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如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『金木犀の幻影』 ~Section 5:完璧な質量と、見えない重機~

 橡ノ大社(つるばみのたいしゃ)の静謐な神域に、場違いな鉄の箱が鎮座している。

 木漏れ日が色褪せた赤と黄色のストライプ塗装を照らし出し、開け放たれたゴンドラの扉からは、人工的な金木犀の香りが淀みなく溢れ出していた。


 瑠璃はゴンドラから数歩距離を取り、改めてその全体像を視界に収めた。

 高さおよそ二メートル、幅と奥行きは一・五メートルほど。六人が向かい合って座れる標準的な観覧車のサイズだ。


「あり得ないわ。完全に計算が破綻している」


 静寂を破ったのは、翡翠だった。

 彼女は鋭い翡翠色の瞳でゴンドラを睨みつけながら、脳内で凄まじい速度の演算を行っていた。経理の天才である彼女の頭脳は、単なる金銭の計算にとどまらず、空間把握や質量の推論においてもスーパーコンピューター並みの精度を誇る。


「姉よ。どういうことじゃ」


「質量と経路の矛盾よ。このゴンドラは、主要なフレームが鋼鉄、窓ガラスが強化アクリル、座席部分がFRP素材で構成されている。目視で容積と比重を計算したけれど、重量は最低でも五百キログラムは下らないわ」


「五百キロか」


「ええ。対して、私たちが先ほど登ってきた紅殻石段(べんがらいしだん)。あそこの道幅は最大でも一・五メートルしかない。傾斜角は三十度近くあり、クレーン車はおろか、小型のキャタピラ式運搬機すら入る隙間はないわ」


 翡翠は自らの推論を確信に満ちた声で言い切った。


「ヘリコプターで空から吊るして下ろしたのなら話は別よ。でも、そんなことをすれば凄まじいロープウインドと騒音が発生して、橡ノ都(つるばみのきょう)中の人間が目を覚ますわ。つまり、重機が入らないあの狭い石段を通り、これほど巨大な鉄の箱を一夜にして無音で運ぶことは、物理的に絶対に不可能よ」


 その断言を裏付けるように、菫がハンドバッグから取り出したスマートフォンを操作しながら口を開いた。


「コンツェルンの情報網と、警察の交通システムにも裏からアクセスして確認したわ。昨晩から今朝にかけて、橡ノ都(つるばみのきょう)の北側エリアで不審な大型トラックの通行記録は一切ない。近隣住民からの騒音の通報や、ヘリコプターの飛行記録もゼロよ」


 菫は画面をスワイプし、周囲の監視カメラの映像データも手早く確認していく。


「それに、この橡ノ大社(つるばみのたいしゃ)へ続く紅殻石段(べんがらいしだん)の入り口付近。そこの防犯カメラの映像を今確認したけれど、昨晩は誰も通っていないわ。ノイズも編集の痕跡もない。映像は本物よ」


 監視カメラにも映らず、重機も使わず、ヘリの音もさせない。

 重量五百キロの鉄の箱が、一晩で、誰にも気づかれずに山頂の神社に瞬間移動した。

 まるで本当に【幽霊】の仕業であるかのように、状況はオカルトじみた不可能性を提示していた。


「手品でも魔法でもない。必ず物理的なルーツが存在する」


 瑠璃は静かに言い放つと、ポシェットから真っ白な軍手を取り出し、両手にはめた。そして、長年愛用している銀のルーペを右手に握りしめる。

 五感分析の開始だ。


 対象がどれほど不可解であろうとも、物質である以上、そこには必ず人間の手が介入した痕跡が残る。それが瑠璃の絶対的な信念だった。

 瑠璃はまず、ゴンドラが置かれている足元――境内に敷き詰められた白砂に目を向けた。


「母よ、姉よ。そこから動かないでくれ。砂の波紋を見落とす」


 二人が頷くのを確認し、瑠璃はゆっくりとゴンドラの周囲を歩き始めた。

 神社の白砂には、毎朝神職によって美しい箒目がつけられている。もし五百キロの鉄の箱を空から落としたのなら、あるいは引きずって運んできたのなら、この箒目が大きく乱れているはずだ。


 だが、ゴンドラの底面と白砂の接地面をルーペで覗き込んだ瑠璃は、小さく息を吐いた。


「接地面積の砂の沈み込みは均等じゃ。引きずった痕跡も、落下によるクレーター状の砂の飛散もない。まるで、最初からそこに生えていたかのように、静かに置かれている」


 次に瑠璃は、ゴンドラ本体の表面へと注意を移した。

 軍手をはめた指先で、色褪せた赤と黄色のストライプ塗装をそっと撫でる。指先から伝わる微細な凹凸、摩擦係数、温度の変化。視覚と触覚を極限まで研ぎ澄まし、対象の情報を脳内で処理していく。


「塗装の劣化具合、表面の酸化皮膜の厚さ。確かに七年間、風雨に晒され続けた本物じゃ。だが」


 瑠璃は不意に手を止め、ルーペを窓枠の縁に強く押し当てた。

 アメジストの瞳が、僅かな違和感を捉えて細められる。


「この窓枠の隅。そして、扉のヒンジの接合部。ここに、微量だが極めて新しい金属粉が付着しておる。酸化していない、削り出されたばかりの鉄の粉じゃ」


 瑠璃はさらに視線を下げ、ゴンドラの床面と側面のパネルを繋ぐボルトの列を注視した。

 錆びついたボルトの頭。一見すると長年の劣化に見えるが、ルーペ越しに観察すると、六角形の角の部分に、ごく僅かな摩擦の跡が光を反射していた。


「トルクレンチをかけた痕跡じゃ。それも、古いものではない。ごく最近、強力な力で締め直された形跡がある」


 瑠璃の脳内で、バラバラだったピースが急速に結びつき始める。

 五百キロの鉄の箱を、どうやって運んだのか。

 その前提自体が、ファントムの仕掛けた錯覚だったのだ。


「姉の計算は完璧じゃ。完成された五百キロの箱を運ぶことは不可能。ならば、答えは一つしかない」


 瑠璃は立ち上がり、振り返って翡翠と菫を見据えた。


「このゴンドラは、空から降ってきたわけでも、完成品のまま運ばれたわけでもない。極限まで細かく『解体』された状態で持ち込まれ、昨晩、この境内で組み立てられたのじゃ」


「解体して、持ち込んだ?」


 翡翠が驚いたように声を上げる。


「ええ、そうじゃ。ボルトの摩擦痕と新しい金属粉がその証拠。フレーム、窓ガラス、座席、外装パネル。すべてを人力で運べる重量まで分割すれば、あの狭い紅殻石段(べんがらいしだん)を登ることも可能になる。ファントムは手品を使ったわけではない。途方もない労力と計算によって、現実の奇術を成立させたのじゃ」


 瑠璃の鮮やかな推理に、菫も納得したように頷く。


「なるほど。部品ごとに分けて運んだのなら、重機もトラックも必要ないわ。それに、深夜に数人がかりで静かに石段を登れば、騒音も出ないし防犯カメラの死角を突くこともできる」


 だが、瑠璃の表情は晴れなかった。

 物理的な運搬方法は解明した。しかし、これだけではまだファントムのトリックを完全に打ち破ったことにはならない。


「母よ。それは違う」


 瑠璃は首を横に振り、境内の外へと続く鳥居の方角を指差した。


「一つ一つの部品に分けたとしても、総重量は五百キロじゃ。鉄のフレームや曲面のガラスパネルは、分割してもそれなりの大きさと重さになる。昨晩の一夜だけで、それらをすべて石段の下から境内に運び上げ、無音で組み立てるなど、どれほど熟練の作業員を集めても時間が足りぬ」


「じゃあ、どうやったっていうのよ。数日かけて運んだとでも?」


 翡翠の疑問に対し、瑠璃は再びルーペを構えて石段の方へと歩き出した。


「その通りじゃ。ファントムは昨晩の一夜で運んだのではない。何週間も前から、少しずつ、少しずつ、この橡ノ大社へと部品を運び込み、隠していたはずじゃ。それを昨晩、ただ組み上げただけに過ぎぬ」


 瑠璃は鳥居を抜け、先ほど登ってきた紅殻石段(べんがらいしだん)の最上段にしゃがみ込んだ。

 石段の表面、苔の生え具合、土壁のわずかな擦れ痕。

 そして、瑠璃の瞳が、石段の隅に落ちていた『あるもの』を捉えた。


「見つけたぞ。これが、奴が使った『隠れ蓑』のルーツじゃ」


 瑠璃が軍手で摘み上げたのは、親指ほどの大きさの、乾燥した泥のような赤黒い破片だった。


「それは何、瑠璃」


「ただの泥ではない。これは染料じゃ。それも、この橡ノ都(つるばみのきょう)の伝統的な色彩に使われる、天然の紅殻(べんがら)千歳緑(ちとせみどり)を混ぜ合わせたもの」


 瑠璃はその破片を指先で軽くすり潰し、匂いを嗅いだ。


「ファントムは、ゴンドラの部品をそのまま運んだわけではない。この染色業で栄えた街の特性を利用したのじゃ。そして、なぜ何週間も前から部品を運び込んでいたのに、誰の目にも留まらなかったのか。その答えも、この色にある」


 天才の物理的観察眼が、ついにファントムの仕掛けた壮大な錯覚の核心へと迫ろうとしていた。



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