第一話 告知済み、記録なし
事故物件そのものは、べつに珍しくない。
そう思える程度には、川名真緒はこの仕事に慣れていた。
自社管理物件、仲介物件、借り上げ社宅。毎日、膨大な契約データと説明書類が真緒の端末を通っていく。その中で「心理的瑕疵あり」の文字を見つけても、もういちいち手は止まらない。告知の有無、説明文面の整合、添付書類の不足、録音保存の確認。必要な項目を埋め、抜けがあれば担当店舗へ差し戻す。それが真緒の仕事だった。
営業ではない。客に部屋を案内することもない。
だが、契約の最後の砦が自分たちだという自負はある。
書類に残っていない説明は、していないのと同じ。
説明した証拠がないなら、いずれ必ず揉める。
だから真緒は、曖昧な処理が嫌いだった。
その日の午後も、管理システムに上がってきた契約予定データを機械的に開いていた。物件名、号室、担当店舗、申込者情報。見慣れた画面を流し見しながら、必要箇所だけを拾っていく。
ところが、ある一件でカーソルが止まった。
都内西部、築二十五年、鉄筋コンクリート造。最寄り駅から徒歩十二分。
一K、三〇二号室。
募集賃料は相場よりやや低い。
特記事項欄に、簡潔な記載があった。
心理的瑕疵あり。入居前に告知済み。
ここまでは普通だった。
真緒が引っかかったのは、その次だ。
重要事項説明の添付欄に、本来あるはずの補足文書がない。
事故内容の説明メモも、説明時の確認文面も見当たらない。あるのは「告知済み」というチェックだけだった。
「……また?」
声が漏れたのは、その部屋番号に見覚えがあったからだ。
真緒は契約画面を閉じずに、過去データへ遡った。
三〇二号室。検索。
数秒後、一覧にいくつもの履歴が並ぶ。
前々回、前回、今回。
入居から退去までの期間は、どれも短い。半年、一年未満、八か月。ばらつきはあるが、長続きしていない。そしてすべての契約データに、同じ文言が残っていた。
告知済み。
だが、肝心の説明内容だけが、どこにもなかった。
添付漏れにしては不自然だった。
一度なら担当者のミスで済む。二度でも、店舗の管理が雑なのだと思えば説明はつく。
けれど三度続くと、単なる手落ちでは片づけにくい。
真緒は眉を寄せたまま、退去報告書のPDFを開いた。
設備不具合なし。原状回復、通常範囲。退去理由、転勤。
その下の自由記述欄に、一行だけ追記がある。
私は聞きました。
真緒は画面を見つめた。
意味が分からない。
誤記かと思って、ひとつ前の退去報告も開く。
退去理由、体調不良。備考欄、記載あり。
私は聞きました。
喉の奥がひやりとした。
さらにもう一件、いちばん古いデータを開く。
退去理由、実家に戻る。自由記述欄――
私は聞きました。
同じ文面。
同じ一行。
書式も文脈も違う報告書に、そこだけが判で押したように揃っていた。
「何を……?」
呟いた自分の声が、やけに乾いて聞こえた。
真緒は退去報告書を閉じ、今度は契約時の録音データ保存欄を確認した。社内規定では、心理的瑕疵の説明を伴う契約については、説明音声を保存することが推奨されている。強制ではないが、トラブル防止のため、最近はほとんどの店舗が残していた。
三〇二号室の前回契約にも、音声ファイルは添付されていた。
再生時間は十二分三十八秒。
ヘッドセットをつけて再生する。
担当者の定型説明が流れる。
所在地、契約期間、更新料、禁止事項。申込者の相槌。紙をめくる音。
その流れは自然だった。
だが、七分を過ぎたあたりで、ふっと音が消えた。
無音。
雑音すらない、妙に平らな無音が十数秒続く。
それから唐突に音声が戻る。
『――以上でご説明は終わりです。ご不明点はありませんか』
申込者が小さく笑っていた。
『大丈夫です。聞きましたので』
真緒は、再生を止めた。
指先が、マウスの上で少しだけ冷えている。
事故物件は珍しくない。
告知漏れだって、業界ではありふれたトラブルだ。
けれど、説明したはずの箇所だけが抜け落ちていて、
退去者が皆同じ一文を残す部屋など、少なくとも真緒は知らなかった。
デスクの島では誰かが笑い、コピー機が作動し、電話が鳴っている。
いつも通りの午後の音のなかで、三〇二号室のファイルだけが場違いに沈黙していた。
真緒は内線を取った。
この物件を上げてきた店舗へつなぐためだ。
「契約管理の川名です。グレイスハイツ三〇二について確認したいんですが」
自分でも分かるほど、声が硬かった。
受話器の向こうで保留音が流れ始める。
そのあいだ、真緒は開いたままの退去報告書を見ていた。
私は聞きました。
画面の中央に並ぶその一文が、なぜか報告書の文面ではなく、
これから自分に向けて言われる言葉のように見えた。
*
「はい、北野町店の坂口です」
ようやくつながった声は若かった。
聞き覚えのない名前に、真緒は画面の担当者欄を見直した。今回の申込担当は別の営業名だ。
「契約管理の川名です。グレイスハイツ三〇二号室の件で確認です。心理的瑕疵の告知補足が未添付になっています。説明メモも見当たりません。至急アップをお願いします」
真緒はいつもの調子で言った。
業務上の確認としては、それで足りる。
だが受話器の向こうで、坂口はすぐに返事をしなかった。
小さく息を吸う音があったあと、妙に慎重な声音で尋ね返してくる。
「三〇二……ですよね」
「はい」
「ええと、告知自体はしてます」
「その記録がないので確認しています」
「ですよね……」
曖昧だ。
真緒は画面から目を上げずに言う。
「説明した内容をテキストでいただければ結構です。過去分も同様に未添付が続いていますので、あわせて確認したいんですが」
「過去分、ですか」
「前回と前々回も同じ状態でした。店舗側でひな型がないなら、事故内容と説明表現だけ簡潔に送ってください」
また沈黙。
保留ではない。相手はそこにいる。
いるのに、答えを探しているというより、何か別のものを避けている沈黙だった。
「坂口さん?」
「……すみません」
「はい」
「説明は、してるんです」
「それはデータでも確認しています」
「ただ、その……文面を今すぐ出せるかというと」
真緒は初めて顔をしかめた。
「出せない理由は何ですか」
「いや、理由というか……」
坂口の声が小さくなる。受話器を手で覆ったような、こもった音が一瞬混じった。誰かに何かを聞いているのかもしれない。
やがて、別の声が遠くで入った。
男の声だ。やや年上で、面倒事を手早く終わらせたい時の、あの業務的な低さがある。
『川名さん? 代わります、久世です』
担当者名欄にあった名だった。真緒は姿勢を正した。
「お疲れさまです。三〇二の告知補足について――」
『すみません、その件なんですが、添付漏れというより……ちょっと店舗で確認が必要でして』
「何をですか」
『説明したこと自体は間違いないんです。ただ、資料の所在がすぐ確認できなくて』
「所在がない資料をもとに説明したんですか?」
真緒の声が一段低くなった。
法務ならこの時点で差し戻す。契約管理でも同じだ。
久世はすぐに否定しなかった。
その短い間が、かえって気味悪かった。
『ええと……以前から使ってる説明内容があるはずで』
「“あるはず”では困ります」
『ですよね。分かってます』
久世の向こうで、紙をめくる音がした。
いや、紙ではないかもしれない。何かを探している音だ。
『今日中に整理して送ります』
「本日中ですね」
『はい』
そこで終わるはずだった。
真緒も、いったんそれで切るつもりだった。
なのに、受話器の向こうで、久世がふいに言った。
『……川名さん、前回の録音、聞きました?』
問いかけの形をしていたが、確認というより、試すような調子だった。
「聞きました。それが何か?」
『いえ』
それきり、彼は黙った。
「久世さん」
『いや、その……もし聞いたなら、変だと思いますよね』
「説明箇所だけ無音でした」
『ですよね』
久世が小さく笑った。
乾いた、力のない笑いだった。
『毎回なんです』
「毎回?」
『あの部屋の説明、録るとああなることがあるんです。絶対じゃないですけど』
「“なることがある”ではなく、実際に起きているなら報告事項です」
『報告はしましたよ。一応』
一応。
その二文字に、真緒はうっすらと苛立った。
「では、なぜ是正されていないんですか」
『是正っていうか……』
久世が、言い淀む。
そして、今度ははっきりと声を落として言った。
『川名さん、変なこと言うようですけど、あそこ、説明した人間ほど内容をちゃんと覚えてないんです』
真緒は、何も言わなかった。
電話口のノイズが、急に遠く聞こえる。
島の向こうで笑っていた誰かの声も、コピー機の音も、薄い膜を一枚隔てたみたいに鈍くなった。
「……どういう意味ですか」
『そのままです。告知したことは分かるんです。した場面も覚えてる。でも、何をどう言ったかが、後で妙に曖昧になる』
「記憶違いでは」
『俺もそう思ってました』
久世は即答した。
『でも、前任も、その前の応援の人も、同じこと言ってて。録音も抜けることがある。だから店舗じゃ、あの部屋はそういうもんだっていうか……』
「そういうもんで済ませる案件じゃありません」
『分かってます。ただ』
その「ただ」の先を、久世はなかなか口にしなかった。
『入居者から大きいクレームが来ないんです』
真緒は眉を寄せた。
そこが、いちばんおかしかった。
短期退去が続いて、録音に不備があって、担当者が説明内容を曖昧にしか覚えていない。普通なら、もっと大きく揉める。少なくとも一件くらいは、契約後の告知不備として問題になっていい。
「来ない理由は?」
『……皆、帰る時に同じこと書くんです』
「何を」
『“聞きました”って』
真緒の視線が、無意識にモニターへ落ちた。
画面の上で、退去報告書の備考欄が白く光っている。
私は聞きました。
その一文が、さっきより少しだけ、近い位置にあるように見えた。
「それを、なぜ先に言わなかったんですか」
『言いましたよ。何回か』
「誰に」
『店長とか、前の管理の人とか。たぶん、ちゃんと上がってるはずです』
はず。
またその曖昧な言葉だ。
真緒は、社内の共有フォルダをもう一つ開いた。事故対応履歴、店舗報告、引き継ぎメモ。検索窓に「グレイスハイツ三〇二」と入れる。件数は出る。だが、そのどれもが短い。
“心理的瑕疵のため反響弱め”
“内見時フォロー要”
“長期入居見込み薄い”
業務メモとして成立する程度のことしか書かれていない。
録音の欠損も、退去者の同一記述も、どこにも整理されていなかった。
『川名さん?』
「……今日中に資料をください」
『はい』
「あと、過去の担当者名と、もし残っているなら社内報告の控えも」
『分かりました』
通話を切る直前、久世が低く言った。
『一応、言っときますけど』
「何ですか」
『変に深入りしないほうがいいですよ、あの部屋』
真緒は受話器を持ったまま、しばらく返事をしなかった。
警告なのか、保身なのか、そのどちらにも聞こえたからだ。
「仕事ですから」
『……ですよね』
通話が切れた。
受話器を置く。
デスクに戻ったいつもの音が、少し遅れて耳へ流れ込んでくる。誰かの笑い声、キーボードの打鍵音、遠くの着信音。全部ふだん通りなのに、自分の席の周囲だけ空調が一段下がったように感じた。
真緒はヘッドセットを外し、前回契約の録音ファイルをもう一度見た。
十二分三十八秒。
そのうち十数秒だけが、完全な無音だった。
マウスを握り直し、今度は前々回の録音を開く。
再生位置を、さきほど無音だったあたりに合わせる。
紙の音。担当者の声。入居者の相槌。
そして、やはり同じように、音が途切れた。
今度の無音は、十三秒。
無音のあと、男の声が入る。
『……分かりました』
少し間があって、続けて、ひどく小さな声で。
『じゃあ、ここには長くいません』
真緒は再生を止めた。
喉が、さっきよりも乾いている。
事故物件なら、事故物件として説明すればいい。
それで終わる話のはずだった。
なのに三〇二号室だけは、
説明したことは残るのに、
説明の中身だけが抜け落ちる。
まるで部屋そのものが、聞かれた内容だけを回収しているみたいに。
「川名さん」
不意に隣の席から声をかけられ、真緒は肩を揺らした。
同僚がコピー用紙の束を抱えたまま不思議そうにこちらを見ている。
「大丈夫ですか。顔色、悪いですよ」
「……平気。ちょっと、確認案件が重くて」
適当に返して、モニターへ目を戻す。
その拍子に、画面の下に小さな通知が出た。
新規アップロード、一件。
北野町店からだった。
真緒は息を整え、ファイルを開いた。
添付されたのは、説明メモでも報告書でもない。スマートフォンで撮ったらしい、白い紙の写真だった。解像度が低く、端が少し歪んでいる。
紙の中央に、黒いボールペンで一行だけ書かれていた。
説明済み。詳細は口頭。記録不可。
その下に、誰のものか分からない走り書きが、薄く重なっている。
最初はインクのかすれに見えた。
だが目を凝らすと、文字だった。
私は聞きました。
真緒は、写真を拡大した。
もう一度。
さらにもう一度。
走り書きは、やはりそう読める。
しかも、それは備考欄にあった整った文字ではなく、もっと急いで、何かを忘れる前に押しつけたような筆跡だった。
そのとき、画面の端に反射した自分の顔が、ひどく強張っているのが見えた。
ただの記録不備ではない。
そう認めた瞬間、三〇二号室は「差し戻し案件」から外れた。
まだ何も分かっていないのに、もう普通の業務の棚には戻せないと分かってしまった。
真緒は新しいメモを開き、日付と部屋番号を入力した。
グレイスハイツ三〇二。
告知済み。
補足文書なし。
録音欠損あり。
退去者備考、共通文言あり。
そこまで打って、指が止まる。
最後に何を書くべきか、少しだけ迷った。
業務メモとしてなら、「要確認」で足りる。
だが、今この件に必要なのは、たぶんそれではない。
真緒はカーソルを点滅させたまま、静かに打ち込んだ。
説明内容が消えている可能性。
入力した直後、自分で書いた一文なのに、意味が少しだけ遠くなる感覚があった。
真緒は思わず瞬きをした。
疲れているのだと片づけるには、ほんの一瞬、気持ちの悪い空白だった。
モニターの白い光の中で、備考欄の一文がまた目に入る。
私は聞きました。
その言葉は、もはや過去の入居者の報告には見えなかった。
まだ聞いていないはずの自分の未来が、先回りしてそこに書かれているみたいだった。




