第八話 入室前夜
翌朝、真緒は出社してすぐ、いつもより先に自分のデスク周りを整えた。
散らばっていた付箋を剥がし、使用済みの資料を重ね、岡野からもらった紙だけをモニター脇へまっすぐ立て直す。
その一文は、今や業務メモでも私用メモでもなく、ほとんど手順書に近かった。
説明を書き残せ。意味が消えても、痕跡は残る。
昨日の実験で、三〇二号室の異常はもう「気味が悪い」では済まなくなった。
録音は抜ける。
手書きも乱れる。
タイピングも崩れる。
それでも断片は残る。
残った断片を、部屋へ入る前の自分がどれだけ外へ逃がせるか――勝負になるのは、そこだと真緒は理解していた。
始業から一時間ほど、真緒は通常業務を普段以上に正確にこなした。
承認、差し戻し、店舗確認。
キーボードを打つ指は落ち着いているのに、意識の一番深いところでは、今日やるべきことの順序だけが静かに組み上がっていく。
録音機器は最低二系統。
文字情報は手書きとデジタルを並行。
入力後の自動送信。
事前に残す文。
事後に開くための封筒。
可能なら、説明を聞く前の自分が、聞いた後の自分へ渡す指示。
そこまで頭の中で並べたところで、内線が鳴った。
「契約管理、川名です」
『冴木です。少し話せる?』
低く落ち着いた声だった。
真緒は時計を見て、「今伺います」と返した。
*
冴木は小会議室の窓際に立っていた。
朝の光がブラインド越しに入っている。資料もノートPCも開いていない。つまり業務相談ではなく、先に結論のある話だと分かる。
「座って」
「はい」
真緒が腰を下ろすと、冴木はすぐ本題に入った。
「昨日、北野町店と何をしたのか、だいたい聞いた」
「再現確認です」
「だいたいじゃなくて、かなり具体的に」
「……そうですか」
冴木は責める顔はしなかった。
その代わり、困っている人間特有の、余計な感情を押し込めた静けさがあった。
「川名さん」
「はい」
「募集停止で済ませるラインを、少し越えかけてる」
「越えないと見えないものがあります」
「それは分かる。でも会社の立場で言えば、“見えたけど説明できません”が一番扱いづらいんだよ」
真緒は答えなかった。
それは正論だった。だからこそ厄介だった。
「昨日の結果、どう整理した?」
「複数媒体で、告知箇所の欠落が再現しました」
「原因は」
「断定できません」
「そうだよね」
冴木は小さく頷いた。
「だったら、なおさらここで止めるのが現実的だと思う。三〇二は募集を止める。運用上の優先度を下げる。必要なら大家に説明して、実質クローズに近い形にもできる」
「それでは“何が起きているか”がまた消えます」
「消えるとしても、会社として背負えるのはそこまでだ」
声は穏やかだが、そこに迷いはなかった。
冴木は真緒の熱意を否定しているのではない。背負える責任の形を区切っているのだ。
「川名さんがこのまま深く入ると、仮に何か起きても、会社として“業務だった”と言いづらくなる」
「何か、とは」
「体調不良でも、顧客対応上のトラブルでも、何でも」
真緒は一度だけ視線を落とした。
机の木目が、やけに整って見える。
「……正式に説明を受けるつもりですね」
冴木は問いではなく確認として言った。
真緒は、否定しなかった。
沈黙が落ちる。
冴木は眉間に指を当て、しばらく何も言わなかった。それから、諦めに近い息を吐く。
「止めたいよ、本当は」
「分かっています」
「でも今の顔を見ると、止めても別の形で行くだろうとも思う」
「……」
「だったら、せめて一人で抱えないでほしい」
その言葉は、想定していた叱責よりずっと重かった。
真緒は顔を上げた。
「会社として正式に許可は出せない。でも、完全に知らないことにもしたくない」
「どういう意味ですか」
「最低限、行くなら行くで、痕跡を残してからにしてほしい。時間、場所、連絡手段、聞く前の状態。全部」
岡野の言葉と、奇妙な形で重なった。
聞くなら、一人で出てこないで。
真緒は小さく頷いた。
「分かりました」
「あと」
冴木はそこで少しだけ言い淀んだ。
「変な言い方だけど、“終わったあとに読むもの”を先に作っておくといいかもしれない」
「……」
「いや、俺もこういうの詳しくないから、感覚で言ってるだけだけど」
真緒は返事の代わりに、唇を結んだまま頷いた。
感覚で言っているのだとしても、それは的確だった。終わったあとに読むもの。つまり、説明を受ける前の自分が、受けた後の自分へ手渡す文だ。
「一つ確認します」
真緒は静かに言った。
「三〇二の鍵は、まだ店舗保管ですか」
「……川名さん」
「確認だけです」
「北野町店にあるはずだよ」
その返事で十分だった。
*
自席へ戻ると、真緒は新しいフォルダをひとつ作った。
名前はあえて無機質にする。
302_pre。
pre。
事前。
これから聞く前の自分が残すもの一式を、そこへまとめるつもりだった。
最初に作ったのは、テキストファイルだった。件名は一行だけ。
聞く前の確認
本文に、短く箇条書きを入れていく。
――これから三〇二号室に関する正式な説明を受ける。
――聞いた内容が保持できない可能性を前提とする。
――忘れても、欠落が起きた事実は残す。
――読めるなら、添付の録音・手書き写真・送信履歴を先に確認する。
――自分の判断が鈍っていても、その場で「大丈夫」と決めない。
打ち終えて読み返す。
文章は冷たいが、それでよかった。感情を込めると、あとで意味が滑る気がしたからだ。
次に、封筒を一枚取り出す。社内便で使う無地の茶封筒だ。表に、黒いペンで大きく書く。
忘れても、開けて読め。
中には、手書きで同じ内容を少しだけ簡潔にした紙を入れる。
――聞く前の自分へ。
――聞いた内容が抜けても異常ではない。
――その場で納得するな。
――部屋の外で読み返せ。
――「まだ分からない」を維持しろ。
最後の一文だけ、少し考えてから足した。
おまえは、説明を受けたあとに判断するな。
書いてから、その文の乱暴さに少しだけ驚いた。
だが丁寧に書くより、このくらい直接的なほうが後の自分へ届く気がした。
*
午後、真緒は必要な保存手段をさらに増やした。
スマートフォンのボイスメモ。
ICレコーダー。
クラウドへの自動同期。
指定時刻に自分宛てへ送るメールの下書き。
写真の自動アップロード設定。
それだけでは足りない気がして、真緒はもう一つ仕掛けを作る。
説明を受ける直前に、自分の顔と声を短く録画しておくのだ。
“これから説明を聞く前の自分です”と。
時間、場所、目的を言い残しておく。
後から見返した自分が、「これは確かに聞く前だった」と確認できるように。
準備を一つ増やすたび、怖さはむしろ静かになっていった。
やることが具体的になると、感情は作業の形へ薄まる。
それでも時々、唐突に胸の奥が冷たくなるのは、どれだけ備えても“中身”そのものを持ち帰れる保証はないと分かっているからだった。
スマートフォンが震えた。久世からのメッセージだった。
――今日の終業後なら、鍵を渡せます。
――正式な説明も、その場でやるなら対応します。
真緒は画面を見つめたまま、数秒動かなかった。
終業後。
つまり、もう今日だ。
迷いがなかったわけではない。
ただ、ここで先延ばしにする理由も、もうなかった。
――お願いします。
――説明前に準備時間を取らせてください。
送ると、すぐに返ってくる。
――分かりました。
――店舗の奥の会議スペースを空けます。
真緒はスマートフォンを伏せた。
その動作だけで、今日の残り時間の輪郭が変わった。
*
定時が近づくにつれ、オフィスの音が少しずつ変わっていく。
昼のあいだ絶え間なく鳴っていた電話が減り、キーボードの打鍵も疎らになり、雑談が小さく混じり始める。仕事が終わりに向かう時間の空気だ。
その中で真緒だけが、まだ始まっていないものの前にいる感じがした。
最後にやるべきこととして、真緒は自分のスケジュールに予定を一つ入れた。
件名は簡潔に。
外で確認する
通知時刻は、北野町店到着予定から四十五分後。
説明が終わっているかもしれない時間。あるいは、終わっていても終わっていなくても、自分に一度外へ出ろと告げるための目印だった。
さらに、冴木宛てに短いチャットを送る。
――本日、北野町店へ行きます。
――聞く前の記録は残します。
――終了後、連絡します。
既読はすぐついた。
返信は短かった。
――了解。
――必ず外で確認して。
真緒はその一文を見て、少しだけ息を吐いた。
誰かが外側で“確認しろ”と言っている事実は、思ったより心強かった。
*
終業後、駅へ向かう途中で、真緒はコンビニへ寄った。
追加のボールペン、メモ用紙、乾電池。必要かどうかは分からない。だが途中で「足りない」と思う余地を減らしておきたかった。
北野町店の入るビルは、昼より夜のほうが妙に狭く見えた。
商店街の灯りが少し古びていて、上階の窓には生活の明かりが点き始めている。その中に、不動産店舗の白い照明だけが平たく浮いていた。
自動ドアが開く。
店内にはまだ数人のスタッフが残っていたが、昼間よりずっと静かだ。接客席の一部は照明が落ちている。
「お疲れさまです」
久世が奥から出てきた。
顔色は良くないが、逃げる感じはなかった。
「ありがとうございます」
「準備の時間、取ってあります。奥、使ってください」
案内された小さな会議スペースに入ると、真緒はまずドアの位置と窓の位置を確認した。癖のような動作だった。
壁際の机に荷物を置く。封筒、ICレコーダー、スマートフォン、メモ帳。ひとつずつ並べる。
まるで簡易な作業台を組んでいるみたいだった。
「鍵です」
久世がテーブルの端に、一本の鍵を置いた。
シルバーの、ごく普通のシリンダーキー。タグに、黒い字で302とだけある。
真緒はそれを見た瞬間、理由の分からない違和感に襲われた。
初めて見るはずの鍵だ。
なのに、手に取る前から重さを知っている気がする。
「……川名さん?」
久世の声で、真緒ははっとした。
「すみません」
指を伸ばし、鍵に触れる。
金属の冷たさは普通だった。
ただ、その普通さの中に、ほんのわずかに既視感のようなものが混じった。以前にもこうして、このタグを見たことがあるような。いや、見たのではなく、もっと近いところで触れたことがあるような感覚。
心臓が一度だけ強く打つ。
あなたはもう聞いている。
舞の付箋の文字が、唐突に頭の奥で浮かんだ。
「……ここで準備してからにします」
真緒は鍵を離さずに言った。
「そうしてください」
久世はそれ以上何も言わず、少し離れた位置に立った。
監視でも同席でもなく、ただ“ここにいる”ための距離だった。
真緒はスマートフォンの録画を起動した。
インカメラに映る自分の顔は、思ったより普段通りだった。少なくとも表面上は。
「二〇二六年三月十九日、午後七時三十二分」
自分の声が、狭い会議スペースに落ちる。
「これからグレイスハイツ三〇二号室に関する正式な説明を受けます。聞いた内容が保持できない可能性があるため、事前記録を残します。判断は説明後すぐには行いません。必ず外で確認します」
言い終えて録画を止める。
自分の声なのに、少しだけ他人のものみたいに聞こえた。
封筒の表を確認する。
忘れても、開けて読め。
ICレコーダーの電源を入れる。
スマートフォンの自動送信設定を最後に確認する。
クラウド同期、オン。
時刻指定メール、保存済み。
通知、設定済み。
そこまで整えてから、真緒はもう一度だけ鍵を見た。
302。
銀色の、小さな金属。
その鍵が、ただの部屋の鍵ではなく、“ここから先へ入るための境界”のように見えたのは、その時が初めてだった。
久世が低く言う。
「準備は、いいですか」
真緒はすぐには答えず、鍵を手の中で握り直した。
金属の感触はやはり普通で、だからこそ気味が悪い。
この鍵の向こうにあるのは、幽霊屋敷でも廃墟でもない。ただの賃貸マンションの一室だ。
それなのに、これまで関わった全員が、中身だけを失って戻ってきた。
「……はい」
真緒はようやく言った。
「ただ、その前に一つだけ」
自分でも意外なほど落ち着いた声で、真緒はメモ帳を開いた。
白い紙の一番上に、黒いペンで大きく書く。
まだ、分からない。
書いてから、紙を机の中央へ置いた。
説明を聞く前の自分が、最後に見ておくべき言葉として。
久世はそれを見て、何も言わなかった。
言わないまま、そっと会議スペースのドアを開ける。
店の奥へ続く短い廊下の先に、夜の空気が少しだけ流れ込んでいた。
その向こうに、三〇二号室へ向かうための階段がある。
真緒は封筒と録音機器を持ち上げ、鍵を握り、立ち上がった。
その瞬間、はっきりした。
ここから先は、調査ではない。
確認でも、再現でもない。
自分が実際に、あの部屋の“聞いた内容を置いていく”仕組みへ触れに行くのだ。
足を踏み出す。
ただ一歩だけで、店の空気が少し遠くなる。
真緒は無意識に、もう一度だけ机の上のメモを振り返った。
まだ、分からない。
その一文だけが、蛍光灯の白い下で、異様にはっきり見えた。




