表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/50

第4話『不器用な供物』 ~Section 1:第四幕の挑戦状と、真夏の金木犀~

 月見坂市の夏は、都市を管理する高度なAIネットワークによって、その暴力的な熱から徹底的に守られている。

 新市街にそびえ立つ無機質なスマートビル群は、外壁に特殊な遮熱コーティングが施され、街路樹には目に見えない微細なミストが定期的に噴霧されていた。計算し尽くされた気化熱によって、メインストリートの気温は常に不快指数を下回るよう最適化されている。AIの恩恵から見放され、昭和の面影と共にじっとりとした濃密な熱気が淀む旧市街とは対照的であった。

 新市街の最北部に位置する、如月学園の広大な敷地も例外ではない。緑豊かなキャンパス全体がAIの空調管理下にあり、常に快適な温度に保たれている。とはいえ、最新設備の整った新校舎エリアに比べれば、敷地の外れにひっそりと建つ旧校舎の周辺は、わずかに夏の生々しい熱を帯びていた。


 冷房の完璧に効いた、如月邸の広大なパーラー。

 瑠璃は、透き通るような白い肌を際立たせる漆黒のノースリーブ・ブラウスに、歩くたびに軽やかに揺れる真珠色のロングプリーツスカートを身に纏い、アンティークのソファに深く腰を掛けていた。首元には華奢な銀のチョーカーをあしらい、どこかクラシカルで涼しげな装いである。手元には、十九世紀末の英国で装丁された古書。ページをめくる指先は、常に持ち歩いている銀のルーペや懐中時計の冷たい感触を確かめるように、静かで規則的な動きを繰り返している。


 彼女の向かいの席では、如月コンツェルンの経理・会計を一手に担う実の姉、如月翡翠が、最新型のホログラム・タブレットを空中に展開し、凄まじい速度で数字の羅列を処理していた。身長百七十センチ近い細身の彼女は、艶やかな漆黒の髪を涼しげなポニーテールにまとめ上げている。その瞳は名を表すような美しい翡翠色をしており、画面を流れる莫大な資金の動きを、冷徹なまでに正確な計算式へと変換し続けていた。


「……今年の第三四半期における、月見坂市のインフラ保守費用の計上、少し異常値が出ているわね。新市街の物流ドローンの稼働率が、深夜帯に不自然なスパイクを描いているわ」


 翡翠は、薄い唇から微かな吐息を漏らしながら、空中のキーボードを優雅に弾いた。


「システムのエラーかしら。それとも、誰かが意図的に物流ネットワークのリソースを食い潰しているのか……。瑠璃、あなたはどう思う?」


 姉の問いかけに対し、瑠璃は古書から深いアメジストの瞳を上げることはなかった。


「数字の帳尻合わせは、お主の領分じゃろう、姉上。わしは、目の前に存在する『モノ』のルーツと、そこに宿る情動にしか興味はない」


「冷たい妹ね」


 翡翠はクスリと上品に笑い、タブレットの電源を落とした。かつては犬猿の仲であった時期もある二人だが、今ではこうして互いの天才性を認め合いながら、同じ空間で別の作業に没頭できる心地よい姉妹関係を築いていた。


 その静寂を破ったのは、部屋の片隅に置かれた時代遅れの不格好な機械だった。


 ――ジジジ……ガシャン、ジーーーーーー。


 瑠璃が自室から持ち込んでいる、古いFAXの駆動音である。完全ペーパーレス化が推奨されるスマートシティにおいて、物理的な紙とインクを用いた通信機器など博物館の展示物でしかない。しかし瑠璃は、送信元の物理的な痕跡、紙の摩擦、インクの匂いという『モノのルーツ』を辿るための手段として、あえてこのアナログ回線を維持していた。


 重々しいモーター音と共に、一枚の分厚い紙が吐き出される。瑠璃は古書を閉じ、ソファから立ち上がるとFAX機へと歩み寄った。吐き出された紙は、コットンパルプを多分に含んだ吸水性の高い高級な特注紙だ。その表面には、美しい明朝体のフォントで、たった一行、印字されていた。


『忘却を拒む知識の霊廟にて、命なき供物が記憶の香りを問う』


 瑠璃の双眸が、鋭く細められた。

 印字されたインクの乗り具合、紙の繊維に染み込んだ微かな圧力。間違いない。月見坂市の美術館、そして橡ノ都の御薬師楼で瑠璃の思考を試すかのように現れた姿なき奇術師――ファントムからの、第四幕の挑戦状であった。


「あら、随分と古風な招待状ね」


 後ろから覗き込んだ翡翠が、冷静に告げる。


「厄介で、異常なまでに論理的な思考を持つ奇術師からのものじゃ」


 瑠璃は銀のルーペを取り出し、紙面を丹念に観察しながら思考を巡らせる。


「忘却を拒む知識の霊廟……月見坂市において、データ化されず、物理的な『本』という形態のまま放置されている知識の墓場。わしにとって最も馴染み深い場所」


「如月学園の、旧校舎の図書室ね」


 翡翠が即座に瑠璃の思考を補完する。


「左様。しかし、解せないのはその後半じゃ。『命なき供物』が『記憶の香り』を問う……。供物とは本来、神仏や死者に対して捧げるもの。それが記憶の香りを問うとは、どういう意味か」


「行ってみれば分かることじゃないかしら」


 翡翠は、ホログラム・タブレットをハンドバッグに滑り込ませた。


「私も付き合うわ。橡ノ大社(つるばみのたいしゃ)で見せてくれた奇術師さんのイリュージョン、数字や論理では測りきれない無駄なコストの掛け方が、かえって興味深かったもの」


 こうして、二人の天才はファントムが指定した舞台へと向かうこととなった。

 移動手段は、如月家の黒塗りの高級車である。運転席には、鋼のように鍛え上げられた筋骨隆々の肉体を持つ専属ボディーガード、黒田が座っていた。如月家のボディーガードの中でも屈指の実力を持ちながら、瑠璃の突拍子もない行動に振り回されては度々涙ぐむという、屈強な見た目に似合わず涙もろい男である。今日も彼は、令嬢たちが夏休みに突然旧校舎へ向かうという事態に少しだけ心配そうな視線をルームミラー越しに向けていたが、無言で完璧な運転をこなした。


 車は新市街を抜け、如月学園の敷地へと入る。

 夏休みのキャンパスは、生徒の笑い声も教師の足音もなく、完全に死に絶えたような静寂に包まれていた。AIによる空調管理のおかげで暴力的な熱気こそないものの、敷地の最北端にある旧校舎に近づくにつれ、わずかに夏の生ぬるい空気が肌を撫でるようになる。


 瑠璃と翡翠は薄暗い廊下を歩き、階段を上る。

 やがて、重厚な木製の両開き扉の前に到着した。色褪せた『図書室』のプレート。


 ふと、翡翠が扉の取っ手に手をかけようとして、思い出したように隣の妹に視線を落とした。


「ここでいつも、光太郎くんと鑑定してるのね」


「うむ」


 瑠璃の返答は、極めて短いものだった。


 翡翠が真鍮の重い取っ手を押し下げ、扉をゆっくりと開く。

 その瞬間、二人の全身を、ありえないものが包み込んだ。


「……何じゃ、これは」


 瑠璃が、思わず眉をひそめる。

 開かれた扉の隙間から溢れ出してきたのは、旧校舎の生ぬるい空気とは対極にある、完璧に温度と湿度が管理された『極寒』とも呼べるほどの冷気だった。

 だが、瑠璃の優れた五感をさらに強烈に刺激したのは、冷気そのものではなかった。冷気に乗って、図書室の奥からふわりと漂ってきたのは、むせ返るほどに甘く、そして深い郷愁を誘う花の香り。

 真夏というこの季節においては絶対に存在するはずのない、秋の訪れを告げる花。


 金木犀(キンモクセイ)の香りだった。

 挑戦状にあった『記憶の香り』とは、これのことか。


 圧倒的な季節外れの香りと、冷気。

 瑠璃は油断なく目を細めながら、図書室の中へと足を踏み入れた。翡翠もまた、一切の動揺を見せることなく、ピンヒールの足音を響かせて妹の後に続く。

 室内は薄暗い。しかし、瑠璃がいつも指定席として使っている部屋の中央の空間だけが、外から照射された指向性ライトのように不自然なほど強く照らし出されていた。

 そこには、瑠璃が勝手に持ち込み、いつも我が物顔で座っているマホガニーのテーブルと、豪奢なベルベットの椅子がある。

 そして。


「……随分と寛いでおるな、不法侵入者よ」


 瑠璃の低く、鋭い声が、キンモクセイの香りが充満する図書室に響いた。

 ベルベットの椅子には、『何者か』が深く腰を下ろしていた。


 上質な純白のリネンスーツを隙なく着こなし、頭には同じく純白のパナマ帽を深く被っている。帽子から覗く目元は、素顔を完全に隠蔽する白のベネチアンマスクで覆われていた。まるで、時代錯誤な怪盗か、古典的な手品師のような芝居がかった白亜の装い。

 純白の奇術師は、手袋に包まれた手で、瑠璃が愛用しているお気に入りのアンティークカップを優雅に持ち上げていた。マスクの奥にあるはずの瞳が、瑠璃と翡翠を捉える。

 奇術師はカップの縁に口元を寄せ、静かに紅茶を飲んだ。コクリ、と、喉元が動く物理的な挙動が、確かに瑠璃の観察眼に映り込んだ。


 季節外れの金木犀の香りが、狂気を孕んだように図書室の空気を満たしていく。

 姿なき奇術師ファントムの第四幕が、静かに開演しようとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ