プロローグ:夏休みの足音と、忠犬の密かな感傷
茹だるような熱気が月見坂市を覆い尽くしていた。
窓の外では、これでもかとばかりに蝉がけたたましく鳴き声を上げている。新市街のAIで完璧に温度管理されたスマートな空間ならいざ知らず、ここ旧校舎の図書室は、本来ならば蒸し風呂のような暑さになっているはずだった。
しかし、図書室の扉を開けた途端、ふわりと心地よい冷気が僕の頬を撫でた。
「ふぅ……生き返る……」
僕は思わず独り言を漏らしながら、ひんやりとした空気に満ちた室内へと足を踏み入れた。
旧校舎の図書室――僕と彼女が勝手に拠点にしているこの場所は、相変わらず異様な光景が広がっている。図書室のど真ん中には、季節外れにもほどがあるこたつが鎮座し、その横にはどこからどう見ても年代物の高価なアンティーク家具が所狭しと配置されている。
そして、その中心にある豪奢な一人掛けのソファで、彼女は優雅にカップを傾けていた。
「遅かったの、サクタロウ。終業式などという無益な行事は、とうの昔に終わっておる時間じゃぞ」
艶やかな黒髪のロングストレートを揺らしながら、如月さんは少しだけ不満げに紫の瞳――美しいアメジストのような瞳をこちらに向けた。
制服姿でありながら、まるで中世の絵画から抜け出してきたような可憐さを持つ彼女が、高級茶葉の芳醇な香りを漂わせている。とても高校一年生には見えない、完成された美貌だ。黙って座っていれば男子は絶対に放っておかないだろうに、この人は本当に我が道を行き過ぎている。
「いや、無益って……一応、学生の義務ですからね。如月さんこそ、なんでいつもそんなに涼しい顔してるんですか」
僕はいつも持ち歩いているタブレットと音楽プレーヤーをこたつの上に置き、パイプ椅子に腰を下ろした。
「わしの完璧な計算と配置によって、この部屋の風通しと温度は常に最適化されておる。それに、この特注の氷柱を見よ。原始的だが、水と空気の循環を計算し尽くせば、機械に頼らずとも快適な空間は作れるのじゃ」
誇らしげに胸を張る彼女の視線の先には、銀のタライに乗せられた巨大な氷柱があった。相変わらず、デジタル機器を嫌う彼女の謎の執念には恐れ入る。
「まあ、涼しいから助かりますけど……。そういえば、明日からいよいよ夏休みですね。如月さんは何か予定あるんですか?」
僕はタブレットの電源を入れ、推しの地下アイドル『GyoGyoっとラブ』の最新ライブ情報をチェックしながら、何気なく尋ねた。普段なら「そんなものはない、ルーツを探るのみじゃ」と即答され、僕の貴重な夏休みが不可解なガラクタの鑑定(という名の下僕労働)に消えるところだ。
しかし、如月さんはティーカップをソーサーにことりと置き、静かに口を開いた。
「うむ。明日から母と姉の三人で、橡ノ都へ慰安旅行に行くことになっておる。数日ほど、この月見坂市を離れることになろう」
「えっ、旅行ですか?」
僕はタブレットから顔を上げた。橡ノ都といえば、ここから西に遠く離れた、歴史ある古い街並みで有名な場所だ。如月コンツェルンの社長秘書であるお母さんや、経理の天才であるお姉さんと一緒に、女三人水入らずの旅行。
(……ということは)
僕の脳内で、瞬時に計算が走った。
如月さんが月見坂市にいない。つまり、ありえない場所にあったありえない拾得物を前に、「サクタロウ、あれのルーツを探るぞ」と突然呼び出されることもないのだ。僕の平穏な夏休みが約束されたと言っても過言ではない!
「へえ、いいですね! 橡ノ都なら、美味しいものも温泉もたくさんあるって聞きますし。ゆっくり休んできてくださいね、如月さん」
僕は内心の喜びを隠しきれないまま、少し弾んだ声で言った。
これで心置きなく魚魚ラブの配信を見られる。クーラーなんてない旧市街の団地でも、首振り扇風機の風を一身に浴びながら、布団の中でゲーム三昧だ。最高すぎる。
「なんじゃ。随分と嬉しそうじゃな、サクタロウ」
如月さんがジト目でこちらを睨んでくる。その鋭い観察眼をごまかすように、僕は慌てて手を振った。
「そ、そんなことないですよ! ただ、如月さんもたまには普通の高校生みたいに、お母さんやお姉さんとゆっくり旅行を楽しんでくるのもいいんじゃないかって思っただけで……」
「ふん。まあよい。わしがいなくても、この拠点の管理は怠るなよ、我が忠犬。勝手なものを持ち込んだり、埃を溜めたりしたら承知せんからな」
「はいはい、わかってますよ。気をつけて行ってきてくださいね、如月さん」
呆れたようにため息をつく僕を見て、如月さんは満足そうに頷き、再び紅茶に口をつけた。
窓の外の蝉時雨は、相変わらずやかましい。
明日から、しばらく彼女はここにいない。呼び出されて振り回されることも、彼女の卓越した推理を聞くことも、数日間はないのだ。
平穏な日常が戻ってくる。それは間違いないはずなのに。
――なんだろう。ほんの少しだけ。
胸の奥に、ぽっかりと小さな穴が空いたような、奇妙な静けさを感じた。
……気のせいだ。きっと、クーラーの代わりに置かれた氷柱が、少しだけ冷えすぎているせいだろう。
僕はそう自分に言い聞かせながら、再びタブレットの画面へと視線を落とした。
この時、僕は知る由もなかった。
彼女が向かうその歴史ある街で、決して触れてはならない、白紙の挑戦状が待ち受けていることなど。




