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如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『不器用な供物』 ~Section 7:極上のダージリンと、不在の助手~

 図書室の窓際に並べられた五体の不格好な精霊馬たちは、分厚い調光ガラス越しに降り注ぐ真夏の太陽光を浴びて、マホガニーの床に奇妙な幾何学模様の影を落としていた。

 超音波カッターによって一ミリの狂いもなく切断されたちくわの断面や、なすびの滑らかな曲線が、自然光を受けて不自然なほど艶やかに輝いている。それは、古き良き土着の信仰と、感情の欠落したオーバーテクノロジーが衝突して生まれた、この世界で最もいびつで、最も気高い祈りの形であった。


 瑠璃は、自らの手で窓辺へと移動させたその供物たちからゆっくりと視線を外し、定位置である部屋の中央のベルベットの椅子へと深く腰を下ろした。

 漆黒のノースリーブ・ブラウスの胸元で、銀のチョーカーが冷房の冷気を反射して鈍く光る。真珠色のロングプリーツスカートの裾を優雅に整えながら、瑠璃は小さく息を吐き出した。

 極限まで冷やされた図書室の空気の中には、ファントムが意図的に充満させたキンモクセイの香りが、いまだに色濃く漂っている。秋の訪れと郷愁を誘うその強烈な香りは、これから始まる静かなティータイムにおいて、最高の、そしてひどく皮肉めいたスパイスとなるはずだった。


「さて、と。あの不作法な奇術師の痕跡を、まずは綺麗に消し去ってしまいましょうか」


 翡翠が涼やかな声と共に、瑠璃の向かいの席から立ち上がった。

 身長百七十センチ近い長身と、無駄のない細身のシルエット。艶やかな漆黒のポニーテールを揺らしながら歩くその姿は、いかなる時も冷静さを失わない如月コンツェルンの金庫番としての威厳に満ちている。

 翡翠は、テーブルの上に残されたままになっているボーンチャイナのティーカップへと迷いなく手を伸ばした。十九世紀末の英国窯で焼かれたその繊細なアンティークは、先ほどまで純白のリネンスーツを着た奇術師が優雅に口をつけていたものだ。カップの底には、冷めきった琥珀色の液体がわずかに残されている。


「持ち主の許可もなく勝手にヴィンテージの茶葉を開け、あまつさえ人のカップでティータイムを満喫するなんて。窃盗や器物破損よりも、ずっとタチの悪いプライバシーの侵害だわ。こんなもの、すぐに洗い流して熱湯で消毒しなければ気が済まないわね」


 翡翠はそう言い捨てると、図書室の隅に瑠璃が勝手に持ち込んで設置している、小さな給湯と洗い物のためのスペースへと向かった。

 カチャリ、カチャリと、陶磁器と銀の匙が触れ合う硬質な音が、キンモクセイの香る冷たい空間に小気味よく響く。

 瑠璃は椅子の背もたれに深く体重を預け、姉のその手際の良い作業を黙って見つめていた。翡翠の指先は、膨大な数字の羅列を入力するキーボードの上と同じように、一切の無駄がなく、流れるように美しい軌道を描いている。一度使用されたカップは丁寧に洗浄され、その横に置かれていた瑠璃のコレクションの中から、新たに二つの真新しいティーカップが選び出された。

 お湯が沸く静かな音が、重苦しかった図書室の空気を少しずつ和らげていく。


「それにしても、不思議な空間ね」


 翡翠は、銀のティーポットに熱湯を注ぎ込みながら、背中越しに瑠璃へと語りかけた。


「完璧に空調の効いた冷たい部屋と、秋のキンモクセイの香り。そして窓際には、お盆の精霊馬。季節感が完全に崩壊しているのに、なぜか不快じゃない。むしろ、計算し尽くされた一つの舞台美術の中に放り込まれたような、奇妙な静謐さがあるわ」


「それが、ファントムという奇術師の恐ろしさじゃよ」


 瑠璃は目を閉じ、空間に漂う香りを深く肺へと吸い込んだ。


「あの者は、冷徹な論理と概念的洞察力という、わしとは真逆の性質を持っている。わしがどういう環境下で、どのような香りを嗅ぎ、どのような視覚的情報を得た時に、心が揺らぐのかという膨大なデータを保持しておる。この図書室の異常な空間は、わしという観測者の心理的な防御壁を突破するためだけに設計された、完璧なアルゴリズムの産物なんじゃ」


 三分間の正確な蒸らし時間を経て、翡翠がテーブルへと戻ってきた。

 二つの新しいティーカップに、琥珀色をしたダージリンのセカンドフラッシュが注ぎ込まれる。マスカテルの芳醇な香りが、キンモクセイの香りと複雑に絡み合い、極上のアロマとなって二人の間をたゆたった。


「アルゴリズムの産物、ね。確かに、あの奇術師の行動には、熱や感傷というものが一切感じられなかったわ」


 翡翠は自らの席に座り、カップの縁にそっと唇を寄せた。


「でも、私が一番驚いたのは、やはりあのコストの極端な落差よ。瑠璃、あなたはモノのルーツや情動を視るけれど、私は常に数字と価値で世界を視ている。だからこそ、あの奇術師の異常性が痛いほどよく分かるの」


 翡翠はカップをソーサーに戻し、窓際の精霊馬たちへと翡翠色の瞳を向けた。


「普通、あれだけの莫大な資金力と技術力を持つなら、自分のプライドを満たすためにもっと華麗なメッセージを残すわ。たとえば、純金でできた彫刻を置いていくとか、システムをハッキングして旧校舎全体に壮大なプロジェクションマッピングを投影するとか。あるいは、その資金力に物を言わせて、如月家の財産に直接的なダメージを与えるような罠を仕掛けるとかね」


 翡翠の指摘は、極めて真っ当な経済的観点からのプロファイリングであった。


「でも、あの奇術師(ファントム)はそうしなかった。数千万のステルスドローンと高度なハッキング技術は、ただ自分自身を三秒間で消失させるためだけという、極めて一過性の演出に使い捨てられた。そして、メッセージの本体として残されたのは、無人スーパーで買える八百五十円の野菜のキメラ。費用対効果が破綻しているどころの話じゃないわ。あの者にとっては、一億円の金も、八百円の小銭も、目的を達成するための等価な変数に過ぎないのよ。そこには、金銭に対する執着も、自己顕示欲も、見栄すらも存在しない」


「左様。それこそが、情動が欠落した知性の極致じゃ」


 瑠璃もまた、完璧な温度で抽出された紅茶を喉の奥へと流し込んだ。温かい液体が、冷え切った身体の芯にゆっくりと染み渡っていく。


「人間は、必ずどこかで損得勘定や、他者からの評価というノイズに思考を濁される。だがファントムにはそれがない。純粋な幾何学データと物理法則だけを頼りに、最も効率的で確実な手段を選択するだけじゃ。だからこそ、あの八百五十円のちくわやなすびは、奴にとって何千万の純金よりも価値のある、完璧な図形パーツであったというわけじゃな」


 瑠璃の言葉に、翡翠は上品な笑声を漏らした。


「本当に、どうかしているわ。もしあの場に光太郎くんがいたら、きっと今の私たちみたいに冷静に紅茶を飲んではいられなかったでしょうね。いきなり部屋が真っ暗になって鳩が飛び交い、気がつけば窓際に不気味な野菜のバケモノが並んでいるのだもの。あの子なら、きっと悲鳴を上げて図書室から逃げ出していたんじゃないかしら」


 不意に名前の挙がった助手の少年の姿を思い浮かべ、瑠璃の口元にも微かな笑みが浮かんだ。

 好奇心はあるが怖がりで、そして純粋な光太郎。翡翠の言う通り、間違いなく腰を抜かしてパニックに陥っていただろう。


「違いないな。あやつには、この狂気的なまでの論理の美しさは理解できまい。ただのお化け屋敷か、悪質な嫌がらせだと勘違いして、無様に震え上がるのが関の山じゃ」


 瑠璃は目を細め、少しだけ意地悪な響きを含ませて言った。

 しかし、その言葉の裏には、どこか安堵に似た響きが隠されていることを、翡翠の耳は逃さなかった。


「でも、それでいいのよ」


 翡翠は優しく微笑み、扇子をテーブルの上で静かに弄った。


「私たちのような、少しばかり常識から外れた視座を持つ人間ばかりでは、世界は窮屈で冷たいものになってしまうわ。光太郎くんのように、お化け屋敷でちゃんと怖がり、不気味なものを見てちゃんと気味悪がることができる。そういう普通の感受性を持った存在が隣にいてくれるからこそ、あなたのその物理的観察眼も、より一層の鋭さを増すんじゃないかしら」


「買い被りすぎじゃ、姉よ。あやつはただの便利な助手、あるいは下僕に過ぎん。わしの鑑定に、あやつの凡庸な感想など必要ない」


 瑠璃はそっぽを向くようにして、紅茶のカップを傾けた。

 そのあからさまな強がりに、翡翠は追及することなく、ただ面白そうに目を細めるだけだった。

 旧校舎の図書室での鑑定において、朔光太郎という少年が果たしている役割は、決して小さくない。瑠璃の常人離れした思考の飛躍を、一般人の視点から繋ぎ止めるアンカーとしての役割。ファントムという、人間の枠組みを超脱した異常な知性と対峙する時、光太郎のようなごく普通の情動を持つ人間の存在は、瑠璃がこちら側の世界に留まるための重要な命綱となるはずだ。

 今はまだ、瑠璃本人はそのことに無自覚なようだが。


「それにしても、見事なカウンターだったわ、瑠璃」


 翡翠は話題を変えるように、再び窓際の精霊馬たちへと視線を向けた。


「ファントムは、祈りという行為をただの図形データに貶めることで、あなたの情動の視座を試そうとした。もしあなたが、あの野菜たちをただの生ゴミとしてゴミ箱に捨てていたら、ファントムの目論見通り、祈りはただの物質に成り下がっていたわ。でもあなたは、自らの手で埃を払い、一番光の当たる窓際へそれを移動させた。ファントムの用意した空虚なパラメータに、あなた自身の矜持と祈りを流し込んで、本物の供物へと昇華させたのよ」


「当然じゃ。わしの領域を勝手に荒らされ、土足で踏み込まれたまま黙っているような、安いプライドは持ち合わせておらん」


 瑠璃はカップをソーサーに置き、銀のルーペの冷たい感触を指先で確かめた。


「ファントムは、わしという観測者の閾値を測るために、この不器用な供物を用意した。死者と向き合い、祈りという非論理的な概念をどこまで許容できるかというテスト。今回のこのささやかな回答で、奴はわしの処理能力が己の想定を上回っていることを正確に理解したはずじゃ」


 瑠璃の深い紫色の瞳が、窓の外に広がる夏の青空を真っ直ぐに射抜く。

 圧倒的な資金力と、物理法則を極限まで悪用する頭脳。そして、人間の情緒を一切持たない冷徹な合理主義。姿なき奇術師は、いずれ必ず、もっと巨大で、もっと残酷な謎を用意して瑠璃の前に立ちはだかるだろう。

 そしてその謎の行き着く先には、瑠璃自身がいつか必ず向き合わなければならない、あの避暑地での親友の死という、最大の聖域が待ち構えている。


「ファントムがどれほど無機質な論理の迷宮を構築しようとも、わしがすべて、この眼で解体してみせる」


 決意を込めた瑠璃の言葉に、翡翠は何も言わず、ただ静かに自身のカップを空にした。

 真夏の旧校舎。極限まで冷やされた図書室の中。キンモクセイの香りは、いつの間にか紅茶の芳醇な香りへと溶け込み、二人の天才姉妹を包む空間には、戦いを終えた後の心地よい静寂だけが残されていた。

 窓辺に並べられた五体の不器用な供物たちは、太陽の光を受けて、いつまでも静かに輝き続けている。



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