第六話 私はもう聞いている
久住と会った翌日、真緒は出社してすぐ、三〇二号室の最新退去者の連絡先確認から始めた。
退去報告書に記載された氏名は、藤代 舞。
年齢は二十代後半。職業欄は広告制作会社勤務。入居期間は八か月。
退去理由は「体調不良により住環境見直し」となっている。だが、自由記述欄の最後には、例によってあの一文が残っていた。
私は聞きました。
真緒は退去時の担当店舗へ、本人連絡の可否確認を入れた。個人情報の扱いとしては本来慎重であるべきだが、今回は契約運用上の確認という名目が立つ。久世は少し迷った末に、「管理確認の範囲なら」と短く返した。
昼前、携帯へ一通の返信が届いた。
藤代本人からだった。
――管理会社さんですか。
――三〇二の件なら、少しなら話せます。
――電話より会ったほうが早いです。
文面は淡々としていた。
拒絶ではない。けれど、こちらの名乗りだけでは済まない種類の緊張がにじんでいた。
*
待ち合わせは、会社から二駅離れた小さなカフェだった。
夕方前の中途半端な時間で、店内は空いている。窓際の席にいた藤代舞は、写真で見た印象よりずっと静かな顔をしていた。
華やかな雰囲気のある女性ではある。髪も服も整っている。だが、整っているぶんだけ、疲れを隠すのが上手い人にも見えた。
「藤代さんですか」
「はい。川名さん?」
声は低めで落ち着いていた。
真緒が名刺を差し出すと、舞はそれを見て、少しだけ口元を歪めた。
「ちゃんと会社の人なんですね」
「疑っていましたか」
「少し」
座るよう促され、真緒も向かいに腰を下ろした。
先にコーヒーを頼んでいた舞は、スプーンでカップの縁を軽く叩きながら言う。
「三〇二のこと、まだ調べてるんですか」
「はい。告知記録と退去経緯の確認をしています」
「記録」
舞はその言葉を繰り返して、短く笑った。
笑いというより、乾いた息に近いものだった。
「残ってるんですか、あれ」
「残っていないものが多いです。だから、藤代さんに確認したくて」
「そうでしょうね」
言い方に棘はなかった。ただ、あきらめが先にある声音だった。
真緒は手帳を出しかけて、少しだけ迷った。
逐語で記録すべきだという職業的な意識はある。けれど、これまでの経緯を思うと、書くこと自体が十分な保存になるとも限らない。
「率直に伺います」
結局、真緒はまず顔を上げたまま言った。
「三〇二号室で、何があったんですか」
「たぶん、その質問にはうまく答えられません」
舞はすぐにそう返した。
「何か見た、とかはありません。音もしなかった。夜中に足音がするとか、誰もいないのに水が出るとか、そういうのは、本当に一度もなかったです」
「では、なぜ退去を」
「分からなくなったからです」
真緒は言葉を待った。
舞はカップに視線を落としたまま続ける。
「最初は、ちゃんと納得して契約したんです。事故物件だって聞いたし、安い理由も分かった。そのうえで、自分で決めて入った」
「事故内容は覚えていますか」
「そこなんです」
舞の指が、ソーサーの縁で止まった。
「事故物件だってことは覚えてる。何かを説明されたのも覚えてる。でも、“何を聞いて納得したのか”だけが、あとで思い出せなくなったんです」
「すぐに?」
「すぐ、ではなかったです。入居したその日は普通でした。引っ越しも慌ただしかったし、新しい生活に慣れるほうが先だったから」
舞は一度、息を整えるようにゆっくり瞬きをした。
「でも、何日かしてから、ふっと気づいたんです。“あれ、私この部屋の何を聞いたんだっけ”って」
「それが怖かった」
「はい。事故物件だってこと自体は、別にもう珍しくないじゃないですか。検索すればいくらでも出てくるし、気にしない人もいる。だから最初は、自分が神経質になってるだけだと思ったんです」
そう言って舞はバッグからスマホを取り出した。画面を数回操作してから、真緒のほうへ向ける。
「でも、これを見つけて、違うと思いました」
表示されていたのはメモアプリのスクリーンショットだった。
白い画面の中央に、短い文がいくつか並んでいる。
――聞いた
――納得して入った
――夜に考えるな
――理由を一つにしない
そのどれもが、説明文というより、忘れないための引っかき傷みたいな言葉だった。
「これ、藤代さんが?」
「自分で打ったはずです。日付も、契約の翌日」
「覚えていますか」
「打ったことは、なんとなく。でも、どういうつもりで残したかは曖昧です」
真緒は画面に目を落としたまま、静かに尋ねた。
「“理由を一つにしない”とは」
「分かりません。たぶん、その時点の自分には必要な警告だったんだと思います」
舞はそこでスマホを伏せた。
「最初の一か月くらいは、まだ普通に暮らしてました。会社にも行って、帰って、寝る。部屋が嫌だとも思わなかった。でも時々、玄関を閉めたあとに、“ここに住んでいる理由が少し薄い”感じがしたんです」
「理由が、薄い」
「うまく言えないんですけど」
舞は苦笑し、それから視線を上げた。
「住んでる理由って、普通は家賃が安いとか、通勤に便利とか、部屋がきれいとか、いくつかあるでしょう。でも三〇二に関してだけ、その中の一番大事な“なぜここを選んだか”が、だんだん輪郭をなくしていくんです」
真緒の喉の奥で、かすかに何かが鳴った。
説明を聞いたはずなのに、その中身だけが薄くなる。担当者側に起きていたことが、入居者側ではもっと生活に近い形で現れている。
「その感覚は、部屋の中で強くなるんですか」
「……はい」
舞は少しだけ躊躇ってから頷いた。
「外にいると、“変だな”って思えるんです。会社とか、友達と会ってるときとか。でも部屋に戻ると、“まあいいか”ってなる。別に何も起きてないんだからって、自分で自分を納得させる感じが強くなる」
「考えないようになる」
「考えないというより、考えても掴めない感じです」
その言い方は、岡野の「部屋の中で思い出そうとしないでください」と正確に重なった。
*
会話が一度途切れたところで、舞はバッグの中を探り、今度は小さな紙片を取り出した。
付箋だった。少し折れて、粘着面に埃がついている。
「これも、引っ越し前に出てきました」
差し出された付箋には、乱れた字でこう書かれていた。
あなたはもう聞いている
真緒は一瞬、息を忘れた。
「……どこに貼ってあったんですか」
「鏡です。洗面所の」
「ご自身で?」
「たぶん」
舞は“たぶん”と言いながら、明らかにその可能性を信じていた。
「引っ越しの前日、洗面台の下を片づけてたら、予備の付箋の束の裏に貼りついてたんです。最初は意味が分からなくて、でも字は自分の字で」
「その時、何を思いましたか」
「怖かったです」
舞は初めて、その言葉をはっきり口にした。
「何か見たとかじゃなくて、自分が自分に警告を残していたことが怖かった。しかも、それを書いた理由を思い出せないのが、一番怖かったです」
「退去を決めたのは、その頃ですか」
「はい。もう住めないと思った」
カップの中のコーヒーは、半分以上残っていた。
舞はそれを飲まずに続ける。
「でも変なんです。退去を決めたあとも、部屋に戻ると“そこまでしなくても”って気分になるんです。自分で荷造りしてるのに、途中で“こんなことで引っ越すの、面倒だな”って冷める。だから余計に、早く出ないとまずいって思いました」
「その“まずさ”は、怪異への恐怖ではない」
「違います。自分の判断が、自分のものじゃなくなる感じです」
その一文を聞いたとき、真緒は自分でも意識しないまま、手帳の端を強く押さえていた。
自分の判断が、自分のものじゃなくなる。
それは事故物件の恐怖としてあまりに地味で、けれど生活に落ちた瞬間、逃げ場がない。
「退去報告書の一文について伺ってもいいですか」
「“私は聞きました”ですか」
「はい」
「正直、書いた記憶は薄いです。でも、あれしか書けなかったんだと思います」
舞は少しのあいだ考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「退去理由をちゃんと書こうとしたんです。体調が悪くなったことも、眠りが浅くなったことも、部屋にいると考えが鈍る感じも。でも、どれも本当の理由じゃない気がした」
「本当の理由は」
「私は何かを聞いて、この部屋に入った。その“聞いた”がなかったことになるのが嫌だったんです」
真緒は、その言葉をそのまま胸の内でなぞった。
聞いたこと自体が消えるのではない。
聞いた事実だけを残して、中身が消える。
だから人は、“聞きました”とだけ書いて出ていく。
*
店を出たあと、駅へ向かう道で、真緒は自分の足取りが少しだけ不安定なのに気づいた。
めまいではない。けれど身体の中のどこかが、舞の話に正確に反応している感じがあった。
会社へ戻る電車の中で、真緒はスマホのメモへ断片を書きつけた。
・生活上の怪異はなし
・“なぜ住んだか”が薄くなる
・部屋の中で危機感が鈍る
・自分の字の警告
・退去理由の核=聞いたことを消されたくない
最後の行を打ったところで、指が止まる。
そのまま画面を閉じようとして、ふと違和感が走った。
“聞いたことを消されたくない”。
その言葉に、どこか見覚えがある気がした。
藤代の話から自然に出てきた理解ではある。だが、それ以前に自分も似た感覚を持ったことがあるような、ほんの短い引っかかりがあった。
真緒は眉を寄せたまま、スマホを持ち直した。
いつだったか。
三〇二号室のファイルを最初に見つけた日か。
それとも、その前か。
思い出そうとすると、そこだけ軽く白くなる。
ほんの一瞬だが、手を伸ばしたはずの棚に、指が空を切る感じに似ていた。
*
席へ戻ると、すでに夕方の業務が始まっていた。
承認依頼、修正差し戻し、店舗からの確認。真緒はいつも通り一つずつ処理しながらも、頭の片隅ではずっと舞の付箋の文字が残っていた。
あなたはもう聞いている
あの一文は、事後の警告として完璧すぎる。
忘れることを前提にしていなければ書けない文章だ。
自分も何か見落としていないか。
そう考えたとき、真緒はふいに、第一話の夜に作ったメモファイルを開き直した。三〇二号室の異常を、初めて私用メモにまとめたときのものだ。
グレイスハイツ三〇二。
告知済み。
補足文書なし。
録音欠損あり。
退去者備考、共通文言あり。
説明内容が消えている可能性。
そこまでは覚えている。
だがスクロールを少し下げたとき、真緒は手を止めた。
文末に、見覚えの薄い一行が追加されていたからだ。
説明箇所要注意。
たったそれだけ。
業務メモとしては曖昧すぎる。
けれど、真緒はこの一文を打った記憶が、はっきりとは出てこなかった。
「……何これ」
声に出した瞬間、隣席の同僚がこちらを見たが、真緒は気づかないふりをした。
入力日時を確認する。
三〇二号室の初回確認日の、午後四時四十六分。最初に録音を聞いたあとではなく、その少し前だ。
真緒はその時系列を頭の中で並べた。
過去データを開く。
退去報告を見る。
録音を確認する。
店舗へ電話する。
本来ならその流れだったはずだ。
なのに「説明箇所要注意」は、その途中に挟まっている。しかも、何を根拠にその文を残したのか、自分で思い出せない。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
舞は言っていた。
何かを見たわけじゃない。聞いた内容を忘れたことが怖かった、と。
そして、自分の字で残した警告の意味が分からなくなるのが、いちばん怖かったと。
真緒は、自分のメモの一行を見つめたまま動かなかった。
説明箇所要注意。
誰のための警告なのか。
いつの時点の自分が、どこへ向けて書いたのか。
その一番大事な部分だけが、紙一重のところで思い出せない。
*
夜、フロアの人が減ってから、真緒は共有システムの入力履歴まで遡って確認した。
三〇二号室の案件を最初に開いたログ。退去報告の閲覧履歴。録音ファイルの再生開始時刻。
その間に、十数秒だけ入力の空白がある。
空白そのものは異常ではない。
誰だって考えながら手を止めることはある。
けれど今の真緒には、その空白が不自然に長く見えた。
空白のあと、自分は「説明箇所要注意」と打っている。
だが、何を見てそう判断したのかだけが出てこない。
真緒は無意識に、岡野からもらった紙へ目をやった。
説明を書き残せ。意味が消えても、痕跡は残る。
そして、その横に貼った自分の付箋。
幽霊ではなく、説明が危ない。
そこまで来て、真緒ははっきり理解した。
自分はもう、三〇二号室の外側で記録を集めているだけの立場ではない。
まだ正式に説明を受けていない。
部屋にも入っていない。
それでも、何らかの形で、すでに縁に触れている。
舞の付箋の言葉が、頭の奥で静かに響いた。
あなたはもう聞いている。
「……まさか」
その“まさか”の先を、自分で言葉にするのが嫌だった。
言葉にした瞬間、それが輪郭を持ってしまう気がしたからだ。
モニターの中で、三〇二号室の案件一覧は変わらず静かだ。
事故歴、録音、退去報告。
どれもただのデータで、怪談めいたものは一つもない。
それなのに真緒は、今この瞬間初めて、自分がこの案件から離れにくくなっている感覚を覚えていた。
担当者たちがそうだったように。
退去者たちがそうだったように。
関わった人間は皆、「何を聞いたか」ではなく、「聞いたことがある」という感触だけを残される。
真緒はメモファイルの末尾に、迷った末に一行だけ足した。
自分の初回確認時にも空白あり。
そのあと、さらにもう一行。
説明箇所要注意の入力意図、不明。
保存を押した直後、理由もなく心臓が強く打った。
まるで、これでようやく“自分も対象に入った”ことを文書化してしまったみたいだった。
退勤時刻を過ぎても、真緒はすぐには席を立てなかった。
背後では清掃スタッフのワゴンが通り、窓の外にはもう夜が落ちている。オフィスの蛍光灯は白く、どこまでも現実的だ。
その現実の中で、真緒は開いたままのメモを見ていた。
私は聞きました。
これまで、その一文は退去者の側にある言葉だった。
けれど今は、少しだけ意味が変わって見える。
あれは退去者の報告ではなく、
“まだ完全には消えていない人間”が、自分に向けて残した最後の確認なのかもしれない。
――聞いた。
――だから、今のうちにそれだけは書いておく。
真緒はモニターを閉じる前に、最後に自分用のメモへ短く打ち込んだ。
私はまだ、何を聞いたか知らない。
その一行だけが、今日の自分にとっては異様に正確だった。




