第五話 最初の事故
岡野と会った翌日、真緒は午前中の定型業務を片づけながら、三〇二号室の物件情報を改めて開いていた。
グレイスハイツ。
都内西部。築二十五年。
管理会社は自社系列。所有者は個人名義。
久住 恒一郎。
これまで資料の上では何度も見てきた名前だが、直接話したことはない。
営業メモには「干渉少なめ」「値下げ相談は通りやすい」「細かい修繕判断は遅い」とだけあり、大家としてはよくある分類だった。
だが三〇二号室だけ、評価がひどく薄い。
部屋自体への苦情は少ない。設備不良も多くない。
それなのに入居は続かず、引き継ぎは短く、説明は残らない。
こういうとき、本来なら所有者側に事故履歴と告知経緯の整理を依頼する。
真緒は管理画面の連絡先から久住の番号を控え、昼前に電話をかけた。
呼び出し音は四回で切れた。
『はい』
低い男の声だった。
年齢の割に張りはあるが、警戒の色が先に立つ声だ。
「契約管理の川名と申します。グレイスハイツ三〇二号室について、少し確認したいことがありまして」
『……不動産屋さん?』
「はい。管理側の契約確認です」
『また三〇二か』
その一言に、真緒は無意識にペンを握り直した。
「“また”というのは」
『いや、こっちの話です。何でしょう』
口調は平坦だったが、話題を引き戻す速さに、触れられたくないものへの慣れがあった。
「過去の事故履歴について、所有者側の認識を確認したいんです。契約データと店舗報告に齟齬がありまして」
『齟齬』
「はい。三〇二は心理的瑕疵ありで運用されていますが、事故内容の説明記録が整理されていません」
『説明、ね』
久住はそこで小さく息を吐いた。
嫌気でも怒りでもない、もっと擦り切れた種類の諦めに近かった。
『電話でどこまで言えばいいのか分からないな』
「差し支えなければ、対面でも結構です」
『今日の午後なら在宅です』
「では伺います」
約束は、拍子抜けするほどあっさり決まった。
*
午後二時過ぎ、真緒は最寄り駅から十分ほど歩いた古い住宅地の一角に立っていた。
久住の自宅は二階建ての、少しくたびれたが手入れの行き届いた家だった。門扉の横に小さな表札が出ている。
応答のあとに現れた久住 恒一郎は、七十手前くらいの男だった。
背筋はまだ伸びていて、顔立ちにも崩れは少ない。だが目元には、長いあいだ同じ種類の疲れを抱えてきた人間の乾きがある。
「川名さん?」
「はい。本日はお時間ありがとうございます」
「立ち話も何だから、どうぞ」
通された居間は静かだった。
壁際に小さな仏壇があり、窓際には観葉植物が二鉢。家具の配置も整っている。生活の雑音が少ない家だと真緒は思った。
麦茶が一つ置かれ、久住は向かいに座るなり、先に口を開いた。
「事故のこと、ですよね」
「はい」
「管理会社のほうでは、どこまで把握してるんですか」
探るような聞き方だった。
真緒は曖昧にせず返した。
「三〇二号室が心理的瑕疵扱いであること。入居者の入れ替わりが早いこと。告知はしていることになっているのに、その記録だけが整理されていないこと。そこまでです」
「……なるほど」
久住は頷き、麦茶には手をつけなかった。
「最初の事故は、十年以上前です。正確には十二年」
「内容を伺えますか」
「孤独死です。男性。三十代後半だったかな。勤め人で、昼間はほとんどいなくて、近所づきあいも薄い人だった」
真緒はメモを取り始めた。
ここまでは、ありふれた事故物件の履歴に見える。
「発見まで」
「少しかかりました。管理会社から、家賃と連絡が両方止まってると連絡が来て。合鍵で入ったら、という流れです」
「死因は」
「病死。事件性はなし」
久住の口調は淡々としていた。
感情的な脚色もなく、必要な事実だけを出している。だが、それが逆にこの話を何度も繰り返してきた人間の話し方にも聞こえた。
「その後、告知義務の対象として運用が始まった」
「そうです。一定期間は空けて、そのあと募集を再開した。最初のうちは、普通だったんです」
「普通、とは」
「入った人が少し住んで、出る。事故物件だからまあそんなものか、という程度に」
真緒は顔を上げた。
「最初から、短期退去はあったんですね」
「ありました。でも、珍しいほどではなかった。安いから入る人は入るし、気にしない人もいる。そういう部屋はいくらでもある」
そこで久住は初めて麦茶を一口飲んだ。
そして、グラスを置く音が小さく部屋に響く。
「おかしくなったのは、その少しあとです」
「何が」
「説明した人間のほうが、嫌がるようになった」
真緒は手帳に触れたまま止まった。
「担当者が、ですか」
「ええ。最初は管理会社の人が妙に言い淀むようになって、それから“記録が残ってない”“確認しづらい”って話が増えた」
「入居者側ではなく」
「入居者も長くは続かなかった。でも、先に変になったのは、説明する側だった気がします」
真緒の背中を、じわりと冷たいものが伝った。
岡野が言ったこと、久世が言ったこと、ここで大家の認識とつながってくる。
「何か、はっきりしたきっかけはあったんですか」
「きっかけというか……」
久住は視線を窓のほうへ逸らした。
外ではどこかの家の犬が一度だけ鳴き、それきり静かになった。
「二人目の入居者です」
「二人目」
「事故のあと、一人入って、半年くらいで出た。その次の人です。女性でした。入居時は“事情は承知しています”って落ち着いていて、大家としても丁寧な人だと思ってた」
「その人に何が」
「退去のとき、“聞いていた内容が思い出せない”って言ったんです」
真緒は息を詰めた。
「誰にですか」
「管理会社に。私にも、遠回しにそんなことを言った。事故物件なのは分かってる。でも“何を聞いて納得したのかが分からない”って」
居間の空気が、ほんの少しだけ重くなった気がした。
それは心霊めいた気配ではなく、言葉にすると形が変わってしまいそうな種類の沈黙だった。
「そのときは、どう受け止めましたか」
「疲れてるのかな、くらいにしか思わなかったです。私もね、まだ“そういうもの”だと思いたかったから」
「ですが、その後も続いた」
「続きました」
久住は即答した。
「入居者が出るたびに、管理会社の人間の言い方が似てくるんです。“ちゃんと説明はした”“でも記録が”“録音が”“前の担当が”って。誰も事故そのものの話をしなくなる」
「なぜだと思いますか」
「分かりません。ただ」
そこで久住は、初めて真緒を真正面から見た。
「“出る”とかじゃないんです」
その言葉は、これまでの誰よりもはっきりしていた。
「どういう意味ですか」
「幽霊が見えたとか、音がするとか、そういうことじゃない。少なくとも、私が聞いた範囲ではね。あの部屋はそういうふうには騒がれなかった」
「では何が起きていると」
「説明した人ほど、長くその部屋に関わりたがらない」
真緒は、胸の奥に小さな硬さができるのを感じた。
この人は、原因を分かっていない。だが現象の輪郭だけは、自分たちよりずっと長く見てきたのだ。
「長く関わりたがらない、というのは」
「担当が変わる。説明を嫌がる。募集条件の話ばかりして、中身の話を避ける。入居者も、怖いと騒ぐ人はあまりいないのに、長くは住まない」
久住はそこで一度、口を閉じた。
何かを言うかどうか迷っている顔だった。
「……川名さん、正直に言います」
「はい」
「私は、最初の事故そのものより、“その後の説明のされ方”のほうが怖かった」
真緒は、ペン先を紙につけたまま動けなかった。
「事故は事故です。人が亡くなった。それは現実に起きたことで、重いし、軽く扱うつもりもない。でも、そのあと何年も経って、みんなが同じように“説明したはずなのに残らない”って顔になるのを見てると、問題は死そのものじゃなくなっていった」
言葉を選びながら、久住はゆっくり続けた。
「事故物件っていうのは、本来“何があったか”を説明する部屋でしょう。けど三〇二は、その説明が毎回どこかへ行く。そうなると、部屋について話すこと自体が変に見えてくる」
真緒はその一文を、ほとんどそのまま書き取った。
部屋について話すこと自体が変に見えてくる。
まさに今、自分がそこへ足を踏み入れているのだと思った。
*
ひと通り聞き終えたあと、真緒は最後の確認として尋ねた。
「久住さんご自身は、事故の内容を今も正確に説明できますか」
「最初の事故の事実だけなら」
「では、その後の入居者に何を告知すべきかは」
「……そこになると、言葉が薄くなる」
久住は苦く笑った。
その笑いに、もう隠す気配はなかった。
「私も管理会社に何度か聞かれましたよ。“どこまで説明すべきか”“どう表現していたか”って。でも、毎回うまく言えなくなる。病死があった、孤独死だった、それは言える。なのに、そのあと何をどう補えばよかったのかになると、急に自信がなくなるんです」
「ご自身でも?」
「ええ。大家がこれじゃ困るでしょう」
困る、という言い方には自嘲があった。
だが真緒には、それが単なる無責任には見えなかった。むしろこの人は長いあいだ、“説明しようとして説明できない”側に立たされ続けてきたのだ。
「一つだけ」
真緒は手帳を閉じる前に言った。
「住んでから知るより、聞いてから入るほうが危ない部屋もある、と以前おっしゃっていましたね」
「言いましたか」
「はい」
「……そう思ってます」
久住は少しだけ目を伏せた。
「事故物件なら、普通は“住んでみたら怖かった”になるでしょう。でもあの部屋は、住んでる最中より、説明の時点で変な感じになる人が多い。だから、入居後の怪異というより、入居前の言葉のほうが先に人を変にする」
「言葉が」
「ええ。だから私は、“出る部屋”とは思ってないんです。あそこは“話すと変になる部屋”です」
その一言は、真緒の中で静かに沈んだ。
話すと変になる部屋。
怪談としては地味なくせに、現実の仕事へ持ち込まれた瞬間、異様に逃げ場がない。
*
帰り道、真緒は駅までの緩い坂を歩きながら、今日の話を頭の中で並べ直していた。
最初の事故は、十二年前の孤独死。
それ自体は事故物件として説明可能な事実だ。
だが、その後二人目の入居者の頃から、“聞いた内容が思い出せない”という訴えが現れた。
そこから先は、部屋に起きた異常というより、
部屋について説明する人間の側に起きる異常として積み重なっている。
担当者が曖昧になる。
録音が抜ける。
引き継ぎが短くなる。
退去者は“聞いた事実だけ”を書いて出ていく。
真緒は歩道橋の上で一度立ち止まり、スマホのメモを開いた。
箇条書きの最後に、新しく一行を足す。
事故の事実より、説明行為のほうが異常の中心に近い。
打ち込んだあと、しばらく画面を見ていた。
この結論はまだ仮説だ。
だが、これまで拾ってきた断片はすべて、そこへ向かっている。
会社へ戻ると、夕方のフロアはまだ明るかった。
真緒は席に着くなり、今日の面談内容を社内共有に上げるべきか考えた。
大家の主観、古い記憶、明確な証拠にはならない話。報告書にするには弱い。
けれど何も残さないのは、もっとまずい。
迷った末、真緒は業務メモと私用メモを分けて記録した。
業務メモには事実だけを書く。
――最初の事故は十二年前の孤独死。
――以後、短期退去が継続。
――所有者は幽霊現象を否定。
――告知内容の継続的な整理困難を認識。
そして私用メモには、その下にこう足した。
説明する側から先に変になる。
書いてすぐ、真緒はその文を見返した。
自分の言葉としては荒い。
だが、今日の久住の話をいちばん正確に写している気がした。
そのとき、冴木から短いチャットが入る。
――三〇二、まだ追ってる?
真緒は数秒だけ迷い、正直に返した。
――大家ヒアリングまで実施しました。
――最初の事故と、その後の運用経緯を確認中です。
返信はすぐだった。
――そこまでやる必要ある?
必要。
そう打ちかけて、真緒は消した。
代わりに、事務的に返す。
――告知内容の整理に必要です。
既読はついたが、そのあとは何も来なかった。
真緒は小さく息をついて、モニターの脇に立てたままの紙へ視線を向けた。
説明を書き残せ。意味が消えても、痕跡は残る。
その文の横に、自分用の付箋を一枚追加する。
細い字で、短く。
幽霊ではなく、説明が危ない。
書いた瞬間、それは仮説である以上に、三〇二号室へ近づくための方位のように思えた。
事故物件の中心にあるのは、普通なら死の記録だ。
だがこの部屋では、死の記録は出発点にすぎない。
そのあと何度も繰り返される“説明”のほうに、別の何かがまとわりついている。
真緒は端末の画面を閉じる前に、最後にもう一度だけ三〇二号室の一覧を見た。
事故歴。退去履歴。録音ファイル。欠けた文書。
どれも静かなデータだ。
なのにその静けさは、何も起きていない静けさではない。
人が亡くなった部屋の沈黙ではなく、
人が何度も説明し、そのたびに中身だけ持ち去られたあとの沈黙。
その違いが分かってしまったことを、
真緒はもう、なかったことにはできなかった。




