第4話『不器用な供物』 ~ Section 2:白亜の奇術師と、姉妹の対峙~
カチャリ、と。
猛暑の月見坂市から完全に隔絶された、極限まで冷やされた図書室の静寂。その張り詰めた空気を切り裂くように、微かな磁器の触れ合う音が響いた。
瑠璃が愛用している、十九世紀末の英国窯で焼かれたボーンチャイナのアンティーク・ティーカップ。瑠璃自身が蚤の市でその真贋を見抜き、深い愛着を持ってこの旧校舎の図書室へと持ち込んだ繊細な器が、見知らぬ不法侵入者の手によって、寸分の狂いもない優雅な軌道を描いてソーサーの上へと戻されたのだ。
その一連の動作には、粗野な振る舞いや、他人の所有物を勝手に扱うことに対する躊躇いといったものが一切感じられなかった。英国貴族に代々仕える老練な執事すらも凌駕するような、洗練の極みにある完璧なエチケット。純白のリネンスーツの襟元から覗く首筋が、コクリ、と微かに動く。喉の奥へと温かい液体を流し込むという生々しい挙動が、彼が間違いなくこの空間に物理的に存在している人間であることを証明していた。
「随分と寛いでおるな、不法侵入者よ」
瑠璃の冷たく、しかし確かな警戒と怒りを含んだ声が、キンモクセイのむせ返るような甘い香りの中に響く。
対する純白の人物は、深く被った本場エクアドル産の最高級パナマ帽の下で、微かに顔を上げた。目元を完全に覆い隠す白のベネチアンマスク。その目のくり抜かれた奥底に広がる漆黒が、瑠璃と、その後ろに立つ翡翠の姿を静かに捉える。息遣いすら感じさせないほどに落ち着き払ったその立ち姿は、これから始まる何らかの舞台の幕開けを待つ、絶対的な自信に満ちた主演俳優のようであった。
「ごきげんよう、如月瑠璃」
返ってきたのは、ひどく平坦な声だった。
発声と同時に、図書室の空間そのものが微かに震えたような錯覚を覚える。高度なボイスチェンジャーを用いて、年齢や性別といった個人の特定に繋がるあらゆる特徴を徹底的に隠蔽した、意図的な加工音声。それは、あの橡ノ大社で瑠璃が謎を解き明かした直後、ティーカップのソーサーに仕込まれた小型スピーカー越しに聞いたものと全く同じ、感情の起伏を一切削ぎ落とした響きだった。
姿なき奇術師、ファントム。
今、目の前のベルベットの椅子に深く腰を下ろしている白亜の人物は、間違いなくあの時瑠璃の思考を試し、挑戦状を叩きつけてきた傲慢な幻影本人である。
瑠璃は、右手に握り込んだ銀のルーペの冷たい金属の感触を確かめながら、ゆっくりと室内を見渡した。
外は、アスファルトが溶け出すほどの猛暑だというのに、この図書室の中だけが異常なほどの冷気に包まれている。旧校舎の空調システムなど、とうの昔にメインサーバーからの電力供給を絶たれているはずだ。それをハッキングし、あるいは物理的なバイパスを構築して再起動させた上で、この天井の高い広大な空間を短時間でここまで冷却するなど、並の技術力や資本でできることではない。
瑠璃の視線が、再びテーブルの上のティーカップへと向けられる。
空気に乗って漂ってくるのは、キンモクセイの強い香りだけではない。淹れたての紅茶が放つ、特有の芳醇な香り。
(……セカンドフラッシュのダージリン。わしが戸棚の奥に隠しておいた、ヴィンテージの茶葉か)
瑠璃は内心で舌打ちをした。勝手に茶葉を使われたことへの怒りではない。その紅茶の香りが、茶葉のポテンシャルを極限まで引き出す完璧な温度と蒸らし時間で抽出されたことを、瑠璃の優れた嗅覚が正確に捉えてしまったからだ。侵入者は単に図書室に座っていただけではない。彼自身の手で湯を沸かし、正確に時間を計り、瑠璃のテリトリーで極上のティータイムを優雅に満喫していたのだ。
「真夏に旧校舎の図書室を占拠し、ご丁寧にわしの定位置まで奪うとはな」
瑠璃は一歩、前へと歩み出た。
「その上、勝手に人の茶葉を淹れ、このような季節外れの香りを充満させて……一体何の茶番じゃ?」
瑠璃の静かな問いかけに対し、ファントムはゆったりとした、しかし隙のない動作で両手をテーブルの上で組んだ。
「……キンモクセイの香りは、人の記憶や情動を強く揺さぶると聞いてね。いかがかな、この香りの出来栄えは」
その言葉には、相手を罠にはめた時に見せるような、卑小な優越感や愉快犯特有の響きは皆無だった。ただ純粋に、自身が莫大な手間をかけて用意したこの『キンモクセイの香り』という舞台装置が、標的である瑠璃からどのような反応を引き出すのかを、静かに観察しているような底知れぬ気配がある。
瑠璃はふん、と短く鼻を鳴らした。
「悪くないチョイスじゃ。花言葉も込みでな」
キンモクセイの放つ、甘く、どこか郷愁を誘う強い香り。
この天才的な奇術師が、単なる思いつきでこの香りを選んだはずがない。すべての行動、すべての装飾に、異常なまでの論理的必然性を持たせるのがファントムという男だ。この香りは、瑠璃に何か特定の記憶を呼び起こさせるためのトリガーなのか。
「お主がわしに何を求めているのか、その底意地の悪さだけは十分に伝わってきたぞ」
張り詰めた二人の空間の均衡を破るように、カツン、と涼しげなピンヒールの足音が図書室の床を叩いた。
瑠璃の背後に立っていた翡翠が、艶やかな黒髪のポニーテールを揺らしながら、瑠璃の隣へと並び立ったのだ。彼女の美しい翡翠色の瞳には、目の前の正体不明な侵入者に対する恐怖も、未知の事象に対する警戒も一切浮かんでいない。如月コンツェルンの金庫番たる彼女の目に映っているのは、目の前の状況がいかに『数字として異常か』という、冷徹な値踏みだけだった。
「あの時の奇術師さんね。今日は随分と凝ったサマースタイルじゃない」
翡翠は余裕の笑みを浮かべ、薄い唇を優雅に開いた。
「あなたが着ているそのスーツ、ただの白じゃないわね。生地の落ち感と、照明を反射する独特の光沢。イタリアの極上リネンとシルクの混紡糸を使っているわ。それに、頭に乗せているパナマ帽も、編み目の細かさからして本場エクアドル産の最高級グレード。目元を隠しているベネチアンマスクに至っては、金箔のあしらい方から見て、本場のマエストロによる完全なオーダーメイド品ね。……ざっと見積もっても、そのコーディネートだけで百万円は下らないわ」
翡翠の指摘に、ファントムは無言のまま、首をわずかに傾けた。否定も肯定もしない、絶対的な余裕の表れだ。
「でも、私が言いたいのはあなたのファッションセンスのことじゃないわ」
翡翠はふふっと笑い、扇子でも広げるかのような優雅な仕草で右手を頬に添えた。彼女の頭の中では、すでに恐ろしい速度でそろばんが弾かれている。
「この真夏に、完全にインフラから切り離されているはずの旧校舎の空調をハッキングし、この広大な図書室の室温をここまで急激に下げるための莫大な電力コスト。そして、季節外れのキンモクセイの香りを、天然成分に近いレベルで合成・充満させるための化学的なコスト、あるいは温室栽培にかかる膨大な維持費。それらをすべて合算した上で、わざわざそんな高級なスーツを着込んで、瑠璃の帰りを待ってお茶会を開く……」
翡翠はそこで言葉を切り、冷ややかな視線をマスクの奥へと突き刺した。
「どう考えても無駄が多すぎるわ。あなたの目的が瑠璃に挑戦状を叩きつけることなら、もっと安上がりで効率的な方法はいくらでもあるはずよ。そこにわざわざ物理的な装飾を施し、莫大な資本とリソースを投じる意味。……相変わらず、あなたのやり方は費用対効果が最悪ね。私のもとで働く経理部員なら、稟議書を見た瞬間に即刻クビにしているところだわ」
姉の容赦のない経済的視点からの指摘を受け、瑠璃の『物理的観察眼』がさらに鋭さを増していく。
(左様。その通りじゃ)
瑠璃は深いアメジストの瞳で、目の前の白亜の人物を上から下まで、文字通り舐め回すように観察した。
翡翠の言う通り、これほどまでにコストをかけた芝居がかった衣装を纏い、わざわざ自分の目の前に姿を現していながら、この奇術師からは犯罪者特有の『自己顕示欲』や『虚栄心』といった熱が、ひどく欠落しているように瑠璃には感じられた。
どれほどの天才であっても、人間であれば、これほどの完璧な舞台装置を用意し、完璧な衣装を着こなしていれば、無意識のうちに己の美学に酔い、ポージングの一つ一つに『エゴ』が滲み出るはずだ。相手を威圧しようとするオーラや、自分の知恵を誇示しようとする浅ましさが、どれほど隠そうとしても必ず所作の端々に表れる。
しかし、目の前のファントムにはそれがない。
ただ、『そういう衣装を選択し、そういう態度をとっている』というだけの、極めて冷え切った存在感を放っている。まるで、人間という生き物の感情の機微を頭の中だけで理解し、それを完璧に演じ切っているだけの、恐ろしく合理的なサイコパスのようにも見えた。
「お主の奇術は、常に無駄が多くて大仰だ」
瑠璃は一歩、また一歩と、ファントムの座るテーブルへと近づいていく。
「……だが、その不格好さの裏には、お主がどうしても『物理的』に実行しなければならなかった、何らかの切実な理由が隠されておるのじゃろう?」
瑠璃は目を細め、マスクの奥の漆黒を真っ直ぐに射抜いた。
「お主は、わしの情動を試そうとしている。この金木犀の香りも、その冷気も、すべてはわしという人間をある特定の思考へと誘導するためのプロセスに過ぎない。違うか?」
ファントムはしばらく沈黙した。
図書室の冷気が吹き出す音と、三人のわずかな衣擦れの音だけが、張り詰めた距離を埋めるように響き続ける。
やがて、白亜の奇術師は、純白の手袋に包まれた両手をゆっくりと持ち上げた。まるで、オーケストラの指揮者が、壮大な第一楽章の始まりを告げるためにタクトを振り上げるかのような、優雅で、しかし一切の無駄を省いた動き。
「ご名答だ、観測者よ」
平坦な声が、図書室の空気を震わせる。
「論理では測れない、君の『真実を受け止める閾値』の観測。……では、次の舞台へと移行しよう」
それが、これから始まる圧倒的なイリュージョンへの、開演の合図だった。




