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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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9/50

第1話『金木犀の幻影』 ~Section 8:円環の真意と、情動の視座~

 圧倒的な質量を持つ鉄の箱が、いかにしてこの橡ノ大社(つるばみのたいしゃ)の山頂に現れたのか。

 極限まで部品を解体し、橡ノ都(つるばみのきょう)の街並みに溶け込む騙し絵の塗装を施し、何週間もかけて運び込む。そして深夜の境内で、水で塗装を洗い流し、無音の手作業で組み上げる。魔法でも超能力でもない、狂気じみた労力と緻密な計算による物理トリックの全貌を、瑠璃は鮮やかに暴き出した。


 だが、それはあくまで手段の解明に過ぎない。

 事象の裏側にある物理法則を読み解く『物理的観察眼』の役目はここまでだ。ここから先は、なぜその手段を選んだのかという、人間の心の奥底に潜む目に見えない領域へと足を踏み入れる必要がある。


 夏の強い日差しが照りつける白砂の上で、瑠璃はゆっくりと目を閉じた。

 視覚を遮断する。耳から入る蜩の鳴き声や、風が杉の木立を揺らす音を意識の彼方へと追いやる。肌を刺す熱気も、鼻腔をくすぐる金木犀の人工的な香りも、すべてをノイズとして切り捨てる。

 五感を閉ざした暗闇の中で、瑠璃は自分自身の内面へと深く潜行していった。


 探るべきは、情動のルーツ。

 ファントムという正体不明の存在が、この巨大なゴンドラに込めた真の意図だ。


 瑠璃の脳裏に、かつて幼い頃に迷い込んだ月見坂市の旧市街の風景が蘇る。AI管理社会から取り残されたような、昭和の面影を色濃く残す場所。そこで出会った、山内かえでという老婆の皺くちゃな笑顔と、静かな声が響く。

 彼女は古物商でも学者でもなく、ただ古い家でひっそりと一人暮らしをしている、ごく普通の一般家庭の老人だった。しかし、彼女の語る言葉には、常にモノと人との確かな繋がりが宿っていた。


『いいかい、瑠璃ちゃん。モノというのはね、勝手に歩いてそこに行くわけじゃないんだよ。必ず誰かの手が動かし、誰かの心がそこにある。表面の傷や作られた場所だけを見るんじゃない。どうしてそれがそこにあるのか、その奥にある人間の想いを見つめるんだよ』


 山内かえでから教わった、モノに宿るルーツを探る思考。

 ファントムは、並外れた労力をかけてこのゴンドラを運んだ。単に不可能犯罪を見せつけるためだけなら、巨大な石の彫刻でも、あるいは別の建造物でもよかったはずだ。なぜ、他でもない『不知火湖の廃遊園地のゴンドラ』を選んだのか。

 そこには必ず、瑠璃の心を直接抉り出すための明確な理由がある。


 思考の深淵で、瑠璃はもう一人の大切な存在を呼び起こした。

 皐月優奈。

 九歳の夏に喪った、無二の親友。彼女の笑顔はいつも太陽のように眩しく、他人の痛みに寄り添う優しさを持っていた。優奈が瑠璃に遺してくれたもの。それが、論理や計算だけでは測れない人間の生々しい感情の動きを読み解く力『情動の視座』だ。


 瑠璃は、脳内で優奈の視点と同調し、ファントムの精神構造をトレースしていく。

 相手に悪意はない。憎悪も、復讐心もない。あるのはただ、瑠璃という同じ目を持った天才への純粋な興味と、執着だけだ。ならば、このゴンドラは嫌がらせではなく、瑠璃の魂に対する極めて客観的で冷酷な分析結果の提示であるはずだ。


 瑠璃は静かに目を開き、色褪せた赤と黄色のストライプ塗装を見つめた。

 扉の下部に印字された、四番という数字。


 わしは、不知火湖には一度も行ったことがない。

 瑠璃は心の中で独りごちた。

 九歳の夏。優奈が家族旅行で不知火湖の別荘へ向かったあの日、瑠璃は別の場所にいた。そして、優奈は二度と帰ってこなかった。水難事故という冷たい報告書だけが残り、瑠璃が直接あの湖畔の土を踏む機会は永遠に失われた。

 だから、この四番のゴンドラに乗ったことも、窓から景色を見下ろしたこともない。


 しかし、九歳から今日に至るまでの七年間。瑠璃はたった一人で優奈の死の真相を追い求め、事故の資料や現場の写真を何千回、何万回と見つめ続けてきた。

 廃園となった『レイクサイド・不知火』の観覧車。その資料写真の束の中で、この四番ゴンドラの姿は、瑠璃の脳裏に血の滲むような鮮明さで焼き付いている。優奈が最後に見たであろう景色の一部として、完全に記憶と同化しているのだ。


 ファントムは、それすらも理解している。

 瑠璃が不知火湖に行ったことがない事実も、それゆえに現場の遺物に凄まじい執着を抱いていることも。


 遊園地の観覧車。

 それは、どのような機能を持った乗り物か。

 瑠璃の思考の歯車が、カチリと音を立てて噛み合った。

 アメジストの瞳に、鋭く冷ややかな理知の光が満ち溢れる。


「分かったぞ」


 瑠璃が静かに呟くと、固唾を呑んで見守っていた翡翠と菫が、弾かれたように身を乗り出した。


「どういうことなの、瑠璃。ファントムの目的が分かったの」


 翡翠の問いかけに、瑠璃はゴンドラのアクリル窓にそっと軍手をはめた手を触れながら、ゆっくりと頷いた。


「この四番ゴンドラは、間違いなく優奈が亡くなった不知火湖の廃遊園地にあったものじゃ。だが、ファントムが本当に見せたかったのは、優奈の死というトラウマそのものではない。この観覧車という乗り物が持つ、構造上の絶対的なルールじゃ」


「構造上のルール」


 菫が怪訝そうに眉をひそめる。瑠璃はゴンドラから手を離し、二人の顔を真っ直ぐに見据えた。


「観覧車とは何か。巨大な円盤の周囲に取り付けられ、モーターの動力によってゆっくりと空高く舞い上がる乗り物。頂上に達すれば素晴らしい景色を見渡すことができ、乗っている者は誰もが前へ進んでいるかのような高揚感を得る。じゃが、それは完全な錯覚に過ぎぬ」


「錯覚」


 翡翠がその言葉をオウム返しに呟く。瑠璃は冷酷な事実を突きつけるように言葉を紡いだ。


「そうじゃ。特急列車や自動車と違い、観覧車はどれほど時間をかけて動こうとも、目的地には永遠に辿り着かない。ただ固定された軸を中心に、決められた円環の軌道を回り続けるだけじゃ。高く登ったと思っても、やがて必ず元の低い場所へと引き戻される。一歩も、ただの一歩も前進することのない、完全な閉鎖空間。それが観覧車という乗り物のルーツじゃ」


 そこまで言って、瑠璃は自嘲するように小さく口角を上げた。


「ファントムは、わしを嘲笑っているのじゃ。いや、極めて正確に分析し、事実を指摘していると言った方が正しいな」


「事実って、まさか」


 菫の顔から血の気が引く。大人の女性としての鋭い感受性が、瑠璃の言葉の先にある残酷な真意にいち早く気づいたのだ。瑠璃は静かに頷き、決定的な言葉を口にした。


「お前は、皐月優奈の死という過去に囚われたまま、円環の中を巡っているだけで一歩も進んでいない。それが、ファントムからのメッセージじゃ」


 境内の空気が、凍りついたように静まり返った。

 蜩の鳴き声すらも遠のき、ただ瑠璃の静かで力強い声だけが響き渡る。


「九歳の夏に優奈を喪ってから七年間。わしはたった一人で、ありえない場所にある不純物のルーツを探り、様々な謎を解き明かしてきた。知識を蓄え、観察眼を磨き、高く登って前へ進んでいるつもりでいた。しかし、その根底にあるのは常に優奈の死の真相を知りたいという過去への執着じゃ。どれだけ別の事件を解決しようとも、わしの魂はあの夏から一歩も動いていない。ただ固定された軸の周りを、虚しく回り続けているだけだとな」


 それが、ファントムの提示した『情動のルーツ』だった。

 圧倒的な物理トリックを用いて山頂に現れた鉄の箱は、瑠璃の心のありようを正確に形にした、巨大な鏡だったのだ。


「酷すぎるわ」


 翡翠が、震える声で叫んだ。彼女の美しい顔が、妹を徹底的に分析し、精神を解剖してみせた見えざる敵への強い怒りで歪んでいる。


「瑠璃がこの七年間、どれだけ苦しんで、どれだけ一人で重荷を背負ってきたか。それをこんなやり方で突きつけて、心を折ろうとするなんて。完全に異常者のやることよ。やっぱり警察とコンツェルンの力を使って、徹底的に洗い出すべきだわ」


「待つんじゃ」


 激昂する翡翠を、瑠璃は静かな声で制した。

 瑠璃の瞳には、怒りも、悲しみも、絶望もなかった。あるのはただ、燃え盛るような冷たい闘志と、自分を完全に理解した相手に対する戦慄だけだ。


「心を折ろうとしているのではない。奴にそんな悪意はないのじゃ。奴は純粋に、わしという人間に興味を持ち、わしの魂の構造を極限まで分析した。そして、それを最も美しく、最も残酷な形で表現してみせた。これは悪戯ではない。わしの存在意義そのものを賭けた、真っ向からの挑戦状じゃ」


 瑠璃は再びゴンドラへと歩み寄った。

 半開きになった錆びついた扉。その隙間から漂ってくる、人工的な金木犀の香り。

 ゴンドラの中に置かれたアンティークのテーブルと、琥珀色の紅茶が入ったティーカップ。


「観覧車は、閉じた円環じゃ。じゃが、ファントムはこのゴンドラの扉を開け放ってある。そして、中に温かい紅茶を用意した。これが意味することは一つしかない」


 瑠璃は手袋をはめた手で扉を完全に押し開き、ゴンドラの内部を真っ直ぐに見据えた。

 一度も乗ったことのない、しかし骨の髄まで記憶に刻まれた空間。


「過去という円環の檻から降りて、自分(ファントム)の目の前まで辿り着いてみせろ。皐月優奈の死の真相を知りたいのなら、この停滞した時間から抜け出してみせろ。奴はそう言っておるのじゃ。この温かい紅茶は、奴が今まさにこの現在という時間軸に存在し、わしを待ち受けているという明確な意思表示に他ならない」


 完璧な理解だった。

 物理的な観察眼でトリックを破壊し、情動の視座でファントムの精神に同調する。如月瑠璃という孤高の天才は、見事に相手の仕掛けた二重の謎を解き明かしたのだ。


 ゴンドラの外で、菫が深くため息をついた。

 それは恐怖ではなく、娘のあまりにも過酷で、しかし気高い覚悟を受け入れた母親としての吐息だった。


「瑠璃。あなたの意志は分かったわ。相手は並の犯罪者じゃない。あなたの魂の奥底まで覗き込んでくる、底知れない化け物よ。それでも、あなたは戦うのね」


「無論じゃ」


 瑠璃はゴンドラの扉に手をかけたまま振り返り、堂々と胸を張って答えた。


「優奈の死は、わしにとって絶対に譲れない聖域じゃ。それを餌にぶら下げられ、逃げ出すことなどあり得ぬ。ファントム。奴がどれほどの概念的洞察力を持っていようとも、わしの物理的観察眼と情動の視座で、必ずその正体を暴き出してみせる」


 夏の風が吹き抜け、神社の境内の白砂をわずかに波立たせる。

 かつてない強敵の出現。しかし、瑠璃の心は不思議と澄み切っていた。

 七年間、暗闇の中で手探りで探し求めていた優奈の死の真相。その手がかりを握る存在が、ついに目の前に現れたのだ。


 円環の真意を読み解き、過去との決別を促す幻影からの招待状。

 瑠璃はその挑戦を真正面から受け止めた。

 激しい知恵比べの火蓋は、この橡ノ大社(つるばみのたいしゃ)の山頂で、静かに、そして決定的に切って落とされたのである。



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