雨の誕生日
母の誕生日は、いつも雨だった。
十月十五日。毎年この日が近づくと、空はどんよりと曇り、冷たい雨粒が窓を叩く。母は雨の日が嫌いだった。いや、正確には、雨の日に私が外を出歩くことを、異常なまでに恐れていた。
「美月、約束よ。雨が降ったら、絶対に外に出てはだめ」
母はそう言うたび、私の両肩を掴んで、真っ直ぐに目を見つめた。その目には、言葉にできない何かが宿っていた。恐怖、それとも後悔。十歳の私には、その違いが分からなかった。
でも、今年は違う。今年は母を驚かせたかった。
母は三ヶ月前から入退院を繰り返していた。病名は教えてもらえなかったけれど、母の頬はげっそりと痩せ、笑顔を作るのにも努力が必要なことが、子供の私にも分かった。
だから今年は、母の大好きな苺のショートケーキを買って、サプライズをしようと決めた。母がいつも買ってくれる駅前の小さな洋菓子店「パティスリー・ラ・リューヌ」。そこの苺のケーキを、母はいつも嬉しそうに食べた。
十月十五日の朝。予報通り、空は灰色に沈んでいた。
「美月、今日は一日家にいなさい。買い物なら、明日お母さんが行くから」
母はベッドから起き上がることもできず、弱々しい声でそう言った。
「うん、分かってる」
私は笑顔で答えた。嘘だった。
午後二時。母が眠りについた隙を見計らって、私は家を出た。玄関には母の古い傘が立てかけてあったけれど、あえて手に取らなかった。雨が降る前に帰ってくればいい。そう思った。
パティスリー・ラ・リューヌまでは、歩いて二十分。商店街を抜け、古い住宅街を通り、駅前の通りに出る。いつもの道。
ケーキ屋に着いた時、空から最初の雨粒が落ちてきた。
「いらっしゃいませ」
優しそうな店主が微笑んだ。
「あの、苺のショートケーキ、ありますか」
「ごめんなさいね。ちょうど焼き上がったばかりで、クリームを塗るのにあと三十分かかるの。待てる?」
窓の外では、雨が少しずつ強くなっていた。母の声が頭の中で響く。『雨が降ったら、絶対に』。
でも、母の笑顔が見たかった。久しぶりに、本当の笑顔が。
「待ちます」
三十分が、永遠のように長かった。
雨は次第に強くなり、店のガラス窓を激しく叩いた。私は店の隅の椅子に座って、時計を見つめた。母が目を覚ます前に帰らなければ。
三時半。ようやくケーキの箱を受け取った時、外はもう土砂降りだった。
「傘、持ってないの? 貸してあげようか」
店主が心配そうに言った。
「大丈夫です。すぐそこなので」
私は箱を胸に抱いて、雨の中へ飛び出した。
走った。必死に走った。ケーキの箱を濡らさないように、自分の体で覆いながら。冷たい雨が髪を、服を、全身を濡らしていく。
商店街を抜け、古い住宅街へ。この道を通れば、あと十分で家に着く。
その時、私は立ち止まった。
見覚えのある場所だった。いや、正確には「見てはいけない場所」だった。母がいつも、急いで通り過ぎる場所。私が「あそこは何?」と聞いても、「何でもないのよ」としか答えない、あの小さな地蔵。
雨の中、その地蔵の前に、花束が供えられているのが見えた。
濡れた花束。白い菊。そして、小さな写真立て。
足が勝手に動いた。近づいてはいけない。そう思ったのに、体は言うことを聞かなかった。
写真立ての中には、小さな女の子の写真があった。
八歳くらい。ランドセルを背負って、笑顔でピースサインをしている。
その隣に、小さく折りたたまれた別の写真が重ねて置いてあった。開いてみると、若い母——今よりずっと若い母が、赤ん坊を抱いている写真だった。おそらく、同じ子。
写真の下に、小さなプレートがあった。
『美咲(8歳)ここで天使になりました 2004年10月15日』
雷が落ちたような衝撃が、私を貫いた。
美咲。2004年10月15日。
ここは、事故現場、なのか。
母には、別の娘がいたのか。私が生まれる前に。
私は、何なのか。
雨が、視界を奪った。涙なのか、雨なのか、分からなかった。ケーキの箱を抱きしめる腕から、力が抜けていく。
なぜ母は、このことを話してくれなかったのか。なぜ私は、この家の前を通るたび、母の顔が歪むのか。なぜ母は、雨の日を恐れるのか。
写真の中の赤ん坊の目が、私を見ていた。
私は、その子の代わり、なのか。
胸の中で、何かが壊れる音がした。母への信頼。自分への確信。家族という温かな幻想。すべてが、雨に溶けて流れていく。
そして、私は気づいた。
もう、あの純粋な娘には戻れない。母を無条件に信じていた、あの幸せな子供には。
これが、代償だった。境界を越えた、知ってはいけないことを知った、代償。
突然、背後で車のクラクションが鳴った。
私は道の真ん中に立っていた。動けなかった。頭の中が真っ白で、体が動かなかった。
ヘッドライトが、雨の中で眩しく光った。
「美月!」
聞き慣れた声が、雨の向こうから聞こえた。
母だった。
こんなに雨が降っているのに。こんなに体が弱っているのに。母は、私を探しに来ていた。
傘も持たず、薄いカーディガンだけを羽織って、母は雨の中を走ってきた。
そして、車の前に飛び出した。
私を、押しのけた。
鈍い音。悲鳴。ケーキの箱が、地面に落ちて潰れる音。
母は、濡れたアスファルトの上に倒れていた。
「お母さん!」
私は母に駆け寄った。母の体は、雨に打たれて冷たかった。でも、その手は、私の腕をしっかりと掴んでいた。
「ごめんね……美月……」
母の唇が、震えながら動いた。
「ごめんね……話さなくて……怖かったの……あなたまで……失うのが……」
救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。
母の目が、私を見つめた。その目には、写真の中にあった、あの優しさがあった。別の娘を見つめていた、あの愛情が。
ああ、そうか。
母は、娘を失ったんだ。雨の日に。交通事故で。だから、雨の日に私が外を出ることを、あんなに恐れていたんだ。
そして今、母は二度目の娘を、守ろうとして。
「お母さん、ごめんなさい……」
私は母の手を握った。冷たい手。震える手。
「ケーキ……買いに……行ったのに……」
母は微笑んだ。痛みに歪んだ顔で、それでも微笑んだ。
「ありがとう……優しい子……」
雨が、私たちを包んだ。冷たい、冷たい雨が。
母は二週間後、病院で息を引き取った。事故の怪我ではなく、もともとの病気が悪化して。医師は「もう時間の問題だった」と言ったけれど、私は知っている。
あの雨の中を、私を探して走り回ったことが、母の命を削ったのだと。
母の遺品を整理していた時、古い日記を見つけた。そこには、こう書かれていた。
『雨の日に、私は娘の美咲を失った。だから二度目の娘、美月には、絶対に同じ思いをさせたくない。たとえ真実を隠してでも。たとえ嫌われても。ただ、生きていてほしい』
私は今、母と同じ年齢になった。雨の日になると、あの日のことを思い出す。
ケーキの箱を抱いて、雨の中を走った自分。知ってはいけない真実を知った瞬間。そして、母が最後に見せてくれた、本当の愛。
私には、子供はいない。作らないと決めた。
愛することの代償が、あまりにも重いから。
窓の外で、また雨が降り始めた。十月十五日。母の誕生日。
私は傘を持って、あの洋菓子店へ向かう。苺のショートケーキを買うために。そして、二つの墓へ、それを供えに行く。
雨の中を、ゆっくりと歩きながら、私は思う。
あの日、私が失ったもの。それは母だけではなかった。
無邪気に愛せる心。純粋に信じられる強さ。そして、子供でいられる時間。
それらすべてを、私は雨の中に置いてきた。
あの日から、私はもう、本当の意味で笑えなくなった。
(了)




