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告知は一度、沈黙は何度でも  作者: swingout777


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第三話 説明した事実だけが残る

 その日の午後、真緒は三〇二号室に関わった担当者の名前を一覧に並べ、在籍中の者から順に連絡を取っていった。


 録音の欠損、補足文書の不在、退去者の共通文言。

 そこまでは資料で追える。

 けれど、資料だけでは届かない部分があると分かってきた以上、当事者の口から聞くしかなかった。


 最初に応じたのは、別店舗へ異動した元担当の緑川。

 次に、現在も北野町店にいる久世。

 そのあと、当時一度だけ応援で重説に入ったという女性スタッフにも、短時間だけ話を聞けることになった。


 真緒は三人それぞれに、ほぼ同じ質問を投げた。


 ――三〇二号室で、何をどう告知しましたか。


 最初に答えようとしたのは緑川だった。

 昼休みの終わり際、彼は画面の向こうで眉を寄せ、何度か口を開きかけて閉じた。


『ええと……事故があったことは、説明してます』

「はい」

『その、いつ頃で、どういう……』

「内容です」

『内容、ですよね』


 緑川は額に手を当てた。

 思い出せないのを取り繕う人間の態度とは少し違う。ごまかす時の軽さがない。むしろ、きちんと答えようとするほど詰まっていく顔だった。


『いや、本当に変なんですけど』

「何がですか」

『説明した場面は出るんです。席の位置も、お客さんがどのタイミングで水飲んだかも、資料をめくった感じも覚えてるんですよ。でも、肝心の言葉だけ出てこない』


 真緒はキーボードに指を置いたまま止まった。


「言葉だけ?」

『はい。“この物件では過去に……”までは出るんです。その先が、急に霧みたいになるというか』


 緑川は苦笑したが、その笑いには明らかに居心地の悪さがあった。


『俺、昨日あれから自分でも考えたんです。でも、思い出そうとすると、説明の場面だけが逆に薄くなるんですよ』

「資料を見れば思い出しませんか」

『資料がないから困ってるんじゃないですか』


 その通りだった。

 真緒は反論せず、通話を切ったあとメモ欄に短く記す。


 場面の記憶あり。文言のみ不明。


 *


 次に応じたのは久世だった。

 北野町店のバックヤードらしく、後ろでコピー機の音と誰かの声が混じる。


『率直に言いますけど、川名さん。俺、最初は店の管理が雑なんだと思ってました』

「今は違う?」

『雑なのは雑です。でも、それだけじゃ説明つかない』


 久世は低い声でそう言い、少し間を置いた。


『あの部屋、一回ちゃんと自分で説明したことがあるんです。去年の秋でしたかね』

「そのときのことを教えてください」

『店のブースで、いつも通り資料出して、録音回して。お客さんは若い男の人で、転勤で急いでる感じでした。そこまでは覚えてます』

「告知の中身は」

『……そこです』


 久世の声が、電話越しにも分かるほど鈍くなった。


『事故があったって話はした。たぶん、いつ頃とか、どのくらい経ってるかとか、そういうのも言った。でも、その“たぶん”の先が全部あやふやなんです』

「録音は残っている」

『残ってました。でも抜けてる』

「ご自身で聞き返しましたか」

『聞きましたよ。余計気持ち悪くなりました』


 久世が吐き捨てるように笑う。


『あの録音、無音のあとに俺、“以上です”って言ってるんです。以上も何も、その前がないのに』

「説明した実感だけが残っている」

『そうです』


 真緒はその一文を、ほとんどそのまま打ち込んだ。


 説明した実感のみ残存。内容不明。


 打ち込んだ直後、妙に仕事の報告書らしい文面だと思った。

 冷静な日本語に落としたぶんだけ、逆に気味が悪い。


「久世さん」

『はい』

「そのとき、何か変わったことは」

『変わったこと、っていうと』

「説明後の体調、感覚、違和感」

『……置いてきた感じがしました』

「何を」

『分からない。でも、店出たあとに、重要な用事ひとつ終えたみたいに軽くなったんです。で、夜になって録音チェックしたら、肝心なとこだけ何も残ってない』


 真緒は一瞬、画面から目を離した。

 第二話の最後に久世が言った言葉が、ここで別の質感を帯びる。


 置いてきた感じ。

 その感覚を、彼は比喩ではなく、本当に身体感覚として覚えている。


 *


 三人目の応援スタッフは、経理へ異動したばかりの女性だった。

 対面ではなく、社内チャットの通話機能で短く話すだけになった。名は早乙女といった。


『すみません、正直あんまり関わりたくないです』

 開始早々、彼女はそう言った。

「どうしてですか」

『忘れ方が、普通じゃなかったので』


 真緒は背筋を伸ばした。


「普通じゃない、とは」

『普通、説明を忘れるなら、最初から曖昧にしか覚えてないじゃないですか。でもあのときは、終わった直後はちゃんと理解してたんです。説明した、相手が嫌がった、でも契約は前向きで、店舗としては進める流れになった――そこまで、終わって十分くらいは分かってた』

「そのあと?」

『トイレから戻ったら、内容だけ落ちてました』


 真緒は思わず相手の顔を見た。

 画面の向こうで、早乙女は真顔のままだった。


『本当に、そうとしか言えないです。“何の話をして相手があんな顔になったのか”だけ、すぽんと抜けた感じで』

「誰かに相談しましたか」

『しました。店長に。でも“じゃあ録音聞けばいい”って言われて、聞いたら無音で』

「その後は」

『それ以上話しても、みんな嫌な顔するんです。気にしすぎだとか、たまたまだとか』


 早乙女はそこで視線を伏せた。


『でも、たまたまで何人も同じ忘れ方しますか』


 通話が終わったあと、真緒はしばらく何も打てなかった。


 忘れ方が、普通じゃない。

 それは感想ではなく、すでに現象の説明に近かった。


 書類が抜けるのではない。

 録音が飛ぶだけでもない。

 説明に関わった人間の中で、説明内容そのものが、後から不自然に抜け落ちる。


 その認識が、ようやく一つの形になり始めていた。


 *


 夕方、真緒は自分の席で関係者の証言を時系列に並べ直した。


 緑川。

 場面は覚えている。言葉だけ出てこない。


 久世。

 説明した実感だけが残る。内容は思い出せない。


 早乙女。

 説明直後はいったん理解していたはずなのに、後からそこだけ落ちる。


 そして資料側では、

 補足文書がない。

 録音の特定箇所だけが無音。

 退去者は「私は聞きました」とだけ残す。


 真緒は椅子にもたれ、天井ではなく、モニターの黒い縁を見た。

 頭の中で何度も同じ言葉が反芻される。


 説明した事実だけが残る。

 説明した事実だけが残る。


 それは、記録不備の言い換えではない。

 もっとはっきり異常の性質を言い当てている。


 説明という行為の外枠だけが残って、

 中身だけが剥がされている。


「川名さん」


 名を呼ばれ、真緒ははっとした。

 斜め後ろに、店長の冴木が立っていた。四十代前半、声も態度も穏やかな男だが、余計な火種を好まない現実派でもある。


「ちょっといい?」


 会議室まで行くほどでもない、と言われ、二人は空いた打ち合わせスペースへ移動した。

 ガラス越しにフロアの明かりが見える。冴木は座るなり、真緒の手元のメモ一覧へ一瞥をくれた。


「三〇二、まだ追ってるんだね」

「追わないと承認できません」

「今回の申込は保留にしたんだろ」

「はい」

「じゃあ、それでいったん止まる」


 冴木の口調は穏やかだったが、結論は先に置かれていた。


「それだけでは済まないと思います」

「済まないかもしれない。でも、現時点で会社としてできるのは、募集を止めるか、資料が揃うまで保留にするか、そのくらいだよ」

「資料が揃わない理由が異常です」

「異常、ね」


 冴木はそこで苦く笑った。


「気持ちは分かる。録音が飛ぶ、担当者が曖昧、退去者の文言が似てる。気味悪いよ。でもそれをどう報告書に書くの?」

「そこを整理してます」

「“内容だけが消える”って?」


 真緒は返事をしなかった。

 冴木は責めているわけではない。困っているのだ。そんなことは分かる。だが、分かることと引き下がることは別だった。


「川名さん」

 冴木は声を少し落とした。

「深追いしすぎないほうがいい。こういうのは、現場で何となく避けられてる理由がある。きれいに言語化できないものに、会社のラインを乗せると余計ややこしくなる」


 その言い方に、真緒はかすかな苛立ちを覚えた。


「言語化できないから避ける、で済ませてきた結果が今です」

「分かってるよ。でも、トラブルが表面化していないのも事実だ」

「表面化していないのではなく、表面化する前に皆出ていってます」

「それも含めて、募集停止なら対応としては成立する」


 成立。

 その言葉が、今日はやけに薄く聞こえた。


 真緒は手元のメモへ視線を落とした。

 そこにはもう、記録不備の範囲を越えた事象が並んでいる。けれど、どれも「証拠」と呼ぶには弱い。弱いからこそ、こうやって棚上げされる。


「……分かりました」

 そう答えるしかなかった。

「ただ、もう少しだけ確認します」

「少しだけ、ね」


 冴木は念を押すように繰り返し、席を立った。


 *


 夜、フロアの人がだいぶ減ってから、真緒は一人で再び三〇二号室の一覧を見返した。


 昼間にまとめた証言を読み直す。

 場面の記憶はある。

 説明した実感はある。

 相手の反応も覚えている。

 なのに中身だけ出てこない。


 その奇妙さを、どう書けばいいのか。

 報告書の言葉を探しながら、真緒はふと、自分の指先がキーボードの上で止まっていることに気づいた。


 頭の中には、もう一つの言葉が浮かんでいた。


 置いてきたみたい。


 久世が言った、あの曖昧な表現だ。

 本来なら業務メモに持ち込まない種類の言葉だった。けれど、今この件の異常をいちばん正確に表しているのは、むしろその雑な表現のほうかもしれなかった。


 説明内容だけを、どこかに置いてきてしまう。

 そう考えると、退去者たちの一文も少しだけ形を変える。


 私は聞きました。

 聞いた。だが残っていない。

 だから、その事実だけを書いて出ていく。


 真緒は新しいメモファイルを開き、今度は誰に見せるためでもない自分用の記録として、短く打ち込んだ。


 説明した事実だけが残る。内容だけが残らない。


 そこで一度、カーソルが止まる。

 さらに一行、足した。


 担当者の記憶も同様。


 書き終えた瞬間、空調の音が少しだけ大きく聞こえた。

 オフィスは静かで、遠くに掃除機の音がする。夜の会社の音だ。

 なのに、三〇二号室の一覧を映すモニターだけが、別の場所へつながっているみたいに冷たく見えた。


 真緒は深く息を吸い、録音一覧の備考欄へカーソルを合わせた。

 明日の自分が見ても意味が通るように、今の結論を短く残す必要がある。


 考えた末、こう入力した。


 説明内容の欠落は、媒体不備ではなく関係者共通の現象である可能性。


 少し硬すぎる。

 けれど、いまの自分に書けるのはそこまでだった。


 保存を押した瞬間、背後で小さな物音がした。

 振り返ると、誰もいない。コピー機の自動停止音だったらしい。


 それでも鼓動が一度だけ強く鳴ったのは、たぶん、今日初めて真緒自身がこの件を“ただの案件”として扱えなくなったからだ。


 録音は抜ける。

 書類も残らない。

 そして人間の頭からも、同じ箇所だけが落ちる。


 そこまで揃えば、もう偶然とは言いにくい。


 モニターの隅で、退去報告の一文がまた目に入った。


 私は聞きました。


 その文字列を見たとき、真緒ははっきりと、あれが単なる報告ではないと感じた。

 あれはたぶん、退去理由ですらない。

 説明されたことを忘れてしまう前に、かろうじて残せた最小限の事実だ。


 ――聞いた、という事実だけ。


 真緒は画面を閉じなかった。

 閉じた瞬間に、この奇妙な輪郭まで少し薄くなる気がしたからだ。


 その夜、退勤前にもう一度だけ三〇二号室の一覧を見たとき、

 真緒は自分の中でひとつの線を越えたのを知った。


 この部屋は、事故物件である以前に、

 説明の中身が残らない部屋なのだと。

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