第5話『白紙の脈拍』 ~Section 1:地下病棟と、絶対零度の静寂~
月見坂市の中心部にそびえ立つ、如月コンツェルンの医療チームが中核を担う巨大な総合病院。最新鋭の医療インフラと無数の自律型医療ドローンが二十四時間体制で稼働し、昼夜を問わず多くの人々の命と健康を管理する、スマートシティにおける生の象徴とも言える施設である。
瑠璃が今、一人きりで乗っている古びた業務用の大型エレベーターは、その生命の活気に満ちた上層階から完全に切り離された、忘れ去られた暗い地下空間へと垂直に降下し続けていた。
頭上からは、行き交う医療スタッフの足音も、電子カルテを読み上げる無機質なシステム音声も、すでに一切届かない。
鉄格子の隙間から見えるのは、病院が設立された数十年前から更新されていないであろう、無機質なコンクリートの壁面と、むき出しになった太い配管の束だけである。かつては隔離病棟、あるいは特殊な医療廃棄物や古い紙のカルテを保管するために使われていたという地下最下層。昇降機の古めかしいモーター音が、狭い縦穴の中で暴力的なまでに反響し、瑠璃の鼓膜を容赦なく打ち据えていた。
瑠璃は、漆黒のノースリーブのゴシックドレスの裾が鉄製の床の汚れに触れないよう、静かに背筋を伸ばして立っている。手には愛用の銀のルーペが握られ、胸元では純銀の懐中時計が降下の振動に合わせて規則的に揺れていた。
奇術師ファントムから届いた、第五の挑戦状。
その漆黒の封筒は、今朝、瑠璃が自室のベッドで目を覚ました時、頭を乗せていた枕のすぐ脇に、音もなく静かに置かれていた。
如月家の本邸は、黒田をはじめとする屈強で優秀な専属ボディガードたちによって、二十四時間体制で厳重に守られている。さらに、月見坂市のネットワークと連動した赤外線センサーや重量感知システムが、敷地へのあらゆる物理的な侵入を監視している。
ファントムが瑠璃の自室に侵入したのは、これが初めてではない。第二幕の事件の際にも、あの奇術師はこれらすべてのセキュリティを無効化し、瑠璃の机の上に挑戦状を置き去っていった。だが今回は、さらに踏み込んだ無防備な枕元である。
瑠璃は、そこに自身の命を狙うような浅ましい殺意や悪意が一切含まれていないことを、正確に理解していた。あの奇術師にとって、如月家の強固な警備システムも、瑠璃のプライベート空間という概念も、単なる解除可能な物理的障害の一つに過ぎない。あらゆる壁やシステムを計算式として処理し、完璧に解体してのけるという、冷徹な論理の証明。感情を持たない知性が、ただ最適解のみを導き出して実行した結果が、あの枕元の封筒であった。
封筒の中に印字されていたのは、瑠璃の父親が社長を務める如月コンツェルン傘下のこの総合病院の、最下層に位置する地下施設の座標と、特定の時間のみ。
ガクン、と。
強烈な慣性が瑠璃の身体を下から突き上げ、長かった降下が唐突に終わりを告げた。
けたたましいブレーキ音と共にエレベーターの箱が停止し、錆びついた鉄格子が重々しい音を立てて横にスライドする。
瑠璃は銀のルーペをドレスのポケットに滑り込ませ、目の前に広がる暗い通路へと足を踏み出した。
そこは、ひどく冷たく、消毒用アルコールの匂いすらも完全に揮発しきった、乾いた空気に支配された空間であった。
通路の天井には、一定の間隔で古めかしい白熱灯が並んでいるが、そのうちのいくつかはすでに寿命を迎え、黒く変色したまま沈黙していた。残されたわずかな光源が、薄暗い琥珀色の光をコンクリートの床に落としている。
瑠璃は周囲の安全を物理的観察眼で警戒しながら、迷いのない足取りで通路の奥へと進んでいった。革靴の硬いヒールが床を叩くカツン、カツンという音が、どこまでも続く地下道に奇妙なほど反響する。
やがて通路の突き当たりに、巨大な壁が立ち塞がった。
分厚い鉛と鋼鉄で作られた、特殊な気密扉である。かつては放射線を扱う旧式の検査機器や、厳重な管理を要する検体を保管するために使われていたのであろう。表面には幾重にもロック機構が備え付けられており、中央には、人間が両手で回すための巨大なハンドル式ロックが据え付けられている。
瑠璃はその巨大な鋼鉄の塊を見上げ、小さく息を吐いた。
もしこの扉が内側から施錠されていたなら、瑠璃の腕力でこじ開けることは不可能に近い。だが、瑠璃の優れた観察眼は、扉の蝶番の部分に、ごく最近に注油されたばかりの真新しい機械油の痕跡を正確に見抜いていた。そして、巨大なハンドル式ロックのラッチは、すでに完全に解除された状態にある。
ファントムは、この扉の向こう側で瑠璃が来るのを待っている。
瑠璃は軍手をはめた両手を、冷たい鋼鉄のハンドルにかけた。
体重を乗せ、ゆっくりと力を込める。
何十年も開かれることのなかった重厚な金属の擦れる音が、地下の空間に悲鳴のように響き渡った。見た目の質量ほどの抵抗はなく、扉はまるで計算されたかのように、瑠璃の力だけで滑らかに奥へと押し開かれていく。
隙間から、内部の冷ややかな空気が流れ出してくる。瑠璃は油断なく周囲を窺いながら、扉と枠の間にできた人間一人が通れるほどの隙間に身体を滑り込ませた。
内部へと足を踏み入れた直後。
背後で、あの巨大な気密扉が、まるで自らの意志を持っているかのような不気味な滑らかさで動き始めた。
瑠璃が振り返る間もなく、数十センチの厚みを持つ鋼鉄の塊は、完全に枠へと収まる。複数の金属製のカンヌキが同時に噛み合う重々しい音が、空間を完全に密閉したことを告げた。
退路を断たれた。
その事実を認識した瞬間、瑠璃の極限まで研ぎ澄まされた五感が、この空間を支配している異常な現象を即座に感知し、激しい警告を発した。
音がない。
単に静かだというレベルの話ではない。空間に存在するはずのあらゆる音波が、根こそぎ物理的に消失しているのだ。
瑠璃は自らの革靴で、意図的に硬いコンクリートの床を強く踏み鳴らした。普段であれば、これほど広大で反響しやすい地下施設の内部なら、足音は空間の端から端まで跳ね返り、残響となって耳に届くはずである。
しかし、床を叩いたという事実を示す微かな振動が足の裏から伝わってくるだけで、空気を震わせるはずの打撃音は、発生した瞬間に見えない真綿で包み込まれたように完全に死滅した。
瑠璃は自身のドレスのスカートを強く握り、生地を擦り合わせてみる。布同士が擦れる衣擦れの音すらも、耳に届かない。自らの呼吸音すらも、奇妙なほど遠く、くぐもって聞こえる。
それは、人間の聴覚そのものが突然機能不全に陥ったかのような、暴力的なまでの無音。音響工学の実験施設にある無響室に放り込まれたかのような、絶対零度の静寂であった。
鼓膜の奥に、強い圧迫感が生じる。
外部からの環境音が完全に遮断されたことで、瑠璃の聴覚は過敏になり、自身の体内を流れる血流の音や、心臓の鼓動だけが、不気味なほど鮮明なノイズとなって脳内に響き始めた。空間の平衡感覚を司る三半規管が、音の反響という重要なパラメータを失い、微かな眩暈を引き起こす。
瑠璃は即座に目を閉じ、深くゆっくりと呼吸をして、感覚のズレを強制的に補正した。
これは魔法や超能力による聴覚の喪失などではない。
瑠璃の物理的観察眼が、この絶対的な静寂の正体を恐るべき速度で解体していく。
頭上には、巨大な総合病院が稼働している。巨大な自家発電機の唸り、何百台もの医療機器が発する動作音、そして都市の地下を縦横に走る地下鉄の重低音。それらは必ず、岩盤や建物の骨組みを伝って、この地下のコンクリート壁を震わせているはずだ。
それらの物理的な振動エネルギーが、一切空間の空気を震わせていない。その事実が意味することはただ一つ。
ファントムは、この広大な地下空間の壁面、天井、床のすべてに、無数の超高感度センサーと指向性スピーカーを設置しているのだ。
外部から伝わってくるありとあらゆる振動と音波の波形を瞬時に演算し、それと全く同じ振幅で、位相だけを完全に反転させた音波をスピーカーからぶつける。音の波と波を衝突させて互いを打ち消し合う、アクティブ・ノイズキャンセリングの極致。
言うは易いが、これほど広大な空間で、あらゆる帯域の環境音を完璧に相殺し、絶対的な静寂を作り出すためには、高度な医療用スーパーコンピューターすらも凌駕する演算能力と、膨大な数の音響機材、そしてそれらを駆動させるための莫大な電力が必要となる。
あの奇術師は、またしても常軌を逸した手段に出た。
たった一人の少女をこの部屋に招き入れ、彼女から音という情報を奪うためだけに、病院のインフラシステムを悪用し、天文学的なコストをかけてこの広大な地下空間の振動を完璧に殺し尽くしたのだ。
ここはもはや、ただの地下病棟跡地ではない。ファントムという天才的な知能によって支配された、物理的な死の世界。いかなる環境ノイズも存在を許されない、巨大な論理の檻であった。
瑠璃は再び目を開き、暗闇に慣れ始めた深い紫色の瞳で、広大な地下空間の全貌を捉えた。
天井の遥か高い位置に設置された無影灯のような鋭い照明が、冷たい光を室内の中心へと落としている。
その光の輪の中に、古い医療用のステンレス製テーブルが置かれている。
そして、そのテーブルの向こう側。パイプ椅子に、一人の人物が深く腰を下ろしていた。
純白の最高級リネンスーツ。本場エクアドル産の美しいパナマ帽。目元を完全に覆い隠す、金箔があしらわれた白のベネチアンマスク。
かつて橡ノ大社の境内で、そして旧校舎の図書室で、圧倒的なイリュージョンと共に瑠璃を翻弄した、奇術師ファントムの姿がそこにあった。
瑠璃の胸の奥で、警鐘が激しく鳴り響く。
目の前に座る純白の人物は、間違いなく物理的な質量を持ち、重力に縛られ、呼吸をしている実在の人間である。しかし、その立ち姿から発せられる気配は、人間が持つべきいかなる熱量も、感情の揺らぎも、自己顕示欲すらも欠落していた。極限まで精巧に作られた彫像が、ただそこにあるという事実だけで周囲の空間を支配しているかのような、底知れぬ威圧感。
絶対的な静寂の中、瑠璃とファントムは、ただ互いの存在を視界に収めたまま対峙する。
言葉は、まだ発せられない。
極限まで削ぎ落とされた物理的な死の空間で、孤高の天才と、狂気的な論理を持つ奇術師による、最大のパラドックスを巡る一騎打ちが、今まさに静かに幕を開けようとしていた。




