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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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49/50

エピローグ:空白の夏と、令嬢の渇望

 月見坂市を覆っていた茹だるような熱気が嘘のように引き、新学期の始まりと共に、高く澄んだ秋の空気が街を包み込み始めていた。


 旧市街の端に取り残された旧校舎の図書室には、開け放たれた窓から乾いた風が真っ直ぐに流れ込み、色褪せたカーテンを静かに揺らしている。


 僕はパイプ椅子に深く腰を下ろし、手元のタブレットで推しの地下アイドルである魚魚ラブのライブ映像を眺めるふりをしながら、正面のアンティークデスクに視線を送っていた。


 デスクの向こう側では、如月さんがいつもと変わらない可憐な佇まいで、純銀の匙を使って好物のかためのプリンを静かに口に運んでいる。漆黒の艶やかなロングストレートヘアも、完璧に着こなしたブレザーの制服も、涼しげで端正な横顔も、一ヶ月前と何も変わっていない。


(夏休みの間、如月さんからはメッセージ一件すら来なかったな)


 僕は心の中で、ここ数日ずっと抱えていた疑問をゆっくりと反芻した。


 夏休みに入る前、家族旅行に行くとは聞いていた。だが、いつもなら旅先からでも、何かしら不可解なモノを見つけては僕を呼び出し、検索やデータの整理を命じてくるはずなのだ。


 いつまで経ってもスマートフォンが鳴らず、あの傲慢で理不尽な命令が飛んでこない日々に、僕はどこか奇妙な胸騒ぎを覚えていた。


 旅行先でいったい何があったのか。いや、そもそも本当にただの家族旅行だったのか。


「サクタロウ。タブレットの画面にばかり熱を上げていないで、こちらの紅茶を淹れ直すのじゃ。少し温度が下がってしまった」


 静かな図書室に、氷のように冷たく、しかしどこか心地よい威厳を持った声が響いた。


 僕は慌ててタブレットを閉じ、パイプ椅子から立ち上がった。


「あ、はい。すみません、如月さん」


 スクールバッグに付けた魚魚ラブのキーホルダーが鳴る音を聞きながら、僕は年代物の湯沸かし器へと向かった。


 如月さんが勝手にこの図書室に持ち込んだ、厳重に保管された高級な茶葉の缶を開ける。新しいお湯をアンティークのティーカップに注ぐと、アールグレイの芳醇な香りが、埃っぽい旧校舎の空気を一瞬にして高級サロンのそれへと書き換えていく。


 湯気を立てるカップをデスクに置きながら、僕は思い切って口を開いた。


「如月さん。夏休みの旅行は、どうだったんですか。ずっと連絡がなかったので、少し不思議に思ってたんです」


 如月さんはティーカップを手に取ると、深い紫色の瞳を真っ直ぐに僕へと向けた。


 その瞬間、僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「心配など無用じゃ。ただ、少しばかり厄介な知恵比べをしておってな。己の処理能力の限界というものを、嫌というほど思い知らされてきたところじゃ」


 その言葉を聞いて、僕は思わず目を見開いた。


 あの如月さんが、自分の限界を認めるようなことを言うなんて。これまでどんな大人たちも、ただの一瞥と数秒の論理構築のみで完膚なきまでに論破し、立ち直れなくなるまで追い詰めてきた彼女が、誰かに負けたとでも言うのだろうか。


(旅行先で、いったい何があったんだろう)


 僕はさらに踏み込んで聞こうとしたが、如月さんのアメジストのような瞳の奥底を見て、その言葉を完全に飲み込んだ。


 彼女の瞳には、敗北による絶望や落ち込みといった負の感情は一切なかった。ただ凍てつくような氷の奥底で、青白く、そしてこれまでになく激しく燃え盛るような強烈な闘志が渦巻いていたのだ。


 以前の如月さんは、圧倒的な天才としての絶対的な自信に満ち溢れていた。しかし今の彼女が纏っている空気は、完全に質が異なっている。


 もっと多くの不純物が欲しい。もっと複雑な事象を解体したい。


 そんな、底なしの飢えのような渇望。


 彼女がこの一ヶ月の空白の間に何を経験したのかはわからない。だが、如月さんは決して挫折して立ち止まってなどいない。むしろ、己の弱さを知ったことで、以前よりも遥かに鋭く、そして強大になってこの図書室に帰ってきたのだと、僕にははっきりと理解できた。


「わしはまだまだ鑑定を続けねばならん。この世界に潜むありとあらゆる不純物を解体し、己の血肉に変えていくためにな。いつか必ず、あの冷徹な論理の檻を完膚なきまでにへし折ってやる」


 如月さんは純銀のルーペをポケットから取り出し、指先で静かに弄りながら言った。


 誰に向かっての宣戦布告なのかはわからない。だが、その言葉には、図書室の空気を震わせるほどの圧倒的な熱量が込められていた。


「ゆえにサクタロウ。わしは飢えておる。何か、わしのこの眼を研ぎ澄ますための、面白い不純物はないか」


 唐突な要求に、僕は少し戸惑った。


 もちろん、パソコンやタブレットを使って月見坂市のネットワークを検索すれば、奇妙な噂の一つや二つはすぐに見つかるかもしれない。だが、如月さんはガジェットなどのデジタル機器で集めたような、無機質なデータを極端に嫌う。彼女が求めているのは、もっと生々しい、現実の物理空間に存在する不可解なモノのルーツなのだ。


「面白い不純物と言われても、すぐには思いつきませんよ。でも」


 僕は今朝の登校中の出来事をふと思い出し、言葉を継いだ。


 デジタル機器の検索結果ではなく、僕自身の眼で偶然見かけた、極めて奇妙な光景。


「そういえば今朝、学校に来る途中で変なものを見ました」


「ほう。変なものとはなんじゃ」


「新市街と旧市街の境目にある交差点を通った時なんですけど、ガードレールの波打っている溝の部分に、ぴったりと角食がはまっていたんです」


 如月さんの眉が、ピクリと動いた。


 純銀のルーペを弄る指先が、ピタリと止まる。


「角食、じゃと。食パンのことか」


「はい。スーパーで売っているような、四角い食パンの塊です。スライスされていない、まるごと一斤のやつ。それが、金属のガードレールのあの凹みの部分に、まるで最初からそこの部品だったかのように、寸分の狂いもなくぴったりとはまり込んでいたんです」


 僕が偶然見かけただけの、本当に些細で、しかし異様な日常の風景。


 カラスが運んだにしては重すぎるし、あんなに綺麗にはめ込むことは不可能だ。誰かのイタズラにしても、なぜあんな場所に、あんな形で食パンを放置するのか、まったく意味がわからない。


 如月さんは純銀のルーペをカチンとデスクに置き、音もなく立ち上がった。その深い紫色の瞳が、極上の獲物を見つけた猛禽類のように鋭く輝いている。


「交差点のガードレールに、ぴったりとはめ込まれた一斤の角食。それがどこかのパン屋のオーブンから、あるいはいずれかの家庭の食卓から、いかなる力学的、あるいは情動的な要因によってその場所に配置されたのか。見事なまでにありえない場所にある、ありえないモノじゃな」


 如月さんは、自らの持つ物理的観察眼のスイッチを入れたように、凄まじい速度で言葉を紡ぎ始めた。


「ガードレールの波型の溝の幅と、一斤の角食の寸法。それが偶然一致する確率は極めて低い。無理に押し込めばパンの柔らかな形状と表面のクラストは必ず物理的に崩壊するはずじゃが、お主はぴったりとはまり込んでいたと言ったな。それはつまり、何者かが食パンの収縮率をあらかじめ計算し、あるいはガードレールの規格に合わせてパン型を特注して焼き上げ、意図的にその空間へとはめ込んだという、極めて執念深い人為的な作為の証明じゃ」


「えっ、如月さん、まさかそれを見に行くんですか。ただのイタズラか、落とし物ですよ。それに、もう誰かに片付けられているかもしれないし」


「馬鹿を言うな。すべてのモノにはルーツがある。ただのイタズラや落とし物で片付けるのは、鑑定を放棄する愚か者のやることじゃ。ガードレールは亜鉛メッキ鋼板でできておる。直射日光を浴びれば金属の表面温度はかなりの高温になるはずじゃ。そこに焼き立ての熱いパンをはめ込んだのか、それとも完全に冷めたパンなのか。水分の蒸発具合や表面の焦げ目、あるいは金属の溝に付着した油脂の成分という物理的な痕跡から、配置された正確な時間帯や犯人の異常な情動を特定できるかもしれん」


 如月さんはブレザーの埃を軽く払い、僕に向かって力強く指を差した。


「よし、忠犬よ。その交差点まで案内するのじゃ。わしの次なる覚醒の第一歩として、その角食のルーツを完璧に解き明かしてやろう」


 有無を言わさない気高き令嬢の命令に、僕は小さくため息をつきながらも、スクールバッグを肩に担ぎ直した。


(やっぱり、この人は変わらないな。いや、以前よりもはるかに厄介で、研ぎ澄まされているかもしれない)


 夏休みの空白の期間に、如月さんの身に何があったのかは結局わからないままだ。


 だが、彼女が再び立ち上がり、前を向いて歩き始めたことだけは確かな事実だ。


 窓の外では、夏の終わりを告げる乾いた風が吹き抜け、図書室の古いカーテンを静かに揺らしている。


 僕たちの日常であり、非日常でもある不可思議な鑑定の日々が、ここからまた新たに始まろうとしていた。



~如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』 fin~



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