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悪女の役がお似合いだと言われたので主役をいただきます

掲載日:2026/10/10

「セレーネには悪女の役が似合うよ。地でやれるだろう」


 婚約者のアルベール様がそう言ったとき、私は黒い扇を閉じた。

 乾いた音に、稽古場の全員がこちらを見る。

 人の目を集めるのは好きだ。

 けれど、そのとき欲しかったのは笑い声ではなかった。


「褒めてくださったのかしら」

「もちろん。君は迫力があるから」


 彼は笑い、隣のクラリス様へ台本を渡した。

 彼女が演じるのは、領主の横暴に耐えながら騎士を待つ娘。アルベール様はその騎士だ。

 私の役は二人を邪魔する領主の妻だった。

 台詞は五つ。最後に陰謀が露見し、泣いて退場する。


 差し替えられる前の台本では、もっとあった。


「こちらの言い争いは?」

「長いから切った。クラリスの歌を入れるんだ」

「では、娘を問い詰める場面は」

「そちらも。君が怒鳴る場面ばかりでは、客が疲れる」


 私は紙をめくった。

 消された私の台詞の隣に、彼の字で「歌」と書いてある。

 歌が悪いとは言わない。クラリス様の声は澄んでいて、よく響く。

 ただ、それを聞くために私が舞台へ出る必要はない。


「五つの台詞を申し上げるために、毎日稽古へ?」

「大げさだな。余興だよ。君も楽しめばいい」


 楽しいから稽古へ来ていたのだ。

 侍女に相手役を頼み、笑うタイミングまで考えてきた。

 余興だと言われても、納得はできなかった。


「セレーネ様。まだ変更できるところもあるのでは」


 クラリス様が口を挟んだ。

 アルベール様は彼女にだけ柔らかく笑った。


「気にしなくていい。君の歌をみんな楽しみにしている」


 私は扇を開いた。


「悪女が泣いて退場するところは、残してくださったのですね」

「そこが見せ場だからね」

「でしたら、さぞ短く楽しめる劇になりますわ」


 クラリス様の目が少し細くなった。

 彼女の歌まで皮肉ったように聞こえたのだろう。そこは私が悪い。

 けれどアルベール様は気づかず、次の稽古を始めようと言った。


 夜会まで三週間。

 デルフォイ侯爵夫人が毎年開く慈善の催しで、今年は若い貴族たちが短い芝居を二本披露する。

 一本目の取りまとめを任されたのがアルベール様だった。

 二本目は、まだ決まっていない。


「少し、お待ちください」


 私は台本を卓へ置いた。


「この役は、お返しいたします」


 今度は笑う人がいなかった。

 アルベール様の顔からも笑みが消える。


「五つになったくらいで?」

「ええ。私はもっとお喋りしたいのです」

「君が断れば困るだろう」

「地でできる程度のお役でしたら、どなたか見つかりますわ」


 言ってから椅子を引いた。

 部屋を出るとき、扉のそばにいた青年と目が合った。

 リュシアン・デュヴァル様。伯爵家の次男で、侯爵夫人から上演する台本について相談を受けている方だ。

 今日も読み合わせを聞きながら、紙に何か書いていた。


 彼は引き留めなかった。

 慰めもしなかった。

 私の手元を見て、一度だけ頷いた。


「その扇は、お持ち帰りになるんですね」

「私の物ですので」

「それはよかった」


 何がよかったのか聞く気になれず、私は廊下へ出た。


 ◇


 馬車が来るまでの間、図書室で待つことになった。

 窓辺へ立っても、怒りは収まらない。

 扇を開いて閉じる。もう一度開く。

 今頃は、目立たないと我慢できない女だと言われているだろう。

 そのとおりだ。

 だったら初めから、好きなだけ演じていいと言わなければよかった。


 扉を叩く音がした。

 入ってきたリュシアン様は、数枚の紙を差し出した。


「十五分ほど、読んでいただけませんか」

「慰めの詩でしたら、お断りします」

「芝居です」


 私は紙を受け取った。

 題は『黒衣の女主人』。

 登場人物の欄には、女侯爵イレーネと、その昔の恋人ナタン。二人だけが記されている。


「あなたが?」

「書きました。まだ直しているところです」


 最初の台詞を読んだ。


『お入りなさい。殺しに来たのでしたら、扉を閉めてから』


 私は椅子へ座った。


 女侯爵は悪女だった。

 政敵を罠にはめ、恋人の働きを自分の手柄にし、彼が用済みになると国外へ追いやった。

 いま領地を失いかけている彼女のもとへ、その男が帰ってくる。

 彼は安全に国外へ出るための通行証を持っている。

 彼女は感謝も謝罪もせず、なぜ戻ってきたのかと尋ねる。


 数枚めくって、私は顔を上げた。


「主役ですのね、この女」

「ええ」

「悪いことをしたのは誤解でした、という話では?」

「ありません。彼女は自分でやっています」

「よろしいですわね」


 残りを読んだ。

 イレーネは最後まで気位が高い。男の差し出す通行証を受け取り、机へ置いても、すぐには出ていかない。

 欲しいのは安全な行き先だけではないと分かる。

 けれど男の方も、一言好きだと言われれば帰ってくるほど素直ではなかった。


 最後の頁まで読み、私は最初へ戻った。


「なぜ、応募なさらないの?」

「役者を探していました」

「二人で済みますでしょう」

「二人で済むので、一人が弱いと隠せません」


 私が顔を上げると、リュシアン様は静かに続けた。


「あなたなら、あの最初の一言で客席を黙らせられると思ったんです」


 嬉しかった。

 すぐに頷きたくなるほど嬉しかったので、私は扇を閉じて膝へ置いた。


「相手役はどなた?」

「私が」

「お上手なの?」

「台詞を忘れたことはありません」

「それはお上手という意味ではありませんわ」

「試していただければ」


 彼は窓の方へ歩き、そこで向き直った。

 私は台本を持ったまま、椅子へ深く腰を下ろす。

 首をわずかに傾け、彼を見た。


「お入りなさい。殺しに来たのでしたら、扉を閉めてから」


 リュシアン様の目が変わった。

 さっきまで紙を渡していた男の顔ではない。


「開けておいた方が、助けを呼びやすいだろう」

「私が呼ぶとでも?」

「昔は呼んだ。私を追い出すためにな」


 予想より低い声だった。

 面白い。

 私は扇を開いて笑った。


「では、そのとき扉の開け方は覚えたでしょう。今夜は呼ばずに済みますわね」


 彼が黙った。

 台本にない台詞を入れたせいだ。


「今のは、残したいです」

「お気に召して?」

「ただし、その後は私にも喋らせてください」


 私は笑った。

 彼は台本へ書き込み、もう一度と言った。

 図書室の扉の向こうへ顔を出した使用人に、馬車はもう少し待たせてほしいと頼んだ。


 ◇


 侯爵夫人の返事は翌日に届いた。

 稽古を一度見てから正式に決めたい。そのための小広間を三日に一度貸す。時間は他の演目の後。

 ただし芝居の長さは二十分以内という条件がついた。


 父にはその日のうちに話した。

 アルベール様の演目から抜けたことも、黙っていては後で面倒になる。

 父は私の話を聞き終えると、食後の酒を置いた。


「アルベールは承知しているのか」

「役を返すところまでは。その後のお芝居は私が決めました」

「婚約の話へ持ち込まれるかもしれないぞ」


 私は少し黙った。

 婚約して一年。アルベール様は舞踏会で私を褒め、歌うときには拍手をしてくれた。

 気の強いところも好きだと言われ、何となく上手くいくのだと思っていた。


「そうなったら、お話をし直したいです」

「芝居をやめる方ではないのだな」

「はい」


 父は溜息をついた。

 けれど止めなかった。


「勝手に破談を触れ回るな。話がそこまで行くなら、先に私へ知らせなさい」


 私は礼を言った。

 まだ何も失っていないのに、食堂を出るとき少し足が重かった。

 それでも部屋へ戻れば、台本を開いた。


 最初の稽古で、リュシアン様は私を四度止めた。


「早いです」

「聞こえない方がいらした?」

「よく聞こえています。ただ、私が言い終わる前に返事をなさっています」


 小広間の扉の前へ戻る。

 舞台の端を示すために置いた紐を、私は爪先で避けた。


「あなたの台詞が終わるのは分かっております」

「ナタンが言い終えるより、イレーネが先に知っている顔になっています」

「彼女なら知った顔をするでしょう」

「するでしょうね。けれど、本当には知らない」


 リュシアン様は台本を開いた。

 彼が指したのは、男が通行証を机へ置く場面だった。


『これを渡せば、私の用は済む』


 私はその後の台詞を知っている。

 だから通行証が机へ届く前に、扇で押し戻そうとしてしまう。


「何を言われるか、知らないつもりで聞いてください」

「そんなことができますの?」

「やってみましょう」


 同じところを繰り返した。

 今度は待った。彼が紙を机へ置くまで、手を動かさない。

 その代わり、置かれる場所をじっと見た。


「……怖いです」

「悪女ですもの」

「その紙に毒でも塗ってあるように見えます」


 私は扇を閉じた。

 リュシアン様の口元が揺れた。


「笑いたければ笑ってくださいませ」

「次を試してからにします」


 五度目には、今度こそ黙れた。

 けれど間が空きすぎたらしく、彼が小さく次の台詞を囁いた。


「覚えております」

「では、どうぞ」

「黙れとおっしゃったのは、あなたではありませんか」


 窓辺で時計を見ていた侯爵夫人が、とうとう笑った。

 私は夫人がいらしたことを思い出し、姿勢を正した。


「申し訳ございません。もう一度」

「ええ。私は楽しんでおりますよ」


 少なくとも、退屈はしていらっしゃらない。


 最後まで通すと二十三分かかった。

 夫人は上演を認めてくださったが、三分縮めるようにともおっしゃった。

 私はリュシアン様を見た。

 彼は台本を見ていた。

 ここから三分消すのが、惜しくてたまらない顔だった。


「私の台詞を削るおつもり?」

「あなたが足した分だけでも、一分近くあります」

「よい台詞は残したいと、おっしゃったでしょう」

「ええ。だから困っています」


 すぐに削ると言われなかったので、私は少し機嫌を直した。


 帰り際、彼が小広間の出口で手を差し出した。

 扉のところには舞台用の台が置かれ、小さな段差ができている。


「本番の舞台袖にも、このくらいの段差があります。暗くなるので、今のうちに慣れてください」


 彼の手を借りて降りた。

 台から降りた途端、支えは離れた。

 稽古の続きだったのだと分かり、私は何も言わずに手袋を直した。


 ◇


 次の稽古には、私も鉛筆を持っていった。


「ここからここまで、要りません」


 私が線を引くと、リュシアン様が紙を押さえた。


「そこは、ナタンが追放された間の話です」

「読めば分かります」

「彼が何を失ったか説明しないと、戻ってきた意味が」

「彼女を恨んでいらっしゃるのは、最初の三行で十分伝わりますわ。その後の七行で、旅先の寒さまでお聞きする必要がございます?」


 彼は私を見た。

 さっきまでの穏やかな顔ではなかった。


「あなたは御自分の台詞を増やして、私の台詞を減らすんですね」


 図星だった。

 半分は。


「あなたは御自分で書いたので、全部聞かせたいのでは?」


 彼は返事をせず、椅子へ腰を下ろした。

 その沈黙は演技ではなかった。


 少し言いすぎた。けれど、七行の旅の話を黙って聞くだけの私にも不満はある。


「両方、試しましょう」


 先に口を開いたのは彼だった。


「残した場合と、削った場合。聞いているあなたが何をするかも見たい」

「結構です」


 一度目は全部読んだ。

 私は顔を背けたり、指を組み直したりして聞いた。

 二度目は短くした。

 彼の恨みを聞き、女侯爵は昔渡した指輪がもう指にないことへ気づく。

 その動作を入れると、思ったより長く黙れた。

 言い返す台詞が、すぐには出てこなかったからだ。


「その指輪を見るところ、もう一度」


 リュシアン様が言った。

 私は同じように彼の手を見た。

 彼も私を見ていた。目が合って、少しだけ息が詰まった。


「……今の方が、いいですね」


 彼は鉛筆を取った。

 七行を消しかけて止まる。


「ただ、この一行だけは残したい」


『君の名を呼ばずに眠れるまで、三度、冬が来た』


 私はその一行を読んだ。

 頭の中で返事をしてみる。

 扇を動かそうとして、動かせなかった。


「……そこは、残しましょう」


 リュシアン様は頷いた。

 私が勝ったのに、彼の顔ばかり見てしまった。


 結局、彼の台詞と私の追加を少しずつ削った。

 扉の開け方の冗談は残った。

 舞台の端を歩く回数も一度減らす。私があちこちへ動くと、彼が追って向きを変えるために時間がかかるのだ。


「ずっと中央に立っていろと?」

「違います。動くなら、私をどこへ置きたいか決めてください」

「では、こちらへ」


 私は二歩進んで彼を窓側へ追いやった。

 そこで振り返れば、客席からは私の横顔と彼の正面が見える。

 彼が歩み寄る。私は逃げずに顎を上げる。


「近いですわ」

「あなたが呼んだんでしょう」


 台本の台詞だった。

 けれど、さっきの私への返事にも聞こえた。

 次に何を言うのか忘れかけ、彼に台詞を囁かれる前に口を開いた。


「呼んだ覚えはございません。帰ってきたのは、あなたです」


 彼が笑った。

 その笑いを見て、役の女が何を取り戻したかったのか、少し分かった気がした。


 ◇


 一週間ほど経つと、台本の余白が狭くなった。

 私の字は大きく、リュシアン様の字は細かい。

 彼が小さく書いた注意の上から私が丸をつけ、その横へ彼が矢印を足す。

 最初は綺麗だった紙が、もうよそへ見せられない有様になっていた。


「新しく写しましょうか」


 そう尋ねると、彼は首を振った。


「ここに書いてあることを忘れそうなので」


 私も同じだった。

 この頁を開けば、どこで腹を立てたか分かる。

 どこで彼が笑ったかも。


 ある日の稽古は早めに切り上げた。

 侯爵夫人に来客があり、小広間が必要になったのだ。

 私は物足りなくて最後の場面を口の中で繰り返していたが、リュシアン様は窓際で喉を押さえていた。


「痛みますの?」

「少し。昨日、家で大きな声を出していたので」

「どの台詞を?」

「全部です」


 私は呆れた。

 一人で全部読む必要はないでしょうと言いかけ、やめる。私も昨夜、同じことをしたからだ。

 茶を頼み、二人で卓へついた。


「あなた、ほかにもお書きになっていますの?」

「いくつか」

「演じたことは?」

「家族の前では。妹が相手をしてくれます」

「女侯爵も?」

「最初の三頁で笑いだしました。こんな女と話す男が気の毒だと」


 私は胸を張った。


「そんなところで笑うなんて、惜しい方ですわ」

「続きを演じてもらえなかったので、台本はしばらく引き出しに入っていました」

「私の扇を見たのは、そのせい?」


 彼は頷いた。


「最初の芝居の稽古で、あなたが相手を追い詰めるところを見ました。台詞は短いのに、扇が閉じた瞬間、逃げ道までなくなったように見えた」


 私は扇を手に取った。

 褒められて嬉しいのを、開く動作で隠す。


「でしたら、もっと早く台本をくださればよかったのに」

「あちらの役を楽しんでいるようだったので」


 楽しんでいた。

 それがまだ少し悔しかった。


「今は、こちらの方が楽しいです」


 言うと彼がこちらを見た。

 私は茶を飲み、ついでのように付け加える。


「私の台詞が多いので」

「それは、よかった」


 微笑み方が少し変わった。


 リュシアン様は窓の外へ目を向けた。


「私も、書いたときより今の方が好きです」

「ずいぶん削りましたけれど」

「黙っているあなたが、何を言おうとしたのか見えるので。紙には書けなかったことです」


 黙っている箇所を褒められても嬉しくないはずだった。けれど彼が何を見ていたか分かると、もっとよいものを見せたくなった。


「もっと、よくできます」


 私の返事に、彼は頷いた。


「私もそう思います」


 その午後、アルベール様から使いが来た。

 翌日、二人で話をしたいという。


 ◇


 アルベール様は私の家の応接間で、茶にも手をつけずに待っていた。

 私は黒い扇を持って入った。

 それを見た彼の眉が動く。


「今も稽古帰りか」

「今日はございません」

「例の芝居は、二人だけなのだね」

「ええ」

「恋人の役だと聞いた」

「昔の、ですけれど」


 彼は私の冗談を受け取らなかった。


「君はデュヴァル家の男と、何度も二人で稽古をしている」

「侯爵夫人のお屋敷で、付き添いもおります」

「そういう問題ではない。僕の婚約者が、人前で男を口説く芝居をする。君の評判を考えて言っているんだ」

「あなたも恋人役をなさいますでしょう」

「あれとは違う。クラリスは清純な娘の役だ」

「私も清純な娘を演じれば、よろしかった?」


 アルベール様が黙った。

 そういうことではない、とまた言われると思ったが、今度は別の返事が来た。


「君があの役をできると思うか」


 耐えて待つ娘より、扉を開いて相手を迎える女の方が好きだ。けれど、できないと先に決められるのは腹が立った。


「今の演目は、侯爵夫人が認めてくださいました」

「分かっている。だから先方へ言う前に、君と話している」


 彼はようやく杯へ手を伸ばした。


「今回だけなら、まだ考えられる。結婚したら、こういう出演は控えてほしい。僕の客を迎えるときに、何でも自分が一番前へ出られては困る」


 私は扇の先を膝へ当てた。

 今回だけなら。

 その言葉に、少しだけ頷きそうになった。

 今回だけ済ませてから考えれば、揉めずに稽古へ戻れる。


 けれど次の芝居を思った。

 まだ題もない、リュシアン様の引き出しに眠っているもの。

 私が今の役をやり終えた後に、もっと似合うかもしれない女。

 それを最初から断る約束なのだ。


「少し、考えさせてください」


 私が答えると、アルベール様は初めて肩の力を抜いた。


「そうしてくれ。君も冷静になれば分かると思う」


 帰り際、彼は私の手を取った。

 いつもの仕草だった。

 私はいつものように微笑んだ。


 翌日の稽古は、ひどかった。


 最初の台詞が自分でも分かるほど弱い。

 大きな声を出せば目立ちすぎる気がした。彼の台詞を待ちながら、扇を動かすことさえためらった。

 リュシアン様は三頁ほど進めたところで止まった。


「今日はどうしました?」

「何でもございません」

「では、あなたは今、この男に何をしてほしい?」


 私は台本へ目を落とした。

 ここは女侯爵が男を引き留めようとする場面だ。


「出ていかないでほしいのです」

「そのために何をしますか」

「……おとなしく、話を」


 言ってから腹が立った。

 誰に対して腹を立てたかは分かっていた。

 昨日、考えると言った自分だ。


「イレーネは、そんな女ではありませんわね」


 リュシアン様は黙っていた。

 私は台本を閉じた。


「少し、私の話を聞いていただけます?」


 彼は扇を持った私の手から、一歩離れた。

 役を演じるときの近さではなくなった。

 椅子を寄せてくれたので、私はそこへ座った。


「アルベール様に、結婚したら芝居を控えるようにと言われました」


 リュシアン様の指が台本の端を押さえる。

 私は続けた。


「今回限りなら、考えてくださるそうです。私が人前へ出たがるのが、お気に召さないらしくて」

「あなたは、どう答えたんですか」

「考えますと」


 彼は一度窓の方を見た。


「あなたが降りるなら、侯爵夫人には私からも説明します」


 声が硬かった。

 止めてほしかったような、引き留めてほしくなかったような気がして、扇を握る手へ力が入った。


「この役を、ほかの方へ?」

「今からでは無理です。今回は見送ります」

「それでよろしいの?」

「よくありません」


 はっきり返され、私は顔を上げた。


「やっと舞台に載せられると思ったんです。私がいちばん見たかったイレーネを、あなたが演じてくれた。諦めるのは悔しい」


 彼はそこで一度口を閉じた。


「ですが、あなたの結婚まで私が決めるわけにはいかない」


 その言い方が少し冷たくて、むしろ自分の返事がはっきりした。


「降りるとは、申し上げておりません」


 私は立ち上がった。


「さっきのところから。あなたは扉へ向かってくださいませ」


 彼が台本を持ち直す。

 私はその手から紙を取って机へ置いた。


「覚えていらっしゃるでしょう」

「ええ」

「私もです」


 扉へ向かった背中に、言葉を投げた。

 女侯爵は品行のよい妻になりたいわけではない。

 彼を引き留めたいのだ。

 そのためなら、もう一度嫌われるようなことだって言う。


「お待ちなさい。あなたはまだ、私に別れを告げておりません」


 リュシアン様が振り返った。

 私はその目を見て、声を落とした。


「今度こそおできになるのなら、お聞きいたします」


 彼が返事をするまで待てた。

 待っている間、男が何を言うか本当に怖かった。


 ◇


 その夜、父へ婚約を続けたくないと告げた。

 アルベール様に求められたことと、私がやめたくないことを話した。

 父は、話が芝居だけでは済まなくなると念を押した。


「分かっております」

「催しに失敗すれば、戻してほしいというのは通らないぞ」

「失敗したら、次の芝居で取り返します」


 父が額へ手を当てた。

 子どもの頃に、客の前でもう一曲歌いたいと粘ったときと同じ仕草だった。


「そこは昔から変わらないな」


 翌々日、両家で話す場が設けられた。

 父は前日に先方と話していたらしい。卓には婚約時に取り交わした書面が置かれ、贈り物をどう返すかという話まで進んでいた。

 アルベール様はそれを見て、ようやく私の顔を確かめた。


「本気だったのか」

「ええ」


 父親たちの前だったので、彼は声を抑えた。


「結婚したら少し控えてほしいと言っただけだ。君の趣味を全部取り上げるつもりではない」

「あなたのお許しを待つ趣味には、したくありませんの」

「君には、妻として僕を立ててほしい」


 今みたいに口を閉じて座る暮らしを思い浮かべた。いま返そうとしている指輪より、台本の方を握りたくなった。


「私は拍手をいただきたいのです」


 アルベール様が眉を寄せた。


「人前に立って、私の一言を待っていただきたい。よく演じたら、私に拍手をしていただきたいの。あなたのお隣で微笑んでいるだけでは足りません」

「随分なことを言うね」

「ええ。だから、結婚する前に申し上げています」


 彼はしばらく私を見た。


「デュヴァル家の男に、そう言われたのか」

「いいえ。昔からですわ。あなたもご存じでしょう」


 返事はなかった。

 父が杯を置く音がして、話は再び家同士のものになった。


 婚約は、その日で終わった。


 アルベール様は帰り際、私だけに小さく言った。


「一度、喝采をもらえば満足すると思っていた」


 私は首を振った。


「一度いただいたら、もう一度欲しくなります」


 彼は笑わなかった。

 私も笑わずに見送った。


 ◇


 その日の午後は稽古がなかった。

 それでも私は台本を持って侯爵夫人の屋敷へ行った。

 婚約解消によって上演に差し支えが出ないか、先に確かめる必要があったからだ。

 夫人は話を聞くと、私を小広間へ通してくださった。


「出演者が変わらないのでしたら、準備はそのままで結構です。あなたの父上からもお便りが来ています」


 私は初めて大きく息を吐いた。舞台に立てる。


 小広間にはリュシアン様がいた。

 一人で机と椅子を動かしている。

 私に気づくと、手にした椅子を床へ下ろした。


「今日はお休みでは」

「婚約を解消いたしました」


 先に言ってしまった。

 彼は私を見たまま、すぐには言葉を返さなかった。


「……そうですか」


 嬉しそうな顔はしなかった。

 そのことに安心しながら、ほんの少し物足りなくも思った。

 私はなんて面倒な女だろう。


「慰めていただくために来たのではありませんわ。お芝居は予定どおりだと、お知らせに」

「分かりました」


 彼は頷き、椅子を引いた。


「今日は、座って読んでみませんか」

「立てます」

「ええ。でも、私が先ほどから机を運んでいたので」


 見れば袖を肘までまくっている。

 額に少し汗が浮かんでいた。

 私は笑い、椅子へ腰を下ろした。


 いつもより静かに読み合わせた。

 大きな声を出さなくても、彼の台詞はよく聞こえた。

 私が早く返せないときも、待ってくれた。

 途中で彼が水を取る。杯を一つ渡された。


「失敗したら、笑われるでしょうね」

「それは悔しい。あなたの最後の台詞を、ちゃんと聞いてもらいたいです」


 私は頷いて台本を開いた。

 指輪を外した指に、何度か無意識に触れてしまう。

 そこから視線を外した彼は、私の名前を呼んだ。


「セレーネ様。初めの一行、もう一度お願いします」


 私は顔を上げた。

 私が何をすれば立ち直るか知っているのなら、ずるい人だ。


「お入りなさい。殺しに来たのでしたら、扉を閉めてから」


 今度は彼が笑った。

 私の欲しかった笑い方だった。


 ◇


 本番の三日前、私たちは初めて大広間の舞台へ上がった。

 普段は楽師の座る場所へ板を継ぎ足し、奥には暗い色の幕が張ってある。

 客席に椅子が並ぶと、小広間よりずっと遠くまで声を届けなければならないと分かった。


 私は最初の台詞を言い、最後列に立つ侯爵夫人を見た。

 扇が一度、上がる。

 聞こえたという合図だった。


 ところが、リュシアン様の声は届かなかった。

 近くで聞けばいつもどおりだ。けれど夫人が首を傾げ、もう一度、とおっしゃる。

 二度目も同じだった。


 彼は謝り、台詞を言い直そうとした。

 私はその腕を押さえた。


「いま、誰に向かってお話しなさったの?」

「あなたです」

「私にだけ聞こえても、後ろの方が困ります」


 言うと彼が苦笑した。


「紙の上なら、声の大きさを気にしなくてよかった」

「聞き手を放っておけるのでしょうね。紙は」


 少しだけ意地悪を言った。

 彼が頷いたので、私はその腕から手を離した。


「教えてください」


 その言葉で、私の機嫌は簡単によくなった。

 彼を舞台の前へ連れ、客席の奥を指す。


「あちらの方へ手紙を渡すつもりで。喉だけで押さないで、一度息を入れてから」


 最初は上手くいかなかった。

 大きくしようとすると怒鳴り声になる。静かに話そうとすると、語尾が消える。

 私はわざと舞台の端へ移り、聞こえないと首を振った。


「あなたの台詞を待っているのに、聞こえないのは困りますわ」

「いつも、あなたが私に言われていることですね」

「覚えておりますので」


 彼が笑った。

 その笑い声は客席の奥まで届いた。


「いまの息のままで。次の一行」


 彼は私を見た。

 今度は、女侯爵を呼ぶ低い声が広間へ通った。

 侯爵夫人の扇が上がる。

 私は彼の袖を軽く叩いた。


「ほら、おできになります」


 彼は少し嬉しそうな顔をした。

 その顔をもう一度見たくて、私は稽古を続けた。


 最後の通しは十九分で終わった。二人で時計を見て、ようやく笑った。


 終わった後、舞台袖で彼が手を擦っているのに気づいた。


「冷たいの?」

「少し。あの椅子が全部埋まると思うと」

「緊張なさるのね」

「あなたは?」


 私は暗い袖から客席を覗いた。


「しますわ。あの方々が私を見なくなったらどうしよう、と」

「私は見られるのが怖い」

「でしたら、私をご覧になって」


 彼がこちらを向いた。

 私は扇を胸へ当てる。


「相手をしているのは私です。台詞を間違えたら、客席が気づく前に睨んで差し上げます」

「それは怖い」


 そう言いながら、彼はもう手を擦っていなかった。


 帰りの支度をしていると、クラリス様が近づいてきた。

 向こうの演目も、同じ日に舞台の位置を確かめていたのだ。


「新しいお衣装、素敵ですわ」


 私は黒い袖をつまんだ。

 胸元には深い赤の布を重ね、裾は後ろへ少し引く。華やかだが、歩く邪魔にならないよう何度も直した衣装だ。


「ありがとうございます。そちらの歌も、よく聞こえました」

「姉が代わりに悪女役をすることになりましたの。泣きながら退出するのが、随分上手くなりまして」


 私は笑いかけ、思い出して頭を下げた。


「先日はお歌まで悪く申し上げたようになって、失礼いたしました」

「ええ。少し、腹が立ちました」


 はっきり言われ、私は顔を上げた。

 クラリス様は台本を抱え直す。


「ですから本番では、ちゃんと聞いていただこうと思っています」

「楽しみにしておりますわ」


 彼女は満足したように頷き、舞台の方を見た。


「私は台詞が五つでも、その五つで目立ってみたかったです」

「それも面白そうですわね」

「ええ。でも、あなたは別のものを見つけたのね」


 私は書き込みだらけの台本を持ち上げた。

 クラリス様はそれを見て微笑み、自分の稽古へ戻った。

 私たちは握手も約束もしなかった。

 ただ、あちらの歌が始まったら、きちんと聞こうと思った。


 ◇


 夜会当日の大広間は、稽古のときより狭く見えた。

 人が入ればこんなにも変わるのかと、幕の隙間から覗いて驚く。

 宝石が光り、扇が動く。客席のあちこちで笑い声が上がっていた。

 ここに立つ人々を黙らせたい。

 そう思うと胸が高鳴る。


 最初の演目は、予定どおり始まった。

 アルベール様は騎士の衣装がよく似合った。剣の柄に手を置き、娘を守ると宣言する声も堂々としている。

 客席で何人もの令嬢が顔を見合わせた。

 クラリス様が歌うと、その声を追うように扇が止まる。


 私は袖で最後まで聞いた。

 美しい歌だった。

 あの芝居に残っていたら、私はこの歌の余韻まで悪女役でさらおうとしただろう。そう思って少し笑った。


 拍手が起こる。

 舞台から戻ったクラリス様へ、私はよかったですわ、と伝えた。

 彼女は息を弾ませたまま礼を言い、裾を持って通り過ぎた。

 アルベール様とは、目が合った。

 彼は何か言いかけたが、その間に使用人たちが舞台の椅子を運び始めた。

 私も自分の位置へ戻った。


 次は私たちの番だ。


 リュシアン様は袖の奥で待っていた。

 黒い上着に旅行用の長い外套。腰の剣は刃のない舞台用だが、いつもの姿より少し近寄りがたい。

 胸元へ手を入れ、通行証を確かめている。


「ありますのね?」

「ええ。さっきも確かめました」

「では、手を空けて。私を見てくださいませ」


 彼が息を吐く。

 私は手の中の扇を確かめた。

 骨の先に、稽古でついた小さな傷がある。


「セレーネ様」

「何でしょう」

「終わったら、お話ししたいことがあります」


 私は彼を見た。


「今、おっしゃったら?」

「今言うと、私はたぶん最初の台詞を忘れます」


 彼が冗談を言っているのか、すぐには分からなかった。

 けれど目が合うと、彼も少し笑った。


「お待ちしますわ。ただし、よく演じてくださいませ」

「あなたも」


 椅子と机の位置が決まる。

 侯爵夫人の声が聞こえた。

 私の名と、リュシアン様の名。新しい短い芝居だという紹介。


 彼が手を差し出した。

 いつも段差を降りるときに借りた手だ。

 私はそこへ指を置き、舞台へ上がった。


 支えが離れる。

 決めた椅子へ座り、扇を開いた。


 幕が引かれる。


 ◇


 最初は客席で、まだ話す声がした。


 私は机へ肘をつき、入ってくる男を待った。

 外套の裾が動く。彼が扉を閉める仕草をする前に、顔を上げる。


「お入りなさい。殺しに来たのでしたら、扉を閉めてから」


 近くの客が笑った。

 奥の話し声が途切れた。


「開けておいた方が、助けを呼びやすいだろう」

「私が呼ぶとでも?」

「昔は呼んだ。私を追い出すためにな」


 リュシアン様の声は届いていた。

 彼は私を見ている。

 私は扇を少しだけ下げた。


「では、そのとき扉の開け方は覚えたでしょう。今夜は呼ばずに済みますわね」


 笑い声が大きくなった。

 もう一言足したくなったが、やめた。

 次は彼の番だ。


 女侯爵の館からは、使用人も逃げ出していた。

 明日には門が破られるかもしれないのに、彼女はいつもの部屋でワインを飲んでいる。

 ナタンはその椅子も机も見覚えがあった。

 昔、自分が追い出された夜と同じだと告げる。


 彼が外套を脱ごうとすると、留め具が襟に引っかかった。

 稽古では一度も起きなかったことだ。

 肩を動かしても外れない。

 彼の次の言葉が、少し遅れた。


 私は立った。

 ゆっくり歩み寄り、黒い扇の先で彼の襟を示す。


「今夜はお急ぎではないのね」


 客が笑った。

 彼も笑った。私の目を見て、役の顔のまま返す。


「長居するつもりはなかった」


 扇を持っていない手で留め具を外した。

 金具が小さく鳴る。外套が彼の腕へ落ちた。

 私はそのまま椅子へ戻った。


 彼が通行証を取り出す。


「これを渡せば、私の用は済む」


 白い紙が机へ置かれた。

 私はそれを見た。

 彼がまだ紙の端を押さえている。指輪のない指が離れるのを待った。


「随分と、ご親切ですこと」


 笑って言った。

 紙には手をつけない。


「私が泣いて、お礼を申し上げるところをご覧になりたかった?」

「いや」

「それなら何を」

「一度くらい、君が私の名を呼ぶところを」


 扇を動かしかけた。

 役の癖ではなく、私自身の癖だった。

 相手が黙る前に、次の台詞を言いたくなる。


 私は扇を閉じた。

 音を立てず、膝の上へ置いた。


「君の名を呼ばずに眠れるまで、三度、冬が来た」


 リュシアン様の声が聞こえた。

 彼は客席を見なかった。

 私だけを見て、続ける。


「あの夜、最後に君が私を呼んだなら、私は振り返った」


 呼べば戻った。

 その意味が届いてから、女侯爵は目を伏せる。

 私は紙に触れ、すぐ手を引いた。

 彼の名を呼ぶつもりで、唇を開く。

 声は出ない。


 客席が静かだった。

 椅子が鳴る音まで、遠く聞こえる。

 リュシアン様が出口へ身を向けた。私は客席を見る暇もなく、その動きを目で追った。


「夜明けまでに使え。それ以降は、私にも守れない」


 彼が出口へ向かう。

 女侯爵は膝の扇を持って立ち上がり、その背中を見た。

 昔も、同じ背中を見送った。


「お待ちなさい。あなたはまだ、私に別れを告げておりません」


 男が振り返る。

 私は顎を上げた。


「今度こそおできになるのなら、お聞きいたします」


 彼が笑った。

 苦い笑いだった。


「君は、最後まで自分で言わないんだな」


 それを聞いて、女侯爵は負ける。

 言葉を相手へ押しつけたままでは、今度こそ去ってしまう。

 けれど泣いて詫びるのも、この女には似合わない。


 私は扇を机へ置いた。

 隠す物のなくなった手で、彼を指す。


「私はあなたを利用しました。あなたの働きも、あなたの名も、私のために使った。今さら知らなかった顔をするおつもり?」

「知っていた」

「では、ご自分にも見る目がなかったとお認めなさい」


 客席のどこかで息を漏らす音がした。

 私は前へ出た。

 さっきまで待った分だけ、言葉が自然に続いた。


「今夜も同じです。門を出るなら、あなたにも来ていただきます。守れる間だけ守って終わりなど、私は認めません」


 リュシアン様が剣の柄へ手を置いた。


「また私を使うのか」

「ええ」


 私は笑った。

 泣くよりずっと難しい笑いだった。


「ナタン。一度はあなたを捨てました。今度は、誰にも渡しません」


 男が差し出す手を、女侯爵は取る。

 顔を逸らさずにその指を握った。

 机の上の通行証を自分で取り、扇を拾う。

 最後に一度だけ部屋を振り返った。

 そこにはもう、欲しいものがなかった。


 二人で出口へ向かう。

 幕が下りた。


 私は一歩目を止めたまま、音を待った。


 拍手がした。

 近くから始まって、奥へ広がる。

 誰かが私の名を呼んだ。

 私は息を吐き、そこで初めて膝が震えていることに気づいた。


「セレーネ様」


 リュシアン様が私を支えた。

 その手を握り返す。


「聞こえます?」

「ええ」

「私、もう一度、出たいです」


 彼が笑った。


「そのために待っているんですよ、皆さん」


 幕が開く。

 私たちは並んで頭を下げた。

 顔を上げると、父が拍手をしていた。クラリス様も袖で手を叩いている。

 クラリス様の隣で、アルベール様は拍手もせず、口を引き結んでいた。

 侯爵夫人がこちらへ扇を上げた。


 私はもう一度、礼をした。

 胸いっぱいに息を吸って、拍手を聞いた。


 ◇


 舞台から降りると、人に囲まれた。

 台詞を褒める人、衣装を褒める人、あの女はどこまで本気だったのかと尋ねる人。

 私は全部に返事をしたかった。

 声が少し掠れても、まだ話せた。


 人が少なくなった舞台袖には、まだ衣装と小道具が積まれていた。

 私は椅子へ座り、黒い扇を膝に置いた。

 笑いすぎた頬が熱い。

 そこへリュシアン様が水を持って戻ってきた。


「夫人が、来年も何か書いてほしいと」

「まあ。私には?」

「あなたにも出ていただきたいそうです」

「当然ですわね」


 彼が笑い、私も笑った。

 水を飲むと喉が少し痛んだ。


「外套のところ、助かりました」

「私も、うまくいったと思いました」

「自分で書いておいて、何を言うか飛びそうになった」

「私が睨む前に戻ってくださって、何よりです」


 彼は外した上着を腕へかけ、隣へ腰を下ろした。

 舞台で追いかけた人が、すぐ隣にいるのが嬉しかった。


「あなたの声、後ろまで届いていましたわ」

「あなたに聞こえるように話したつもりです」

「それでは、以前と同じではありませんか」

「今日は、あなたがあの広間の奥までいるように見えたので」


 私は顔を向けた。

 彼が少し照れたように目を伏せる。


「変な言い方ですね」

「いいえ。嫌いではありません」


 むしろ、もう一度聞きたいくらいだ。

 彼は腕にかけた上着の内ポケットから、小さく折った台本を出した。

 私のものと同じくらい、端が傷んでいる。


「次も、あなたに演じてほしい」

「主役でしたら」

「ええ」

「台詞がつまらなければ、直していただきます」

「そのつもりで書きます」


 話が決まってしまう。

 私は急に焦った。


「始まる前におっしゃったお話というのは、それですの?」


 リュシアン様がこちらを見た。

 私は杯を置いた。


「次のお芝居のお誘いなら、今でなくてもよろしいでしょう。台詞を忘れるほどのことではございません」


 言いながら、自分の頬がまた熱くなるのが分かった。

 彼は台本を手に持ったまま黙っていた。


「……違います」


 ようやく聞こえた声は、小さかった。

 広間の奥へ届かせる必要がないから、それでよかった。


「あなたと食事をしたい」

「稽古の前に、何度もお茶を」

「台本を持たずに」


 私は黙った。


「次にどう演じるかではなく、何を食べたいか聞きたい。稽古が休みの日に、あなたがどこへ行きたいかも」


 リュシアン様は台本を畳み直し、同じポケットへしまった。


「上手い言い方を、考えていたんですが」

「たくさん台詞をお書きになれますのに」

「自分の分は難しいですね」


 私は笑った。

 彼は今度は目を逸らさなかった。


「あなたが好きです。舞台へ立つあなたも、台詞を削れと言って私を困らせるあなたも。芝居が終わっても、会いたい」


 拍手のときとは違う苦しさで、胸がいっぱいになった。

 急いで返事をする前に、彼の顔を見た。

 返事を待っている顔を、ちゃんと見た。


「お待たせしましたわね」


 私が言うと、彼が瞬きをした。


「いつも次のお稽古を待っておりました。お休みの日にも、台本へ書くことを探していたの。あなたに見せる口実が欲しかったので」


 彼の指が動いた。

 私は先に手を差し出した。


「今夜は、私から」


 いつも位置を教えるために差し出された手が、今度は私の手を受け取る。

 その温かさが嬉しかった。


「お食事は、お父様へお断りしてから。お約束だけで帰すおつもりでしたら、今夜のお相手も頼んでよろしいかしら」

「もちろんです」


 私は扇を手に立った。

 彼も立ち上がり、繋いだ手を見下ろす。

 台本のない手を握ったまま、しばらく二人とも黙っていた。


 やがて客席の方から私たちを呼ぶ声がした。

 もう一度、二人へ拍手を送りたいのだという。

 リュシアン様が上着を着直すのを待ち、その袖へ手を添えた。


「次の主役も、今夜のお相手も、私ですわ」

「異存ありません」


 明るい広間へ出る。

 拍手がまた聞こえた。

 私は好きな人の腕を取り、好きな音のする方へ歩いていった。

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