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如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『不器用な供物』 ~ Section 3:暗転する舞台と、3秒間のトリック~

「では、次の舞台へと移行しよう」


 白亜の奇術師が、純白の手袋に包まれた両手をゆっくりと振り上げた。

 まるで、目に見えない巨大なオーケストラに向けてタクトを振るうかのような、優雅で、しかし一切の無駄を省いた静かな動作。それが、これからこの閉ざされた図書室で巻き起こる、圧倒的なイリュージョンへの開演の合図だった。

 直後、瑠璃の優れた五感が、空間を満たす微細な異常を察知する。鼓膜の奥を直接圧迫してくるような、極めて低い周波数のノイズ。それは人間の可聴域の限界に近い、かろうじて『空気が不自然に震えている』としか認識できないほどの不気味な重低音だった。


 ――パツンッ。

 弾けるような乾いた電子音が一つ、冷気に包まれた室内に鳴り響いた。

 その瞬間、瑠璃の指定席をスポットライトのように照らし出していた指向性ライトが、一切の前触れもなく完全にシャットダウンされた。

 それと同時に、旧校舎の窓枠にはめ込まれていた調光ガラスが、外部からの強行的なハッキングによって、透過率ゼロパーセントの『絶対遮光モード』へと一斉に切り替わる。スマートシティである月見坂市のインフラ管理システムにおいて、窓ガラスの透過率は通常、日照条件や室内の温度変化に応じてAIが緩やかに自動調整を行うものだ。しかし今、この図書室のガラスは、フェイルセーフを完全に無視した暴力的なコマンドによって、一瞬にして光の透過を物理的に遮断する漆黒の壁へと変貌したのである。

 真昼の強烈な太陽光は分厚いガラスの表面で完全に弾き返され、天井の高い広大な図書室は、文字通り一筋の光も存在しない『完全な漆黒』へと叩き落とされた。


「……ッ!」


 瑠璃は即座に身構え、一切の光を失った暗闇の中で目を凝らした。

 都市の光に慣れきった現代人にとって、絶対的な暗闇というのはそれだけで強烈なストレスと恐怖を引き起こす。しかし瑠璃はパニックを起こすことなく、視覚が奪われた分、残された聴覚と嗅覚、そして肌に触れる空気の微細な流れに全神経を集中させた。

 その漆黒の中で、突如として、異様な音の奔流が巻き起こった。


 ――バサバサバサバサッ!!


 それは、何十もの『生き物』が一斉に空気を叩き、パニックに陥って羽ばたく音だった。

 図書室の極限まで冷え切った空気が、無数の激しい羽ばたきによって乱気流のように掻き回される。キンモクセイのむせ返るような甘い香りに混じって、鳥類特有の微かな羽毛の匂いと体温が、瑠璃の鼻腔を掠めた。すぐ頭上を、何かが凄まじい速度で縦横無尽に飛び交っていく気配。暗闇の中で繰り広げられる、視覚を完全に奪われた状態での無数の飛行音は、理性を揺さぶる暴力的な情報量を持っていた。


「瑠璃、動かないで」


 暗闇を引き裂くように、翡翠の極めて冷静な声が響いた。

 カチャリ、とスマートフォンのロックが解除される無機質な音がしたかと思うと、強烈な白色LEDのフラッシュライトが、漆黒の空間を鋭く切り裂いた。翡翠の迷いのない指先が、光源を天井付近から室内の全域へと素早く走らせる。


「……何という茶番じゃ」


 光を取り戻した図書室の光景を見て、瑠璃は思わず呆れたような、しかしどこか感嘆にも似た息を吐き出した。

 そこには、先ほどまで豪奢なベルベットの椅子に深く腰掛けていたはずの、純白のリネンスーツを着た奇術師の姿は跡形もなく消え去っていた。足跡一つ、スーツの繊維の一欠片すら残さずに、その白亜の人物は完全に空間から蒸発していたのだ。

 そして、主を失った椅子の周囲、図書室の空間そのものを乱舞していたのは、十数羽の『純白の鳩』だった。


 マジックショーで古くから使われる、小柄で真っ白な訓練されたギンバト。それらが突然の暗闇と落下。あるいは上昇のショックでパニックを起こしたように図書室の天井付近を旋回し、古い本棚の上や、アンティークのランプシェードの上、あるいは床に散らばった古書の上に、次々と舞い降りていく。クルックゥ、という独特のくぐもった鳴き声が、冷気に包まれた広大な室内に不気味なエコーとなって響き渡っていた。


 やがて、ハッキングが解除されたのか、スマート照明のシステムが徐々に復旧し、図書室に再び青白い明かりが灯り始める。調光ガラスの透過率も少しずつ上がり、窓の外から真夏の陽光が差し込んできた。


「古典的な手品師を気取っているとは思ったけれど……まさか本当に、自分が消えた後に白鳩を飛ばすなんてね。一周回って感心するわ」


 翡翠はスマホのライトを切り、本棚の上に止まって首を傾げている鳩を見上げながら、皮肉げに微笑んだ。


「一体どうやってあの長身の奇術師が、たった三秒の暗闇の間に煙のように消え失せたのかしらね。質量保存の法則を完全に無視しているように見えるけれど」


 瑠璃は無言のまま、銀のルーペを取り出し、ゆっくりとマホガニーのテーブルへと近づいた。

 テーブルの上には、半分ほど紅茶が残されたボーンチャイナのティーカップが、ソーサーの上に静かに置かれている。瑠璃はそのカップの表面に浮かぶ、琥珀色の液体の状態を観察した。


「……消えたわけではない。物理的に『移動』しただけじゃ。質量は消滅などしない。ただ、我々の視覚から強引にその座標を移したに過ぎん」


 瑠璃の研ぎ澄まされた『物理的観察眼』が、現場に残された微かな痕跡から、ありえない消失トリックの全貌を恐るべき速度で逆算していく。

 カップの中の紅茶は、完全に静止していなかった。ごくわずかに、中心から外側に向かって、同心円状の極めて微細な波紋が立ち続けている。それは地震による揺れではなく、上空に向かって強烈な風圧が発生したことを示す物理的な証拠だった。


「上じゃ。図書室の天井、一番奥の天窓を見てみろ」


 瑠璃の言葉に従い、翡翠が翡翠色の瞳をすっと細めて天井を見上げる。

 旧校舎の吹き抜けになった高い天井。その一部に設置された採光用の天窓ガラスが、まるで精密なレーザーカッターで切り取られたかのように外側へと取り外され、ぽっかりと黒い四角形の穴を開けていた。


「なるほど、上から吊り上げたというわけね」


 翡翠がすべてを理解したように頷く。


「左様。先ほどの暗闇が訪れる直前、わしは微かな低周波音を聞いた。あれは、スーツの内側に特殊なフレームか何かを仕込み、そこに十数羽の白鳩たちを収納した上で、特定の音波で大人しく『眠らせておく』ための装置の稼働音じゃ。鳥類は特定の周波数や磁場の変化によって、強制的に活動を低下させることができる」


 瑠璃はベルベットの椅子の座面を指差した。

 そこには、純白のスーツを着た人物が、先ほどまで確かにそこに座っていたという、重みによる深い沈み込みの跡が残っている。さらに、座面の端には、フックのような硬い金属が強烈な力で擦れた、真新しい鋭い引っかき傷が深く刻まれていた。


「天窓の真上に、静音駆動の大型ステルスドローンを待機させていたのじゃろう。調光ガラスをハッキングして漆黒の三秒間を作り出した瞬間、天窓から極細の特殊ワイヤー――おそらくはカーボンナノチューブ製の、目視不可能なほど細く強靭な糸――を投下する。ファントムはそれを自身のスーツに隠された強固なハーネスに瞬時に接続し、ドローンの恐るべき巻き上げトルクによって、一気に天井の穴から上空へと引き揚げられた」


 瑠璃はルーペを胸元にしまい、呆れたように首を振った。


「その急激な上昇の重力加速度()を利用して、スーツの隠しポケット、あるいは収納フレームを解放。眠らされていた鳩たちは空中に放り出されたショックで強制的に目を覚まし、部屋中を飛び回った……という、物理法則の限界ギリギリを突いた、極めて荒っぽく危険な力業(イリュージョン)じゃ」


「呆れた執念ね」


 翡翠は扇子を広げるような優雅な仕草でため息をついた。彼女の脳内では、すでにこの三秒間のイリュージョンにかかったコストが冷徹に弾き出されている。


「人間の体重を、たった三秒で天井裏まで無音で引き上げる巻き上げ機の出力。それに耐えうる軍事レベルの大型ステルスドローンの調達費用。さらに、月見坂市のセキュリティを突破してスマートガラスを完全遮光させるための、闇市場(ダークウェブ)での高度なハッキング・ツールの購入費。加えて、あんな風に特定のタイミングで飛び立つよう鳩を調教し、保管するコスト……」


 翡翠は本棚に止まる白鳩を冷ややかな目で見つめた。


「どれをとっても、たった一つの手品に掛ける予算としては狂気の沙汰だわ。それに、ドローンの急上昇による猛烈なGに耐えながら、一切の悲鳴も上げずに無音で天井をすり抜けるなんて。あの奇術師、優雅なスーツなんて着ていたけれど、中身は特殊部隊顔負けの異常な訓練を積んだ人間凶器じゃないの」


 姉の冷静な分析を聞きながら、瑠璃もまた、ファントムという存在の底知れぬ異常性に戦慄を覚えていた。

 これほどのリスクと莫大な資金を投じてまで、自分に『ただ鳩となって消える古典的な手品』を見せたかったというのか。自己顕示欲の欠落したあの冷徹な態度の裏側にある、異常なまでの論理的執着。人間としての感情の欠落と、目的遂行のための恐るべき身体能力と資金力。


 その時だった。

 図書室の静寂を縫うように、再びあの平坦で、感情の抜け落ちた無機質な声が響き渡った。


『――見事な観測だ、如月瑠璃』


「……ッ!」


 瑠璃は鋭く周囲を見回した。姿はない。天窓は開いたままだが、すでにドローンの駆動音すら遠ざかっている。

 声の発生源は、テーブルの上に残されたティーカップのソーサーの裏側だった。そこに貼り付けられた極小の骨伝導スピーカーが、図書室のマホガニーのテーブル全体を巨大な共鳴箱として利用し、部屋中に音を響かせていたのだ。

 すでにドローンで遥か上空へと離脱したファントムが、遠隔で音声を送信している。


『私の物理的な座標移動を、わずか数十秒の痕跡から解き明かすその観察眼。やはり君は、私が設定した閾値に到達しうる、極めて優れた処理能力を持っている』


「ふん。逃げ隠れしながらの遠吠えか? わしを試すような真似をして、一体何が目的じゃ」


 瑠璃の怒りを含んだ問いかけに対し、スピーカー越しの声は、一切の感情の揺らぎを見せることなく、ただプログラムされた詩を読み上げるように淡々と告げた。


『忘却を拒む知識の霊廟にて、命なき供物が記憶の香りを問う』


「挑戦状の文面じゃな。金木犀の香りは確かに嗅いだが、それがどうした」


『振り返りたまえ、観測者(如月瑠璃)よ。……真実は、常に君の背後にある』


 プツン、という無機質な電子音と共に、通信は完全に途絶えた。

 図書室には再び、旧校舎の重苦しい静寂と、冷房システムによる異常な冷気、そして十数羽の鳩たちが立てるクルックゥという微かな鳴き声だけが残された。


「背後、だと?」


 瑠璃は、促されるままにゆっくりと振り返った。

 彼女が普段、鑑定の拠点としていながらも絶対に足を踏み入れない、図書室の最奥。歴史や民俗学に関する古い書物が収められている、埃を被ったカビ臭い本棚の並ぶ薄暗いエリア。

 そこに、瑠璃の優れた視覚を疑うような『異常な光景』が広がっていた。


「……何じゃ、あれは」


 瑠璃の深いアメジストの瞳が、わずかに見開かれる。

 これまでファントムが仕掛けてきた、莫大なコストと技術を注ぎ込んだ完璧なイリュージョンとは、あまりにもかけ離れた、ひどく不格好で、チープで、そして狂気じみた光景が、そこには展開されていたのである。



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