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如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『不器用な供物』 ~Section 4:莫大なコストと、850円の狂気~

 図書室の最奥。旧校舎が建設された数十年前から一度も動かされていないであろう、重厚なスチール製の本棚が立ち並ぶエリア。

 普段、瑠璃が陣取っているマホガニーのテーブル周辺には、日当たりも良く、手入れの行き届いた美術書や洋書が並んでいる。しかし、この最奥の区画に収められているのは、月見坂市の郷土史や、とうの昔に廃れた民俗学、あるいは忘れ去られた土着信仰に関する、カビ臭く分厚い専門書ばかりであった。スマートシティの巨大なデータバンクに電子化されて吸収されることもなく、ただ物理的な『紙の束』として静かに朽ち果てていくのを待つだけの、文字通りの『忘却を拒む知識の霊廟』。


 瑠璃はその薄暗い通路の入り口で、ピタリと足を止めた。

 キンモクセイのむせ返るような香りと、白鳩たちが撒き散らした羽毛の匂いが充満する図書室の中にあって、この一角だけが、ひどく乾いた古い紙の匂いと、微かな土埃の匂いを漂わせている。

 瑠璃の深い紫色の瞳が、薄暗がりの中で『それ』をはっきりと捉えた。


「……何じゃ、あれは」


 瑠璃の口から、感嘆とも呆れともつかない、微かな声が漏れる。

 彼女の視線の先、通路の中ほどにある特定の本棚の周辺だけが、まるで局地的な重力異常でも起きたかのような異様な惨状を呈していた。


 本棚の三段目。そこに隙間なく収められていたはずの、分厚い布張りの表紙を持つ郷土史や民俗学の専門書たちが、すべて床の上に散乱している。

 いや、『散乱』という表現は正確ではない。瑠璃の極限まで研ぎ澄まされた物理的観察眼は、床に落ちた十数冊の本が描き出す、異常なまでの『規則性』を瞬時に見抜いていた。

 本は乱暴に投げ出されたり、崩れ落ちたりしたわけではない。床に落ちたすべての本が、本棚の縁から正確に同じ距離、同じ放物線を描いて落下し、背表紙の角度までほぼ一定の幾何学的なパターンを形成して扇状に広がっていたのだ。人間が手で無造作に払い落としたのでは、絶対にこのような均等な散らばり方はしない。まるで、精密な機械アームが、まったく同じ圧力と速度で一冊ずつ本を『押し出した』かのような、ひどく無機質で人工的な落下痕。


 だが、瑠璃を本当に絶句させたのは、本が落ちたことそのものではなかった。

 本がすべて押し出され、ぽっかりと不自然な空白の空間を作っている本棚の三段目。そのホコリを被った鉄板の棚板の上に、ありえないものが鎮座していたのである。


 カツン、カツン。

 瑠璃の背後から、翡翠が静かな足音を立てて近づいてきた。彼女もまた、スマホのライトを通路の奥へと向け、その異様な光景を視界に収める。


「嘘でしょう?」

 いかなる企業の不正な帳簿や、莫大な負債額を見ても決して動揺することのない如月コンツェルンの金庫番が、その時ばかりは心底理解に苦しむといったように、美しい顔を顰めた。


「あの奇術師、頭のネジだけでなく、経済観念まで完全に吹き飛んでいるんじゃないかしら。先ほどのドローンと白鳩のイリュージョンからの落差が激しすぎて、私でさえ計算式を見失いそうになるわ」


 翡翠が呆れ果てるのも無理はない。

 棚板の上に等間隔で並べられていたのは、五体のひどく歪な『人形』のような物体だった。

 しかしそれは、木彫りの熊や、精巧なビスク・ドール、あるいは市販のプラスチック製フィギュアなどではない。あろうことか、それらはすべて『見慣れたスーパーの食料品』を無理やり繋ぎ合わせて作られた、狂気じみた造形物だったのである。


 左端にあるのは、太く短い『ちくわ』の胴体に、足に見立てられた『ごぼう』の切れ端が四本、不格好に突き刺さっているもの。

 その隣には、丸々とした『なすび』の上に、無理やり頭部として『たまねぎ』が乗せられ、竹串のようなもので串刺しにされている代物。

 さらに中央には、温泉街の土産物屋で売られているような茶色い『まんじゅう』を胴体にし、ごぼうの手足が生えた、得体の知れない球体のバケモノ。

 ちくわ、なすび、たまねぎ、まんじゅう、ごぼう。

 そのどれもが、一般家庭の冷蔵庫や、新市街の無人スーパーの棚に無造作に転がっている、極めてありふれた、そしてひどく安価な食料品ばかりである。それらが、まるで幼児が粘土遊びで適当にパーツをくっつけたかのように、極めて不格好なバランスで組み立てられ、古い本棚の上に整然と並べられていた。


「姉よ。お主の目から見て、あれはどう映る」


 瑠璃は、油断なく周囲の安全を確認しながら、軍手をはめた右手で銀のルーペを取り出した。


「どう映るも何もないわ」


 翡翠はスマホの画面を素早くタップし、月見坂市のスマートシティ・ネットワークに直結した商用データベースへとアクセスする。彼女の細い指先が、空中に見えないそろばんを弾くように動いた。


「新市街の無人スーパーの最新の在庫(インベントリ)データと、ここ数日の販売履歴を照合したわ。……ちくわ五本入りが百二十円。傷のない中ぶりのなすびが百五十円。たまねぎが一個八十円。あの不格好な茶饅頭が三百円。そして、泥のついたごぼうが二百円。これらを接着・固定するための竹串のコストを含めても……」


 翡翠はそこで言葉を区切り、冷え切った図書室の空気に、残酷な事実を叩きつけた。


「材料費の合計、たったの八百五十円よ。消費税を入れても千円でお釣りがくるわ」


「八百五十円、か」


「ええ。狂っているとしか思えないわ」


 翡翠は扇子を広げ、口元を隠すようにしてため息をついた。


「数百万、あるいは数千万という莫大なコストをかけて、この図書室の空調をハッキングし、調光ガラスを完全遮光させ、大型ステルスドローンで自分自身を白鳩に変えるという、極限まで洗練されたオーバーテクノロジーの奇術を披露しておいて。その壮大なイリュージョンの果てに、標的であるあなたに残したメッセージの正体が、たった八百五十円の野菜と練り物で作られた、この不気味なお人形遊びだなんて」


 翡翠の翡翠色の瞳が、信じられないものを見るように、五体の野菜の人形を睨みつける。

費用対効果(コストパフォーマンス)という概念が完全に崩壊しているわ。これではまるで、最高級のフランス料理のフルコースを、純金製の皿に盛り付けておきながら、メインディッシュとして泥団子を出されたようなものよ。意図的な嫌がらせか、あるいは……ファントムは、私たちとは根本的に異なる、ひどく異常な『価値基準』を持っているとしか思えない」


 姉のその言葉に、瑠璃は深く頷いた。


「うむ。この落差は、意図的なものだ。あの姿なき奇術師は、己の資金力や技術力を誇示したいわけではない。奴にとって、数千万のドローンも、八百五十円のちくわも、このメッセージを伝えるための等価な『手段』に過ぎないのじゃ」


 瑠璃は本棚の前にしゃがみ込み、床に落ちた本を拾い上げることはせず、まずはその『落下痕』の分析から始めた。

 銀のルーペ越しに見る床の埃の散らばり具合。本が滑った僅かな摩擦痕。


「やはりな。本棚の奥、壁とのわずかな隙間に、小型の清掃用ドローン、あるいは自動配達用の小型端末を忍ばせていた形跡がある。そいつが時間差で起動し、機械的なアームで均等な出力を保ちながら、手前にある本をすべて床へと押し出した。そして空いたスペースに、どこか別の場所で加工されたこの『供物』たちを並べたのじゃな」


 瑠璃は立ち上がり、今度は本棚の上の五体の人形へと顔を近づけた。

 軍手をはめた指先で、なすびの胴体に刺さったごぼうの足をそっと撫でる。


「じゃが、これをただの『幼児のお人形遊び』と侮ることはできんぞ」


「どういうこと?」


「切断面じゃ。見てみろ」


 瑠璃がルーペで指し示した箇所を、翡翠がスマホのライトで明るく照らし出す。

 ちくわの輪切りにされた端の部分。ごぼうが特定の長さに切り揃えられた断面。それらはすべて、家庭用の包丁で人間が切った時に必ず生じる『細胞の潰れ』や『刃のブレ』による微細な凹凸が、完全に消失していた。

 細胞壁の断面すらも鏡面のように滑らかで、まるで初めからその形であったかのように、寸分の狂いもない幾何学的な平面を構成している。


「工場などの精密な加工ラインで使われる、工業用の超音波カッター、あるいは高出力のレーザーによる切断痕じゃ。一ミリの狂いもなく、野菜や加工食品をあらかじめ設定された『正確な寸法』に切り出しておる」


 瑠璃の背筋に、冷たいものが走った。


「全体としてはひどく不格好で、不気味な形をしておる。じゃが、そのパーツの一つ一つは、異常なまでの数学的な正確さをもって加工され、組み立てられているのじゃ」


 八百五十円という極端にチープな素材。

 幼児の工作のように不格好で歪な全体像。

 しかし、その実態は、超音波カッターを用いたミリ単位の精密加工による、恐るべき執念の結晶。


「……合理的すぎる。感情や美的センスというものが完全に欠落した、ひどく異常な論理の帰結じゃ」


 瑠璃は、なすびとたまねぎで作られた人形を真っ直ぐに見つめ返した。

 この奇術師は、ふざけているわけではない。極めて真面目に、大真面目に、何か特定の『形状』を、手に入る最も安価で効率的な素材を使って、完璧に再現しようと試みたのだ。


 瑠璃の脳内に備わった『情動の視座』が、静かに起動する。

 忘却を拒む知識の霊廟にて、命なき供物が記憶の香りを問う。

 金木犀。秋の香り。そして、死者や神仏に捧げる『供物』。


 瑠璃の深いアメジストの瞳が、驚きに見開かれた。


「……そうか。お主、これは……」


 異常なまでのコストの落差と、狂気じみた精密加工。そのすべてが一本の線で繋がり、ファントムが八百五十円の野菜で再現しようとした、ある『儀式』の正体が、瑠璃の脳裏でついに形を結ぼうとしていた。



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