聞いていただこうと思っています」
「楽しみにしておりますわ」
彼女は満足したように頷き、舞台の方を見た。
「私は台詞が五つでも、その五つで目立ってみたかったです」
「それも面白そうですわね」
「ええ。でも、あなたは別のものを見つけたのね」
私は書き込みだらけの台本を持ち上げた。
クラリス様はそれを見て微笑み、自分の稽古へ戻った。
私たちは握手も約束もしなかった。
ただ、あちらの歌が始まったら、きちんと聞こうと思った。
◇
夜会当日の大広間は、稽古のときより狭く見えた。
人が入ればこんなにも変わるのかと、幕の隙間から覗いて驚く。
宝石が光り、扇が動く。客席のあちこちで笑い声が上がっていた。
ここに立つ人々を黙らせたい。
そう思うと胸が高鳴る。
最初の演目は、予定どおり始まった。
アルベール様は騎士の衣装がよく似合った。剣の柄に手を置き、娘を守ると宣言する声も堂々としている。
客席で何人もの令嬢が顔を見合わせた。
クラリス様が歌うと、その声を追うように扇が止まる。
私は袖で最後まで聞いた。
美しい歌だった。
あの芝居に残っていたら、私はこの歌の余韻まで悪女役でさらおうとしただろう。そう思って少し笑った。
拍手が起こる。
舞台から戻ったクラリス様へ、私はよかったですわ、と伝えた。
彼女は息を弾ませたまま礼を言い、裾を持って通り過ぎた。
アルベール様とは、目が合った。
彼は何か言いかけたが、その間に使用人たちが舞台の椅子を運び始めた。
私も自分の位置へ戻った。
次は私たちの番だ。
リュシアン様は袖の奥で待っていた。
黒い上着に旅行用の長い外套。腰の剣は刃のない舞台用だが、いつもの姿より少し近寄りがたい。
胸元へ手を入れ、通行証を確かめている。
「ありますのね?」
「ええ。さっきも確かめました」
「では、手を空けて。私を見てくださいませ」
彼が息を吐く。
私は手の中の扇を確かめた。
骨の先に、稽古でついた小さな傷がある。
「セレーネ様」
「何でしょう」
「終わったら、お話ししたいことがあります」
私は彼を見た。
「今、おっしゃったら?」
「今言うと、私はたぶん最初の台詞を忘れます」
彼が冗談を言っているのか、すぐには分からなかった。
けれど目が合うと、彼も少し笑った。
「お待ちしますわ。ただし、よく演じてくださいませ」
「あなたも」
椅子と机の位置が決まる。
侯爵夫人の声が聞こえた。
私の名と、リュシアン様の名。新しい短い芝居だという紹介。
彼が手を差し出した。
いつも段差を降りるときに借りた手だ。
私はそこへ指を置き、舞台へ上がった。
支えが離れる。
決めた椅子へ座り、扇を開いた。
幕が引かれる。
◇
最初は客席で、まだ話す声がした。
私は机へ肘をつき、入ってくる男を待った。
外套の裾が動く。彼が扉を閉める仕草をする前に、顔を上げる。
「お入りなさい。殺しに来たのでしたら、扉を閉めてから」
近くの客が笑った。
奥の話し声が途切れた。
「開けておいた方が、助けを呼びやすいだろう」
「私が呼ぶとでも?」
「昔は呼んだ。私を追い出すためにな」
リュシアン様の声は届いていた。
彼は私を見ている。
私は扇を少しだけ下げた。
「では、そのとき扉の開け方は覚えたでしょう。今夜は呼ばずに済みますわね」
笑い声が大きくなった。
もう一言足したくなったが、やめた。
次は彼の番だ。
女侯爵の館からは、使用人も逃げ出していた。
明日には門が破られるかもしれないのに、彼女はいつもの部屋でワインを飲んでいる。
ナタンはその椅子も机も見覚えがあった。
昔、自分が追い出された夜と同じだと告げる。
彼が外套を脱ごうとすると、留め具が襟に引っかかった。
稽古では一度も起きなかったことだ。
肩を動かしても外れない。
彼の次の言葉が、少し遅れた。
私は立った。
ゆっくり歩み寄り、黒い扇の先で彼の襟を示す。
「今夜はお急ぎではないのね」
客が笑った。
彼も笑った。私の目を見て、役の顔のまま返す。
「長居するつもりはなかった」
扇を持っていない手で留め具を外した。
金具が小さく鳴る。外套が彼の腕へ落ちた。
私はそのまま椅子へ戻った。
彼が通行証を取り出す。
「これを渡せば、私の用は済む」
白い紙が机へ置かれた。
私はそれを見た。
彼がまだ紙の端を押さえている。指輪のない指が離れるのを待った。
「随分と、ご親切ですこと」
笑って言った。
紙には手をつけない。
「私が泣いて、お礼を申し上げるところをご覧になりたかった?」
「いや」
「それなら何を」
「一度くらい、君が私の名を呼ぶところを」
扇を動かしかけた。
役の癖ではなく、私自身の癖だった。
相手が黙る前に、次の台詞を言いたくなる。
私は扇を閉じた。
音を立てず、膝の上へ置いた。
「君の名を呼ばずに眠れるまで、三度、冬が来た」
リュシアン様の声が聞こえた。
彼は客席を見なかった。
私だけを見て、続ける。
「あの夜、最後に君が私を呼んだなら、私は振り返った」
呼べば戻った。
その意味が届いてから、女侯爵は目を伏せる。
私は紙に触れ、すぐ手を引いた。
彼の名を呼ぶつもりで、唇を開く。
声は出ない。
客席が静かだった。
椅子が鳴る音まで、遠く聞こえる。
リュシアン様が出口へ身を向けた。私は客席を見る暇もなく、その動きを目で追った。
「夜明けまでに使え。それ以降は、私にも守れない」
彼が出口へ向かう。
女侯爵は膝の扇を持って立ち上がり、その背中を見た。
昔も、同じ背中を見送った。
「お待ちなさい。あなたはまだ、私に別れを告げておりません」
男が振り返る。
私は顎を上げた。
「今度こそおできになるのなら、お聞きいたします」
彼が笑った。
苦い笑いだった。
「君は、最後まで自分で言わないんだな」
それを聞いて、女侯爵は負ける。
言葉を相手へ押しつけたままでは、今度こそ去ってしまう。
けれど泣いて詫びるのも、この女には似合わない。
私は扇を机へ置いた。
隠す物のなくなった手で、彼を指す。
「私はあなたを利用しました。あなたの働きも、あなたの名も、私のために使った。今さら知らなかった顔をするおつもり?」
「知っていた」
「では、ご自分にも見る目がなかったとお認めなさい」
客席のどこかで息を漏らす音がした。
私は前へ出た。
さっきまで待った分だけ、言葉が自然に続いた。
「今夜も同じです。門を出るなら、あなたにも来ていただきます。守れる間だけ守って終わりなど、私は認めません」
リュシアン様が剣の柄へ手を置いた。
「また私を使うのか」
「ええ」
私は笑った。
泣くよりずっと難しい笑いだった。
「ナタン。一度はあなたを捨てました。今度は、誰にも渡しません」
男が差し出す手を、女侯爵は取る。
顔を逸らさずにその指を握った。
机の上の通行証を自分で取り、扇を拾う。
最後に一度だけ部屋を振り返った。
そこにはもう、欲しいものがなかった。
二人で出口へ向かう。
幕が下りた。
私は一歩目を止めたまま、音を待った。
拍手がした。
近くから始まって、奥へ広がる。
誰かが私の名を呼んだ。
私は息を吐き、そこで初めて膝が震えていることに気づいた。
「セレーネ様」
リュシアン様が私を支えた。
その手を握り返す。
「聞こえます?」
「ええ」
「私、もう一度、出たいです」
彼が笑った。
「そのために待っているんですよ、皆さん」
幕が開く。
私たちは並んで頭を下げた。
顔を上げると、父が拍手をしていた。クラリス様も袖で手を叩いている。
クラリス様の隣で、アルベール様は拍手もせず、口を引き結んでいた。
侯爵夫人がこちらへ扇を上げた。
私はもう一度、礼をした。
胸いっぱいに息を吸って、拍手を聞いた。
◇
舞台から降りると、人に囲まれた。
台詞を褒める人、衣装を褒める人、あの女はどこまで本気だったのかと尋ねる人。
私は全部に返事をしたかった。
声が少し掠れても、まだ話せた。
人が少なくなった舞台袖には、まだ衣装と小道具が積まれていた。
私は椅子へ座り、黒い扇を膝に置いた。
笑いすぎた頬が熱い。
そこへリュシアン様が水を持って戻ってきた。
「夫人が、来年も何か書いてほしいと」
「まあ。私には?」
「あなたにも出ていただきたいそうです」
「当然ですわね」
彼が笑い、私も笑った。
水を飲むと喉が少し痛んだ。
「外套のところ、助かりました」
「私も、うまくいったと思いました」
「自分で書いておいて、何を言うか飛びそうになった」
「私が睨む前に戻ってくださって、何よりです」
彼は外した上着を腕へかけ、隣へ腰を下ろした。
舞台で追いかけた人が、すぐ隣にいるのが嬉しかった。
「あなたの声、後ろまで届いていましたわ」
「あなたに聞こえるように話したつもりです」
「それでは、以前と同じではありませんか」
「今日は、あなたがあの広間の奥までいるように見えたので」
私は顔を向けた。
彼が少し照れたように目を伏せる。
「変な言い方ですね」
「いいえ。嫌いではありません」
むしろ、もう一度聞きたいくらいだ。
彼は腕にかけた上着の内ポケットから、小さく折った台本を出した。
私のものと同じくらい、端が傷んでいる。
「次も、あなたに演じてほしい」
「主役でしたら」
「ええ」
「台詞がつまらなければ、直していただきます」
「そのつもりで書きます」
話が決まってしまう。
私は急に焦った。
「始まる前におっしゃったお話というのは、それですの?」
リュシアン様がこちらを見た。
私は杯を置いた。
「次のお芝居のお誘いなら、今でなくてもよろしいでしょう。台詞を忘れるほどのことではございません」
言いながら、自分の頬がまた熱くなるのが分かった。
彼は台本を手に持ったまま黙っていた。
「……違います」
ようやく聞こえた声は、小さかった。
広間の奥へ届かせる必要がないから、それでよかった。
「あなたと食事をしたい」
「稽古の前に、何度もお茶を」
「台本を持たずに」
私は黙った。
「次にどう演じるかではなく、何を食べたいか聞きたい。稽古が休みの日に、あなたがどこへ行きたいかも」
リュシアン様は台本を畳み直し、同じポケットへしまった。
「上手い言い方を、考えていたんですが」
「たくさん台詞をお書きになれますのに」
「自分の分は難しいですね」
私は笑った。
彼は今度は目を逸らさなかった。
「あなたが好きです。舞台へ立つあなたも、台詞を削れと言って私を困らせるあなたも。芝居が終わっても、会いたい」
拍手のときとは違う苦しさで、胸がいっぱいになった。
急いで返事をする前に、彼の顔を見た。
返事を待っている顔を、ちゃんと見た。
「お待たせしましたわね」
私が言うと、彼が瞬きをした。
「いつも次のお稽古を待っておりました。お休みの日にも、台本へ書くことを探していたの。あなたに見せる口実が欲しかったので」
彼の指が動いた。
私は先に手を差し出した。
「今夜は、私から」
いつも位置を教えるために差し出された手が、今度は私の手を受け取る。
その温かさが嬉しかった。
「お食事は、お父様へお断りしてから。お約束だけで帰すおつもりでしたら、今夜のお相手も頼んでよろしいかしら」
「もちろんです」
私は扇を手に立った。
彼も立ち上がり、繋いだ手を見下ろす。
台本のない手を握ったまま、しばらく二人とも黙っていた。
やがて客席の方から私たちを呼ぶ声がした。
もう一度、二人へ拍手を送りたいのだという。
リュシアン様が上着を着直すのを待ち、その袖へ手を添えた。
「次の主役も、今夜のお相手も、私ですわ」
「異存ありません」
明るい広間へ出る。
拍手がまた聞こえた。
私は好きな人の腕を取り、好きな音のする方へ歩いていった。




