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第5巻:如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『偽造の情動』 ~Section 10:孤高の帰還と、第三幕への宣戦~

 月見坂市旧市街の、ひび割れたアスファルトとむき出しの土が交差する空き地。

 瑠璃の真っ白な軍手から滑り落ちた若草色の手編みの靴下は、今、その埃っぽい地面の上に無造作に転がっていた。新市街の無菌室のような工場で、最新鋭のAIとアルゴリズムによって生み出された完璧な偽造品。それが、かつて山内かえでという一人の老婆が生活の拠点としていたこの泥臭い街の土と、初めて物理的に接触した姿だった。

 無機質なデータとして出力されただけの空虚な繊維が、旧市街の現実の土埃にまみれ、急速にただの汚い布切れへと変貌していく。


(それが、お主の創り上げた作品の本来の姿じゃ、ファントム。物理的な痛みを伴わないデータなど、現実の重力の前では何の価値も持たぬ。ただのゴミとして地に落ちるのみじゃ)


 瑠璃は、足元に落ちた靴下にもう二度と視線を向けることはなかった。

 彼女の冷徹な知性は、すでに目前の偽装を論破したその先、この盤面を支配しているはずの『見えざる創造主』の視線そのものを捉えようとしていた。

 ファントムは、概念的洞察力と冷徹な論理を操る怪物である。この旧市街の空き地に赤錆の密室を構築し、靴下と温かい紅茶を配置し、瑠璃の情動の視座をハッキングして絶望に追い込むという、途方もない労力をかけた狂気的な知恵比べ。

 強烈な自己顕示欲と知的好奇心を持つその存在が、己の仕掛けた完璧な罠の結末を、ただの計算上の推測だけで終わらせるはずがない。


(お主は必ず、この場所を見張っておる。わしが絶望に顔を歪め、己の存在意義を喪失して崩れ落ちるその最高の瞬間を、安全な場所から特等席で観賞するためにな)


 瑠璃は日傘の柄を左手でしっかりと握りしめたまま、再び銀のルーペを右手で構え、赤錆の電話ボックスの残骸へと真っ直ぐに向き直った。

 引き抜かれた巨大な一枚ガラス。そして、ボックスの内部にある錆びついたステンレスの台座。そこには、琥珀色の液体を湛えたアンティーク調のボーンチャイナのティーカップが、微かに金木犀の香りを漂わせながら静かに鎮座している。

 瑠璃はゆっくりと台座に近づき、ティーカップの縁を軍手をはめた指先でそっと持ち上げた。


(監視の目があるとするならば、最も確実なのは、わしの視線が集中するこの被写体の周辺じゃ)


 カップの底、釉薬が塗られていないザラザラとした高台の裏側をルーペで観察する。

 しかし、そこには長年の使用による微細な摩擦痕と、陶器特有の焼きムラがあるだけで、電子部品の痕跡は一切見当たらなかった。ティーカップを元の位置に戻し、瑠璃はそのままボックスの鉄のフレームへと視線を移動させる。

 長年の風雨に晒され、赤茶色の錆がびっしりと繁殖した太い鉄の支柱。

 瑠璃はルーペのレンズをその錆の表面に極限まで近づけ、フレームを上から下へと、ミリ単位の解像度で舐めるように走査していった。


(自然の錆は、鉄が酸素と水と反応して生まれる酸化鉄の結晶じゃ。その表面は不規則な多孔質となり、光を乱反射する。じゃが、もしこの中に人工的な偽造品が混じっているとすれば、その光の屈折率には必ず物理的な矛盾が生じるはずじゃ)


 視線を右の支柱から左の支柱へ、そして台座のすぐ横にある接合部へと移した瞬間だった。

 瑠璃の物理的観察眼が、錆の海の中に潜む一つの極小の異物を正確に捕捉した。

 それは、周囲の赤錆と全く同じ色と質感を精巧に再現された、直径わずか数ミリの半球状の突起だった。肉眼で見れば、単なる錆の塊が膨らんでいるようにしか見えない。しかし、ルーペのレンズを通したミクロの視界では、その突起の頂点に、光を鋭く、そして幾何学的に反射する極小のガラスレンズが埋め込まれているのがはっきりと見て取れた。


(見つけたぞ、ファントム。これが、お主の目じゃな)


 新市街の最新鋭の光学テクノロジーの結晶である、極小のピンホールカメラ。

 表面を酸化鉄の塗料で完璧にカモフラージュし、ボックスのフレームに擬態させたそのレンズは、ちょうどティーカップを覗き込む人間の顔の高さに正確に照準を合わせて固定されていた。

 旧市街の断続的なネットワーク回線を利用して、ここから遠く離れた安全な無菌室にいるであろうファントムのモニターへと、瑠璃の表情をリアルタイムで送信し続けているのだ。


 瑠璃はルーペを静かにポシェットへとしまい、背筋を真っ直ぐに伸ばした。

 そして、その数ミリの極小レンズの奥に潜む見えざる敵の視線と、己のアメジストの瞳を真っ向から交差させた。

 レンズの向こう側にいる怪物は、今、どのような表情でこのモニターを見つめているのだろうか。自分が計算し尽くした完璧な罠が、物理的痛覚の欠落というたった一つの真理によって完全に論破され、粉砕されたこの予想外の結末を前にして。

 瑠璃の美しい顔に、冷徹で、傲慢で、しかし圧倒的な知性に裏打ちされた孤高の笑みが浮かび上がる。


「お主の計算は完璧じゃ」


 蜩の鳴き声が響く空き地の中で、瑠璃の凛とした声が、マイクの集音範囲に正確に届く音量で紡ぎ出された。

 それは、自分と同じ目を持つ天才に対する、絶対的な勝利の宣告だった。


「わしの情動の視座の盲点を突き、人間の心を数学的なアルゴリズムで解剖してみせたその手腕。見事という他はない。じゃが、お主のその冷徹な論理は、物理世界における絶対的な質量を見落としておった」


 瑠璃は言葉を切ると、軍手をはめた指先で、自身の胸元を軽く叩いた。

 そこには、優奈が遺してくれた情動の視座という名の、絶対的な翻訳機が確かに鼓動している。


「痛みを伴わない傷に、魂は宿らぬ」


 瑠璃の瞳が、剣のように鋭い光を放ってレンズを射抜く。


「生きた証のないデータなど、極上の不純物にはなり得ん。ただのゴミじゃ」


 その言葉は、ファントムが創り上げた偽造の情動に対する完全な否定であり、同時に、山内かえでが遺した神聖な教えの絶対性を、この世界に再び証明する強烈な楔であった。

 誰かのために傷つき、泥に塗れ、物理的な痛覚に耐えながら生み出された傷跡。それこそが、この不条理な世界で確かに生きた証であり、モノに極上の価値を与える唯一の条件なのだ。安全な無菌室から出力されただけのデータは、どれほど精巧であろうとも、世界との摩擦を欠いた空虚なプラスチックに過ぎない。


 宣告は終わった。

 これ以上の対話は、孤高の鑑定士には不要である。

 瑠璃はカメラのレンズからすっと視線を外し、優雅な所作で身を翻す。その横顔には、先ほどまでの絶望や葛藤の影は微塵も残されていなかった。


(第二幕は、わしの完全勝利じゃ。お主の悪辣な罠は、確かに一度はわしのアイデンティティを崩壊の淵まで追い詰めた。じゃが、そのおかげで、わしの翻訳機はかつてないほどに研ぎ澄まされ、強靭なものへと昇華した)


 ファントムとの全五幕の知恵比べ。

 残るは三幕。奴は必ず、今回以上の残酷で完璧な論理の刃を研ぎ澄まして、瑠璃の魂を破壊しにくるだろう。皐月優奈の死という、最大の聖域の真実を対価としてちらつかせながら。

 しかし、今の瑠璃に迷いはなかった。己の知性と、二人の恩人が遺してくれた二つの目は、決して偽物のデータに屈することはないという絶対の確信がある。


 瑠璃は赤錆の電話ボックスに背を向け、夏草が生い茂る空き地から、旧市街の埃っぽい路地へと歩みを進めた。

 三十五度を超える熱波が、むき出しの土の匂いと共に瑠璃の全身を包み込む。まとわりつくような不快な湿気も、汗ばむ肌の感覚も、今はすべてが己の生命の確かな躍動として感じられた。

 サクタロウという日常の錨を持たず、たった一人でこの泥臭い戦場に立つ圧倒的な孤独。それはもはや重圧ではなく、絶対的な観察者としての孤高の誇りそのものだった。


(待っておれ、ファントム。第三幕の舞台がどこであろうとも、わしが必ずお主の冷徹な論理を根こそぎ解体してやる。優奈の死の真相は、このわし自身の力で暴き出してみせる)


 アメジストの瞳に、第三幕への激しい闘志の炎を静かに燃やしながら。

 如月瑠璃は、蜩の鳴き声がこだまする真夏の旧市街を、黒い日傘を差して一人、凛とした足取りで歩き出していった。

 偽造された情動の密室は、完全に沈黙し、ただ赤錆と泥の匂いだけをその場に残していた。



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