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告知は一度、沈黙は何度でも  作者: swingout777


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第六話 私はもう聞いている

 久住と会った翌日、真緒は出社してすぐ、三〇二号室の最新退去者の連絡先確認から始めた。


 退去報告書に記載された氏名は、藤代 舞。

 年齢は二十代後半。職業欄は広告制作会社勤務。入居期間は八か月。

 退去理由は「体調不良により住環境見直し」となっている。だが、自由記述欄の最後には、例によってあの一文が残っていた。


 私は聞きました。


 真緒は退去時の担当店舗へ、本人連絡の可否確認を入れた。個人情報の扱いとしては本来慎重であるべきだが、今回は契約運用上の確認という名目が立つ。久世は少し迷った末に、「管理確認の範囲なら」と短く返した。


 昼前、携帯へ一通の返信が届いた。

 藤代本人からだった。


 ――管理会社さんですか。

 ――三〇二の件なら、少しなら話せます。

 ――電話より会ったほうが早いです。


 文面は淡々としていた。

 拒絶ではない。けれど、こちらの名乗りだけでは済まない種類の緊張がにじんでいた。


 *


 待ち合わせは、会社から二駅離れた小さなカフェだった。

 夕方前の中途半端な時間で、店内は空いている。窓際の席にいた藤代舞は、写真で見た印象よりずっと静かな顔をしていた。


 華やかな雰囲気のある女性ではある。髪も服も整っている。だが、整っているぶんだけ、疲れを隠すのが上手い人にも見えた。


「藤代さんですか」

「はい。川名さん?」


 声は低めで落ち着いていた。

 真緒が名刺を差し出すと、舞はそれを見て、少しだけ口元を歪めた。


「ちゃんと会社の人なんですね」

「疑っていましたか」

「少し」


 座るよう促され、真緒も向かいに腰を下ろした。

 先にコーヒーを頼んでいた舞は、スプーンでカップの縁を軽く叩きながら言う。


「三〇二のこと、まだ調べてるんですか」

「はい。告知記録と退去経緯の確認をしています」

「記録」


 舞はその言葉を繰り返して、短く笑った。

 笑いというより、乾いた息に近いものだった。


「残ってるんですか、あれ」

「残っていないものが多いです。だから、藤代さんに確認したくて」

「そうでしょうね」


 言い方に棘はなかった。ただ、あきらめが先にある声音だった。


 真緒は手帳を出しかけて、少しだけ迷った。

 逐語で記録すべきだという職業的な意識はある。けれど、これまでの経緯を思うと、書くこと自体が十分な保存になるとも限らない。


「率直に伺います」

 結局、真緒はまず顔を上げたまま言った。

「三〇二号室で、何があったんですか」

「たぶん、その質問にはうまく答えられません」


 舞はすぐにそう返した。


「何か見た、とかはありません。音もしなかった。夜中に足音がするとか、誰もいないのに水が出るとか、そういうのは、本当に一度もなかったです」

「では、なぜ退去を」

「分からなくなったからです」


 真緒は言葉を待った。

 舞はカップに視線を落としたまま続ける。


「最初は、ちゃんと納得して契約したんです。事故物件だって聞いたし、安い理由も分かった。そのうえで、自分で決めて入った」

「事故内容は覚えていますか」

「そこなんです」


 舞の指が、ソーサーの縁で止まった。


「事故物件だってことは覚えてる。何かを説明されたのも覚えてる。でも、“何を聞いて納得したのか”だけが、あとで思い出せなくなったんです」

「すぐに?」

「すぐ、ではなかったです。入居したその日は普通でした。引っ越しも慌ただしかったし、新しい生活に慣れるほうが先だったから」


 舞は一度、息を整えるようにゆっくり瞬きをした。


「でも、何日かしてから、ふっと気づいたんです。“あれ、私この部屋の何を聞いたんだっけ”って」

「それが怖かった」

「はい。事故物件だってこと自体は、別にもう珍しくないじゃないですか。検索すればいくらでも出てくるし、気にしない人もいる。だから最初は、自分が神経質になってるだけだと思ったんです」


 そう言って舞はバッグからスマホを取り出した。画面を数回操作してから、真緒のほうへ向ける。


「でも、これを見つけて、違うと思いました」


 表示されていたのはメモアプリのスクリーンショットだった。

 白い画面の中央に、短い文がいくつか並んでいる。


 ――聞いた

 ――納得して入った

 ――夜に考えるな

 ――理由を一つにしない


 そのどれもが、説明文というより、忘れないための引っかき傷みたいな言葉だった。


「これ、藤代さんが?」

「自分で打ったはずです。日付も、契約の翌日」

「覚えていますか」

「打ったことは、なんとなく。でも、どういうつもりで残したかは曖昧です」


 真緒は画面に目を落としたまま、静かに尋ねた。


「“理由を一つにしない”とは」

「分かりません。たぶん、その時点の自分には必要な警告だったんだと思います」


 舞はそこでスマホを伏せた。


「最初の一か月くらいは、まだ普通に暮らしてました。会社にも行って、帰って、寝る。部屋が嫌だとも思わなかった。でも時々、玄関を閉めたあとに、“ここに住んでいる理由が少し薄い”感じがしたんです」

「理由が、薄い」

「うまく言えないんですけど」


 舞は苦笑し、それから視線を上げた。


「住んでる理由って、普通は家賃が安いとか、通勤に便利とか、部屋がきれいとか、いくつかあるでしょう。でも三〇二に関してだけ、その中の一番大事な“なぜここを選んだか”が、だんだん輪郭をなくしていくんです」


 真緒の喉の奥で、かすかに何かが鳴った。

 説明を聞いたはずなのに、その中身だけが薄くなる。担当者側に起きていたことが、入居者側ではもっと生活に近い形で現れている。


「その感覚は、部屋の中で強くなるんですか」

「……はい」


 舞は少しだけ躊躇ってから頷いた。


「外にいると、“変だな”って思えるんです。会社とか、友達と会ってるときとか。でも部屋に戻ると、“まあいいか”ってなる。別に何も起きてないんだからって、自分で自分を納得させる感じが強くなる」

「考えないようになる」

「考えないというより、考えても掴めない感じです」


 その言い方は、岡野の「部屋の中で思い出そうとしないでください」と正確に重なった。


 *


 会話が一度途切れたところで、舞はバッグの中を探り、今度は小さな紙片を取り出した。

 付箋だった。少し折れて、粘着面に埃がついている。


「これも、引っ越し前に出てきました」

 差し出された付箋には、乱れた字でこう書かれていた。


 あなたはもう聞いている


 真緒は一瞬、息を忘れた。


「……どこに貼ってあったんですか」

「鏡です。洗面所の」

「ご自身で?」

「たぶん」


 舞は“たぶん”と言いながら、明らかにその可能性を信じていた。


「引っ越しの前日、洗面台の下を片づけてたら、予備の付箋の束の裏に貼りついてたんです。最初は意味が分からなくて、でも字は自分の字で」

「その時、何を思いましたか」

「怖かったです」


 舞は初めて、その言葉をはっきり口にした。


「何か見たとかじゃなくて、自分が自分に警告を残していたことが怖かった。しかも、それを書いた理由を思い出せないのが、一番怖かったです」

「退去を決めたのは、その頃ですか」

「はい。もう住めないと思った」


 カップの中のコーヒーは、半分以上残っていた。

 舞はそれを飲まずに続ける。


「でも変なんです。退去を決めたあとも、部屋に戻ると“そこまでしなくても”って気分になるんです。自分で荷造りしてるのに、途中で“こんなことで引っ越すの、面倒だな”って冷める。だから余計に、早く出ないとまずいって思いました」

「その“まずさ”は、怪異への恐怖ではない」

「違います。自分の判断が、自分のものじゃなくなる感じです」


 その一文を聞いたとき、真緒は自分でも意識しないまま、手帳の端を強く押さえていた。


 自分の判断が、自分のものじゃなくなる。

 それは事故物件の恐怖としてあまりに地味で、けれど生活に落ちた瞬間、逃げ場がない。


「退去報告書の一文について伺ってもいいですか」

「“私は聞きました”ですか」

「はい」

「正直、書いた記憶は薄いです。でも、あれしか書けなかったんだと思います」


 舞は少しのあいだ考えてから、言葉を選ぶように続けた。


「退去理由をちゃんと書こうとしたんです。体調が悪くなったことも、眠りが浅くなったことも、部屋にいると考えが鈍る感じも。でも、どれも本当の理由じゃない気がした」

「本当の理由は」

「私は何かを聞いて、この部屋に入った。その“聞いた”がなかったことになるのが嫌だったんです」


 真緒は、その言葉をそのまま胸の内でなぞった。

 聞いたこと自体が消えるのではない。

 聞いた事実だけを残して、中身が消える。

 だから人は、“聞きました”とだけ書いて出ていく。


 *


 店を出たあと、駅へ向かう道で、真緒は自分の足取りが少しだけ不安定なのに気づいた。

 めまいではない。けれど身体の中のどこかが、舞の話に正確に反応している感じがあった。


 会社へ戻る電車の中で、真緒はスマホのメモへ断片を書きつけた。


 ・生活上の怪異はなし

 ・“なぜ住んだか”が薄くなる

 ・部屋の中で危機感が鈍る

 ・自分の字の警告

 ・退去理由の核=聞いたことを消されたくない


 最後の行を打ったところで、指が止まる。

 そのまま画面を閉じようとして、ふと違和感が走った。


 “聞いたことを消されたくない”。


 その言葉に、どこか見覚えがある気がした。

 藤代の話から自然に出てきた理解ではある。だが、それ以前に自分も似た感覚を持ったことがあるような、ほんの短い引っかかりがあった。


 真緒は眉を寄せたまま、スマホを持ち直した。

 いつだったか。

 三〇二号室のファイルを最初に見つけた日か。

 それとも、その前か。


 思い出そうとすると、そこだけ軽く白くなる。

 ほんの一瞬だが、手を伸ばしたはずの棚に、指が空を切る感じに似ていた。


 *


 席へ戻ると、すでに夕方の業務が始まっていた。

 承認依頼、修正差し戻し、店舗からの確認。真緒はいつも通り一つずつ処理しながらも、頭の片隅ではずっと舞の付箋の文字が残っていた。


 あなたはもう聞いている


 あの一文は、事後の警告として完璧すぎる。

 忘れることを前提にしていなければ書けない文章だ。


 自分も何か見落としていないか。

 そう考えたとき、真緒はふいに、第一話の夜に作ったメモファイルを開き直した。三〇二号室の異常を、初めて私用メモにまとめたときのものだ。


 グレイスハイツ三〇二。

 告知済み。

 補足文書なし。

 録音欠損あり。

 退去者備考、共通文言あり。

 説明内容が消えている可能性。


 そこまでは覚えている。

 だがスクロールを少し下げたとき、真緒は手を止めた。


 文末に、見覚えの薄い一行が追加されていたからだ。


 説明箇所要注意。


 たったそれだけ。

 業務メモとしては曖昧すぎる。

 けれど、真緒はこの一文を打った記憶が、はっきりとは出てこなかった。


「……何これ」


 声に出した瞬間、隣席の同僚がこちらを見たが、真緒は気づかないふりをした。

 入力日時を確認する。

 三〇二号室の初回確認日の、午後四時四十六分。最初に録音を聞いたあとではなく、その少し前だ。


 真緒はその時系列を頭の中で並べた。


 過去データを開く。

 退去報告を見る。

 録音を確認する。

 店舗へ電話する。


 本来ならその流れだったはずだ。

 なのに「説明箇所要注意」は、その途中に挟まっている。しかも、何を根拠にその文を残したのか、自分で思い出せない。


 胸の奥が、ゆっくり冷えていく。


 舞は言っていた。

 何かを見たわけじゃない。聞いた内容を忘れたことが怖かった、と。

 そして、自分の字で残した警告の意味が分からなくなるのが、いちばん怖かったと。


 真緒は、自分のメモの一行を見つめたまま動かなかった。


 説明箇所要注意。


 誰のための警告なのか。

 いつの時点の自分が、どこへ向けて書いたのか。

 その一番大事な部分だけが、紙一重のところで思い出せない。


 *


 夜、フロアの人が減ってから、真緒は共有システムの入力履歴まで遡って確認した。

 三〇二号室の案件を最初に開いたログ。退去報告の閲覧履歴。録音ファイルの再生開始時刻。

 その間に、十数秒だけ入力の空白がある。


 空白そのものは異常ではない。

 誰だって考えながら手を止めることはある。

 けれど今の真緒には、その空白が不自然に長く見えた。


 空白のあと、自分は「説明箇所要注意」と打っている。

 だが、何を見てそう判断したのかだけが出てこない。


 真緒は無意識に、岡野からもらった紙へ目をやった。


 説明を書き残せ。意味が消えても、痕跡は残る。


 そして、その横に貼った自分の付箋。


 幽霊ではなく、説明が危ない。


 そこまで来て、真緒ははっきり理解した。

 自分はもう、三〇二号室の外側で記録を集めているだけの立場ではない。


 まだ正式に説明を受けていない。

 部屋にも入っていない。

 それでも、何らかの形で、すでに縁に触れている。


 舞の付箋の言葉が、頭の奥で静かに響いた。


 あなたはもう聞いている。


「……まさか」


 その“まさか”の先を、自分で言葉にするのが嫌だった。

 言葉にした瞬間、それが輪郭を持ってしまう気がしたからだ。


 モニターの中で、三〇二号室の案件一覧は変わらず静かだ。

 事故歴、録音、退去報告。

 どれもただのデータで、怪談めいたものは一つもない。


 それなのに真緒は、今この瞬間初めて、自分がこの案件から離れにくくなっている感覚を覚えていた。


 担当者たちがそうだったように。

 退去者たちがそうだったように。

 関わった人間は皆、「何を聞いたか」ではなく、「聞いたことがある」という感触だけを残される。


 真緒はメモファイルの末尾に、迷った末に一行だけ足した。


 自分の初回確認時にも空白あり。


 そのあと、さらにもう一行。


 説明箇所要注意の入力意図、不明。


 保存を押した直後、理由もなく心臓が強く打った。

 まるで、これでようやく“自分も対象に入った”ことを文書化してしまったみたいだった。


 退勤時刻を過ぎても、真緒はすぐには席を立てなかった。

 背後では清掃スタッフのワゴンが通り、窓の外にはもう夜が落ちている。オフィスの蛍光灯は白く、どこまでも現実的だ。


 その現実の中で、真緒は開いたままのメモを見ていた。


 私は聞きました。


 これまで、その一文は退去者の側にある言葉だった。

 けれど今は、少しだけ意味が変わって見える。


 あれは退去者の報告ではなく、

 “まだ完全には消えていない人間”が、自分に向けて残した最後の確認なのかもしれない。


 ――聞いた。

 ――だから、今のうちにそれだけは書いておく。


 真緒はモニターを閉じる前に、最後に自分用のメモへ短く打ち込んだ。


 私はまだ、何を聞いたか知らない。


 その一行だけが、今日の自分にとっては異様に正確だった。

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