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告知は一度、沈黙は何度でも  作者: swingout777


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第一話 告知済み、記録なし

 事故物件そのものは、べつに珍しくない。

 そう思える程度には、川名真緒はこの仕事に慣れていた。


 自社管理物件、仲介物件、借り上げ社宅。毎日、膨大な契約データと説明書類が真緒の端末を通っていく。その中で「心理的瑕疵あり」の文字を見つけても、もういちいち手は止まらない。告知の有無、説明文面の整合、添付書類の不足、録音保存の確認。必要な項目を埋め、抜けがあれば担当店舗へ差し戻す。それが真緒の仕事だった。


 営業ではない。客に部屋を案内することもない。

 だが、契約の最後の砦が自分たちだという自負はある。


 書類に残っていない説明は、していないのと同じ。

 説明した証拠がないなら、いずれ必ず揉める。

 だから真緒は、曖昧な処理が嫌いだった。


 その日の午後も、管理システムに上がってきた契約予定データを機械的に開いていた。物件名、号室、担当店舗、申込者情報。見慣れた画面を流し見しながら、必要箇所だけを拾っていく。


 ところが、ある一件でカーソルが止まった。


 都内西部、築二十五年、鉄筋コンクリート造。最寄り駅から徒歩十二分。

 一K、三〇二号室。

 募集賃料は相場よりやや低い。


 特記事項欄に、簡潔な記載があった。


 心理的瑕疵あり。入居前に告知済み。


 ここまでは普通だった。

 真緒が引っかかったのは、その次だ。


 重要事項説明の添付欄に、本来あるはずの補足文書がない。

 事故内容の説明メモも、説明時の確認文面も見当たらない。あるのは「告知済み」というチェックだけだった。


「……また?」


 声が漏れたのは、その部屋番号に見覚えがあったからだ。


 真緒は契約画面を閉じずに、過去データへ遡った。

 三〇二号室。検索。

 数秒後、一覧にいくつもの履歴が並ぶ。


 前々回、前回、今回。

 入居から退去までの期間は、どれも短い。半年、一年未満、八か月。ばらつきはあるが、長続きしていない。そしてすべての契約データに、同じ文言が残っていた。


 告知済み。


 だが、肝心の説明内容だけが、どこにもなかった。


 添付漏れにしては不自然だった。

 一度なら担当者のミスで済む。二度でも、店舗の管理が雑なのだと思えば説明はつく。

 けれど三度続くと、単なる手落ちでは片づけにくい。


 真緒は眉を寄せたまま、退去報告書のPDFを開いた。

 設備不具合なし。原状回復、通常範囲。退去理由、転勤。

 その下の自由記述欄に、一行だけ追記がある。


 私は聞きました。


 真緒は画面を見つめた。

 意味が分からない。


 誤記かと思って、ひとつ前の退去報告も開く。

 退去理由、体調不良。備考欄、記載あり。


 私は聞きました。


 喉の奥がひやりとした。

 さらにもう一件、いちばん古いデータを開く。

 退去理由、実家に戻る。自由記述欄――


 私は聞きました。


 同じ文面。

 同じ一行。

 書式も文脈も違う報告書に、そこだけが判で押したように揃っていた。


「何を……?」


 呟いた自分の声が、やけに乾いて聞こえた。


 真緒は退去報告書を閉じ、今度は契約時の録音データ保存欄を確認した。社内規定では、心理的瑕疵の説明を伴う契約については、説明音声を保存することが推奨されている。強制ではないが、トラブル防止のため、最近はほとんどの店舗が残していた。


 三〇二号室の前回契約にも、音声ファイルは添付されていた。

 再生時間は十二分三十八秒。


 ヘッドセットをつけて再生する。


 担当者の定型説明が流れる。

 所在地、契約期間、更新料、禁止事項。申込者の相槌。紙をめくる音。

 その流れは自然だった。


 だが、七分を過ぎたあたりで、ふっと音が消えた。


 無音。

 雑音すらない、妙に平らな無音が十数秒続く。

 それから唐突に音声が戻る。


『――以上でご説明は終わりです。ご不明点はありませんか』


 申込者が小さく笑っていた。

『大丈夫です。聞きましたので』


 真緒は、再生を止めた。


 指先が、マウスの上で少しだけ冷えている。

 事故物件は珍しくない。

 告知漏れだって、業界ではありふれたトラブルだ。


 けれど、説明したはずの箇所だけが抜け落ちていて、

 退去者が皆同じ一文を残す部屋など、少なくとも真緒は知らなかった。


 デスクの島では誰かが笑い、コピー機が作動し、電話が鳴っている。

 いつも通りの午後の音のなかで、三〇二号室のファイルだけが場違いに沈黙していた。


 真緒は内線を取った。

 この物件を上げてきた店舗へつなぐためだ。


「契約管理の川名です。グレイスハイツ三〇二について確認したいんですが」


 自分でも分かるほど、声が硬かった。


 受話器の向こうで保留音が流れ始める。

 そのあいだ、真緒は開いたままの退去報告書を見ていた。


 私は聞きました。


 画面の中央に並ぶその一文が、なぜか報告書の文面ではなく、

 これから自分に向けて言われる言葉のように見えた。


 *


「はい、北野町店の坂口です」


 ようやくつながった声は若かった。

 聞き覚えのない名前に、真緒は画面の担当者欄を見直した。今回の申込担当は別の営業名だ。


「契約管理の川名です。グレイスハイツ三〇二号室の件で確認です。心理的瑕疵の告知補足が未添付になっています。説明メモも見当たりません。至急アップをお願いします」


 真緒はいつもの調子で言った。

 業務上の確認としては、それで足りる。


 だが受話器の向こうで、坂口はすぐに返事をしなかった。

 小さく息を吸う音があったあと、妙に慎重な声音で尋ね返してくる。


「三〇二……ですよね」

「はい」

「ええと、告知自体はしてます」

「その記録がないので確認しています」

「ですよね……」


 曖昧だ。

 真緒は画面から目を上げずに言う。


「説明した内容をテキストでいただければ結構です。過去分も同様に未添付が続いていますので、あわせて確認したいんですが」

「過去分、ですか」

「前回と前々回も同じ状態でした。店舗側でひな型がないなら、事故内容と説明表現だけ簡潔に送ってください」


 また沈黙。


 保留ではない。相手はそこにいる。

 いるのに、答えを探しているというより、何か別のものを避けている沈黙だった。


「坂口さん?」

「……すみません」

「はい」

「説明は、してるんです」

「それはデータでも確認しています」

「ただ、その……文面を今すぐ出せるかというと」


 真緒は初めて顔をしかめた。


「出せない理由は何ですか」

「いや、理由というか……」


 坂口の声が小さくなる。受話器を手で覆ったような、こもった音が一瞬混じった。誰かに何かを聞いているのかもしれない。


 やがて、別の声が遠くで入った。

 男の声だ。やや年上で、面倒事を手早く終わらせたい時の、あの業務的な低さがある。


『川名さん? 代わります、久世です』


 担当者名欄にあった名だった。真緒は姿勢を正した。


「お疲れさまです。三〇二の告知補足について――」

『すみません、その件なんですが、添付漏れというより……ちょっと店舗で確認が必要でして』

「何をですか」

『説明したこと自体は間違いないんです。ただ、資料の所在がすぐ確認できなくて』

「所在がない資料をもとに説明したんですか?」


 真緒の声が一段低くなった。

 法務ならこの時点で差し戻す。契約管理でも同じだ。


 久世はすぐに否定しなかった。

 その短い間が、かえって気味悪かった。


『ええと……以前から使ってる説明内容があるはずで』

「“あるはず”では困ります」

『ですよね。分かってます』


 久世の向こうで、紙をめくる音がした。

 いや、紙ではないかもしれない。何かを探している音だ。


『今日中に整理して送ります』

「本日中ですね」

『はい』


 そこで終わるはずだった。

 真緒も、いったんそれで切るつもりだった。


 なのに、受話器の向こうで、久世がふいに言った。


『……川名さん、前回の録音、聞きました?』


 問いかけの形をしていたが、確認というより、試すような調子だった。


「聞きました。それが何か?」

『いえ』


 それきり、彼は黙った。


「久世さん」

『いや、その……もし聞いたなら、変だと思いますよね』

「説明箇所だけ無音でした」

『ですよね』


 久世が小さく笑った。

 乾いた、力のない笑いだった。


『毎回なんです』

「毎回?」

『あの部屋の説明、録るとああなることがあるんです。絶対じゃないですけど』

「“なることがある”ではなく、実際に起きているなら報告事項です」

『報告はしましたよ。一応』


 一応。

 その二文字に、真緒はうっすらと苛立った。


「では、なぜ是正されていないんですか」

『是正っていうか……』


 久世が、言い淀む。

 そして、今度ははっきりと声を落として言った。


『川名さん、変なこと言うようですけど、あそこ、説明した人間ほど内容をちゃんと覚えてないんです』


 真緒は、何も言わなかった。


 電話口のノイズが、急に遠く聞こえる。

 島の向こうで笑っていた誰かの声も、コピー機の音も、薄い膜を一枚隔てたみたいに鈍くなった。


「……どういう意味ですか」

『そのままです。告知したことは分かるんです。した場面も覚えてる。でも、何をどう言ったかが、後で妙に曖昧になる』

「記憶違いでは」

『俺もそう思ってました』


 久世は即答した。


『でも、前任も、その前の応援の人も、同じこと言ってて。録音も抜けることがある。だから店舗じゃ、あの部屋はそういうもんだっていうか……』

「そういうもんで済ませる案件じゃありません」

『分かってます。ただ』


 その「ただ」の先を、久世はなかなか口にしなかった。


『入居者から大きいクレームが来ないんです』


 真緒は眉を寄せた。

 そこが、いちばんおかしかった。


 短期退去が続いて、録音に不備があって、担当者が説明内容を曖昧にしか覚えていない。普通なら、もっと大きく揉める。少なくとも一件くらいは、契約後の告知不備として問題になっていい。


「来ない理由は?」

『……皆、帰る時に同じこと書くんです』

「何を」

『“聞きました”って』


 真緒の視線が、無意識にモニターへ落ちた。

 画面の上で、退去報告書の備考欄が白く光っている。


 私は聞きました。


 その一文が、さっきより少しだけ、近い位置にあるように見えた。


「それを、なぜ先に言わなかったんですか」

『言いましたよ。何回か』

「誰に」

『店長とか、前の管理の人とか。たぶん、ちゃんと上がってるはずです』


 はず。

 またその曖昧な言葉だ。


 真緒は、社内の共有フォルダをもう一つ開いた。事故対応履歴、店舗報告、引き継ぎメモ。検索窓に「グレイスハイツ三〇二」と入れる。件数は出る。だが、そのどれもが短い。

 “心理的瑕疵のため反響弱め”

 “内見時フォロー要”

 “長期入居見込み薄い”


 業務メモとして成立する程度のことしか書かれていない。

 録音の欠損も、退去者の同一記述も、どこにも整理されていなかった。


『川名さん?』

「……今日中に資料をください」

『はい』

「あと、過去の担当者名と、もし残っているなら社内報告の控えも」

『分かりました』


 通話を切る直前、久世が低く言った。


『一応、言っときますけど』

「何ですか」

『変に深入りしないほうがいいですよ、あの部屋』


 真緒は受話器を持ったまま、しばらく返事をしなかった。

 警告なのか、保身なのか、そのどちらにも聞こえたからだ。


「仕事ですから」

『……ですよね』


 通話が切れた。


 受話器を置く。

 デスクに戻ったいつもの音が、少し遅れて耳へ流れ込んでくる。誰かの笑い声、キーボードの打鍵音、遠くの着信音。全部ふだん通りなのに、自分の席の周囲だけ空調が一段下がったように感じた。


 真緒はヘッドセットを外し、前回契約の録音ファイルをもう一度見た。

 十二分三十八秒。

 そのうち十数秒だけが、完全な無音だった。


 マウスを握り直し、今度は前々回の録音を開く。

 再生位置を、さきほど無音だったあたりに合わせる。


 紙の音。担当者の声。入居者の相槌。

 そして、やはり同じように、音が途切れた。


 今度の無音は、十三秒。


 無音のあと、男の声が入る。


『……分かりました』


 少し間があって、続けて、ひどく小さな声で。


『じゃあ、ここには長くいません』


 真緒は再生を止めた。


 喉が、さっきよりも乾いている。

 事故物件なら、事故物件として説明すればいい。

 それで終わる話のはずだった。


 なのに三〇二号室だけは、

 説明したことは残るのに、

 説明の中身だけが抜け落ちる。


 まるで部屋そのものが、聞かれた内容だけを回収しているみたいに。


「川名さん」


 不意に隣の席から声をかけられ、真緒は肩を揺らした。

 同僚がコピー用紙の束を抱えたまま不思議そうにこちらを見ている。


「大丈夫ですか。顔色、悪いですよ」

「……平気。ちょっと、確認案件が重くて」


 適当に返して、モニターへ目を戻す。


 その拍子に、画面の下に小さな通知が出た。

 新規アップロード、一件。


 北野町店からだった。


 真緒は息を整え、ファイルを開いた。

 添付されたのは、説明メモでも報告書でもない。スマートフォンで撮ったらしい、白い紙の写真だった。解像度が低く、端が少し歪んでいる。


 紙の中央に、黒いボールペンで一行だけ書かれていた。


 説明済み。詳細は口頭。記録不可。


 その下に、誰のものか分からない走り書きが、薄く重なっている。

 最初はインクのかすれに見えた。

 だが目を凝らすと、文字だった。


 私は聞きました。


 真緒は、写真を拡大した。

 もう一度。

 さらにもう一度。


 走り書きは、やはりそう読める。

 しかも、それは備考欄にあった整った文字ではなく、もっと急いで、何かを忘れる前に押しつけたような筆跡だった。


 そのとき、画面の端に反射した自分の顔が、ひどく強張っているのが見えた。


 ただの記録不備ではない。

 そう認めた瞬間、三〇二号室は「差し戻し案件」から外れた。

 まだ何も分かっていないのに、もう普通の業務の棚には戻せないと分かってしまった。


 真緒は新しいメモを開き、日付と部屋番号を入力した。


 グレイスハイツ三〇二。

 告知済み。

 補足文書なし。

 録音欠損あり。

 退去者備考、共通文言あり。


 そこまで打って、指が止まる。


 最後に何を書くべきか、少しだけ迷った。

 業務メモとしてなら、「要確認」で足りる。

 だが、今この件に必要なのは、たぶんそれではない。


 真緒はカーソルを点滅させたまま、静かに打ち込んだ。


 説明内容が消えている可能性。


 入力した直後、自分で書いた一文なのに、意味が少しだけ遠くなる感覚があった。


 真緒は思わず瞬きをした。

 疲れているのだと片づけるには、ほんの一瞬、気持ちの悪い空白だった。


 モニターの白い光の中で、備考欄の一文がまた目に入る。


 私は聞きました。


 その言葉は、もはや過去の入居者の報告には見えなかった。

 まだ聞いていないはずの自分の未来が、先回りしてそこに書かれているみたいだった。

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