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如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『金木犀の幻影』 ~Section 4:紅殻の石段と、円環の鉄箱~

 宛名のない白紙の封筒。そして、そこに記された恐ろしいまでに流麗で、感情の起伏を感じさせない文字の連なり。

 御薬師楼(おんやくしろう)のロビーの空気は、先ほどまでの穏やかな白檀の香りから一変し、肌を刺すような冷たい緊張感に包まれていた。


 手紙の最後に記された『ファントム』という名と、皐月優奈の死の真相。

 瑠璃がその文面から視線を上げ、「わしの問題じゃ」と静かに、しかし決然と言い放った後、翡翠と菫は顔を見合わせた。


 瑠璃は、すうっと深く息を吸い込み、先ほどまで被っていたレースリボン付きのペーパーハットをソファに置いた。

 そして、真っ直ぐに二人を見据え、口を開く。


「母よ、姉よ」


 その呼び方に、菫と翡翠がわずかに肩を揺らした。

 旅行中は『母様』『お姉ちゃん』と呼ぶという約束。それを自ら破棄したということは、瑠璃の中で明確なスイッチが切り替わったことを意味している。


「慰安旅行は、たった今終わりじゃ。ここからは、ただの娘や妹ではなく、如月瑠璃として、奴の仕掛けた理不尽を解き明かす。だから」


「ええ。分かっているわ、瑠璃」


 瑠璃の言葉を継ぐように、菫が静かに頷いた。

 彼女はスマートフォンをハンドバッグに仕舞い込み、先ほどまでの愛情深い母親の顔から、コンツェルン社長秘書としての理知的な顔へと一瞬にして切り替わっていた。


「警察も、待機している黒田たち専属SPも、今は動かさない。優奈ちゃんのことは、あなたにとって誰にも踏み込まれたくない聖域だものね。コンツェルンの力を使って野暮な真似はしないわ」


「お母様の言う通りよ。それに、相手はあなたに『知恵比べ』を挑んできている。私たちも最後まで付き合うわ。それで、瑠璃。その手紙にはなんて?」


 翡翠が、透き通るような瞳に強い光を宿して尋ねる。

 妹の孤独な闘いに、不用意に手は出さない。だが、決して一人にはさせない。それが如月家の女たちの静かなる強さだった。


「感謝する。手紙の追伸に、こう記されておる。『最初の贈り物は、この街で最も空に近い階層でお待ちしております』と」


「最も空に近い階層か」


 翡翠が思考を巡らせる。橡ノ都は坂道によって階層が分かれた立体的な街だ。最も高い場所となれば、自ずと答えは一つに絞られる。


「街の北側、山の頂に鎮座する『橡ノ大社(つるばみのたいしゃ)』じゃな。行くぞ」


 三人は御薬師楼を後にして、夏の陽光が照りつける橡ノ都の街へと足を踏み出した。


**


 橡ノ大社へと続く道は、街の美しい景観を楽しみながら歩けるような生易しいものではなかった。

 中腹あたりまでは緩やかな坂道が続いていたものの、そこから先は『紅殻石段(べんがらいしだん)』と呼ばれる、過酷な道のりが待ち受けていたのである。


 左右を高い石垣と紅殻格子の古い土壁に挟まれた、すれ違うのもやっとの細い石段。

 それが、山の斜面にへばりつくようにして、果てしなく上へと伸びている。幅はわずか一・五メートルほどしかなく、傾斜も三十度を超えているだろう。当然、車はおろか、自転車で登ることも不可能だ。完全に外界から隔絶された、陸の孤島へと続く道だった。


「ふぅ。これは、なかなかに骨が折れる石段ね。瑠璃、大丈夫?」


 前を歩いていた翡翠が、額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら振り返った。日頃からストイックに体を鍛えている彼女でさえ、この三百段はあろうかという急な石段には息が上がり始めている。


「問題ない。だが、これほど狭く急な石段の先に、ファントムとやらは一体何を隠したというのじゃ」


 一段、また一段と、苔むした石段を踏みしめる。

 周囲からは人の気配が完全に消え、ただ(ひぐらし)の鳴き声と、風が木々を揺らす音だけが響いていた。


 そして、およそ二十分の登攀(とうはん)の末。

 鬱蒼と茂る木々のトンネルを抜けた先、ついに目の前が開け、橡ノ大社の入り口を示す古びた石の鳥居が姿を現した。


「着いたわね。って、嘘でしょ!?」


 鳥居をくぐり、開けた神社の境内へと足を踏み入れた瞬間。

 翡翠が信じられないものを見るように目を見開き、その場に立ち尽くした。菫もまた、絶句して口元を手で覆っている。


 遅れて境内にたどり着いた瑠璃も、目の前の光景に息を呑み、歩みを止めた。


 それは、文字通り『ありえない場所にある、ありえないもの』の極致だった。

 千年以上の歴史を誇る、厳かで静謐な神社の境内。白砂が敷き詰められ、周囲を樹齢数百年の杉の巨木に囲まれたその神域のど真ん中に、それは鎮座していた。


 周囲の渋い和色の景観から、完全に浮き上がった原色。

 太陽の光を反射して鈍く光る、巨大な鉄の塊。

 高さはおよそ二メートル、丸みを帯びた円環のフォルムに、四方を囲むガラス窓。色褪せた赤と黄色のストライプの塗装が所々剥げ落ち、無数のリベットが打ち込まれたその物体は――どう見ても、レトロな遊園地にあるはずの『観覧車のゴンドラ』だった。


「ありえないわ。どう計算してもおかしい」


 翡翠が、経理の天才としての鋭い目つきでゴンドラを睨みつける。


「あんな巨大な鉄の塊、重量は優に五百キロは超えるはずよ。今登ってきた紅殻石段の幅と傾斜じゃ、重機どころか小型の運搬車すら入れない。人の手で運んだとしても、周囲の土壁や石垣を傷つけずに持ち上げるなんて、物理的に不可能だわ」


 翡翠の言う通りだ。クレーンもヘリも使わずにこの山頂の神社まで運び込むことなど、絶対にありえない。魔法でも使って空から落としたとしか思えない、狂気の光景だった。


 しかし、瑠璃の視線はその【物理的な不可能さ】よりも、ゴンドラそのものの『ディテール』に釘付けになっていた。

 色褪せた赤と黄色の塗装。錆びついた窓枠の意匠。そして、扉の下部にうっすらと残る『No.04』という印字。


(間違いない。あれは!)


 瑠璃の心臓が、痛いほどに激しく打ち鳴らされる。血の気が引き、指先が微かに震えるのを感じた。


 ただの観覧車のゴンドラではない。

 九歳で優奈を喪ってから今日に至るまでの七年間。たった一人で優奈の死の真相を追い求め、あらゆる資料や過去の記録を洗い出し続けてきた瑠璃の脳裏に、そのゴンドラの映像は鮮明に焼き付いている。


 かつて皐月優奈が命を落とした、不知火湖のほとり。

 優奈の死と共に閉園となり、そのまま朽ち果てていった廃遊園地、『レイクサイド・不知火』の観覧車。

 その四番ゴンドラと、全く同型のものだ。


「不知火湖の、廃遊園地のゴンドラじゃ」


 瑠璃が絞り出すように呟くと、隣にいた菫と翡翠が弾かれたように息を呑んだ。


「瑠璃、あれはまさか」


「優奈ちゃんの」


 菫の瞳が痛ましそうに揺れ、翡翠が悲痛な表情でゴンドラを見つめる。

 皐月優奈の死が、瑠璃にとってどれほど深く、癒えることのない傷であるか。そして、あの夏休みの出来事がどういうものであったか、如月家の人間は皆知っている。

 だからこそ、この『最初の贈り物』が意味する悪辣さに、二人もまた強い憤りを覚えたのだ。


 偶然ではない。

 ファントムは、優奈の死という瑠璃の最大のトラウマであり聖域を、最も強烈で可視化された形で眼前に突きつけてきたのだ。


「悪趣味な挨拶じゃ。だが、決して揺らがぬ」


 瑠璃は深く息を吸い込み、乱れた呼吸を整えた。

 動揺を見せれば、相手の思う壺だ。ファントムは今もどこかで、いや、この境内のどこかに潜んで、瑠璃の反応を観察しているに違いない。

 情動の揺さぶりに負けてはならない。常に冷徹な観察眼で、対象のルーツを解き明かす。それが、孤高の天才たる如月瑠璃の戦い方だ。


 瑠璃は意を決して、境内の白砂を踏みしめ、その異物へと近づいていった。

 ガラス窓越しにゴンドラの中を覗き込む。

 六人ほどが座れる対面式のベンチシートの間に、本来の観覧車には存在しないはずの、小さなアンティーク調の木製テーブルが置かれていた。


 そして、そのテーブルの上には。


「紅茶か」


 怪訝そうに眉をひそめながら、瑠璃は手袋をはめた手で慎重にゴンドラの扉を引いた。

 錆びついた蝶番がギィィと嫌な音を立てて開く。


 その瞬間。

 密閉されていたゴンドラの中から、ぶわりと熱気が溢れ出した。

 そして、それと同時に。


「キンモクセイの香り」


 瑠璃は思わず息を呑んだ。

 テーブルの上に置かれた美しいボーンチャイナのティーカップ。そこには、なみなみと琥珀色の液体が注がれており、表面からはゆらゆらと細い湯気が立ち昇っているのだ。

 甘く、どこか人工的で冷たい、金木犀の強い香り。

 先ほどロビーで渡された手紙に染み付いていた匂いと、全く同じものだ。


 湯気が立っているということは、淹れてから数分と経っていないということ。


「つい先ほどまで。わしたちが鳥居をくぐる直前まで、奴はここにいたということじゃ」


 瑠璃は振り返り、周囲の杉の巨木を見上げたが、風に揺れる枝葉があるだけで、誰の姿もない。

 圧倒的な質量を持つ鉄の箱を、どうやってこの山頂に運び上げたのか。

 そして、どうやってこの温かい紅茶を用意し、幻のように姿を消したのか。


 ファントムからの『最初の贈り物』。

 それは、瑠璃の過去をえぐる強烈な精神攻撃であると同時に、物理法則を完全に無視した完璧な挑戦状でもあった。


 瑠璃はポシェットから常に持ち歩いているアイテムの一つ、銀のルーペを取り出し、その紫の瞳に冷ややかな理知の光を灯した。


「面白い。その挑戦、受けて立とうではないか、ファントム。わしの物理的観察眼から逃れられると思うなよ」


 夏の静寂に包まれた橡ノ大社で、天才の静かなる反撃が始まろうとしていた。



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