表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/21

第1話『金木犀の幻影』 ~Section 2:千年の古刹と、水面での休息~

 橡ノ都(つるばみのきょう)の朝は、山から降りてくるひんやりとした冷気と、遠くの寺院から響く厳かな鐘の音で幕を開けた。

 超高級老舗旅館『御薬師楼(おんやくしろう)』の特別室。ふかふかの真綿の布団から身を起こした瑠璃は、大きく伸びをしてから窓の外を眺めた。幾重にも連なる紅殻(べんがら)(べんがら)格子の屋根が、朝露に濡れてしっとりとした輝きを放っている。


 旅行二日目。

 地元の山菜やふっくらと炊き上げられた白米、そして繊細な出汁の香りが鼻腔をくすぐる上品な朝食を平らげた如月家の三人は、涼しい午前中のうちに宿を出て、街の散策へと向かった。


 今日の目的地の一つは、橡ノ都の北部に位置する『翠玉(すいぎょく)の竹林』である。

 市街地の喧騒から少し離れた小道を抜けると、突如として視界が鮮やかな緑一色に染まった。天まで届きそうなほど高く伸びた何万本もの青竹が、見渡す限りの空間を埋め尽くしている。


「うわぁ……。見事なものね。空気がひんやりとしていて、別世界に迷い込んだみたい」


「ええ。風が通るたびに鳴る葉擦れの音が、とても心地よいわ」


 翡翠と菫が、頭上を覆う竹の葉の天蓋を見上げながら感嘆の声を漏らす。

 竹林の隙間から差し込む木漏れ日が、三人の足元に落ちては風と共に揺らいだ。瑠璃もまた、歩きやすいフラットシューズで綺麗に掃き清められた土の道を踏みしめながら、周囲の光景を鋭い紫の瞳で観察していた。


「ふむ……。この竹の節の間隔と太さ、そして群生する密度から推測するに、地下茎のネットワークは数百年にわたってこの一帯の地盤を強固に支え続けておるな。さらに、この特有の微気候(マイクロ気候)は、周囲の山々から流れ込む気流が竹林の――」


「はい、ストップ。瑠璃、今日は『おやすみモード』の二日目よ。植物学や気象学の講義はなし。ただ『綺麗ね』って言うだけでいいの」


 無意識のうちに竹の成長速度や地盤の力学的な計算を口にし始めた瑠璃の額を、翡翠が人差し指で軽くつついた。


「むぅ……。分かっておる。ただ、完璧な自然の造形を見ると、ついそのルーツや構造を紐解きたくなるのがわしの性分でな……。綺麗じゃな、お姉ちゃん」


「ふふっ、よろしい。素直な妹で大変可愛いわ」


 翡翠は満足そうに微笑み、瑠璃の頭をぽんぽんと撫でた。瑠璃は少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らし、前を歩く菫の背中を追った。

 コンツェルンの会長である祖父や、社長である父もこの場にはいない。会社の数字や経営戦略の話は一切出ず、ただ【竹林が美しい】【風が気持ちいい】という、当たり前で平和な会話だけが響く。それは、彼女たちにとって何よりも贅沢な時間だった。


 竹林の散策を終え、程よくお腹が空いた頃合いで、三人は予約していた完全個室の料亭へと足を運んだ。

 昼食は、橡ノ都の清流で育った川魚や、この土地ならではの独特な伝統野菜をふんだんに使った美しい懐石料理である。


 運ばれてきたのは、清流を泳ぐ姿を模して串打ちされた若鮎の塩焼きだった。

 瑠璃は箸をつけ、一口その身を頬張る。


「……っ。素晴らしいな。備長炭の遠赤外線効果で表面の水分を瞬時に飛ばし、パリッとした食感を保ちながら、内部にはふっくらとした身の水分と香りを完璧に閉じ込めておる。この蓼酢(たでず)の酸味も、川魚特有の青々しい香りを引き立てるための絶妙なpH値じゃ」


「だから、瑠璃。分析はしないの」


「……美味しいぞ、母様、お姉ちゃん」


「ええ、本当に美味しいわね」


 菫が上品に口元を抑えてくすくすと笑う。瑠璃は少しむくれながらも、出汁の染み込んだ伝統野菜の煮物や、目にも鮮やかなお造りを次々と平らげていった。


 午後は、腹ごなしを兼ねて橡ノ都のシンボルとも言える『天覧(てんらん)の舞台』へと向かった。

 山の斜面にせり出すようにして建てられた、釘を一本も使わない懸造(かけづく)りの巨大な木造建築である。急な石段を登りきり、広大な舞台の縁に立つと、橡ノ都の街並みが眼下に一望できた。


 紅殻格子の連なり、千歳緑の木々、重厚な石垣。

 坂道という階層によって立体的に組み上げられたその街は、上から見下ろすと一枚の巨大なタペストリーのように見えた。


「すごい……。下から見上げる石垣も圧巻だったけれど、上から見下ろす街の色彩は息を呑むほどね」


幾星霜(いくせいそう)の時を経て、この街の人々が守り抜いてきた景観よ。AIによる最適化も素晴らしいけれど、こうした人間の手による歴史の蓄積には、また違った美しさがあるわね」


 手すりに寄りかかる翡翠と菫の横顔を、瑠璃は静かに見つめた。

 普段はそれぞれの持ち場で、プレッシャーと闘いながらコンツェルンを支えている家族。彼女たちがこうして心からリラックスし、景色を楽しんでいる姿を見られるだけで、瑠璃の胸の奥には温かいものが広がっていく。


 ――優奈(ゆな)。わしは今、とても幸福じゃよ。


 ふと、かつて九歳で喪った親友の顔が脳裏をよぎったが、それは悲壮なものではなく、純粋な祈りのようなものだった。瑠璃は吹き抜ける風に目を細めながら、眼下の美しい街並みをその瞳にしっかりと焼き付けた。


**


 そして、夜。

 橡ノ都の美食と絶景を堪能した如月家の女三人は、御薬師楼が誇る最大の目的――『名湯』へと足を運んでいた。


 百畳はあろうかという広大な大浴場。壁や床はすべて、年月を経て艶やかな飴色に変色した最高級の檜で造られている。仄暗い間接照明が、湯船から立ち込める豊かな白煙を幽玄に照らし出し、ししおどしの水音が静寂の中に響いていた。

 貸し切り状態の大浴場に、三人は掛け湯を済ませて静かに身を沈めた。


「はぁ……。骨の髄まで生き返るわ……」


 ふぅ、と色っぽい吐息をこぼし、湯船の縁に滑らかな腕を預けたのは翡翠だった。

 170センチに迫る長身。日々ストイックに鍛え上げているという彼女の肢体は、無駄な脂肪が一切なく、それでいて女性特有のしなやかな曲線美を描いている。湯気を含んで重たくなった濡れ羽色の髪が、透き通るような白い背中にあでやかに張り付いていた。お湯を弾く瑞々しい肌を滑り落ちる雫が、くっきりと浮き出た鎖骨から、豊かな胸の谷間、そして引き締まった腹筋のラインをなぞるようにして湯面へと消えていく。その姿は、同性から見てもため息が出るほど官能的で美しかった。


「本当に、いいお湯ね。体の芯から解れていくのが分かるわ」


 その隣で、菫が優雅に肩までお湯に浸かる。

 たっぷりとお湯を含んだ手ぬぐいをそっと肩に乗せると、大人の余裕と成熟した色香が湯気とともに立ち昇った。二人の娘を産み、育て上げたとは思えないほど滑らかで張りがあり、かつ圧倒的に豊満なプロポーションは、名匠が彫り上げた大理石の女神像のようだ。湯の熱でほんのりと上気した頬と、水面ぎりぎりでたゆたう豊かな胸元が、彼女の持つ底知れない妖艶さをさらに引き立てていた。


 そんな息を呑むようなプロポーションを持つ母と姉の対面で、瑠璃は少しだけ首までお湯に沈み込みながら、こっそりと息を吐いた。

 147センチの小柄で華奢な体躯。決して幼いままというわけではない。透き通るように白い素肌には、少女から大人の女性へと移り変わる年頃特有の、柔らかくふっくらとした胸の膨らみが確かな曲線を描いている。まるで精巧に作られたアンティークの球体関節人形のように、身長に対する完璧な均整を保つその姿は、今は温泉の熱でほんのりと薄紅に染まっていた。

 瑠璃自身、己のプロポーションに不満があるわけではないし、男子学生たちの視線を集めるほどの可憐さも持ち合わせている。だが、いかんせん目の前で湯に浸かっている二人が、女性としての発育という面においてあまりにも『規格外』すぎるため、相対的に自分の小ぶりさが際立ってしまうのだ。


「……この湯、メタケイ酸の含有量が極めて高いな。肌の角質層のセラミドを整える保湿効果に優れておる。それに、僅かに硫黄の匂いもする。血管拡張作用により血流が促進され――」


「はいはい、分析ストップ。瑠璃は照れ隠しですぐに成分のルーツを探ろうとするんだから」


 早口で呟き始めた瑠璃を、翡翠がくすくすと笑いながら遮った。じゃばらっ、と色っぽい水音を立ててお湯をかき分けて近づいてきた翡翠が、瑠璃のすべすべとした頬を両手で挟んで、むにゅっと引っ張る。至近距離に迫る姉の豊かな胸元と、しっとりと濡れた素肌の熱量に、瑠璃は思わず目を白黒させた。


「ふぁっ!? な、何をするお姉ちゃん!」


「相変わらず、雪みたいに真っ白で綺麗な肌ね。均整が取れていて、本当に陶器のお人形さんみたい。それに、このちっちゃくて華奢な肩。すっぽり腕の中に収まっちゃうわ」


「ええぃ、子ども扱いするな! わしはもう十六歳じゃ! 発育だって標準値の――」


「ええ。瑠璃は小柄なぶん、その均整のとれた可愛らしさが際立っているわ。……でも、ちゃんと牛乳を飲まないと、翡翠みたいに背は伸びないし、大人の女性としての背丈には追いつかないかもしれないわね」


 菫までもが、悪戯っぽく微笑んで瑠璃をからかう。

 瑠璃は「むーっ」と顔を赤くして湯船の縁に寄りかかりながら、ぷいっとそっぽを向いた。


「わ、わしは別に、これ以上背を伸ばしたいなどとは思っておらん! 質量が増えれば、歩行時のエネルギー消費量が無駄に増えるだけじゃ。それに、身長が高いからといって偉いわけでは――」


「あーあ、また理屈っぽくなってる」


 翡翠が鈴を転がすような笑い声を上げ、菫も楽しそうに白い肩を揺らす。

 湯気が立ち込める仄暗い空間に、如月家の女三人の素の笑い声が響き渡った。


 瑠璃は文句を言いながらも、その実、この時間が嬉しくて仕方がなかった。

 天才と呼ばれる頭脳も、一切の矛盾を見逃さない観察眼も、今は必要ない。ここにあるのは、肌に吸い付くような柔らかなお湯と、自分を無条件に愛してくれる家族の心地よい体温だけだ。


「……母様、お姉ちゃん」


「ん? どうしたの、瑠璃」


「なにかしら?」


 湯気越しに振り返った二人に向けて、瑠璃はほんの少しだけ照れくさそうに、しかし心からの笑みを浮かべた。


「旅行に誘ってくれて、ありがとう。わし……今、とても楽しいぞ」


 その率直な言葉に、翡翠と菫は一瞬だけ目を丸くし、やがて顔を見合わせて、たまらないといった様子で水音を立てて瑠璃のもとへとにじり寄った。

 右から姉のしなやかな腕が、左から母の柔らかな胸が押し当てられ、三人の滑らかな素肌がぴたりと重なり合う。瑠璃は「わっ、暑い! 苦しいぞ!」と抗議の声を上げる。


「もうっ! 瑠璃ったら本当に可愛いんだから!」


「ふふっ、連れてきて大正解だったわね」


 琥珀色のお湯がちゃぷちゃぷと音を立て、三人の艶やかな肢体が湯気の中でじゃれ合うように重なる。

 コンツェルンの重圧も、日常の喧騒も、そして過去の因縁も、すべては厚い檜の壁の外側に置いてきた。

 この温泉に浸かっている瞬間こそが、今回の旅行の――いや、瑠璃の十六年の人生においても、間違いなく『平和の頂点』と呼べる至福の夜だった。


 温かな湯の熱と、家族の愛情に包まれながら、瑠璃は目を閉じる。

 明日の朝になれば、旅行も最終日。

 『蒼依織』で仕立てた着物を着て街を歩き、そのまま月見坂市への帰路につく予定だ。


 この完璧な時間が、永遠に続けばいいのに。

 そんなささやかな願いを胸に抱きながら、瑠璃は深く、静かな眠りにつくのだった。


 ――明日の朝、その至福の平和が、無機質で正体不明な『白紙の挑戦状』によって唐突に終わりを告げることなど、知る由もなく。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ