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如月令嬢は『白紙の脈拍を測らない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『金木犀の幻影』 ~Section 1:渋色の街並みと、至高の甘味~

 完璧に最適化されたスマートシティである月見坂市から、西へおよそ百八十キロ。


 如月コンツェルンが所有するプライベートジェットが、山間に位置する地方空港の滑走路へと滑らかに降り立った。機体が完全に停止するまでの間、窓の外の景色は、無機質で幾何学的な高層ビルの群れから、深い緑を抱いた山々の稜線へと劇的な変化を遂げていた。


 一般の乗客が利用する公共交通機関で移動するという選択肢は、如月家の面々には最初から存在しない。空港のVIP専用ゲートを抜けると、すでに漆黒のボディを鏡のように磨き上げられた最高級のハイヤーが、彼女たちを迎え入れるために静かに待機していた。


 出迎えた専属の運転手が恭しくドアを開け、瑠璃(るり)翡翠(ひすい)(すみれ)の三人が後部座席へと滑り込む。

 分厚い防音ガラスで外界の騒音を完全に遮断した車内は、極めて快適な温度と湿度に保たれていた。ハイヤーが静かに走り出すと、車窓には見渡す限りの豊かな自然と、歴史を感じさせる古い街道の景色が流れ始めた。


「ふむ。月見坂の新市街を循環するAI管理の空気とは違い、この辺りは山から吹き下ろす風に土と青葉の匂いが混じっておるな。視覚的な情報がなくとも、植生の違いがはっきりと分かる」


 瑠璃は、深い紫の瞳――美しい紫色の瞳を細めながら、少しだけ開けた窓の隙間から入り込む風を肌で感じ取っていた。

 艶のある漆黒のロングストレートヘアが、ふわりと揺れる。今日の彼女は、いつもの豪奢なゴシックドレスでも月見坂の制服でもなく、避暑地にふさわしい装い――清楚な白いブラウスに、落ち着いた色合いのジャンパースカートを身に纏っていた。147センチという小柄で可憐な体躯に、上品なレースリボン付きのペーパーハットがよく似合っている。ただ黙って座っているだけで、まるで中世の精巧なビスクドールのような完成された美貌だった。


「もう、瑠璃ったら。せっかくの旅行なんだから、五感を使った細かい分析はストップよ。それに、さっきから呼び方が違うわよ。出発前に約束したでしょ?」


 瑠璃の隣で、優雅に足を組みながら翡翠がたしなめるように言った。

 身長170センチ近い細身でしなやかなスタイルに、淡い翡翠(ひすい)色のノースリーブと白いワイドパンツが、彼女のクールな美貌を引き立てている。普段はポニーテールに結い上げている黒髪も、今日は緩やかに下ろしており、その瞳は名の通り、透き通った美しい翡翠色をしていた。コンツェルンの経理・会計を一手に担う数字のスペシャリストも、今はただの優しい姉の顔だ。


「……む。分かっておる。ただ、わしとしては普段通り『母』『姉』と呼ぶ方がしっくりくるのじゃがな」


 瑠璃は少しだけ不満げに唇を尖らせた。

 如月コンツェルンという巨大な組織の中で、あるいは日常の生活において、瑠璃は6歳になる前から家族に対して「母」「姉」「父」という独特の呼び方をしている。それが彼女なりの距離感であり、一種のアイデンティティでもあった。

 しかし、今回の女三人だけの慰安旅行にあたり、菫と翡翠から『旅行中だけは、幼い頃のように呼んでほしい』という強い要望――半ば強制に近い条件――が突きつけられていたのだ。


「駄目よ。この数日間は、如月コンツェルンの肩書きも、難しい理屈も全部忘れるの。あの頃の素直で可愛い瑠璃を、私とお母様で独り占めするんだから」


「ええ、翡翠の言う通りよ。普段は忙しくて、ゆっくり三人で過ごす時間も取れないのだから。たまには母親孝行だと思って、付き合ってちょうだいな」


 助手席から振り返り、洗練された濃紺のリネンドレスを着こなす菫が、大人の余裕と色香を漂わせながら微笑んだ。普段は分刻みのスケジュールで動く冷徹な社長秘書としての顔を持つ彼女も、今日ばかりは完全なオフの表情であり、ただの愛情深い母親だった。


「……わかった。善処するぞ、母様。……お姉ちゃん」


 瑠璃がしぶしぶといった様子で、かつての幼い頃の呼び方を口にすると、車内には翡翠と菫の嬉しそうな笑い声が響き渡った。

 瑠璃は気恥ずかしさを誤魔化すように視線を窓の外へと逸らした。脳裏に、月見坂市の旧市街にある団地で、首振り扇風機を独占しながらタブレットで『GyoGyoっとラブ』の配信を見ているであろう朔光太郎の情けない姿が浮かんだが、すぐに意識の彼方へと追いやった。あの騒がしい忠犬がいれば、この気恥ずかしいやり取りを見られていたかと思うと、今回彼を置いてきたのは大正解だったと心底思う。


 当然、如月家専属の屈強なSPである黒田も、表向きは同行していない。もっとも、あの涙もろく忠義に厚い筋肉ゴリラのことだ。おそらく現地で老舗旅館の庭師や、観光客のひとりに変装して、彼女たちの楽しそうな姿を遠くから見守りながら四十代後半の男が声を殺して男泣きしていることは確実だったが、視界に入らない限りはいないものとして扱うのが如月家の暗黙の了解であった。


 一時間ほど山道を駆け抜けたハイヤーは、やがて今回の目的地である古都『橡ノ都(つるばみのきょう)』へと入り込んだ。

 車を降りた瞬間、目の前に広がっていたのは、まさに色彩と階層の街だった。


 坂道が多く、登るにつれて『格』が上がっていくとされるこの街は、見上げるほどの重厚な石垣が迷路のように入り組んで続き、その上に建つ家々はどれもが美しい紅殻(べんがら)格子の意匠を凝らしている。街全体が、(くぬぎ)色や千歳緑(ちとせみどり)、深く渋い和色で統一されており、視界に入るすべてのものが、数百年という途方もない時間をかけて醸成された芸術品のようだった。


 三人は、石畳の緩やかな坂道を登り、宿泊先である超高級老舗旅館『御薬師楼(おんやくしろう)』の門をくぐった。

 見上げるほどの立派な薬医門の先には、美しく手入れされた苔庭が広がり、打ち水がされたばかりの石畳が陽光を反射してきらきらと輝いている。玄関に入れば、年代物の重厚な(けやき)の床が黒光りしており、ほのかに白檀(びゃくだん)の香りが漂ってきた。


 出迎えた仲居たちの洗練された所作と、歴史と格式を重んじる完璧なもてなしを受けながら、三人は最上階の特別室へと案内された。

 部屋の窓からは、橡ノ都の渋色の街並みが一望できる。AI管理社会の月見坂市では決して味わえない、木と紙と土が織りなすアナログで贅沢な空間がそこにはあった。


「ふぅ……。極楽じゃな。この畳の目、職人の手作業による見事な編み込みじゃ。壁の土も、ただの珪藻土ではなく、藁の繊維を絶妙な配合で練り込んで調湿性を高めておる。百年以上の時を経てなお、これほどの熱容量と通気性を維持しているとは――」


「はいはい、瑠璃。五感分析と建材のルーツ探しはそこまで。今日はおやすみモードだって約束したでしょ?」


 無意識のうちに床柱の材質を撫でながら、建物の構造力学や素材のルーツについて早口でつぶやき始めた瑠璃を、翡翠が笑いながら嗜めた。瑠璃は「むっ」と口を噤み、レースリボン付きのペーパーハットをそっと外すと、少しだけ頬を膨らませてから用意されていた座布団にちょこんと座り直した。


 荷ほどきを終え、上質な煎茶で一息ついた三人は、午後の日差しが少しだけ和らいだ頃合いを見計らって街の散策へと出かけた。

 目指すは、橡ノ都のさらに奥まった高台に位置する『静寂院(しじまいん)』である。


 紅殻格子の家々を抜け、竹林の木漏れ日を浴びながら石段を登りきると、そこには俗世の喧騒から完全に切り離されたような空間が広がっていた。

 静寂院の目玉は、本堂の裏手に広がる巨大な枯山水(かれさんすい)庭園である。水を使わず、白砂と石組みだけで大自然の海や山、そして宇宙の広がりを表現したその庭は、まるで一幅の水墨画のように圧倒的な美しさを誇っていた。


 三人は縁側に並んで腰を下ろし、ただ無言でその庭を見つめた。

 風が吹き抜け、軒下に吊るされた古い風鈴が、ちりんと控えめな音を立てる。


 普段の瑠璃であれば、あの石がどこの山から切り出されたものか、あの砂の波紋を描くのにどれだけの力学的な反復運動と計算が必要か、あるいは石の配置に込められた作庭師の情動の視座を無意識に読み取ろうとしていただろう。彼女は日常にある、誰もが見逃すような些細なことに気がつく天才であり、同時に、常に脳内で思考の歯車を回し続ける性分でもある。


 だが、この時ばかりは違った。


 瑠璃はそっと紫の瞳を閉じ、五感を分析のためではなく、ただ『感じる』ためだけに使った。

 肌を撫でる夏の風の柔らかさ。隣に座る母様とお姉ちゃんから伝わる、穏やかな体温と静かな呼吸。遠くで鳴く(ひぐらし)の声。

 それらが混ざり合い、彼女の心の中に静寂という名の空白を満たしていく。


「……良いものじゃな」


 ぽつりとこぼした瑠璃の言葉に、菫が優しく微笑んで瑠璃の頭を撫でた。


「そうね。会社にいると、どうしても先のスケジュールや利益のことばかり考えてしまうけれど。こうして景色を眺めていると、今この瞬間にただ存在していることの贅沢さを思い出すわ」


「私も。光太郎くんがここにいたら、きっと『うわー、すごい砂ですね! これ全部で何キロあるんですか!?』とか言って、風情も何もない感想を言いそうだけど。……あの子、今頃扇風機の前で暇を持て余してるんじゃないかしら」


 くすくすと笑う翡翠の言葉に、瑠璃も小さく口角を上げた。


「放っておけ。あやつにはあやつの、有意義な怠惰な時間というものがあるのじゃ。それに、あやつがいれば五月蝿くてかなわんからな。わしの大事な静寂が台無しじゃ」


 そう口では冷たく言いながらも、その声色には助手に対する確かな親愛の情が混じっていた。

 一時間ほど縁側で静寂を楽しんだ後、三人は庭園を後にして、再び賑やかな表通りへと戻った。


 五感を休ませ、心を無にした後は、いよいよこの旅行のもう一つの醍醐味である美食の時間である。

 三人が足を止めたのは、静寂院の門前町にある、創業二百年を誇る老舗の茶屋だった。暖簾をくぐり、趣のある中庭が見える座敷に案内されると、瑠璃の瞳が途端に年相応の子供のような輝きを帯びた。


「わしは、この『極み抹茶の特製パフェ』というものを所望するぞ」


「ふふっ、瑠璃ったら。さっきまでの静寂院での達観したお顔はどこへ行ったの。私はこの焦がし醤油の焼きたてだんごと、冷やし飴にしようかしら。お母様は?」


「私は、この名物の堅焼きせんべいと、上級の玉露をいただくわ」


 注文の品が運ばれてくると、座敷のテーブルの上は途端に華やかな色彩に包まれた。

 瑠璃の前に置かれた特製パフェは、美しい千歳緑色をした濃厚な抹茶アイスに、金箔があしらわれ、白玉と艶やかな粒あんが添えられた芸術品のような一品だった。普段はかためのプリンやオムライス、ナポリタンといった洋食を好む瑠璃だが、この美しい和の甘味には抗えない魅力があった。


 常に持ち歩いているアイテムの一つである銀の匙を取り出し、すっとアイスに切れ込みを入れる。

 一口含んだ瞬間、抹茶の鮮烈な香りと上品な苦味が口いっぱいに広がり、その後に和三盆のまろやかな甘みが追っかけてくる。


「うむ……! これは見事な手並みじゃ。抹茶の苦味と甘味の黄金比が計算し尽くされておる。それに、この白玉の弾力。ただの粉ではない、水回しの工程で特有の温度管理がなされている証拠じゃな。素晴らしい」


 結局、口に運んだ途端に分析の癖が出てしまう瑠璃を見て、翡翠が堪えきれずに吹き出した。


「もう、瑠璃ったら。おやすみモードって言ったのに、結局分析しちゃってるじゃない。はい、私のだんごも一口食べる?」


 翡翠が差し出した串からは、備長炭でじっくりと焼き上げられた香ばしい焦がし醤油の匂いが立ち昇っている。瑠璃はこくりと頷き、行儀よく一口かじりついた。白いブラウスを汚さないように気をつけながら味わうと、表面はカリッと香ばしく、中は驚くほどもっちりとしている。


「美味しい……。醤油の焦げた香りというのは、どうしてこうも人間の根源的な食欲を刺激するのじゃろうな」


 菫もまた、小気味よい音を立てて堅焼きせんべいを割りながら、二人の娘のやり取りを細めた眼差しで見守っていた。

 パキッ、とせんべいが割れる乾いた音。茶器がふれあうかすかな陶器の音。そして、娘たちの屈託のない笑い声。


 窓の外では、橡ノ都の空が少しずつ茜色に染まり始めていた。

 通りを行き交う人々の下駄の音や、夕暮れを知らせる遠くの寺の鐘の音が、心地よいBGMとなって座敷に響く。


 謎も、拾得物もない。

 コンツェルンの重圧も、過去の因縁もない。

 常にフル回転している天才の頭脳を止め、美味しい甘味に舌鼓を打ちながら家族と笑い合う。それは、瑠璃にとって奇跡のように平穏で、ただの十六歳の少女に戻ることができる、かけがえのない時間だった。


 この完璧な平和が、この至福の休息が、明日も明後日も続くのだと。

 沈みゆく夕日を見つめながら、瑠璃は微かな眠気を覚えながら、そう信じて疑わなかった。


 この橡ノ都の歴史ある街並みのどこかで、幽霊のように実体を持たない『純粋な興味』が――自分と同じ瞳を持つ天才への、恋にも似た執着が、金木犀の香りと共に彼女を見つめていることなど、今はまだ知る由もなかったのである。



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