第4話『不器用な供物』 ~Section 6:情動の視座と、概念の器~
図書室の最奥に広がる薄暗い通路には、依然として冷房システムによる暴力的なまでの冷気と、むせ返るようなキンモクセイの香りが淀んでいた。
瑠璃は、漆黒のノースリーブ・ブラウスの胸元から提げた懐中時計が微かに揺れるのも気に留めず、床にしゃがみ込んでいた。真珠色のロングプリーツスカートの裾が、カビ臭い土埃の落ちた床に触れている。普段であれば、自らのテリトリーを汚されることを極端に嫌う気高き令嬢が、今はただ黙々と、軍手をはめた両手で古い書物たちを拾い集める作業に没頭していた。
床に散乱しているのは、郷土史や民俗学に関する分厚い専門書の数々である。
瑠璃は手にした一冊の表紙についた埃を、軍手で丁寧に払い落とした。革張りの装丁には『月見坂市周辺における土着信仰の変遷』という色褪せた金文字が刻印されている。瑠璃はその重たい書物を小脇に抱え、次に床に落ちていた『魂の行方と供物の民俗学』というタイトルの古い文献を拾い上げた。
それらの書名を一つ一つ確認していくうちに、瑠璃の深い紫色の瞳に、静かな確信の光が宿っていく。
「姉よ。この本棚から床へ突き落とされた十数冊の書物。これらも決して、無作為に選ばれたわけではないようじゃ」
瑠璃の言葉に、通路の入り口で腕を組んで立っていた翡翠が、すっと美しい眉を動かした。翡翠はスマホのライトを床の上の本へと向け、瑠璃の手元を明るく照らし出す。
「無作為ではない。どういうことなの」
「床に落ちている本はすべて、人間の魂、死生観、そして土着の祈りや供物に関する専門書ばかりじゃ。あの奇術師は、ただ空間を空けるために本を押し出したのではない。この本棚に収められている数千冊の蔵書の中から、お盆や精霊馬という儀式に関連するキーワードを持つ文献だけをシステムで検索し、ピンポイントでこれらを排除したのじゃよ」
瑠璃は拾い集めた重たい本を数冊重ね、立ち上がった。
「魂や祈りに関するアナログな知識が記された書物を、物理的に床へと叩き落とす。そして、その書物たちが本来収まっていたはずの空間に、純粋な図形データと工業用カッターによって生み出された、あの八百五十円の無機質なキメラたちを鎮座させる。これこそが、あの傲慢な奇術師が仕掛けた思想的な皮肉の完成形じゃ」
翡翠は瑠璃の解説を聞き、ひどく冷ややかなため息を吐き出した。
「本当に、どこまでも効率的で、そして底意地の悪い相手ね。人間の祈りを記した本をゴミのように床へ捨てておいて、自分の作った野菜のおもちゃを祭壇のように飾るだなんて。数字とパラメータですべてを支配できると信じている者の、極端な傲慢さの表れだわ」
翡翠はスマホの画面を数回タップし、月見坂市のインフラ管理ネットワークへとアクセスした。
「瑠璃、そんな埃まみれの本を自分で片付ける必要はないわ。この旧校舎の清掃システムはメインサーバーから切り離されているけれど、私の権限を使えば、新市街から業務用のお掃除ドローンを数機、すぐに呼び出すことができる。ついでに、あの不衛生な野菜の塊たちも、有機廃棄物としてダストシュートへ運ばせましょう。あんなものをいつまでも棚に飾っておくなんて、図書室の衛生環境を損なうだけよ」
如月コンツェルンの金庫番としての、極めて合理的で正しい判断であった。
野菜と練り物で作られた不格好な造形物など、真夏の常温下に数日も放置すれば確実に腐敗し、悪臭を放ち始める。それが工業用カッターで精密に切断されていようと、ファントムの狂気的な論理の結晶であろうと、物質としてはただの生ゴミに過ぎない。八百五十円の有機廃棄物を処理するために小型ドローンを稼働させる数十円の電力コストなど、翡翠にとっては計算するまでもない端金であった。
しかし、瑠璃は姉の合理的な提案に対し、静かに、だが明確な意思を持って首を横に振った。
「いや。ドローンを呼ぶ必要はない。この本はわしが自分で棚へ戻す。そして、この五体のキメラたちも、決して廃棄はさせん」
「廃棄しない。どういうつもりなの。まさか、あの奇術師の悪趣味な思想闘争に屈して、その野菜を供物として崇めようとでも言うの」
翡翠の翡翠色の瞳に、明確な非難の色が浮かぶ。
だが瑠璃は、その鋭い視線を受け止めたまま、ふっと柔らかく、気高い笑みを浮かべた。
「逆じゃよ。ここでこの不格好な野菜たちをただの生ゴミとして廃棄してしまえば、それこそファントムの論理を肯定することになる。祈りなどというものは、八百五十円のパラメータの塊に過ぎず、無価値なゴミと同じであるという、奴の冷徹な主張を認めることになるのじゃ」
瑠璃は抱えていた本を、本棚の空いたスペースの端へと丁寧に収め直した。
「わしは、モノには想いが宿ると信じておる。いかに作り手が感情を欠落させた論理の化け物であろうと、いかにその製造工程が超音波カッターを用いた工業的なものであろうと。これが死者を迎える精霊馬という概念の器として作られ、現に今、わしの目の前に存在している以上、わしはこれを供物として扱う」
瑠璃の宣言は、図書室の冷たい空気を震わせるほどの静かな熱を帯びていた。
「それが、わしの情動の視座が出した答えじゃ。相手が論理とパラメータで人間の心を解体しようとするならば、わしは逆に、その無機質なパラメータの塊にすら、人間の情動を与え、祈りの対象へと昇華させてみせる。それこそが、あの傲慢な奇術師に対する最も完璧で、最も残酷なカウンターとなる」
瑠璃は再び本棚の前に向き直ると、軍手をはめた両手を伸ばした。
そして、棚板の上に鎮座していた五体の造形物の一つ、ちくわとごぼうで作られたいびつな精霊馬を、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、極めて慎重に持ち上げた。
掌から伝わってくるのは、冷房の冷気を吸い込んだ練り物の不自然な弾力と、超音波カッターで滑らかに切断されたごぼうの硬い感触である。どこからどう見ても、ただの安価な食材の寄せ集め。幼児の工作以下の、不格好なキメラ。
しかし瑠璃は、その歪な形の中に、姿なき奇術師が完璧な幾何学を求めて計算を重ねた、哀しいほどの執念の痕跡を読み取っていた。
「合理的すぎるがゆえに、ひどく不器用な供物じゃ。不器用で、いびつで、作り手の虚無が透けて見えるような、不格好な祈りの形」
瑠璃はそのちくわの精霊馬を両手で包み込むように持ち、薄暗い通路を歩き出した。
向かう先は、図書室の窓際である。
先ほどの絶対遮光モードから復旧した調光ガラスは、すでに夏の強烈な日差しを適度に和らげ、室内に柔らかい自然光を取り込んでいた。瑠璃は、その光が最も美しく差し込むマホガニーのテーブルの脇、広く空いた窓辺のスペースへと歩み寄った。
瑠璃はそこに、ちくわの精霊馬を静かに置いた。
そして再び薄暗い通路へと戻り、今度はなすびとたまねぎのキメラを、次には茶色いまんじゅうのバケモノを。一つ、また一つと、八百五十円の野菜で作られた五体の不格好な造形物たちを、すべて窓辺の明るい場所へと運び出していった。
翡翠は、一切の手伝いをすることなく、ただ黙って妹のその奇妙な反復作業を見つめていた。
普段であれば、少しでも重い荷物があれば助手をこき使い、自らは優雅に紅茶を飲んでいるだけの妹が、自らの手で埃にまみれ、不衛生な野菜の塊を運んでいる。その光景は、翡翠の持つあらゆる経済的な計算式や、効率という概念からは完全に逸脱した、ひどく非合理的な行動であった。
しかし、不思議とそれを愚かな行動だと切り捨てる気にはなれなかった。
窓辺に並べられた五体の野菜のキメラたちは、夏の自然光を浴びて、奇妙な影を落としている。工業用カッターによって切断された幾何学的な断面が、太陽の光を反射して不自然なほど滑らかに輝いていた。
「これでよい」
すべての移動を終えた瑠璃は、軍手を外し、窓辺に整然と並んだ五体の精霊馬を見下ろした。
「薄暗い霊廟の奥底で、カビ臭い本に囲まれているよりは、はるかに供物らしい姿になったじゃろう。死者の魂を迎えるのであれば、光の射す明るい場所の方が道に迷わずに済むというものじゃ」
瑠璃の横顔は、夏の日差しを受けて透き通るように白く、そしてどこまでも気高かった。
相手の悪意や冷徹な論理を真っ向から受け止め、それを自らの矜持と情動の力で、本物の祈りへと変えてしまう。ファントムという理解不能な天才が仕掛けてきた思想闘争に対し、瑠璃は一歩も退くことなく、むしろ相手の用意した舞台装置を完全に掌握してのけたのだ。
その完璧なカウンターを見届けた翡翠は、ふっと肩の力を抜き、上品な笑い声を漏らした。
「本当に、あなたという子は」
翡翠はゆっくりと瑠璃の隣へと歩み寄り、窓辺に並んだ不格好な精霊馬たちを見下ろした。
「相手が論理の化け物であろうと、生ゴミで作られた嫌がらせであろうと、そこに祈りの形があるならば供物として扱う。……キンモクセイの花言葉には、真実という言葉の他に、もう一つの意味があったわね」
翡翠は扇子で自らの口元を隠しながら、美しい翡翠色の瞳を細めた。
「気高い人。……あの奇術師は、あるいはあなたがこういう非合理で気高い行動に出ることすらも、一つのパラメータとして計算に入れていたのかもしれないわね」
「だとしたら、奴はなかなかに優秀な観測者ということになるな」
瑠璃は不敵に笑い、窓の外に広がる月見坂市の青空へと視線を向けた。
スマートシティの無機質な空と、手元にある八百五十円の不格好な祈りの形。
ファントムとの闘いは、まだ始まったばかりである。だが瑠璃は、自らの情動の視座が、決してあの冷徹な論理に敗北することはないという確信を、この静かな後片付けの中で完全に手に入れていた。
「さて。埃を吸いすぎて喉が渇いたわ。少し休憩にしましょうか」
翡翠が、図書室の静寂を打ち破るように明るい声を出した。彼女の視線は、マホガニーのテーブルの上に残されたままになっている、ファントムが口をつけたボーンチャイナのティーカップへと向けられている。
「あの奇術師が淹れた紅茶の残りは廃棄して、私が新しく淹れ直してあげる。あなたのお気に入りのヴィンテージ茶葉、まだ残っているのでしょう」
「うむ。お主の淹れる紅茶は、温度管理が正確で美味いからな。頼むとしよう」
瑠璃は小さく頷き、ベルベットの椅子へと深く腰を下ろした。
極限まで冷やされた図書室の中で、気高き令嬢と冷徹な金庫番の、束の間の静かなティータイムが始まろうとしていた。




