第三話 説明した事実だけが残る
その日の午後、真緒は三〇二号室に関わった担当者の名前を一覧に並べ、在籍中の者から順に連絡を取っていった。
録音の欠損、補足文書の不在、退去者の共通文言。
そこまでは資料で追える。
けれど、資料だけでは届かない部分があると分かってきた以上、当事者の口から聞くしかなかった。
最初に応じたのは、別店舗へ異動した元担当の緑川。
次に、現在も北野町店にいる久世。
そのあと、当時一度だけ応援で重説に入ったという女性スタッフにも、短時間だけ話を聞けることになった。
真緒は三人それぞれに、ほぼ同じ質問を投げた。
――三〇二号室で、何をどう告知しましたか。
最初に答えようとしたのは緑川だった。
昼休みの終わり際、彼は画面の向こうで眉を寄せ、何度か口を開きかけて閉じた。
『ええと……事故があったことは、説明してます』
「はい」
『その、いつ頃で、どういう……』
「内容です」
『内容、ですよね』
緑川は額に手を当てた。
思い出せないのを取り繕う人間の態度とは少し違う。ごまかす時の軽さがない。むしろ、きちんと答えようとするほど詰まっていく顔だった。
『いや、本当に変なんですけど』
「何がですか」
『説明した場面は出るんです。席の位置も、お客さんがどのタイミングで水飲んだかも、資料をめくった感じも覚えてるんですよ。でも、肝心の言葉だけ出てこない』
真緒はキーボードに指を置いたまま止まった。
「言葉だけ?」
『はい。“この物件では過去に……”までは出るんです。その先が、急に霧みたいになるというか』
緑川は苦笑したが、その笑いには明らかに居心地の悪さがあった。
『俺、昨日あれから自分でも考えたんです。でも、思い出そうとすると、説明の場面だけが逆に薄くなるんですよ』
「資料を見れば思い出しませんか」
『資料がないから困ってるんじゃないですか』
その通りだった。
真緒は反論せず、通話を切ったあとメモ欄に短く記す。
場面の記憶あり。文言のみ不明。
*
次に応じたのは久世だった。
北野町店のバックヤードらしく、後ろでコピー機の音と誰かの声が混じる。
『率直に言いますけど、川名さん。俺、最初は店の管理が雑なんだと思ってました』
「今は違う?」
『雑なのは雑です。でも、それだけじゃ説明つかない』
久世は低い声でそう言い、少し間を置いた。
『あの部屋、一回ちゃんと自分で説明したことがあるんです。去年の秋でしたかね』
「そのときのことを教えてください」
『店のブースで、いつも通り資料出して、録音回して。お客さんは若い男の人で、転勤で急いでる感じでした。そこまでは覚えてます』
「告知の中身は」
『……そこです』
久世の声が、電話越しにも分かるほど鈍くなった。
『事故があったって話はした。たぶん、いつ頃とか、どのくらい経ってるかとか、そういうのも言った。でも、その“たぶん”の先が全部あやふやなんです』
「録音は残っている」
『残ってました。でも抜けてる』
「ご自身で聞き返しましたか」
『聞きましたよ。余計気持ち悪くなりました』
久世が吐き捨てるように笑う。
『あの録音、無音のあとに俺、“以上です”って言ってるんです。以上も何も、その前がないのに』
「説明した実感だけが残っている」
『そうです』
真緒はその一文を、ほとんどそのまま打ち込んだ。
説明した実感のみ残存。内容不明。
打ち込んだ直後、妙に仕事の報告書らしい文面だと思った。
冷静な日本語に落としたぶんだけ、逆に気味が悪い。
「久世さん」
『はい』
「そのとき、何か変わったことは」
『変わったこと、っていうと』
「説明後の体調、感覚、違和感」
『……置いてきた感じがしました』
「何を」
『分からない。でも、店出たあとに、重要な用事ひとつ終えたみたいに軽くなったんです。で、夜になって録音チェックしたら、肝心なとこだけ何も残ってない』
真緒は一瞬、画面から目を離した。
第二話の最後に久世が言った言葉が、ここで別の質感を帯びる。
置いてきた感じ。
その感覚を、彼は比喩ではなく、本当に身体感覚として覚えている。
*
三人目の応援スタッフは、経理へ異動したばかりの女性だった。
対面ではなく、社内チャットの通話機能で短く話すだけになった。名は早乙女といった。
『すみません、正直あんまり関わりたくないです』
開始早々、彼女はそう言った。
「どうしてですか」
『忘れ方が、普通じゃなかったので』
真緒は背筋を伸ばした。
「普通じゃない、とは」
『普通、説明を忘れるなら、最初から曖昧にしか覚えてないじゃないですか。でもあのときは、終わった直後はちゃんと理解してたんです。説明した、相手が嫌がった、でも契約は前向きで、店舗としては進める流れになった――そこまで、終わって十分くらいは分かってた』
「そのあと?」
『トイレから戻ったら、内容だけ落ちてました』
真緒は思わず相手の顔を見た。
画面の向こうで、早乙女は真顔のままだった。
『本当に、そうとしか言えないです。“何の話をして相手があんな顔になったのか”だけ、すぽんと抜けた感じで』
「誰かに相談しましたか」
『しました。店長に。でも“じゃあ録音聞けばいい”って言われて、聞いたら無音で』
「その後は」
『それ以上話しても、みんな嫌な顔するんです。気にしすぎだとか、たまたまだとか』
早乙女はそこで視線を伏せた。
『でも、たまたまで何人も同じ忘れ方しますか』
通話が終わったあと、真緒はしばらく何も打てなかった。
忘れ方が、普通じゃない。
それは感想ではなく、すでに現象の説明に近かった。
書類が抜けるのではない。
録音が飛ぶだけでもない。
説明に関わった人間の中で、説明内容そのものが、後から不自然に抜け落ちる。
その認識が、ようやく一つの形になり始めていた。
*
夕方、真緒は自分の席で関係者の証言を時系列に並べ直した。
緑川。
場面は覚えている。言葉だけ出てこない。
久世。
説明した実感だけが残る。内容は思い出せない。
早乙女。
説明直後はいったん理解していたはずなのに、後からそこだけ落ちる。
そして資料側では、
補足文書がない。
録音の特定箇所だけが無音。
退去者は「私は聞きました」とだけ残す。
真緒は椅子にもたれ、天井ではなく、モニターの黒い縁を見た。
頭の中で何度も同じ言葉が反芻される。
説明した事実だけが残る。
説明した事実だけが残る。
それは、記録不備の言い換えではない。
もっとはっきり異常の性質を言い当てている。
説明という行為の外枠だけが残って、
中身だけが剥がされている。
「川名さん」
名を呼ばれ、真緒ははっとした。
斜め後ろに、店長の冴木が立っていた。四十代前半、声も態度も穏やかな男だが、余計な火種を好まない現実派でもある。
「ちょっといい?」
会議室まで行くほどでもない、と言われ、二人は空いた打ち合わせスペースへ移動した。
ガラス越しにフロアの明かりが見える。冴木は座るなり、真緒の手元のメモ一覧へ一瞥をくれた。
「三〇二、まだ追ってるんだね」
「追わないと承認できません」
「今回の申込は保留にしたんだろ」
「はい」
「じゃあ、それでいったん止まる」
冴木の口調は穏やかだったが、結論は先に置かれていた。
「それだけでは済まないと思います」
「済まないかもしれない。でも、現時点で会社としてできるのは、募集を止めるか、資料が揃うまで保留にするか、そのくらいだよ」
「資料が揃わない理由が異常です」
「異常、ね」
冴木はそこで苦く笑った。
「気持ちは分かる。録音が飛ぶ、担当者が曖昧、退去者の文言が似てる。気味悪いよ。でもそれをどう報告書に書くの?」
「そこを整理してます」
「“内容だけが消える”って?」
真緒は返事をしなかった。
冴木は責めているわけではない。困っているのだ。そんなことは分かる。だが、分かることと引き下がることは別だった。
「川名さん」
冴木は声を少し落とした。
「深追いしすぎないほうがいい。こういうのは、現場で何となく避けられてる理由がある。きれいに言語化できないものに、会社のラインを乗せると余計ややこしくなる」
その言い方に、真緒はかすかな苛立ちを覚えた。
「言語化できないから避ける、で済ませてきた結果が今です」
「分かってるよ。でも、トラブルが表面化していないのも事実だ」
「表面化していないのではなく、表面化する前に皆出ていってます」
「それも含めて、募集停止なら対応としては成立する」
成立。
その言葉が、今日はやけに薄く聞こえた。
真緒は手元のメモへ視線を落とした。
そこにはもう、記録不備の範囲を越えた事象が並んでいる。けれど、どれも「証拠」と呼ぶには弱い。弱いからこそ、こうやって棚上げされる。
「……分かりました」
そう答えるしかなかった。
「ただ、もう少しだけ確認します」
「少しだけ、ね」
冴木は念を押すように繰り返し、席を立った。
*
夜、フロアの人がだいぶ減ってから、真緒は一人で再び三〇二号室の一覧を見返した。
昼間にまとめた証言を読み直す。
場面の記憶はある。
説明した実感はある。
相手の反応も覚えている。
なのに中身だけ出てこない。
その奇妙さを、どう書けばいいのか。
報告書の言葉を探しながら、真緒はふと、自分の指先がキーボードの上で止まっていることに気づいた。
頭の中には、もう一つの言葉が浮かんでいた。
置いてきたみたい。
久世が言った、あの曖昧な表現だ。
本来なら業務メモに持ち込まない種類の言葉だった。けれど、今この件の異常をいちばん正確に表しているのは、むしろその雑な表現のほうかもしれなかった。
説明内容だけを、どこかに置いてきてしまう。
そう考えると、退去者たちの一文も少しだけ形を変える。
私は聞きました。
聞いた。だが残っていない。
だから、その事実だけを書いて出ていく。
真緒は新しいメモファイルを開き、今度は誰に見せるためでもない自分用の記録として、短く打ち込んだ。
説明した事実だけが残る。内容だけが残らない。
そこで一度、カーソルが止まる。
さらに一行、足した。
担当者の記憶も同様。
書き終えた瞬間、空調の音が少しだけ大きく聞こえた。
オフィスは静かで、遠くに掃除機の音がする。夜の会社の音だ。
なのに、三〇二号室の一覧を映すモニターだけが、別の場所へつながっているみたいに冷たく見えた。
真緒は深く息を吸い、録音一覧の備考欄へカーソルを合わせた。
明日の自分が見ても意味が通るように、今の結論を短く残す必要がある。
考えた末、こう入力した。
説明内容の欠落は、媒体不備ではなく関係者共通の現象である可能性。
少し硬すぎる。
けれど、いまの自分に書けるのはそこまでだった。
保存を押した瞬間、背後で小さな物音がした。
振り返ると、誰もいない。コピー機の自動停止音だったらしい。
それでも鼓動が一度だけ強く鳴ったのは、たぶん、今日初めて真緒自身がこの件を“ただの案件”として扱えなくなったからだ。
録音は抜ける。
書類も残らない。
そして人間の頭からも、同じ箇所だけが落ちる。
そこまで揃えば、もう偶然とは言いにくい。
モニターの隅で、退去報告の一文がまた目に入った。
私は聞きました。
その文字列を見たとき、真緒ははっきりと、あれが単なる報告ではないと感じた。
あれはたぶん、退去理由ですらない。
説明されたことを忘れてしまう前に、かろうじて残せた最小限の事実だ。
――聞いた、という事実だけ。
真緒は画面を閉じなかった。
閉じた瞬間に、この奇妙な輪郭まで少し薄くなる気がしたからだ。
その夜、退勤前にもう一度だけ三〇二号室の一覧を見たとき、
真緒は自分の中でひとつの線を越えたのを知った。
この部屋は、事故物件である以前に、
説明の中身が残らない部屋なのだと。




