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雨の誕生日

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/14

 母の誕生日は、いつも雨だった。

 十月十五日。毎年この日が近づくと、空はどんよりと曇り、冷たい雨粒が窓を叩く。母は雨の日が嫌いだった。いや、正確には、雨の日に私が外を出歩くことを、異常なまでに恐れていた。

「美月、約束よ。雨が降ったら、絶対に外に出てはだめ」

 母はそう言うたび、私の両肩を掴んで、真っ直ぐに目を見つめた。その目には、言葉にできない何かが宿っていた。恐怖、それとも後悔。十歳の私には、その違いが分からなかった。

 でも、今年は違う。今年は母を驚かせたかった。

 母は三ヶ月前から入退院を繰り返していた。病名は教えてもらえなかったけれど、母の頬はげっそりと痩せ、笑顔を作るのにも努力が必要なことが、子供の私にも分かった。

 だから今年は、母の大好きな苺のショートケーキを買って、サプライズをしようと決めた。母がいつも買ってくれる駅前の小さな洋菓子店「パティスリー・ラ・リューヌ」。そこの苺のケーキを、母はいつも嬉しそうに食べた。

 十月十五日の朝。予報通り、空は灰色に沈んでいた。

「美月、今日は一日家にいなさい。買い物なら、明日お母さんが行くから」

 母はベッドから起き上がることもできず、弱々しい声でそう言った。

「うん、分かってる」

 私は笑顔で答えた。嘘だった。

 午後二時。母が眠りについた隙を見計らって、私は家を出た。玄関には母の古い傘が立てかけてあったけれど、あえて手に取らなかった。雨が降る前に帰ってくればいい。そう思った。

 パティスリー・ラ・リューヌまでは、歩いて二十分。商店街を抜け、古い住宅街を通り、駅前の通りに出る。いつもの道。

 ケーキ屋に着いた時、空から最初の雨粒が落ちてきた。

「いらっしゃいませ」

 優しそうな店主が微笑んだ。

「あの、苺のショートケーキ、ありますか」

「ごめんなさいね。ちょうど焼き上がったばかりで、クリームを塗るのにあと三十分かかるの。待てる?」

 窓の外では、雨が少しずつ強くなっていた。母の声が頭の中で響く。『雨が降ったら、絶対に』。

 でも、母の笑顔が見たかった。久しぶりに、本当の笑顔が。

「待ちます」

 三十分が、永遠のように長かった。

 雨は次第に強くなり、店のガラス窓を激しく叩いた。私は店の隅の椅子に座って、時計を見つめた。母が目を覚ます前に帰らなければ。

 三時半。ようやくケーキの箱を受け取った時、外はもう土砂降りだった。

「傘、持ってないの? 貸してあげようか」

 店主が心配そうに言った。

「大丈夫です。すぐそこなので」

 私は箱を胸に抱いて、雨の中へ飛び出した。

 走った。必死に走った。ケーキの箱を濡らさないように、自分の体で覆いながら。冷たい雨が髪を、服を、全身を濡らしていく。

 商店街を抜け、古い住宅街へ。この道を通れば、あと十分で家に着く。

 その時、私は立ち止まった。

 見覚えのある場所だった。いや、正確には「見てはいけない場所」だった。母がいつも、急いで通り過ぎる場所。私が「あそこは何?」と聞いても、「何でもないのよ」としか答えない、あの小さな地蔵。

雨の中、その地蔵の前に、花束が供えられているのが見えた。

濡れた花束。白い菊。そして、小さな写真立て。

足が勝手に動いた。近づいてはいけない。そう思ったのに、体は言うことを聞かなかった。

写真立ての中には、小さな女の子の写真があった。

八歳くらい。ランドセルを背負って、笑顔でピースサインをしている。

その隣に、小さく折りたたまれた別の写真が重ねて置いてあった。開いてみると、若い母——今よりずっと若い母が、赤ん坊を抱いている写真だった。おそらく、同じ子。

写真の下に、小さなプレートがあった。

『美咲(8歳)ここで天使になりました 2004年10月15日』

 雷が落ちたような衝撃が、私を貫いた。

 美咲。2004年10月15日。

ここは、事故現場、なのか。

母には、別の娘がいたのか。私が生まれる前に。

 私は、何なのか。

 雨が、視界を奪った。涙なのか、雨なのか、分からなかった。ケーキの箱を抱きしめる腕から、力が抜けていく。

 なぜ母は、このことを話してくれなかったのか。なぜ私は、この家の前を通るたび、母の顔が歪むのか。なぜ母は、雨の日を恐れるのか。

 写真の中の赤ん坊の目が、私を見ていた。

 私は、その子の代わり、なのか。

 胸の中で、何かが壊れる音がした。母への信頼。自分への確信。家族という温かな幻想。すべてが、雨に溶けて流れていく。

 そして、私は気づいた。

 もう、あの純粋な娘には戻れない。母を無条件に信じていた、あの幸せな子供には。

 これが、代償だった。境界を越えた、知ってはいけないことを知った、代償。

 突然、背後で車のクラクションが鳴った。

 私は道の真ん中に立っていた。動けなかった。頭の中が真っ白で、体が動かなかった。

 ヘッドライトが、雨の中で眩しく光った。

「美月!」

 聞き慣れた声が、雨の向こうから聞こえた。

 母だった。

 こんなに雨が降っているのに。こんなに体が弱っているのに。母は、私を探しに来ていた。

 傘も持たず、薄いカーディガンだけを羽織って、母は雨の中を走ってきた。

 そして、車の前に飛び出した。

 私を、押しのけた。

 鈍い音。悲鳴。ケーキの箱が、地面に落ちて潰れる音。

 母は、濡れたアスファルトの上に倒れていた。

「お母さん!」

 私は母に駆け寄った。母の体は、雨に打たれて冷たかった。でも、その手は、私の腕をしっかりと掴んでいた。

「ごめんね……美月……」

 母の唇が、震えながら動いた。

「ごめんね……話さなくて……怖かったの……あなたまで……失うのが……」

 救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。

 母の目が、私を見つめた。その目には、写真の中にあった、あの優しさがあった。別の娘を見つめていた、あの愛情が。

 ああ、そうか。

 母は、娘を失ったんだ。雨の日に。交通事故で。だから、雨の日に私が外を出ることを、あんなに恐れていたんだ。

 そして今、母は二度目の娘を、守ろうとして。

「お母さん、ごめんなさい……」

 私は母の手を握った。冷たい手。震える手。

「ケーキ……買いに……行ったのに……」

 母は微笑んだ。痛みに歪んだ顔で、それでも微笑んだ。

「ありがとう……優しい子……」

 雨が、私たちを包んだ。冷たい、冷たい雨が。

 母は二週間後、病院で息を引き取った。事故の怪我ではなく、もともとの病気が悪化して。医師は「もう時間の問題だった」と言ったけれど、私は知っている。

 あの雨の中を、私を探して走り回ったことが、母の命を削ったのだと。

 母の遺品を整理していた時、古い日記を見つけた。そこには、こう書かれていた。

『雨の日に、私は娘の美咲を失った。だから二度目の娘、美月には、絶対に同じ思いをさせたくない。たとえ真実を隠してでも。たとえ嫌われても。ただ、生きていてほしい』

 私は今、母と同じ年齢になった。雨の日になると、あの日のことを思い出す。

 ケーキの箱を抱いて、雨の中を走った自分。知ってはいけない真実を知った瞬間。そして、母が最後に見せてくれた、本当の愛。

 私には、子供はいない。作らないと決めた。

 愛することの代償が、あまりにも重いから。

 窓の外で、また雨が降り始めた。十月十五日。母の誕生日。

 私は傘を持って、あの洋菓子店へ向かう。苺のショートケーキを買うために。そして、二つの墓へ、それを供えに行く。

 雨の中を、ゆっくりと歩きながら、私は思う。

 あの日、私が失ったもの。それは母だけではなかった。

 無邪気に愛せる心。純粋に信じられる強さ。そして、子供でいられる時間。

 それらすべてを、私は雨の中に置いてきた。

 あの日から、私はもう、本当の意味で笑えなくなった。

(了)



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