第4話『不器用な供物』 ~Section 5:幾何学的パラメータと、幻影の精神性~
異常なまでのコストの落差と、狂気じみた精密加工。そのすべてが一本の線で繋がり、ファントムが八百五十円の野菜で再現しようとしたある儀式の正体が、瑠璃の脳裏でついに形を結んだ。
瑠璃はゆっくりと立ち上がり、軍手をはめた手で、ちくわとごぼうで作られた人形をそっと指し示した。
「姉よ。今は八月じゃ。世間は夏休みの真っ只中であり、同時に古くからこの国に根付いている風習の時期でもある。お盆じゃよ」
翡翠が小さく言葉を反芻する。如月コンツェルンの金庫番として徹底した合理主義と数字の世界で生きている彼女にとって、土着の風習や宗教的な行事というものは、新市街の無機質なビル群よりもひどく遠い世界の話であった。
「お盆に、先祖の霊や死者の魂をこちらの世界へ迎え入れるために、供物として飾られるものがある。きゅうりやなすびに、折った割り箸やマッチ棒を刺して、四つ足の動物に見立てたもの。精霊馬じゃ」
瑠璃の言葉に、翡翠は再び本棚の上の人形たちへと視線を落とした。
「精霊馬。言われてみれば、確かに四本足の動物のようにも見えるわね。きゅうりの馬は足が速いから、早くあの世から帰ってこられるように。なすびの牛は歩きが遅いから、少しでも長くこちらの世界に留まり、ゆっくり帰れるように。そういう遺族の切実な願いが込められていると、知識としては知っているわ」
翡翠はすっと美しい眉をひそめた。
「でも、これはあまりにも異様よ。なすびはともかく、ちくわやたまねぎ、茶色いまんじゅうにまでごぼうを突き刺しているなんて。風習としての体裁すら保っていないじゃない。どうしてあの奇術師は、わざわざこんな不気味な素材を選んだの」
「そこが、ファントムという存在の、最も異常で冷徹なところなのじゃ」
瑠璃は銀のルーペを固く握り締め、暗闇の奥に潜む姿なき奇術師の心理をプロファイルしていく。
「あの奇術師は、人間の死者を悼む情緒や伝統への敬意といったものを、非効率なノイズとして完全に切り捨てておる。精霊馬に込められた、早く来てほしい、ゆっくり帰ってほしいという遺族の感傷など、ファントムにとっては一顧の価値もない。奴の目的は、この場所に死者を迎える儀式の装置を物理的に構築すること、ただそれだけじゃ」
「だったら、普通にきゅうりとなすびで作ればいいじゃない。どうしてちくわやまんじゅうが混ざっているのよ」
「幾何学的なパラメータじゃよ」
瑠璃は、漆黒のノースリーブ・ブラウスの胸元で腕を組んだ。
「普通の人間の感覚であれば、精霊馬を作ろうとした時、伝統に従ってきゅうりやなすびを探すじゃろう。だが、この奇術師の思考回路は我々とは根本的に異なっている。奴は、精霊馬というものを、胴体となる立体パーツに、四本の細長いパーツを接続した構造物としてのみ定義したのじゃ」
瑠璃は再びルーペを開き、左端のちくわを指した。
「このちくわは、奴の目には美味しい練り物として映っておらん。ただの中空構造を持つ、弾力性に優れた円柱じゃ。そして、それに突き刺さっているごぼうは摩擦係数が高く、接合部として機能する直径数ミリの細長い円柱。隣のなすびは表面が滑らかな楕円体であり、その上に乗っているたまねぎは中心点から均等な距離を持つ球体じゃ」
瑠璃は次々と、不格好なキメラたちを構成するパーツを数学的な図形の名称へと置き換えていく。
「中央の茶色いまんじゅうは底部が平坦な半球体。つまりファントムは、お盆の供物という概念を、純粋な円柱、球体、楕円体といった図形データに分解した。その上で、その図形データを最も効率よく、かつ安価に物理空間に再現できる素材を、月見坂市の無人スーパーの在庫データの中から検索し、自動配達ドローンにピックアップさせたのじゃ」
瑠璃の冷徹な推理を聞き、翡翠は息を呑んだ。
「なるほど。木材を削り出して完璧な球体や楕円体を作るには、高度な旋盤加工の技術と時間がかかる。最新の3Dプリンターで出力するにしても、モデリングデータの作成と樹脂の硬化時間がネックになるわね。でも、スーパーに並んでいるたまねぎやまんじゅうを使えば」
「そうじゃ」
瑠璃は不敵な笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「自然界の産物、あるいは工場で大量生産される加工食品は、すでに最初からある程度規格化された図形として存在しておる。ファントムは、無人スーパーという巨大な倉庫を、ただの図形パーツのストックヤードとして利用したのじゃ。必要な直径の球体が欲しければ、たまねぎを一つ買えばいい。必要な長さの円柱が欲しければ、ちくわを買って超音波カッターで指定の長さに両端を切り落とせばいい」
瑠璃はルーペの柄で、ちくわの滑らかな切断面を軽く叩いた。
「無人スーパーの在庫管理システムは、各青果物の三次元形状データをミリ単位で保持している。ファントムはそのシステムをハッキングし、たまねぎの直径やなすびの曲率、ちくわの長さを検索条件に指定して、最も理想的な図形に合致する個体を自動ピックアップさせたのじゃ。そして工業用の超音波カッター。これは毎秒数万回という恐るべき振動で対象を切断する機械じゃ。細胞壁を押し潰すことなく、分子の結合を断ち切るように滑らかに切断するため、切り口から水分が滲むことすらほとんどない。この異常なまでの精度と手間の掛け方が、八百五十円というチープな素材との間に、目眩がするほどの凄まじい落差を生み出している」
瑠璃の推理は、ファントムという天才の持つ、恐ろしく乾いた精神性を完璧に浮き彫りにしていた。
「八百五十円という信じられないほどの低コストも、それが理由じゃ。奴は決して安く済ませようとケチったわけではない。ただ純粋に、設定された図形パラメータを満たす素材をアルゴリズムに従って検索した結果、たまたまそれが八百五十円の野菜や練り物だったというだけの話に過ぎん」
翡翠はスマホの画面に表示された無人スーパーの在庫データを改めて見つめ直し、深い感息を漏らした。
「信じられないわね。スーパーの食料品を見て、ただの球体や円柱の集まりとしてしか認識できないなんて。あの奇術師、恐るべき頭脳と財力を持っていることは間違いないけれど、人間の情緒や豊かな感性というものが、根本のところで完全に死滅しているんじゃないかしら」
「同感じゃな」
瑠璃は、なすびとたまねぎで作られた、ひどくアンバランスな人形の頭を、軍手越しにそっと撫でた。
「普通の人間であれば、いくら効率的だからといって、なすびの上にたまねぎを乗せたら不気味だ、ちくわにごぼうを刺したら食べ物で遊んでいるように見えて不快だ、という文化的なストッパーや倫理観が必ず働く。しかし奴には、そのストッパーが一切存在しない。ファントムの脳内にあるのは、楕円体の上に球体を配置する、円柱の側面に四本のペグを接続する、という血の通わない無機質な設計図だけじゃ」
極限まで発達した知能と、完全に欠落した人間の情緒。
その二つが恐るべきアンバランスさで一人の人間の内に同居しているからこそ、数千万のステルスドローンを用いた優雅な消失劇と、八百五十円の野菜で作られたこのおぞましい供物が、同じ第四幕という舞台の上に並行して存在してしまうのだ。人間の祈りという行為を外側から真似しようとして、致命的な解釈のずれを起こしてしまったかのような、ひどく不器用で、いびつな光景であった。
「感情や美的センスというものが完全に欠落した、異常な論理の帰結。あなたの言った通りね」
翡翠は扇子を静かに閉じた。
「人間が死者を悼むための情緒的な儀式を、ただの図形の組み合わせとして構築した結果が、この不格好なキメラたちというわけね」
「左様。じゃが、奴はふざけているわけではない」
瑠璃は、手元の銀のルーペをカチャリと折りたたみ、真剣な眼差しで翡翠を振り返った。
「奴は、奴なりの極めて真面目な論理をもって、この図書室に死者を迎える儀式の空間を作り上げた。ファントムは、わしの情動の視座に対する、真っ向からの挑戦状を叩きつけてきたのじゃ」
図書室の冷気が、足元を這うように流れていく。
キンモクセイの香りが、再び瑠璃の鼻腔を強く打った。
忘却を拒む知識の霊廟にて、命なき供物が記憶の香りを問う。
挑戦状の文面が、瑠璃の脳裏でリフレインする。
「姉よ。このキンモクセイの香りも、ただの気まぐれではないぞ」
瑠璃は、薄暗い図書室の空気を深く吸い込んだ。
「キンモクセイは、秋の訪れを告げる花じゃ。夏の終わり、気温が下がり始め、人々が過ぎ去った季節に思いを馳せ、郷愁に浸る時期。ファントムは、この真夏の図書室を極限まで冷やし、秋の香りを充満させ、そして死者を迎える精霊馬を配置した」
「季節を、強制的に先送りしているとでも言うの」
「空間の演出じゃよ」
瑠璃は鋭い視線を、すでに誰もいないベルベットの椅子へと向けた。
「あの奇術師は、この図書室という閉鎖空間に、人工的な秋とお盆という舞台装置を作り上げた。祈りや弔いという、人間にとって最も非論理的で感情的な行為を、純粋な図形データと芳香成分だけでシミュレーションしてみせたのじゃ。わしという人間が、モノに宿る想いや情動を読み解く能力を持っていると知った上でな」
瑠璃の深い紫色の瞳に、静かな怒りと、それ以上の強い矜持が宿る。
「これは、ある種の思想的な闘争じゃ。モノには人間の想いが宿ると信じるわしに対し、ファントムは、祈りすらもただの物質的なパラメータに還元できると主張しておる。この不格好な野菜のキメラたちは、祈りの本質を冒涜するための、緻密に計算された暴力に他ならん」
「思想的な闘争。なるほど、数字と効率ですべてを測ろうとするあの奇術師らしい、ひどく傲慢なやり方ね」
翡翠もまた、本棚の上の供物たちを冷ややかな目で見据えた。
「合理的すぎるがゆえに、ひどく不器用な供物じゃの」
瑠璃は、ふっと自嘲気味に口角を上げた。
この八百五十円の野菜で作られたキメラたちは、ファントムという天才が、瑠璃という観測者の信念の強度を測るために用意した、ひどく悪趣味な問いかけだ。これを見てただ不快感に顔を歪めるか、あるいはその奥にある冷徹な論理の暴力に屈するか。
「受けて立とうではないか、姿なき奇術師よ。お主がどれほど論理でわしの心を解体しようと試みようとも、わしの情動の視座は、決して揺らぐことはない」
瑠璃はゆっくりとしゃがみ込み、床に幾何学的なパターンを描いて散らばっていた古い書物たちを、軍手をはめた手で一冊ずつ丁寧に拾い集め始めた。
その動作には、未知の天才に対する恐怖も、不気味な供物に対する嫌悪もなかった。あるのはただ、自身の領域に踏み込んできた不作法な奇術師への、気高き令嬢としての静かな怒りと、決して退かないという絶対的な矜持だけであった。




