冷徹公爵様の「心の声」が聞こえるイヤリングを拾ったら、バグレベルに愛されていた件
グランフォード公爵家の朝は、夜明けの薄群青に沈んでいる。王宮の豪奢な喧騒よりも早く、深い森の奥にある修道院の祈りよりも、さらに静寂に包まれて幕を開ける。
まだ日も差しきらぬうちから、濃紺の制服に身を包んだ使用人たちは、影のように音もなく持ち場へと散っていく。銀器は曇りひとつなく鏡のように磨き上げられ、果てしなく続く廊下の豪奢な絨毯は、踏みしめられた毛並みの向きすら完璧に整えられる。その一切の隙もない完璧な秩序の、まさに中心点にいるのが、公爵家の侍女、リディア・ウェルズだった。
透き通るような白い肌に、感情を読み取らせない静謐な瞳。アイロンの糊が完璧に効いたエプロンのひもを、細くしなやかな指先が迷いなく結び上げる。彼女の動きには、微塵の淀みもなかった。
無駄口を叩かず、手早く、正確に、美しく。誰が見ても有能。少なくとも、この巨大な屋敷の人間は皆そう評価している。本人はただ、歯車の一部として仕事を仕事としてこなしているだけのつもりだったが、結果として、若くして公爵付きの筆頭侍女という重責を任されていた。
そして、その彼女が仕える相手こそが、王都じゅうにその名を知られ、恐怖と畏敬の的となっている冷徹な男――セオドア・グランフォード公爵その人である。
月明かりすら吸い込むような、艶やかな黒曜石の髪。氷河を削り出したかのように鋭く、一切の無駄を削ぎ落とした彫刻のような横顔。そして、覗き込む者の魂の底まで射抜くような、底知れぬ灰青色の瞳。
政務にも軍務にも一切の隙がなく、情に流されることは決してない。判断は常に刃のように冷静だ。彼に一瞥されただけで泣き出したベテラン官吏がいるとか、彼の前で言い訳を口にした見栄張りの貴族が翌日には文字通り社交界から失脚したとか、そんな血も凍るような噂が尽きない男。
屋敷内でも、彼の口から発せられる言葉は必要最低限の記号に過ぎない。
「紅茶」
低い、チェロの弦を弾くような声が執務室に響く。
「はい、公爵様」
リディアは完璧な角度で一礼し、湯気の立つティーカップを音もなく置く。
「書類」
「こちらです」
セオドアの視線が、わずかに書類の束を滑る。
「……違う」
「失礼いたしました。こちらでした」
以上。会話終了。二人の間に流れる空気は、絶対零度のように冷たく静まり返っている。リディアはべつに傷つきもしなかった。もとより主人と使用人以上の温かいつながりなど期待していないし、主人が無口で機械的であることは、仕事に徹する使用人にとってむしろ都合がいい。指示が明瞭で、気分の波によるブレがなく、理不尽に怒鳴られることもない。
怖いという人もいるが、彼女の評価は一貫していた。
無愛想だが、優秀な雇い主。それだけだ。
その氷のように固まった認識が、ある日、屋敷の西塔にある薄暗い封印庫の掃除で、粉々に砕け散ることになる。
西塔の最奥に位置する封印庫には、公爵家に代々伝わるいわくつきの魔道具が厳重に保管されていた。普段は滅多に開かれない、時の止まったような部屋だが、年に一度、管理台帳との照合を兼ねて清掃が入る。
リディアは分厚い帳簿を抱えた老執事とともに、天井まで届く巨大な棚を拭いていた。窓から差し込む一筋の光の中で、微かな埃が舞っている。その時、最上段から下ろした古い木箱を持ち上げた拍子に、ころり、と何かが床へ転がった。
カラン、と硬く澄んだ音が、ひんやりとした石造りの部屋にどこまでも反響した。
銀細工のイヤリングだった。月光をそのまま切り取って閉じ込めたような乳白色の石が一粒。それが揺れるたびに、薄暗い部屋の中で淡く虹色の光を返す。細工は息を呑むほど精緻で、ただ高価な宝石というだけでなく、肌が粟立つような古い魔法の気配を濃厚に帯びていた。
「台帳に載っていたかしら」
リディアがそれを拾い上げた瞬間だった。指先にぴり、と微かな、しかし確かな痺れが走った。微弱な静電気のような痛みに眉をひそめた次の瞬間、まるで自らの意志を持っているかのように金具がひとりでに開き、するりと蛇のようにリディアの左耳に留まったのだ。
「……え」
カチリ、と耳たぶで固定される感覚。外そうと指をかけても、肉の一部と同化してしまったかのように、びくともしない。
困惑したまま、老執事に報告しようと振り返った、まさにそのときだった。
地を這うような重く威圧的な足音とともに、封印庫の重厚な扉がゆっくりと開かれた。仕立ての良い黒い上着の裾が翻る。見間違えるはずもない。この圧倒的なプレッシャー。
セオドア公爵だった。
彼は一瞬、掃除中のリディアを見た。灰青色の視線が、耳元の乳白色のイヤリングに触れた気がしたが、その表情はいつも通り、凍りついた冬の湖面のように何も映し出さない。
「何をしている」
室温がさらに数度下がったかのような錯覚を覚える、冷たい声。
「封印庫の清掃です、公爵様。こちらのイヤリングを――」
「……下がれ」
低く、短く、人を突き放す冷ややかな響き。いつもの彼だ、とリディアは思った。だが、その直後。
キィン、という鋭い耳鳴りのような感覚のあと、大音量の残響を伴う「声」が、頭蓋の内側に直接叩き込まれた。
『うわあああ、今日も可愛い!!なんでそんな地味な掃除用エプロンでこんなに可愛いんだ!?結び目が背中でちょこんとしてる、何それ、反則だろう。待って、近い、無理、心臓が爆発する。いや落ち着けセオドア、平静を装え。今すぐその細い肩を抱きしめて頬ずりしたいとか口が裂けても言うな、犯罪だぞ、いや犯罪ではないが職権乱用だ、落ち着け!!』
リディアの瞳孔がわずかに開く。だが、長年培った完璧な侍女としての矜持が働き、彼女は無表情のまま、一秒前と同じ姿勢で石像のように固まった。目の前には、眉ひとつ動かさず冷徹に立つセオドアの姿。しかし、頭の中では先ほどのパニックボイスがエコーし続けている。
「……侍女長のところへ報告してまいります」
リディアの声が、少しだけ乾いた。
「そうしろ」
セオドアは短く言い捨て、背を向ける。
『声が震えてないか!?大丈夫か?さっきの箱、かなり重そうだったよな、細い手首を痛めてないか!?ああもう、そのどんな時も真面目な返事も好きだ。なんでそんなに凛としているんだ。今日も美しい。ただ君が存在している、この世界に感謝……!』
リディアは一礼し、淀みない足取りで退出した。廊下に出てから三歩進み、重厚なタペストリーのかかる壁際でぴたりと立ち止まる。そして、一つ息を吐き、静かに結論を出した。
「……この魔道具、壊れているわ」
真実を映すどころの話ではない。耳の奥に濁流のように流れ込んできたのは、どう考えても目の前にいる氷の彫像のようなセオドア公爵と一致しない、あまりにも熱量が高く、意味不明な独白だった。
ありえない。仮に、万に一つ、彼がああいう狂おしい心の持ち主だったとしても、その対象がただの侍女である自分であるはずがない。よって導き出される論理的な答えは、ひとつ。
「私の無意識の願望か、日々の過酷な疲労が生み出した幻聴を、異常増幅する呪いのアイテム……」
真顔で深く頷く。実に論理的かつ、現実的な処理だった。
その日から、リディアは左耳に小さな、しかし途方もなくやかましい「厄介」を抱えたまま働くことになった。イヤリングはどうやっても外れなかった。呪具である可能性を考え、王都の専門の魔術師に見せるべきだと判断したが、まずは所持品管理の責任者に報告書を上げなければならない。しかし、その報告書を緻密に作成している間にも、問題はリアルタイムで進行していた。
つまり、公爵の「狂おしい心の声」が、顔を合わせるたびに頭の中に直接放送され続けるのである。
朝の給仕で部屋へ入れば、
「置け」
冷たい視線。
『今日も来た!ありがとう世界。眠そうなのに背筋がぴんとしてるの何?偉い。天才か。紅茶の高貴な香りより先に、君の甘い気配で目が覚めるんだが、これってもう末期症状では?』
書類の山を運べば、
「机に」
顎でしゃくるだけの指示。
『指先が白くて本当に綺麗だ。インクの汚れひとつついていない。どういう完璧な管理能力なんだ?あの細い指で、私の名前を書いたりするのかな。だめだ想像するな。するなと言っただろう私!!』
廊下ですれ違えば、
「急ぐな。転ぶ」
氷点下の忠告。
『階段だ、危ない、長い裾を踏まないか!?ああちゃんと持ち上げた、えらい。……今の一言、心配しすぎで気持ち悪く聞こえなかっただろうか。これで嫌われたらどうしよう、死ぬ』
嫌っている側の思考では、断じてなかった。だが、現実の彼は相変わらず微動だにしない無表情で、言葉は刃のように短く、態度は淡泊どころか人を寄せ付けないほど冷ややかだ。どう考えても、耳に流れ込むこれはイヤリングの「故障」あるいは「呪い」である。
リディアは革表紙の小さな手帳に日誌をつけ始めた。
『本日も呪いは絶好調。公爵様、私が書類棚の高い場所に手を伸ばした際、「脚立を使え」と一言。対して心の声は「背伸びしてるの可愛すぎる、でも危ないから脚立!
頼むから脚立を使ってくれ!」。症状の一貫性が異常に高く、むしろ不気味』
鋼の精神というものは、こういう極限状況でこそ真価を発揮する。リディアは悲鳴も上げず、取り乱して逃げ出すこともせず、ただ「呪いの臨床記録」として冷徹に整理し、一切のミスなく仕事を続けた。
しかし、それが良くなかった。彼女があまりにも鉄壁の平然さを保っているものだから、セオドアは「自分の無関心ぶる演技が完璧すぎるのか」「もっと好意を示さねば伝わらないのか」と致命的な誤解をし、ますます不器用な好意を暴走させるようになったのである。
最初の贈り物は、リボンがかけられた豪奢な箱詰めの菓子だった。王都の貴族が三か月待ちでようやく手に入れる名店の、季節限定の果実タルト。侍女室に呼ばれたリディアの前に、セオドアはそれを無造作に、まるで邪魔な石ころでも捨てるかのように置いた。
「菓子店から届いた。試作品らしい。余っている。持っていけ」
淡々とした、一切の抑揚のない口調。しかしその瞬間、リディアの耳には別の大洪水が叩きつけられる。
『本当は昨日、議会の重い会議の帰りに、自ら列に並んで買った!君が前に厨房で苺の甘い香りにちょっとだけ反応していたのを、私は見逃さなかったからな。甘いもの、好きだろう?
いや好きであってくれ。食べてくれ。気に入らなかったらどうしよう。ああ、美味しいと笑ってくれるかな、少しでいいから君の笑顔が……!』
リディアは美しいタルトの詰まった菓子箱を見下ろした。次に、目の前の冷ややかな美貌を見た。それから、背筋をピンと伸ばし、静かに深く一礼した。
「不要品の処分のお手伝いを仰せつかり、光栄に存じます」
セオドアの形の良い眉が、ぴくりと痙攣するように動いた。
「……そうか」
『処分!?いや違う、違わないように装ったのはこの私だが!!
なんでそんなに事務的に丁寧に受け取るんだ。光栄って何だ。違うんだ、ただ君に食べてほしくて……ああでも困らせたくない。落ち着け。今の君の顔、少し残念そうに見えなかったか?
もしそう見えたら私はここで死ぬ』
リディアは侍女室に戻り、タルトを定規で測ったように等分して皆に配った。高価なものを独り占めするのは組織の和を乱すし、試作品であるならば多数の感想を集めたほうが有益だという、極めて合理的な判断からだ。
その日の夕方、セオドアの心の声は、雨に濡れた大型犬のようにいつも以上にしょんぼりとしていた。
『皆で食べたのか。そうか。いや、いいんだ。独り占めさせるつもりはなかったし、それが君らしい。優しい。そういうところが好きだ。好きすぎる。……しかし一人で密かに味わって「美味しい」と綻ぶ顔を見たかった気持ちがないとは言えない。未練がましいな、私という男は』
リディアは決裁書類を綴じながら、ふむ、と冷静に頷いた。呪いの設定が、無駄に細かい。
日を追うごとに、呪いは重症化した。数日後には、宝石商が持ち込んだという深い海のような青い石のペンダントを「検品の残りだ」と押し付けられた。
「不要品だ。置き場に困る」
『君の瞳の色と同じ石なんだ。十七点も見比べて、一番君に近い青を選んだ。似合うよ、絶対に。その白い首元にその色があったらどれだけ綺麗だろう。いや、もう何もなくても十分綺麗だが!?
鏡が割れるくらい美しいが!?』
「左様でございますか。処理台帳を確認し、適切に保管いたします」
「……使え」
『使ってくれるのか!?
いや今、言い方が強すぎたか!?命令に聞こえたか?違うんだ、ただ君が身に着けているのを見たいだけなんだ。見たいだけって何だ、気持ち悪いな私。いや気持ち悪くても見たいんだ!!』
「かしこまりました」
翌日、リディアはメイドの制服の襟元に、その豪奢なペンダントをきちんとはめてみせた。支給品として扱うなら、所有者の前で着用して見せるのが侍女としての完璧な礼儀だと思ったからだ。
書斎で彼にアールグレイを差し出したとき、セオドアは一瞬、本当に呼吸を止めた。彼の喉仏がゴクリと動き、視線がペンダントとリディアの顔を往復する。
「……似合う」
『やばい。無理。綺麗。想像の三倍似合う。なんでこんなに似合うんだ。泣きそう。今すぐ天に感謝の祈りを捧げたい。ああ駄目だ顔が熱い、見つめすぎるな、怪しまれる、目を逸らせ私!』
「恐れ入ります」
そこで少しくらい、リディアが女として微笑めば、何かが決定的に変わったのかもしれない。だが彼女の中では、依然としてこれは「呪い」であり、しかも自分の深層心理が作り出した気味の悪い「幻聴」なのだ。喜ぶどころではない。むしろ事態は深刻だった。仕事中、四六時中、冷徹な主人の美声で「可愛い」「綺麗」「好きだ」が脳内に直接ストリーミング再生されるのである。精神衛生上、大変よろしくない。
そのうえ、セオドアの行動は目に見えて過保護さを増していった。夜更けまで作業していると、
「まだ起きているのか」
とだけ言って、湯気の立つ温かいスープを置いていく。
『夕食をほとんど食べていなかっただろう、胃を壊す。せめてこれだけでも。できれば私の目の前で飲んでほしいが、圧が強いか。いやでも心配でたまらない』
雨が降れば、
「濡れるな」
と自分の分厚い外套を無言で寄越す。
『その華奢な肩に冷たい雨粒が落ちるだけで腹立たしい。風邪を引いたらどうする。君が咳き込んだら、私が死ぬ』
重い荷物を持てば、
「男手を呼べ」
と眉間に皺を寄せる。
『そんな細い腕で無理をするな。だが自分でひょいと持ててしまう凛々しさも格好いい。好きだ』
リディアの中では、もはや「公爵の姿を借りた幻聴に対する危機感」が、レッドゾーンに達していた。
そして、決定的な事件が起こる。公爵家主催の、大規模な晩餐会が開かれた夜のことだ。王都の有力貴族がこぞって集う豪華絢爛な会で、使用人たちも総出で配膳の準備に追われていた。大広間のシャンデリアが眩く輝く中、リディアは客間と大広間を忙しく往復し、配膳の段取りと席次の最終確認を行っていた。
その最中、一人の令嬢がセオドアのそばにすり寄り、いかにも親しげに甘い声で笑いかけた。薄桃色の豪奢なドレスに、輝く金糸の髪。名門アルヴィン侯爵家の長女、イザベラ嬢だった。美しく、家柄も申し分なく、公爵夫人候補の筆頭として以前から社交界で噂されている人物である。
リディアは単に給仕の動線を確認しつつ、二人の位置関係を視界の端に留めていただけだった。なのに、耳元で唐突に、落雷のようなすさまじい声が弾けた。
『近い!!近い近い近い!!離れろ!いや客だ、わかっている、公爵としての礼を失するな私。だが近い!リディアが見ているだろうが、誤解されたらどうする!
違うんだリディア、私は何とも思っていない。笑っているのもただの社交辞令の筋肉の動きだ!頼む、リディア、少しも気にしないでくれ。……いや、気にして嫉妬してくれたらそれはそれで脈があるのか?何を考えているんだ私は!!』
リディアはシャンパンの乗った銀盆を持つ手を止めかけ、すぐに冷静に持ち直した。呪いが「嫉妬」という高度な感情まで学習し始めた。極めて深刻である。
晩餐会の後半、イザベラ嬢がわざとらしく酔ったふりをして、セオドアの腕にその白い手を絡めたときなど、リディアはさすがに少しだけ顔をしかめた。その瞬間だった。セオドアがバサリと外套を翻して一歩退き、大広間全体を凍らせるような氷点下の声で告げた。
「お足元が危ない。侍女を呼べ」
周囲の空気が、ぴしり、と音を立てて凍りつく。イザベラ嬢の甘い笑みが、石膏のように固まった。そしてリディアの耳には、半狂乱の心の声が突き刺さる。
『見たか今の!?嫌だっただろうか。嫌だったはずだ、この私が!いや彼女に触れられたことではなく、私が曖昧な態度を取ったと君に思われたらすべてが終わる。終わるどころか始まってもいない!
どうしよう。リディア、どうか誤解しないでくれ。私の視界には、最初から最後まで、君しか存在していないんだ!!』
リディアは盆を胸元に抱え、ひっそりと確信した。もう、限界だ、と。
このままでは本当に自分の精神が崩壊する。冷徹な主人の姿をした幻聴が、自分だけに向かって、あまりにも生々しい溺愛の独白をし続ける。最近は妙に具体的で、感情の揺れまで激しく、もはや狂気すら感じる。睡眠不足のせいかと思い強いハーブティーを飲んでも治らない。つまり病は、完全に心の方だ。
有能な使用人は、決して主人に迷惑をかけない。それが、リディア・ウェルズの矜持だった。ならば、自分が取るべき道はひとつしかない。
数日後の午後。政務の合間、セオドアが一人で書斎にいる時間を見計らって、リディアは純白の封筒に入れた辞表を持って部屋を訪れた。柱時計の重い秒針の音だけが響いている。
「失礼いたします、公爵様」
「入れ」
いつも通りの、底冷えするような低い声。分厚い机に向かう横顔は、絵画のように整いすぎていて、かえって人間味が感じられない。だがリディアには、もうそれに惑わされる気力も残っていなかった。
机の前に真っ直ぐに立ち、辞表を静かに差し出す。
「お願いがございます。本日をもって、暇をいただきたく存じます」
セオドアのペン先が、空中で完全に止まった。紙の上に一滴、黒いインクがボトリと落ちて滲む。
「……理由は」
『今……なんと言った?待て。聞き間違いか。いや悪夢か?
悪夢であってくれ。暇?辞める?無理だ。無理無理無理。何があった。誰か何かしたか。私か。私しかいない。私だ。死ぬ』
リディアは胸の内でそっと謝った。ほらやはり、私の幻聴だ。こんなにも取り乱してパニックに陥っている公爵が、現実のこの世界にいるわけがない。
「私事にございます。これ以上お仕えするのは、屋敷にご迷惑をおかけすると判断いたしました」
「迷惑?」
『迷惑だと?誰が?君が?あるわけないだろうが!!
君が来てからこの屋敷の業務の回転率がどれだけ劇的に上がったと思っている。私の生存率も飛躍的に上がった。精神の。いや違うそういう業務的なことではない。落ち着け、言葉を選べ私』
「はい」
「……体調か」
『顔色が悪かったか?医師だ、今すぐ王都最高の医師を!いや退職願の前で医師は違う。だが必要なら国一番の治癒師を大至急呼ぶ。呼ばせてくれ。金ならいくらでも、全財産出す!』
「いいえ」
「待遇か」
『給金を上げる。今の十倍……いや百倍にする。休暇も増やす。部屋が寒いなら今すぐ屋敷ごと改修する。欲しいものは何だ。言ってくれ。いやそんな金や物で引き留めるつもりか、最低だな私。でも何でもするから、頼むから行かないでくれ!』
「そうではありません」
リディアは静かに一呼吸置いた。本当のことを言うわけにはいかない。
「公爵様、実はあなたの姿を借りた幻聴が私に毎日愛を囁き続けて限界なので辞めます」
などと言ったら大迷惑極まりない。だから彼女は、できる限り穏やかに、波風を立てないよう曖昧に告げた。
「私の、心の問題です。ここにいては、いずれ職務に重大な支障をきたします」
その瞬間。部屋の空気が、文字通り凍った。セオドアが、ゆっくりと、機械のように顔を上げる。その表情は、完全なる「無」だった。底知れぬ灰青色の瞳が、虚無を見据えている。
「……勝手にしろ」
低く、鋭く、すべてを切り捨てるような冷たい一言。リディアは胸の奥が、ちくりと針で刺されたように痛むのを感じたが、それでも静かに納得した。巨大な権力を持つ雇い主にとって、使用人一人が辞めるなど、その程度のことに過ぎない。
だが、同時に。
『無理だ!!!!!!』
鼓膜をつんざき、頭蓋を揺るがすほどの、血を吐くような絶叫が響いた。
『勝手にしていいわけがあるか!!行くな、頼む、待ってくれ!そんな思い詰めた顔で頭を下げるな!
ここにいてはって何だ、誰が君を苦しめた、私か!?そうだ私だ!どうすればいい、今すぐ足に縋り付くか!?いや怖がらせる!でもこのまま君を失うくらいなら、床に額を擦りつけて泥を舐めても止める!!
無理だ、君がいない世界なんて真っ暗闇だ。書類の山も庭の花もどうでもよくなる。紅茶すら味がしない。息の仕方もわからなくなる。頼むから、頼むから行かないでくれ――!!!!』
リディアの目が、驚愕に見開かれた。あまりにも切実で、あまりにも必死な、魂の底からの慟哭。それはもはや、「自分の深層心理が生み出した幻聴」などという生易しい枠組みに収まるものではなかった。生々しすぎる。感情の質量が重すぎる。
震える指先で辞表を置き、彼女がたまらず後ずさりしようとした、まさにそのとき。ガタンッ、と重厚な椅子が激しく後ろに倒れる音が響いた。次の瞬間、セオドアが立ち上がり、大きな机を回り込み――リディアの細い手首を、強く、しかし壊さないように掴んでいた。
いつもなら他人に触れることすら躊躇う人が、初めて見せる荒々しさだった。見上げれば、氷のように冷たかったはずの灰青の瞳が、激しく揺れている。
「行かないでくれ!!」
叫びだった。低い声なのに、明らかに取り乱している。喉が掠れ、息が乱れ、目元はうっすらと赤く充血している。あの、王都中が恐れる冷徹公爵が、今にも泣き出しそうな、すがりつくような顔をして彼女を見ていた。
リディアの思考は、完全に停止した。
「……え」
「頼む」
彼女の手首を掴んだ大きな手が、小刻みに、しかしはっきりと震えている。
「君がいないと、駄目なんだ」
耳元の声と、目の前の声が、一寸の狂いもなく、完璧に重なり合った。
『好きだ。ずっと好きだった。仕事ができるからではない、いやそれもあるが、そうじゃなくて。君がこの屋敷に来て、誰も私に近寄らず氷のように生きていた時期に、平然と温かい紅茶を淹れて、眠れない夜に灯りを置いて、母の形見の温室を黙って守ってくれた。泣きたかった日に、決して泣かせてくれず、ただ隣にいてくれたのは君だ。救われたんだ、私はずっと、君に』
リディアは、ゆっくりと、空いた右手を左耳へとやった。冷たい銀の感触。あの日から一度も外れなかったイヤリングが、いま初めて、その存在意義をはっきりと主張して熱を持っている気がした。
「……これ」
リディアは、掠れた声で呟く。
「このイヤリング……私の幻聴ではなく、本当に、心が……?」
セオドアが、彼女の耳元を見る。
「聞こえていたのか?どうだ」
「封印庫で拾って、そのまま外れなくて」
「……真実を映す、共鳴のイヤリングだ。対になっている片方が、近くにいる相手の心音……いや、隠された『心声』を拾う」
「では」
沈黙が、重く、甘く、書斎に落ちた。それは時計の針が刻む数秒のはずなのに、永遠のようにひどく長く感じられた。リディアの白い頬が、じわじわと、まるで火を近づけられたように熱くなっていく。今まで数え切れないほど聞いてきた、膨大な「可愛い」「好き」「抱きしめたい」「行かないで」という言葉の嵐が、一気に現実の質量をもって押し寄せてきたからだ。
つまり。自分は毎日毎日、この国の頂点に立つ主人の本気の恋情を、「呪い」だの「自分の願望」だのと思って、ノートに記録しながら聞き流していたことになる。しかもあの限定タルトも、瞳と同じ色の宝石も、温かい外套も、全部。
「……処分品では、なかったのですね」
セオドアは、深い絶望とともに額を押さえた。
「……違う」
「試供品でも」
「違う」
「不要品でも」
「……違う」
「では私は、大変な勘違いを」
彼は苦く、深い息を吐き出した。
「君があまりに平然としているから、まったく脈がないのだと。贈り物も迷惑で、ただ事務的に処理されているだけなのだと絶望していた」
「屋敷の在庫整理かと思っておりました」
「在庫整理で、十七個の宝石を見比べて最高級のサファイアを渡す男がいるか」
「公爵家ならありえるかと」
「断じて、ない」
そこでリディアは、初めて。彼女の鉄壁の仮面を自ら外し、ほんの少しだけ、ふわりと花が綻ぶように笑った。口元が緩んだのを見た瞬間、セオドアがひどく不器用に息を呑む音がした。
『笑った……!』
耳元で、またもや爆発的な心の声が弾ける。
『やっと笑った。ああ、駄目だ、本当に好きだ。世界が明るい。死んでもいい。いや生きる。今すぐ結婚したい。いや順番、手順を踏め私!!』
リディアは、ついに耳の先まで赤く染まった。
「公爵様」
「セオドアでいい」
「……セオドア様」
呼び方を変えただけで、彼の険しい表情がわずかに、しかしはっきりと緩む。こんなにも優しく、人間らしい顔もするのかと、リディアは遅すぎる発見に戸惑いながらも、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「私、ずっと自分の頭がおかしくなったのだと思っておりました」
「それは……すまない。私の不徳だ」
「ですが、違ったのですね」
「ああ」
「では、あれもこれも、本当に……」
言い淀むと、セオドアが観念したように、静かに目を閉じた。
「本当だ」。
再び開かれた灰青の瞳は、もう、一切逃げていなかった。
「ずっと愛していた。だが立場が違いすぎる。主である私が、侍女である君に軽々しく好意を告げれば、それは命令にも脅しにもなる。だからせめて、君に不自由のないようにと、あんな回りくどい別の形でしか示せなかった」
リディアは、彼の切実な言葉を静かに聞いていた。
「嫌なら、断ってくれていい。だが、辞めるのだけはやめてくれ。君が望むなら、部署も立場も変える。屋敷を出たいなら王都に別邸を用意する。何でもする。だから」
彼はそこで一度言葉を切り、手首を掴む力を少しだけ緩め、ほとんど祈るように続けた。
「どうか、私のそばにいてくれ」
耳元の心の声も、まったく同じ言葉を、震えるような熱量で重ねていた。
『そばにいてほしい。毎朝会いたい。君の淹れる紅茶を飲みたい。疲れた顔をしたら休ませたいし、笑ったらそれだけで一日生きられる。愛している、リディア』
リディアはしばらく黙っていた。生来の真面目な性格ゆえに、彼女はいつもまず状況を論理的に整理する。感情の波に飲まれるより先に、事実を並べる癖がある。セオドア公爵は、自分を愛している。それは勘違いではない。しかも、かなり長い間、非常に深く、狂おしいほどに。そして自分は、それを「呪い」扱いした。ついでに、辞表まで叩きつけた。
整理が済んだところで、リディアの胸の奥から、じわりと別の感情が広がった。思い返せば、自分だってまったくの無関心ではなかったのだ。あの短い冷ややかな言葉の裏に滲む、不器用な気遣い。誰より公平で、理不尽を嫌い、使用人の失敗を感情で裁かない誠実なところ。冷たいと思っていた横顔が、激務に疲れた夜には少しだけ寂しそうに見えることも、彼女だけは知っていた。
だからこそ、「幻聴」がこんなにも自分に都合のいい溺愛の内容になったのだと、思い込んだのかもしれない。願望だ、と片づけたのは、自分の方も同じだったのだ。
リディアはゆっくりと、自分の出した辞表を取り上げると、びり、と真ん中から躊躇いなく破いた。セオドアが驚愕に目を見開く。
「辞職は、取り下げます」
「……リディア」
「ただし」
彼女は一歩、彼に近づいた。二人の距離が、かつてないほどに縮まる。
「これからは、処分品や試供品という言い方は禁止です」
セオドアが、まるで悪戯を見つかって叱られた子供のように押し黙る。
「贈り物なら、贈り物と。心配なら、心配だと。私にもわかる言葉で、直接伝えてください」
「……努力する」
『努力どころか今すぐ毎秒伝えたい、大声で叫びたい』
「毎秒は結構です」
「……聞こえていたな」
「ええ、はっきりと」
沈黙のあと。二人とも、こらえきれずに少しだけ吹き出した。
その日を境に、グランフォード公爵家の空気は静かに、しかし劇的に変わった。もっとも、変わったのは主に公爵である。外面の冷徹さは相変わらずだった。会議では容赦なく、貴族相手にも一歩も引かず、王宮の官僚たちは以前と同じく彼を恐れた。だが屋敷の中では、その氷の仮面に明確なひびが入っていた。
「リディア、寒くないか」
「平気です」
「本当にか」
「本当に」
『平気でもひざ掛けを持ってこよう。いや私が抱きしめて温めるという選択肢は……まだ早いか』
「聞こえています」
「……そうか」
ある朝は朝で、
「朝食を食べたか」
「まだです」
「先に食べろ」
『空腹で倒れたら困る。いや困るどころではない。私が倒れる。私が食べさせようか』
「ありがとうございます。あと心の声が大げさですし、自分で食べられます」
「止められない」
使用人たちは最初こそ戸惑ったが、やがて「公爵様はリディア様にだけ妙に人間らしい」という事実を受け入れ始めた。そのうち正式な婚約が発表されると、屋敷中が妙に納得した顔になった。
「でしょうね」
「ええ、でしょうね」
「むしろ今まで違ったのですか」
などと囁かれ、リディアは少しだけ腑に落ちなかったが、古株の侍女長だけはしみじみと言った。
「見ている人は見ておりますよ。あの方、あなたが部屋に入ってくるときだけ、呼吸が違いましたもの」
「呼吸」
「ええ」
「わかるのですか」
「年の功です」
婚約後、セオドアの心の声は以前にも増して遠慮がなくなった。庭園を一緒に歩けば、
『婚約者、婚約者だ。信じられるか。彼女が私の隣を歩いている。夢では?頬をつねってみてほしい』。
仕立て屋でドレスを選べば、
『何色でも似合う。全部買いたい。止めろ、財力で殴るな。だが見たい。着せ替え人形にしたいわけではないが、全部着てほしい』。
夜会で手を取れば、
『細い。綺麗。離したくない。帰ったら今日の感想を百個言いたい』。
さすがに全部が全部大音量で聞こえるのは照れるし疲労するので、リディアは魔術師に頼んでイヤリングの受信を少し弱めてもらった。完全に切ることもできたが、彼女はあえてそうしなかった。
たまに聞こえる、隠しきれない本音が、案外嫌いではなかったからだ。
そして季節がひとつ巡り、王都の社交界に新しい公爵夫人が姿を見せた日。深い青のドレスに身を包んだリディアは、かつて侍女として培った観察眼と実務能力をいかんなく発揮し、客人の視線も会話も見事に捌いていた。どの貴婦人より落ち着き、どの秘書官より段取りが良い。まさしく有能極まりない公爵夫人である。
その傍らで、セオドアは変わらず無表情に立っていた。知らない者が見れば、相変わらず冷たい氷のような夫に見えるだろう。
だが、リディアの耳元には小さく、はっきりと愛しい声が届いている。
『綺麗だ。世界一だ。今日も好きだし昨日よりもっと好きだ。妻が有能で美しくて優しくて最高だ。帰ったら力の限り褒めちぎりたい。いや今ここで言いたい。大声で叫びたい。でも人前だ。耐えろ。耐えろ私』
リディアは澄ました顔で扇を開き、そっと夫の耳元で囁いた。
「セオドア様」
「何だ」
「帰ったら、存分に褒めちぎってくださって構いません」
数秒遅れて、彼の耳までがカッと赤く染まった。
「……聞こえていたか」
「ええ」
ふ、とリディアは笑う。すると彼はほんのわずか、他人には絶対にわからないくらい柔らかく、愛おしそうに目を細めた。
冷徹公爵の仮面の下に、こんなにも不器用で、熱烈で、どうしようもなく一途な心があったのだと、今なら誰より彼女が知っている。あの日、壊れていると思ったイヤリングは、少しも壊れていなかった。壊れていたのは、むしろ二人の認識の方だったのだろう。
真実はいつも、案外すぐそばにある。低く短い言葉の裏にも。無表情のまなざしの奥にも。そして、拾ってしまった小さな魔道具の向こうにも。
だから今日も、リディアは平然と微笑む。耳元で愛の大洪水が始まっても、もう
「呪いですね」
とは言わない。代わりに少しだけ、からかうように返すのだ。
「ありがとうございます、旦那様」
その一言だけで、冷徹公爵様は内心盛大に決壊する。もっとも、今となってはそれもまた、グランフォード公爵家の幸福でやかましい日常だった。




