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如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『金木犀の幻影』 ~Section 3:蒼の装いと、金木犀の招待状~

 橡ノ都(つるばみのきょう)での慰安旅行も、いよいよ三日目の朝を迎えた。

 最終日となるこの日、如月家の三人は朝食を済ませると、あらかじめ手配していた特別な装いに身を包むため、部屋に女将と着付けの仲居たちを呼んでいた。


 創業百五十年の歴史を誇る老舗の呉服屋『蒼依織(あおいおり)』。

 初日にそこで採寸し、特急で仕立て上げさせた最高級の夏着物である。三人がそれぞれ纏うのは、この橡ノ都の渋い和色の街並みにあえて反発するかのような、涼やかで圧倒的な『蒼』を基調とした意匠だった。


「まぁ……。お三方とも、息を呑むほどの美しさでございます。私共も長年このお仕事をさせていただいておりますが、これほどまでに着物が『着る人』を引き立て、また着る人に引き立てられるお姿は初めて拝見いたしました」


 帯を締め終えた老女将が、ほうっと感嘆の吐息を漏らして深く頭を下げた。


 鏡の前に立つ瑠璃は、自分でも少しだけ照れくさくなるほどの見事な仕上がりに目を瞬かせた。

 147センチの可憐な体躯を包むのは、深く高貴な紫紺(しこん)の地に、涼しげな白い鉄線花(てっせんか)が大胆にあしらわれた夏着物である。漆黒のロングストレートヘアは、今日は左側だけを可憐な銀の(かんざし)でまとめ上げ、うなじを美しく見せていた。アメジストのような紫の瞳と相まって、まるで神棚に飾られる幻のからくり人形のような、浮世離れした美しさを放っている。


「瑠璃、とってもよく似合っているわ。紫紺の色合いが、あなたの真っ白な肌をさらに引き立てているもの」

「お姉ちゃんこそ。……その、とても綺麗じゃ」


 瑠璃が素直に褒め言葉を返すと、翡翠はふわりと嬉しそうに微笑んだ。

 170センチ近い長身と抜群のプロポーションを誇る翡翠が選んだのは、涼やかな薄縹(うすはなだ)色に、流水と風に揺れる柳の柄が流麗に描かれた一枚だ。すらりとした立ち姿はまるで一幅の日本画のようであり、普段のクールな経理の天才という顔とはまた違う、たおやかで清廉な美貌が際立っている。


「ふふっ、二人とも本当に見惚れてしまうわね。さあ、せっかくの素晴らしいお着物なのだから、出発の時間まで少し街を歩きましょうか」


 二人のやり取りを微笑ましく見守っていた菫が、静かに振り返った。

 大人の余裕と成熟した色香を持つ彼女が纏うのは、漆黒に近い濃紺の地に、銀糸でさりげなく百合の花があしらわれた洗練された着物だ。帯の結び方ひとつ、衣紋の抜き方ひとつとっても計算し尽くされたかのような妖艶さがあり、立っているだけで周囲の空気を掌握してしまうような圧倒的な存在感があった。


 三人は旅館の玄関で下駄を鳴らし、夏の陽光が降り注ぐ橡ノ都の表通りへと足を踏み出した。

 ――その直後から、街の様子が明らかにおかしくなった。


 紅殻格子と石垣が続く渋色の街並みの中で、彼女たちが纏う『蒼』の連なりは、あまりにも鮮烈で美しすぎたのだ。


「……っ!? な、なんだあの方々は……!?」


「女優……? いや、それにしては気品が……」


 すれ違う観光客たちが、次々と会話を止めて目を見開く。

 ある者は手に持っていた観光マップを取り落とし、ある者はカメラを構えることすら忘れて口を半開きにし、またある者はそのあまりの美しさに当てられてふらりと足元をよろめかせた。

 門前町で店先の打ち水をしていた老店主などは、柄杓から水をこぼし続けていることにも気づかず、まるで天女の降臨でも目撃したかのように両手を合わせて拝み始める始末である。


 三人が涼やかな下駄の音を響かせて歩を進めるたびに、まるでモーセの十戒のごとく、人混みが自然と割れて道ができていく。


 羨望、感嘆、そして畏怖。


 そんな過剰なまでの反応を向けられながらも、当の如月家の女三人は涼しい顔で歩き続けていた。


「ふむ……。視線が鬱陶しいの。人間の眼球運動と視神経の集中が、一箇所にこれほど偏るというのは、統計学的に見ても異常値じゃな。この布地の染料の反射率が、網膜の青色錐体を過剰に刺激しているせいか?」


「瑠璃、違うわよ。みんな、私たち三人の美しさに圧倒されているだけ。……まあ、少し目立ちすぎたかもしれないわね」


 翡翠が袖で口元を隠しながら、上品にくすくすと笑う。

 普段なら『下僕のサクタロウがいれば、この視線をすべて盾となって防がせるのに』と理不尽なことを考える瑠璃だったが、今日ばかりはこの圧倒的な非日常感も悪くないと思えた。

 街の風景を楽しみ、古い茶屋で冷やし抹茶をいただき、三人は一時間ほどの散策を終えて、再び『御薬師楼』へと戻ってきた。


**


 時刻は午前十時。

 着物を普段の洋服に着替え終えた三人は、チェックアウトの手続きをするため、白檀の香りが漂う一階の豪奢なロビーへと降りてきた。

 すでに荷物はすべて黒田たち(姿は見えないが絶対にどこかにいる)の手によって、外で待機しているハイヤーへと積み込まれているはずだ。


「お世話になりました。素晴らしいおもてなしだったわ」


「とんでもないことでございます。如月様、またのお越しを心よりお待ち申し上げております」


 フロントで菫が支払いを済ませ、女将と丁寧な挨拶を交わしている間。

 瑠璃はロビーのふかふかとしたソファの横で、ペーパーハットのつばを直しながら、名残惜しそうに館内の見事な柱の彫刻を見上げていた。


(……良い旅行じゃったな。母様も、お姉ちゃんも、心から楽しそうじゃったし。わしも……)


 コンツェルンの重圧も、不可解な拾得物の謎も、すべてを忘れた完璧な三日間。

 このまま月見坂市に帰れば、またあの騒がしい忠犬との日常が待っている。それもまた悪くないと、瑠璃が小さく口角を上げた、その時だった。


「――如月様。恐れ入ります」


 背後から、静かな声がした。

 振り返ると、そこには御薬師楼の制服である作務衣を身につけた、ひょろりとした体格の若いフロントマンが立っていた。特徴のない、街ですれ違っても三秒で忘れてしまうような、ごくありふれた顔立ちの男だった。


「ん? わしに何か用か?」


「はい。先ほど、如月瑠璃様宛てに、こちらのお手紙をお預かりいたしました。お客様から、お渡しするようにと」


 男が恭しく両手で差し出してきたのは、何の変哲もない、真っ白な封筒だった。

 宛名も、差出人の名前も書かれていない。

 だが、それを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、瑠璃の鋭い嗅覚が『ある異変』を捉えた。


(……キンモクセイの香り……?)


 ほんの僅かな、しかし確実に鼻腔を突く甘い香り。

 夏真っ盛りのこの季節に、秋に咲く花である金木犀の香りがするはずがない。香水にしてはあまりにも自然で、それでいてひどく冷たい印象を与える匂いだった。


「瑠璃、どうしたの? 誰かからのお手紙?」


 不審に思った翡翠と菫が近づいてくる。

 得体の知れない気味悪さに、菫は「差出人が分からないのなら、ホテル側に処分してもらいなさい」と提案したが、瑠璃の脳内で警告音のように鳴り響く直感――『情動の視座』が、それを許さなかった。


「……いや。確認する」


 瑠璃は封筒の封を切り、中から折り畳まれた上質な和紙の便箋を引き出した。

 そこに記されていたのは、端正で、恐ろしいほどに感情の起伏を感じさせない文字の連なりだった。


『前略、如月瑠璃様。

 突然の書状にて失礼いたします。私は長きにわたり、貴女の鮮やかなる軌跡をすぐそばで拝見しておりました。


 公園の砂場に取り残された卵焼き、シャンパングラスに沈むハニワ、血塗られた歯車とお守り、喫茶店の片隅の碁石、生ハムを咥えたビスクドール、ぬいぐるみの目に詰められたピーナッツ、そして本社ビル四十八階の窓に残された靴跡。


 ありえない場所に置かれた不純物に対し、貴女は常にその卓越した観察眼をもって向き合い、そこに至るまでのルーツを完璧に解き明かしてこられました。その冷徹なまでの論理の美しさに、私は深い敬意を抱くと同時に、恋情にも似た熱い関心を寄せております。』


「な、何よこれ……!?」


 横から文面を覗き込んだ翡翠が、ぞっとしたように息を呑んで身震いした。

 ここに書かれているのは、瑠璃が高校生になってから――サクタロウと共に――解き明かしてきた、数々の『ありえない拾得物』の事件そのものだった。

 コンツェルンの情報網にも乗せていない、彼女たちだけの個人的な秘密。それを知っているということは、この手紙の主は、月見坂市から紗霧島まで、あらゆる場所で瑠璃たちの行動をずっと間近で監視し続けていたということになる。


 悪趣味なストーカーの仕業か。

 しかし、瑠璃はその流麗な文字から『悪意』を微塵も感じ取れなかった。ただ純粋な興味と、知的好奇心。自分と同じようにモノのルーツを探求し、世界を裏側から観察している同類特有の、冷徹な思考の気配。


 瑠璃の紫の瞳が、手紙の続きの部分へと滑り落ちる。

 そして、その最後の一文を目にした瞬間。

 瑠璃の心臓が、早鐘のように激しく脈打った。


『つきましては、私と知恵比べをしていただけないでしょうか。

 もし貴女が私に勝利した暁には、一つの対価をお支払いいたしましょう。


 ――皐月優奈(さつきゆな)の死の、真実を。


 私に名はありません。ゆえに、世の人はこう呼びます。

 ファントム、と。』


「――っ!!」


 優奈。

 皐月優奈。

 かつて九歳の時まで共にすごした、無二の親友。

 夏休みに家族と不知火湖の別荘へ避暑に行った際、帰らぬ人となった少女。事件性はなく水難事故として処理され、瑠璃が七年間、誰にも頼らずにたった一人でその真実を追い求め続けてきた、絶対に不可侵の聖域。


 なぜ、それを。

 それを知っているお前は、いったい何者だ。


「どこへ行ったッ!!」


 瑠璃は弾かれたように顔を上げ、周囲を見回した。

 先ほど、この手紙を渡してきたフロントマンの男。

 お客様から預かったと彼は言ったが、違う。この金木犀の香りは、手紙からだけではなく、あの男自身から漂っていた匂いだ。


 だが、フロントの前にあのひょろりとした男の姿はなかった。

 代わりに立っていたのは、恰幅の良い中年のベルボーイだった。


「瑠璃、どうしたの!? 急に大声を出して」


「あの男じゃ! 今、わしにこの手紙を渡してきた若いフロントマンはどこへ行った!?」


「えっ? ……お客様、若いフロントマンとは、誰のことでしょうか? 当館の今朝のフロント業務は、私と女将、そして年配の番頭の三名しかシフトに入っておりませんが……」


 中年のベルボーイが、困惑したように首を傾げる。

 その言葉の意味を理解した瞬間、瑠璃の背筋を氷のように冷たい戦慄が駆け抜け、全身の産毛が逆立った。


 従業員などではなかったのだ。

 ファントム。【幽霊】や【幻影】という名の通り、実体のない存在。

 彼は御薬師楼の制服を完璧に着こなし、堂々と従業員に成りすまして、瑠璃の目の前までやってきた。そして、まるで幻のように忽然と姿を消したのだ。


 これまで瑠璃が謎を解き明かしてきたあらゆる場所――月見坂市の旧市街、如月学園の中、紗霧島のクルーズ船。そのすべてに、今日のように全く別の誰かの姿をして潜み、彼女を見つめていたのだろう。


「お母様、すぐに黒田を呼んで! あと警察にも……!」


 ただならぬ瑠璃の様子と手紙の内容に血の気を引かせた翡翠が叫び、菫も即座に陰で護衛しているはずの屈強な専属SP・黒田を呼び出そうとスマートフォンを取り出す。

 しかし、瑠璃はそれを手で制した。


「駄目じゃ、お姉ちゃん。母様。……誰にも、手出しはさせぬ」


「瑠璃!? 何を言っているの、こんな不気味な手紙――」


「これは、わしの問題じゃ」


 震える声で告げる瑠璃の瞳には、かつてないほど冷たく、研ぎ澄まされた闘志が宿っていた。

 どんな時も傍にいた忠犬、サクタロウにすら介入させない。自分一人で決着をつけるべき闘い。


 完璧だった平和な慰安旅行は、唐突に終わりを告げた。

 歴史ある橡ノ都の街を舞台にした、概念的洞察力と物理的観察眼が激突する、極限の思考バトルが今、幕を開けたのである。



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