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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『抜け落ちた静物画』 ~Section 7:情動のリーディングと、腐敗のメッセージ~

 新市街のリュミエール・ミュージアムが誇る、究極の無菌室である特別展示室。

 瑠璃は左手に開いた漆黒のレースの日傘で、頭上のスマートLED照明から降り注ぐ光の波長を物理的に遮断したまま、純白の大理石の床に静かに片膝をついていた。

 アメジストの瞳が冷徹に見下ろしているのは、日傘が作り出した濃い陰の中に転がる、大人の拳ほどの大きさを持った真っ黒な異物。

 表面には画像認識AIを狂わせるための敵対的パッチが極薄のフィルムとしてコーティングされているが、その下にある物体の形状は、間違いなく極限まで水分を失い、無数の皺を刻んで干からびた『腐敗レモン』の成れの果てであった。


(光学迷彩によるキャンバスの偽装。そして、敵対的パッチによる清掃ドローンの盲目化。お主がこの無菌の空間に仕掛けた二つのデジタルな防壁は、わしの物理的観察眼によって完全に解体された。残るは、この盤面の中心にある核のみ)


 瑠璃は、真っ白な軍手をはめた右手の指先を、ゆっくりとその黒ずんだ果実の表面へと這わせた。

 指先を通して伝わってくる、極端に乾燥しきった硬い感触と、不規則で暴力的な皺の起伏。

 孤高の鑑定士は、その物理的な接触をトリガーとして、脳内の最深部に眠る絶対的な翻訳機を静かに、そして極めて論理的に起動させた。

 皐月優奈という唯一の片割れから受け継いだ、モノに刻まれた人間の情動をデータとして汲み取る力。すなわち『情動の視座』である。


 瑠璃は他者の感情に同調して共に泣き笑うような、ありふれた共感性など持ち合わせてはいない。彼女にとっての情動のリーディングとは、対象物のルーツに紐づく人間の祈りや悪意、あるいは渇望といった生々しい感情の動きを、極めて冷徹な『一つの確定した事象(データ)』として脳内で翻訳し、出力する作業に他ならない。

 今、瑠璃がこの干からびたレモンから抽出しようとしているのは、果実自身の悲哀などという擬人化された感傷ではない。これほどまでに悪辣で、莫大な労力を要する盤面を構築し、わざわざこの場所にこの物体を配置した『創造主』の心。

 すなわち、ファントム自身の精神の奥底にある、強烈で狂気的なルーツの解剖であった。


(さあ、読ませてもらおう。お主がこの醜く朽ち果てた果実に込めた、真のメッセージを)


 瑠璃のアメジストの瞳が、深淵を覗き込むように細められる。

 指先が触れている真っ黒な果皮の凹凸から、ファントムの強烈な情動が、圧倒的な質量のデータとなって瑠璃の脳内に流れ込んできた。

 それは、あの赤錆の電話ボックスの跡地で感じ取ったような、瑠璃自身に対する純粋な知的好奇心や歪んだ自己顕示欲だけではない。もっと広大で、もっと根源的な、この世界と芸術という概念そのものに対する、底知れぬほど傲慢で冷酷な『嘲笑』であった。


(なるほど。お主の情動の矛先は、わしという個人の知性だけではなく、この美術館というシステム全体、ひいては永遠の美を信奉する人間の滑稽な営みそのものに向けられておるのじゃな)


 瑠璃の脳内に、ファントムの視座から見たこの特別展示室の光景が、一つの明確なアルゴリズムとして再構築されていく。

 チリ一つ、微生物一つ存在しない無菌室。

 紫外線を完全にカットした照明。アルゴンガスで満たされた密閉ケース。温度と湿度をコンマ一桁で制御する巨大な空調システム。

 これらすべての最新鋭テクノロジーは、十七世紀に描かれた『時の晩餐』という一枚のキャンバスを、劣化という物理現象から守り抜くためだけに稼働している。何十億円という莫大な資金を投じ、人間たちはこの閉鎖空間の中に、時間が完全に停止した『永遠の美の幻想』を創り上げたのだ。


(『滑稽である』。お主の情動データは、そう強烈に発信しておる)


 瑠璃は心の中で、その翻訳されたメッセージを冷ややかに反芻した。

 ファントムの冷徹な論理は、人間たちのその涙ぐましいまでの芸術保存の努力を、根本から否定し、あざ笑っていた。

 なぜなら、十七世紀の画家がそのキャンバスに描いたモチーフは、他でもない『虚栄(ヴァニタス)』なのだから。

 銀の皿も、クリスタル・ゴブレットも、そして瑞々しい黄色いレモンも。すべては、やがて等しく失われ、朽ちていく運命にあるという、人生の儚さと死の不可避性を突きつけるための強烈な警告であったはずだ。


(画家自身が『永遠など存在しない』という真理をキャンバスに叩きつけたというのに、後世の人間たちはその絵画を無菌室に閉じ込め、テクノロジーの力で永遠に保存しようと躍起になっている。なんという皮肉、なんという大いなる矛盾。お主はその矛盾を、物理的な錯覚を用いて最高に悪趣味な形で露悪的に暴き出してみせたというわけじゃな)


 キャンバスから光の魔術でレモンを消し去り、その真下に、時間をかけて完全に腐敗し、干からびたレモンを配置する。

 ファントムがこの盤面に込めた情動の真髄。

 それは、芸術の不変性に対する強烈なアンチテーゼであった。


(『見よ、如月瑠璃(鑑定士)。そして無菌室に閉じこもる愚かな人間たちよ。永遠の美などというものは、現実の摩擦から目を背けた偽物に過ぎない。本当の時間というものは、万物を等しくバクテリアに侵食させ、水分を奪い、このように醜く黒ずんだ死骸へと至らしめる。これこそが、宇宙の絶対的な法則であり、逃れられない不条理の真実なのだ』)


 瑠璃の脳内に響き渡るファントムの無言の宣告。

 それは、残酷な時間というものに対する異常なまでの陶酔であり、物理世界における劣化と腐敗のプロセスを、ある種の究極の芸術として賛美するような、極めて歪んだ美意識の発露であった。

 旧市街において、瑠璃は『痛みを伴わない偽装データなど、極上の不純物ではない』とファントムを切り捨てた。

 だからこそ、ファントムは今回、この完璧に痛みを排除された無菌の美術館という舞台において、もっとも強烈な摩擦と痛みの結果である『時間の腐敗』を、挑戦状として叩きつけてきたのだ。


(『お前は本物の摩擦と痛みを尊ぶと言ったな。ならば、この数百年分の腐敗と劣化の質量をどう鑑定する。無菌室の絵画と、この泥臭い腐敗の残骸。どちらが極上の不純物であるか、お前のその目で判断してみせろ』というわけか)


 指先から伝わる圧倒的な情動のデータの奔流を受け止めながらも、瑠璃のアメジストの瞳には、一切の動揺も、感傷の波立ちも存在しなかった。

 優奈の遺した翻訳機が、ファントムのその傲慢で冷酷な哲学を、最後の一滴まで完璧にリーディングし終える。

 確かに、その論理は極めて筋が通っており、哲学的にも恐ろしいほどの深淵さを備えている。時間と重力、そして劣化という宇宙の法則を前にしては、人間の創り出した無菌室など、砂上の楼閣に等しいというファントムの嘲笑は、ある意味で絶対的な真理の一端を突いていると言えるだろう。


(お主の情動のルーツは、完全に理解した。永遠の美を否定し、残酷な時間による死と腐敗にこそ、真の摩擦と質量が宿るというその哲学。お主は己のその悪辣な美学に、絶対的な自信と陶酔を抱いておる)


 瑠璃は、干からびたレモンから静かに軍手の指先を離した。

 情動のリーディングというフェーズは、これで完全に終了である。見えざる敵の意図と、盤面に込められたメッセージの全貌は、孤高の鑑定士の脳内で一つ残らず論理的なデータとして整理し尽くされた。

 ファントムは、この無菌室に『本物の時間と腐敗の痛み』を持ち込むことで、瑠璃の鑑定眼を試し、同時に己の知的な優位性を証明しようとしている。


(じゃが、ファントム。お主は一つだけ、決定的な勘違いをしておる)


 瑠璃は純白の床に片膝をついたまま、日傘の柄を握る左手に微かに力を込めた。

 情動の視座が読み取ったメッセージがどれほど高尚で、どれほど哲学的な重みを持っていようとも。それを体現している『物理的な媒体』そのものが、もしも宇宙の法則から逸脱したフェイクであったならば、その哲学はすべてただの滑稽な妄言へと成り下がる。

 瑠璃は絶対的な観察者である。情動のデータだけを鵜呑みにして、目の前の事象を鑑定するなどという三流の真似は絶対にしない。

 情動の解剖を終えた今、次に行うべきは、このメッセージの土台となっている物体そのものへの、容赦のない『物理的な検証』である。


(お主は永遠の美を否定し、この黒ずんだ腐敗にこそ本物の時間と摩擦が宿ると主張した。ならば、このレモンが本当に『残酷な時間を経験して朽ち果てた本物の死骸』であるという事実を、わしのこの五感とルーペで、完全に証明しなければならん)


 瑠璃の紫の瞳に、極めて冷徹で、そして氷のような理知の光が宿る。

 このチリ一つない無菌の美術館において。

 敵対的パッチでドローンの目を欺き、キャンバスから光の魔術で色彩を奪うほどの緻密な計算能力を持つ怪物が。

 果たして本当に、バクテリアに侵食された『本物の泥臭い腐敗物』などという、計算不可能な不確定要素の塊を、この美しく完璧な盤面に持ち込むだろうか。


(わしの翻訳機は、お主の傲慢な哲学を確かに聴き届けた。次はいよいよ、お主のその高尚な哲学の足元を支えている、致命的な物理的バグを暴き出させてもらうぞ)


 特別展示室の絶対的な静寂の中。

 瑠璃は右手に握った銀のルーペを再び構え直し、己の極限まで研ぎ澄まされた嗅覚と視覚のすべてを、床に転がる真っ黒な木乃伊へと集中させた。

 情動の解剖から、物理的真実の解剖へ。

 ファントムの仕掛けた残酷な時間の真理を真っ向から否定するための、孤高の天才による最後の反撃が、今まさに始まろうとしていたのである。



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