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如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『不器用な供物』 ~Section 8:真実の香りと、あの夏の記憶~

 極上のダージリンが放つマスカテルの芳香と、図書室を満たす暴力的なまでのキンモクセイの香りが、冷え切った空気の中で静かに混ざり合っていた。

 マホガニーのテーブルを挟んで向かい合う二人の令嬢は、すでにそれぞれのティーカップを空にしている。如月翡翠は、手元に置いていた真珠色の扇子をパチンと小気味良い音を立てて閉じた。そして、スマートフォンの画面に表示されたコンツェルンの午後のスケジュールを流し見ると、流れるような優雅な所作で椅子から立ち上がった。


「さて。私はそろそろ本社へ戻るわ。今日の第三四半期の決算報告で、私が最終承認を出さなければならない書類が山のように積まれているの」


 翡翠は艶やかな漆黒のポニーテールを揺らし、ハンドバッグを手にした。彼女の瞳はすでに、この異常な冷気と狂気に満ちた図書室の空間から、数字と論理が支配する現実の経済社会へと明確に切り替わっている。


「付き合わせてすまなかったな、姉よ。おかげで、あの姿なき奇術師が提示してきた無機質なパラメータの羅列から、見事なまでに狂ったコストの落差を正確に計算することができた」


 瑠璃もまた、座ったまま静かに頭を下げた。

 翡翠の冷徹な金庫番としての視点がなければ、あの八百五十円のちくわや野菜で作られたキメラたちが、どれほど異常な思考回路の果てに生み出されたものか、ここまで鮮明に浮き彫りになることはなかっただろう。数千万の資金を投じたステルスドローンによる白鳩の消失劇と、徹底的にコストを削ぎ落とした無機質な祈りの造形。その両極端なコントラストこそが、ファントムという天才の底知れぬ異質さを物語っていた。


「気にしないで。私にとっても、とても有意義な午後のティータイムだったわ。人間という生き物が、どこまで非合理的な合理性を追求できるのか、その極致を見せてもらった気分よ」


 翡翠は薄い唇に微かな笑みを浮かべ、窓際に並べられた五体の不格好な精霊馬たちへと視線を向けた。


「あの野菜のおもちゃたち、本当に片付けなくていいのね。いくらこの部屋の空調が極寒に設定されているとはいえ、生鮮食品である以上、数日もすれば必ず傷み始めるわよ」


「構わん。それが有機物であることの証明であり、時間が経過するという物理的な現実じゃ。それに、この極端な冷房システムも、ハッキングの痕跡を辿ればいずれ学校側のメインサーバーから強制終了させられるじゃろう。そうすれば、この図書室は再び真夏の猛暑に包まれる」


 瑠璃は、自らの手で日の当たる場所へと移動させた供物たちを静かに見つめた。


「その時こそ、あの造形物たちは真の意味で物理的な役割を終える。それまでは、ここを訪れるかもしれない見えない魂のための、ささやかな道標として置いておくだけじゃ」


「そう。あなたらしい気高い解釈ね」


 翡翠は涼やかな足音を立てて、図書室の重厚な木製の両開き扉へと歩いていく。真鍮の取っ手に手をかけ、一度だけ振り返った。


「あの奇術師の底知れぬ資金力と異常な論理に付き合うのは、ほどほどになさい。あなたの観察眼がどれほど優れていても、相手は常識の枠組みから完全に外れた存在よ。数字の帳尻が合わない相手との取引は、時に思わぬ負債を抱え込むことになるわ」


「忠告として受け取っておこう」


 瑠璃が短く答えると、翡翠は満足そうに頷き、静かに扉の向こうへと姿を消した。

 カツン、カツンというピンヒールの足音が、人気のない旧校舎の廊下を遠ざかっていく。その音が完全に聞こえなくなるまで、瑠璃は微動だにせず、ただ背もたれに深く体重を預けていた。


 やがて、図書室には完全な静寂が訪れた。

 残されたのは、異常な冷気を吹き出し続ける空調の微かな駆動音と、調光ガラス越しに差し込む真夏の強烈な太陽光。そして、部屋の空気を重く支配するキンモクセイの香りだけである。

 瑠璃は椅子から立ち上がり、再び窓辺へと歩み寄った。


 太陽の光を浴びた五体の精霊馬は、工業用の超音波カッターで切断された幾何学的な断面を艶やかに光らせている。

 ちくわの円柱。なすびの楕円。たまねぎの球体。そして茶色いまんじゅうの半球。そこに突き刺さった、ごぼうの細長い円柱。

 徹底的に感情を排除し、純粋な図形データの組み合わせとして死者を迎える儀式をシミュレーションした、冷徹な天才の回答。ファントムは、人間の祈りや弔いという最も非論理的な情動の行為を、八百五十円のパラメータの塊として物理空間に出力してみせた。


 瑠璃は、自らの漆黒のノースリーブ・ブラウスの胸元に手を当てた。そこにある心臓の鼓動を、静かに確かめるように。

 あの姿なき奇術師は、ただの悪趣味な愉快犯ではない。異常なまでの資金力と、物理法則を極限まで悪用する高度な知能を持ちながら、その行動原理の根底には常に、瑠璃という一人の少女に対する執拗なまでの観測の意図が隠されている。


 忘却を拒む知識の霊廟にて、命なき供物が記憶の香りを問う。


 第四幕の挑戦状の文面が、再び瑠璃の脳裏で静かに反響する。

 ファントムは、なぜこの真夏の図書室を極寒に保ち、わざわざ秋を象徴するキンモクセイの香りを充満させたのか。

 キンモクセイの花言葉。謙虚。初恋。陶酔。そして、真実と気高い人。

 秋の気配は、人に過ぎ去った時間への郷愁を強制的に呼び起こさせる。気温の低下と特異な香気という物理的なパラメータを用いて、瑠璃の情動の視座を極限まで揺さぶり、彼女の精神の奥底に眠る特定の記憶へとアクセスさせるための、緻密に計算された罠。

 あの傲慢な天才は、瑠璃の閾値を測ろうとしている。祈りという非論理的な概念をどこまで許容できるか。そして、その奥にある死という絶対的な喪失の現実を、彼女の精神がどこまで正確に処理できるかというテスト。


 瑠璃の深い紫色の瞳の奥底で、分厚い氷で閉ざされた記憶の扉が、鋭い軋み音を立てて揺れた。

 脳裏に閃くのは、一人の少女の笑顔。

 優奈。皐月優奈。

 九歳という若さで命を落とした、瑠璃の半身とも言える親友。毎年夏、避暑地である不知火湖のほとりで共に過ごし、同じ時間を共有し、そして突然に失われた、かけがえのない存在。

 瑠璃が七年間、たった一人でモノのルーツを探り、ありえない場所にあるありえないモノの謎と向き合い続けてきたのは、すべてあの夏の日の喪失に起因している。モノに宿る想いと情動を視る力は、失われた親友が瑠璃に残した、唯一の形なき遺産であった。


 ファントムという存在の真の目的は、未だ厚いベールに包まれている。

 しかし、瑠璃の鋭敏な直感は、すでに一つの確信へと辿り着いていた。あの異常な知性と資金力を持つ奇術師が、この月見坂市で次々と不条理な物理トリックを仕掛け、瑠璃の情動の視座を試し続ける理由。その行き着く先には、必ずあの避暑地での親友の死という、瑠璃にとって最大の聖域が待ち構えている。

 今回の八百五十円の野菜で作られた供物と、秋の香りは、その聖域に踏み込むための明確な宣戦布告に他ならなかった。


(お主は、わしの心が真実の重量に耐えきれるかどうかを測っているのじゃな)


 瑠璃は、誰に聞こえるともなく、薄暗い図書室の空気に言葉を放った。

 その声はひどく冷たく、しかし同時に、絶対に折れることのない鋼のような強靭さを秘めていた。


(祈りすらも図形データに解体してみせるその冷徹な論理で、わしの情動の視座を完全に否定できると信じている。あるいは、わしが過去の喪失の記憶に耐えきれず、自ら精神を崩壊させるのを待っているのかもしれん)


 瑠璃は窓際に並んだちくわとごぼうのキメラに、そっと指先で触れた。

 その不器用で歪な形の中に込められた、作り手の異常なまでの虚無と、それを供物として再定義した自分自身の確かな情動。

 相手がどれほど無機質で残酷な物理方程式を突きつけてこようとも、瑠璃にはそれを受け止め、解読し、意味を与えるだけの力がある。モノにはルーツがあり、そこには必ず人間の想いが宿るという絶対的な信念。それを曲げることは、亡き親友から受け継いだ視座そのものを否定することに他ならない。


(望むところじゃ、姿なき奇術師よ)


 瑠璃の宣言は、誰に対する見栄でも虚勢でもない。ただ自分自身の内なる聖域に向けた、静かで強烈な誓いだった。


(お主がどれほど莫大な資金を投じ、物理法則の限界を突いた狂気の舞台装置を用意しようとも。わしの情動の視座と物理的観察眼は、決してその虚飾に騙されることはない。お主の構築した無機質な迷宮など、わしのこの眼で残らず解体してくれるわ)


 瑠璃は静かに手袋を外し、ポケットから純銀のケースを取り出して、愛用のルーペを丁寧にしまい込んだ。そして、胸元の懐中時計の文字盤を一瞥する。

 時刻はすでに、真夏の午後の遅い時間帯に差し掛かろうとしていた。

 瑠璃は図書室の中央に置かれたマホガニーのテーブルを一瞥し、空になった二つのティーカップと、使い終わった茶葉の入ったポットを綺麗にトレイの上にまとめ上げた。自らのテリトリーに他人の、それも不作法な侵入者の痕跡を残しておくことは、彼女の気高さが許さない。


 瑠璃はトレイを手に取り、ゆっくりと図書室の出口へと向かった。

 扉を開ける直前、瑠璃はもう一度だけ、部屋の奥の窓際を振り返る。

 分厚い調光ガラス越しに差し込む夕暮れに近い陽光が、五体の不格好な精霊馬たちを黄金色に照らし出している。八百五十円の野菜と練り物で作られたチープなキメラたちは、瑠璃という観測者の情動によって明確な意味を与えられ、今は確かな祈りの形としてそこに静かに鎮座していた。

 それは、失われた魂が迷わずここへ辿り着けるようにと願う、不器用で、いびつで、そしてこの世で最も気高い道標であった。


 瑠璃はふっと小さく微笑むと、重厚な木製の扉を背後に閉ざした。

 ガチャン、と真鍮の鍵が冷たい金属音を立てて回される。


 真夏の旧校舎に、再び重苦しい静寂が戻ってきた。

 極寒の図書室の中で、キンモクセイの香りは徐々に薄れながらも、確かな真実の予感を孕んだまま、いつまでも静かに漂い続けていた。



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