表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告知は一度、沈黙は何度でも  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/10

第二話 退去理由の一行

 翌朝、真緒は出社してすぐ、前日のうちに北野町店から届いた写真データをもう一度開いた。


 説明済み。詳細は口頭。記録不可。


 白い紙の中央に書かれたその一文は、見れば見るほど業務文書らしくなかった。正式なメモではなく、誰かがその場しのぎに書いた覚え書きに近い。

 問題なのは文面より、その下に重なる薄い走り書きだった。


 私は聞きました。


 あの一文が、なぜこんなところにまであるのか。

 退去報告書の備考欄だけではない。告知メモとも言えない曖昧な紙にも残っている。


 真緒はメールの送信履歴を開いた。添付時刻は昨夜十八時四十三分。本文はわずか二行。


 ――取り急ぎ、店舗保管分の写真を送ります。

 ――詳細は本日確認します。


 それだけだった。

 取り急ぎ、の軽さが腹立たしいというより、不気味だった。北野町店の側も、この件を「説明できるもの」として扱っていない感じがある。


 端末の時計を確認してから、真緒は再び内線を取った。


「契約管理の川名です。昨日の三〇二の件で、久世さんお願いします」


 朝の店舗はまだ慌ただしいらしく、少し待たされた。

 代わりに出たのは昨日の坂口だった。


『あ、お疲れさまです……坂口です』

「お疲れさまです。昨日の写真、確認しました」

『はい』

「確認ですが、あれが現在店舗で使っている告知資料ですか」

『ええと……資料というか』

「何ですか」

『メモ、です』


 真緒は目を閉じた。予想通りではある。


「正式な告知文面は」

『ちょっと、いま探してて』

「昨日も同じことを伺いました」

『すみません』


 謝罪の声は本気で困っているようだった。

 怒鳴る相手ではない。問題はもっと別のところにある。


「久世さんは」

『接客に入ってまして……折り返しにしますか』

「結構です。先に一点だけ。昨日送ってもらった写真の下の走り書き、あれは誰の字ですか」


 電話口が静かになった。

 わずか二秒か三秒か、それだけなのに長く感じる沈黙だった。


『……読めましたか』

「読めるかどうかではなく、誰が書いたかを聞いています」

『たぶん、前の担当だと思います』

「名前は」

『それが、はっきりしなくて』


 またそれだ。

 真緒は資料ウィンドウを閉じずに、昨日作った自分のメモを横に開いた。曖昧な返答ばかり並んでいく。


「店舗で共有されていることを整理します。三〇二号室は心理的瑕疵あり。告知は行っている。しかし正式な告知文面は見当たらない。録音には無音がある。さらに担当者不明のメモが残っている。ここまでは間違いありませんか」

『……はい』

「では、なぜ募集継続になっているんですか」


 坂口はすぐには答えなかった。

 代わりに、受話器の向こうで紙がこすれる音がした。


『大きい事故には、なってないからです』

「何がですか」

『クレームとか、訴訟とか、そういうのに』


 真緒は小さく息を吐いた。

 昨日、久世も似たことを言っていた。


「入居期間が短いです」

『はい』

「録音不備もあります」

『はい』

「それで大きな問題になっていないほうが、むしろ不自然です」

『……そうかもしれません』


 “かもしれません”ではない。

 だが、電話口の若い声を詰めても埒が明かないのも分かった。


「分かりました。ひとまず現時点の資料不足として今回申込は保留にします」

『あ、でも申込者さん、もう前向きで――』

「補足文書なしでは進められません」

『……はい』


 通話を切ると、真緒はすぐ処理画面を開き、三〇二号室の案件に仮保留フラグを付けた。

 承認待ち一覧の色が一つ変わる。


 ただ、それで仕事が片づく感じはまったくしなかった。


 *


 午前中のうちに、真緒は社内の共用チャットで過去担当者の在籍状況を洗った。北野町店の現在スタッフ、異動者、退職者。三〇二号室の契約に関わった名が、履歴の上に細く並んでいる。


 そのうち一人は、今は別店舗にいるらしかった。

 社内メッセージを送ると、数分後に短い返信が返ってくる。


 ――昼なら少しだけ話せます。


 昼休み、真緒は自販機脇の小さな打ち合わせスペースでその相手とオンライン通話をつないだ。

 画面に映ったのは三十代半ばくらいの男性で、ネクタイを少し緩めたまま気まずそうに笑った。


『どうも。緑川です』

「契約管理の川名です。急にすみません」

『いや、三〇二のことでしょ』


 開口一番だった。


 真緒は思わず相手の顔を見直した。

 緑川は、その反応の意味が分かっているように苦笑する。


『分かりますよ。あの部屋のことなら、大体その顔になります』

「どういう部屋だと認識してますか」

『認識っていうほどでもないですけど……長く住まない部屋、ですね。あと、店であんまり押さない』


 それは噂話に近い共有だ。

 真緒が求めているのは、もっと具体的な運用実態だった。


「録音の欠損について聞いていますか」

『聞いてます。というか、一回当たりました』

「当たった?」

『説明の途中だけ、音飛びみたいになるやつです。最初は機材かなと思ったんですけど』


 緑川はそう言って目をそらした。


『別機材でもなったんで、店じゃちょっと嫌がられてました』


 真緒はメモを取る。

 別機材でも同様。店内共有あり。


「告知内容は何ですか」

『それが……』


 緑川の言葉が止まった。

 視線が泳ぐ。何かを思い出そうとしている顔ではある。だが、その表情には不自然な空白が混じっていた。


『事故の、内容ですよね』

「はい」

『ええと……孤独死、だったかな』

「“だったかな”では困ります」

『いや、本当に、変なんですけど』


 緑川は眉間を押さえた。


『説明した覚えはあるんです。座って、重要事項説明書を開いて、そのページも見てる。お客さんが嫌そうな顔したのも覚えてる。でも、何をどう言ったかだけ、すごい曖昧で』


 真緒は黙って聞いた。

 昨日の久世の言葉と、ほとんど同じだ。


『こういうの、あります? 仕事の記憶って、普通は逆じゃないですか。細かい言い回しは忘れても、説明の骨子くらいは残るのに』

「普通は残ります」

『ですよね』


 緑川はそこで会話を切り上げるように笑ったが、笑いきれていなかった。


『だから店じゃ、“あの部屋はあんまり考えない”みたいになってたんですよ。変に掘ると気持ち悪いから』

「それで済ませるのはおかしいです」

『分かってます。ただ、皆そういう感じになっちゃうんです』


 通話が終わったあとも、その言葉は真緒の頭に残った。

 そういう感じになっちゃう。

 責任感のない言い方だと思う一方で、妙に具体的でもある。


 真緒はその足で、資料室の端にある古い紙ファイル保管棚へ向かった。電子化前の契約控えや事故対応メモが年別に並べられている場所だ。三〇二号室の物件ファイルを引き抜くと、予想通り、紙の綴じ順にも妙な乱れがあった。


 契約書控え。入居申込書。原状回復精算。

 必要書類はある。

 だが、心理的瑕疵の説明に関する補足だけが、毎回ぴったり抜けている。


 抜けている、というより、そこだけ最初から薄いのだ。

 何かを外した痕も、コピー漏れの空白もない。最初から綴じられなかったような顔をしている。


 真緒はファイルの後ろに挟まっていた退去報告の束を一枚ずつめくった。

 すでに見た三件のほかに、もっと古いものが出てくる。


 退去理由、勤務地変更。

 退去理由、親族介護。

 退去理由、住み替え。


 理由は本当にばらばらだった。

 だが、自由記述欄の文字だけが、ある時期から似たような不穏さを帯びている。


 聞きました。

 お話は伺っています。

 承知のうえで入居しました。


 文面は微妙に違う。

 けれどどれも、退去理由ではなく“何かを説明されたこと”にだけ触れている。


 真緒は一枚を光にかざした。

 紙の裏写りがうっすら透ける。そこに、受付担当の確認印がある。日付もある。書類としては成立している。だからこそ気味が悪い。


「何で、そこだけ……」


 独り言が漏れた。


 退去する人間が自由記述にわざわざ残す言葉としては不自然すぎる。

 もっと普通の不満があっていい。駅から遠い、騒音が気になる、日当たりが悪い。そういう生活の言葉がない。代わりに皆、“説明を受けたこと”だけを置いていく。


 まるでそれ以外の理由が薄れてしまったみたいに。


 *


 午後、真緒はさらに二本、過去録音を開いた。

 一件は四年前、もう一件は六年前。担当者は違う。説明場所も違う。片方は店舗ブース、もう片方はオンライン重説の記録だった。


 それでも構造は同じだった。


 定型説明が進み、契約条件が読み上げられ、禁止事項や更新料の話が済む。

 そして心理的瑕疵に触れるはずの前後で、空白が生まれる。


 四年前の録音では、十一秒。

 六年前の録音では、十五秒。


 どちらも雑な切断には聞こえない。

 マイクの不具合や通信切れとも違う。音が消える瞬間も戻る瞬間も不自然なほど滑らかで、最初からそこに“何もなかった”みたいな無音になっている。


 真緒は再生位置を細かく動かし、波形も見た。

 前後の波形はあるのに、その箇所だけが平らだ。

 誰かが意図的に編集したなら、まだ話は分かる。だが媒体も時期も担当者も違う録音で、同じような編集が繰り返される理由がない。


 再生を止め、真緒は一覧に録音時間と無音秒数を書き並べた。


 前回契約 十二分三十八秒 無音十数秒

 前々回契約 十一分台 無音十三秒

 四年前 無音十一秒

 六年前 無音十五秒


 担当者欄を見る。

 北野町店、別店舗からの応援、異動前スタッフ、退職者。

 人は入れ替わっている。やり方も多少違う。なのに、抜ける場所の性質だけが変わらない。


 そこまで整理したところで、内線が鳴った。


「はい、契約管理、川名です」

『久世です』


 昨日の低い声だった。

 真緒は椅子を引き寄せる。


「お疲れさまです」

『お疲れさまです。資料、追加で見つかったんで送ります』

「正式な補足文書ですか」

『いえ、そこまでちゃんとしたのじゃないです』

「では何ですか」

『前の店長の引き継ぎメモです』


 真緒は受信通知を待ちながら聞く。


「内容は」

『三〇二について、“入居前説明要注意”ってだけ書いてあります』

「要注意の理由は」

『そこが、ないんです』

「……」


 久世が苦い声で続けた。


『川名さん、俺も昨日から見直してるんですけど、あの部屋だけ、引き継ぎの言葉が毎回短いんですよ。“要注意”“口頭で”“長居しない”“説明済み確認”とか、その程度で』

「肝心の中身がない」

『そうです』


 メール受信音が鳴った。

 届いたPDFを開く。店舗内の引き継ぎシートをスマホで撮影したものらしい。箇条書きの並ぶ中に、三〇二号室の記載が一行だけあった。


 ――三〇二 心理的瑕疵 入居前説明要注意 詳細は口頭


 それだけだ。

 詳細は口頭。

 またその言葉。


「久世さん」

『はい』

「これ、誰が書いたものですか」

『前店長です。もう異動してます』

「連絡先は分かりますか」

『調べれば』

「お願いします」


 そこまで言って、真緒は少し間を置いた。


「それと、率直に聞きます。店舗ではこの部屋をどう認識しているんですか」

『……あの部屋、です』

「抽象的です」

『分かってます。でも、本当にそうとしか言えない感じで』


 久世の声には、昨日よりはっきりした疲れが混じっていた。


『長く住まない。説明箇所が残りにくい。録音が飛ぶことがある。皆それは知ってる。でも、じゃあ何が起きてるかって言われると、誰もちゃんと説明できない』

「説明できないのに募集は続ける」

『止める理由も文書化できないんです』


 真緒は反射的に言い返しかけて、止まった。

 それが、いま一番気味の悪い点だったからだ。


 止める理由がある。

 だが、その理由だけが記録にならない。

 だから現場では“何となく避ける部屋”として処理され続ける。


『川名さん』

「はい」

『俺、変なこと言いますけど』

「何ですか」

『あの部屋、担当が変わっても、同じ場所だけ抜けるんです』


 真緒は視線を、自分のメモ一覧へ落とした。

 すでにそこへ書こうとしていた結論だった。


『説明の中身は人によって違うはずなのに、録音の空き方だけ同じなんです』


 電話を切ったあと、真緒はしばらく動かなかった。


 目の前の画面には、録音一覧、退去報告、引き継ぎメモ、昨日届いた白い紙の写真が並んでいる。どれも断片だ。どれも業務上は不完全だ。

 なのに、断片同士だけが妙に噛み合う。


 退去理由はばらばら。

 担当者もばらばら。

 年も媒体も違う。

 それでも、説明されるべき箇所だけが抜ける。


 真緒は新しい行を開き、そこへ静かに打ち込んだ。


 担当者が変わっても、欠落の構造は同じ。


 入力した文字を見たとき、背中を冷たいものが這った。

 これはもう、単なる添付漏れや店舗の杜撰さではない。


 抜けているのではなく、

 抜け方に規則がある。


 その規則が、誰の手によるものでもないとしたら。


 真緒は無意識に、画面端の退去報告へ目をやった。


 私は聞きました。


 その一文は、記録として残っている。

 残っているのに、肝心の中身だけがどこにもない。


 説明した事実だけが残り、説明内容だけが消える。

 そこに、はっきりした異常の輪郭が見え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ