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告知は一度、沈黙は何度でも  作者: swingout777


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第九話 再生される声

 店の裏口を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。

 商店街の明かりはまだ残っているのに、人通りはまばらで、会話の音も遠い。久世は鍵を手にした真緒の半歩前を歩き、ほとんど振り返らなかった。


 グレイスハイツまでは徒歩三分もかからない。

 その短い距離のあいだ、真緒は何度も、持ち物の位置を指先で確認した。


 右ポケットにスマートフォン。

 バッグの外ポケットにICレコーダー。

 茶封筒は手帳と一緒にトートの内側。

 自動送信の設定は済ませた。録画も残した。

 準備はしてきた。してきたはずだ。


 なのに、マンションの外観が見えた瞬間、胸の奥がひどく静かになった。

 怖い、というより、何かの直前に不要な感情だけ薄く剥がれていく感じだった。


 グレイスハイツは、拍子抜けするほど普通の建物だった。

 四階建ての古い鉄筋マンション。外壁は薄いグレーで、郵便受けの塗装は少し剥げている。エントランスの照明は白く、虫が二、三匹まとわりついている。


 事故物件という言葉から想像される異様さは、どこにもない。

 だからこそ、真緒は自分の胸の静かさが気味悪かった。


「三階です」


 久世の声も、店にいたときより少し低い。

 階段を上がる。蛍光灯の光が、踊り場ごとに少しだけ暗い。三階へ着くころには、下の通りの音もだいぶ遠くなっていた。


 廊下の奥。

 302のプレートが、小さく掛かっている。


 真緒は足を止めた。


 ただの数字。

 ただのドア。

 ただの賃貸物件の玄関扉。


 それなのに、そこに立った瞬間、これまで資料や録音の向こう側にあった何かが、一歩でこちらへ近づいてきたように感じた。


「ここで、いいですか」


 久世が尋ねる。

 真緒は数秒遅れて頷いた。


「はい。……先に、時刻だけ残します」


 スマートフォンの録音を回し、ICレコーダーのランプを確認する。

 メモ帳を開く。

 白い紙の一行目には、店で書いたままの文字が残っていた。


 まだ、分からない。


 真緒はその下に、時刻と場所を書き足す。


 三月十九日 午後七時四十六分

 グレイスハイツ三〇二前

 正式説明前


 そこまで書いて、息を整えた。


「お願いします」


 久世が鍵を差し込む。

 金属音が小さく鳴る。

 開いた扉の向こうからは、何の匂いもしなかった。古い部屋特有の湿気や生活臭さえ薄い。誰もいない部屋の、乾いた空気だけがある。


 玄関の内側は暗い。

 久世が壁のスイッチを入れると、黄白い照明が点いた。


 狭い一K。

 小さなキッチン、白い壁、奥に一部屋。カーテンは外されていて、窓ガラスには夜の色だけが張りついている。

 見れば見るほど、何の変哲もない。


「中で説明します」


 その言葉に、真緒は一瞬だけ岡野の忠告を思い出した。

 部屋の中で思い出そうとしないでください。


 だが、もう戻るつもりはなかった。


 真緒は玄関の内側、靴を脱がずに立てる位置にとどまり、メモ帳を開いた。久世はキッチン脇の壁に背を預け、手元の紙を見た。彼もまた、必要最低限の言葉しか持ち込んでいないのが分かった。


「本物件については、過去に居住者の死亡事案があり、心理的瑕疵対象として——」


 最初の数語は普通だった。

 久世の声も、部屋の反響も、紙の擦れる音も、全部そのまま聞こえていた。


 真緒は書く。


 過去に居住者の死亡

 心理的瑕疵

 対象として


 そこまでは問題ない。

 問題は、その先だった。


「……その後の運用において、入居前の説明としては——」


 運用。

 説明。

 入居前。


 単語は拾える。

 意味も、まだ分かる。

 なのに、文としてつなごうとした瞬間、頭の内側のどこかで薄い膜がかかる。


 真緒はペン先を強く紙へ押しつけた。

 聞こえている。

 聞こえているのに、遅れる。

 耳と手のあいだで、意味だけが一拍ぶん遅れ、そのまま落ちる。


「……居住そのものより、説明内容の保持に——」


 保持。

 保持に、何だ。

 保持に、問題?

 保持に、支障?

 保持に——


 真緒は思考を切り替えた。文章として理解するのをやめ、音だけを写す。

 だが音だけにすると、余計に何を聞いているのか分からなくなる。


 メモ帳の上には、乱れた語だけが増えていった。


 説明

 保持

 住む前

 部屋

 ——


 久世の声は、まだ続いている。

 続いているのに、その途中から、部屋の空気ごと少しずつ遠くなる。

 遠くなるというより、中身だけが玄関の外へ押し出され、自分だけが言葉の殻の中に立っている感じだった。


 真緒はスマートフォンを確認した。録音は回っている。

 ICレコーダーの赤いランプも点滅している。

 機械は動いている。

 自分も立っている。

 なのに、肝心の説明だけが、まるで水の中の文字みたいに輪郭を保たない。


 そのとき、不意に、自分の口から小さな相槌が出た。


「……はい」


 自分で言ったのに、その「はい」がどこから出たのか、半拍だけ遅れて分かった。

 理解したから返事をしたのではない。

 理解しているはずの場面だから、身体だけが先に反応したような気味悪さがあった。


 久世が紙をめくる。

 その音が妙に大きい。


「この部屋では、聞いた内容が——」


 そこで、真緒の背中を冷たいものが走った。


 そこだけは、はっきり聞こえた気がした。

 聞いた内容が。

 その先を、聞かなければならない。

 そう思った瞬間、反対にその先が真っ白になる。


 メモ帳へ走らせたペン先は、言葉ではなく、ほとんど線だった。

 スマートフォンの画面に視線を落とすと、録音時間だけが増えている。時間は進んでいる。だが、その時間の中に何が入ったのかだけが、するりと抜けていく。


 息が浅くなった。

 だめだ、と真緒は思った。

 ここで“分かろうとする”ほど、落ちる。


 岡野の言葉。

 部屋の中で思い出そうとしないでください。


 思い出す前だ。

 今、聞いている最中だ。

 それでも同じだと、真緒はようやく理解した。


 部屋の中では、意味を留めようとした時点で、留めようとしたものから先に薄くなる。


「……川名さん?」


 久世の声が少し近づいた。

 そこで真緒は、ようやく自分が玄関脇の壁へ半歩寄りかかっていたことに気づく。


「大丈夫です」

 そう言った自分の声が、妙に静かだった。

「いったん、外へ」


 その判断だけは、まだ自分のものだった。


 真緒はメモ帳と機器を抱え、ほとんど反射で部屋を出た。

 廊下の空気に触れた瞬間、肺へ入る酸素の感覚が急に戻る。階段の踊り場まで下がり、壁へ手をついた。


 心臓がひどく速い。

 だが、それ以上に怖かったのは、今まさに聞いていたはずの説明の中身が、もう手の中から零れ始めていることだった。


 何を言われた。

 どこまで分かった。

 “聞いた内容が——”の先は何だ。


 真緒はすぐに茶封筒を開けた。

 中の紙を取り出す。


 聞いた内容が抜けても異常ではない。

 その場で納得するな。

 部屋の外で読み返せ。

「まだ分からない」を維持しろ。


 字は自分のものだ。

 内容も読める。

 けれど、その紙を読み終えたとき、真緒は逆に、自分が何かをもうすでに納得しかけていた気配に気づいた。


 危なかった、と背筋が粟立つ。

 部屋の中にいたままなら、“もう十分理解した”ことにされていたかもしれない。


 スマートフォンが震えた。

 予定していた通知だった。


 外で確認する


 その文字を見て、真緒はほとんど救われるような気持ちになった。

 聞く前の自分が、ちゃんとここにいる。

 まだ完全には持っていかれていない。


 真緒はすぐ、録音データを確認した。


 まずスマートフォン。

 再生する。

 前半は正常だ。扉の開閉音、部屋に入る足音、久世の声。

 そして説明箇所に差しかかると、やはりそこだけ音が薄くなる。


 だが今回は、第七話の実験より少しだけ違った。

 完全な無音ではない。

 誰かの呼気のような、低い擦れが残っている。


 その擦れの上に、久世の声が遠く入る。


『……この部屋では、聞いた内容が……』


 そこから数秒、また音が痩せる。

 真緒は息を止めたまま、再生位置を戻し、イヤホンを耳へ押し込んだ。


 もう一度。

 今度は、久世の声のさらに奥に、別の音があるのが分かった。


 最初はノイズだと思った。

 だが違う。

 言葉だ。

 ひどく小さい、擦れた言葉。


『……ら、住めなくなる』


 真緒の全身が硬直した。


 今のは、誰の声だ。

 久世ではない。

 女の声でも男の声でもなく、けれど耳の奥に刺さるような高さで、確かにそう言った。


 真緒は再生位置をさらに数秒戻した。

 今度はICレコーダーも同時に再生する。


 すると、二つの機器でわずかに違うが、同じ箇所に、同じ声が重なっていた。


『聞いたら、住めなくなる』


 声が震えたのは、真緒のほうだった。

 これは久世の発話ではない。

 部屋の中で、自分はそんな声を聞いた覚えがない。

 なのに録音には入っている。


 さらに次の瞬間、真緒はもっと恐ろしいことに気づく。


 その声は、自分の声だった。


 自分の発音の癖。

 語尾の落ち方。

 低く息が混じる感じ。

 普段の会話より少し固いが、間違いなく、自分の声だ。


「……うそ」


 口から漏れた声も、いま再生しているものと同じ響きに聞こえて、真緒は思わずイヤホンを外した。


 だが、逃げても意味はなかった。

 録音はまだ続いている。


 恐る恐る、今度はその先を聞く。


『聞いたら、住めなくなる。住んだら——』


 そこで少しノイズが走る。

 けれど、次の数音ははっきりしていた。


『出られなくなる』


 踊り場の壁に背を押しつける。

 手の中のスマートフォンが滑りそうになるのを、真緒は両手で掴み直した。


 自分がそんなことを言った記憶はない。

 部屋の中で、自分は「はい」と一度返しただけだ。

 少なくとも、そう思っている。


 なのに録音には、自分の声で、自分の知らない文が残っている。


 真緒は震える指で、メモ帳を開いた。

 部屋の中で乱れた文字の下に、いつの間にか、比較的読める一行があった。


 すんだらでられない


 ひらがなで、急いで押しつけたみたいな字。

 それを見た瞬間、真緒は背筋に走る冷たさを押さえきれなかった。


 自分は聞いていたのだ。

 途中まででも、あるいは断片だけでも。

 だからこそ、この字が残っている。


 まだ終わりではなかった。

 ICレコーダーのほうを最後まで再生すると、久世の説明が切れたあと、ほんの一秒ほどの静寂がある。

 その静寂の底から、今度は別の声が上がった。


 女の声だった。

 若くも老いてもいない、乾いた、体温のない声。


『だから、ここに置いていく』


 その一言だけだった。

 短く、あまりにも自然に、まるで説明の続きを言うように入っている。


 再生が終わる。

 踊り場に、夜の静けさが戻る。


 真緒はしばらく動けなかった。


 これまでの断片が、頭の中で一気につながる。


 この部屋は、聞いた内容を置いていく。

 だから説明役も、入居者も、中身だけを持ち帰れない。

 聞いた事実だけが残る。

 退去者は「私は聞きました」と書く。

 そして、ここに置いていかれた説明は、部屋の中に溜まっていく。


 久住が言っていた。

 事故そのものより、その後の説明のされ方が怖い、と。


 その意味が、ようやく分かった。


 三〇二号室は、事故の起きた場所であるだけではない。

 そこで説明されるべきことが、何年も積み重なって沈んでいる場所なのだ。


「川名さん」


 下から久世の声がした。

 いつの間にか、彼も踊り場の手前まで下りてきていたらしい。真緒が顔を上げると、その表情がさっと変わる。


「……何か、残りましたか」

「はい」


 真緒は、自分でも驚くほどはっきり答えた。


「残りました。たぶん、断片だけですけど」

「何が」

「この部屋で説明された内容は、聞いた人から抜けるだけじゃない」


 真緒は、まだ震える手でメモ帳を閉じた。


「ここに、置いていかれるんです」


 久世は一瞬、何も言わなかった。

 その沈黙の長さで、真緒には分かった。彼もまた、その言葉の意味だけは理解してしまったのだと。


「……部屋に、ですか」

「はい」


 真緒はスマートフォンを握りしめたまま、ゆっくり息を吸った。


「だから、誰も持ち帰れない。説明したことだけが残って、中身は置いていかれる。たぶん、今までの分も」


 久世が壁へ寄りかかる。

 顔色が悪い。だが、目だけは逸らさなかった。


「録音、聞かせてもらえますか」

「あとで。ここでは、もう聞きたくないです」


 その言葉は本音だった。

 今この踊り場で、もう一度あの声を聞けば、さっきかろうじて外へ持ち出した理解まで薄くなる気がした。


 真緒は茶封筒の紙をもう一度見た。


「まだ分からない」を維持しろ。


 その一文を、これほど正確だと思ったことはなかった。


 完全には分かっていない。

 全部を持ち帰れたわけでもない。

 それでも、一つだけ確かな輪郭がある。


 この部屋は、説明を奪うのではなく、

 説明を部屋の側へ蓄積していく。


 だから住人は長くいられない。

 だから担当者は関わりたがらない。

 だから退去者は、“聞いた”という事実だけを残して去る。


 真緒は、ようやく壁から背を離した。


「帰ります」

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

「今日は、これ以上やらないほうがいい」


 久世も頷いた。

 もうそれ以上確かめる必要はない、と言うより、これ以上ここで確かめてはいけないと分かった顔だった。


 階段を下りる。

 一段ごとに、身体の中へ少しずつ外の空気が戻ってくる。


 けれど踊り場を離れても、耳の奥にはまだあの自分の声が残っていた。


 聞いたら、住めなくなる。住んだら出られなくなる。


 それは警告なのか。

 過去の誰かが残した説明の断片なのか。

 あるいは、これからの自分が、もっと先の自分へ向けて言った言葉なのか。


 まだ分からない。

 だが、分からないままでも、一つだけ言えることがある。


 真緒はマンションの外へ出て、冷たい夜気を胸いっぱい吸い込んだ。


 三〇二号室は、

 ただ人が死んだ部屋ではない。


 説明されるべきことが、帰れなくなった部屋だ。

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