第十四話「名前を呼ばれなかった者たち」
世界は、何事もなかったように朝を迎えた。
無祈の原があった場所には、
草も、土も、記憶もない。
ただ、
地図に空白が残った。
◆
レイは、そこに立っていた。
何もない。
踏みしめても、感触がない。
右腕の聖痕は、
ひび割れたまま、沈黙している。
「……エナ」
名を呼んでも、
返事はない。
当然だ。
この場所は、
存在しなかったことになったのだから。
◆
背後で、布の擦れる音。
ユンだった。
彼は、祈祓師の外套を脱いでいる。
「……報告は終わった」
声が、妙に軽い。
「“敵性思想は排除された。被害なし”」
レイは、振り返らない。
「……人がいた」
「いなかった」
ユンは、即答した。
「記録上はね」
沈黙。
風の音すら、
ここでは鳴らない。
◆
「君は、正しかったのか?」
レイが、初めて問いかける。
ユンは、答えなかった。
代わりに、
自分の手を見る。
「……わからない」
かすれた声。
「でも、
僕らは“わからない”を選ばない」
「選べない、だろ」
レイは言う。
「祈りは、
常に答えを一つにする」
ユンは、苦笑した。
「昔、君が言ったな」
「“正しさは、殺しやすい”って」
◆
ユンは、白い石を見る。
「それは?」
「……彼女の」
レイは、石を握る。
「祈りも、名前もない」
「ただ、
ここにいた証」
ユンは、目を伏せる。
「……持ち帰れば、
調査対象になる」
「だろうな」
「処分される可能性もある」
「それでも、
持っていく」
レイの声は、低い。
◆
「……戻るのか?」
ユンが問う。
「祈祓師に」
レイは、首を横に振る。
「俺はもう、
祈れない」
「聖痕は?」
「壊れかけてる」
右腕を見せる。
ひび割れの奥で、
何かが蠢いている気配。
「次に使えば、
俺が壊れる」
ユンは、唇を噛む。
「……それでも、
世界は君を放っておかない」
「知ってる」
レイは、歩き出す。
「だから、
祈祓師じゃない形で進む」
◆
少し離れた丘。
ユンは、立ち止まる。
「……レイ」
名を呼ぶ。
「エナは、
生きている可能性がある」
レイは、足を止めない。
「……ああ」
「消えた、じゃない」
「記録から外れただけだ」
その言葉に、
レイの拳が震える。
「……なら」
「俺は、
彼女を探す」
◆
旅の準備は、最低限だった。
剣一本。
食料少し。
祈具は、
すべて置いていく。
右腕には、
包帯を巻いた。
隠すためではない。
もう、頼らないため。
◆
夜。
焚き火の前で、
レイは白い石を取り出す。
「……約束はしてない」
「また会おう、
とも言ってない」
石は、答えない。
「でも」
小さく息を吸う。
「俺は、
忘れない」
その瞬間。
石が、
わずかに温かくなった。
祈りではない。
拒絶でもない。
ただの、
反応。
レイは、目を閉じた。
◆
遠く。
別の場所で。
誰かが、
目を覚ます。
白い世界。
名前を、
呼ばれない場所。
「……レイ」
その声は、
確かに存在していた。




